にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「グライス 理性の哲学」 ③

 しかしグライスの概念分析という目的は、ある語に共通するものとしての「意味」を探し出そうとする一昔前の哲学に逆戻りするように思われる。日常言語学派においては「意味」と「使用」という区別をなくし、意味とは使用なのだというスローガンを掲げてやってきた。たとえば、ノーマン・マルコムという日常言語学派の哲学者は、日常的な言明が自己矛盾であることはありえないと主張する。というのも、どれほど自己矛盾的に見えることばであっても、その用法を私たちは自己矛盾的だとは呼ばないのだから。つまりマルコムは言明が自己矛盾的であるという意味に関する性質を、それが用いられないということと同一視しているのである。

 だが、グライスは疑問を呈する。自己矛盾的な文はふつうに使うし、自己矛盾的でなくても使われない文もある。たとえば「箱は八つ、それぞれに卵は八つ、だから卵は全部で六十二個」と言うことがある。これは自己矛盾的だが間違っているだけで使われないわけではない。あるいは、クソ汚い言葉で徹底的にクソ塗りたくったクソな文を考えてもそれは自己矛盾的ではないが、決して使われることはないだろう。すなわち、自己矛盾的であることとそれが用いられないことが同一視される、というのは別の事柄だということだ。もちろん緩やかな相関はあるだろうが、マルコムのように同じだと断言するほどのことではない。

 これはマルコムの不備を指摘したにすぎないが、グライスは後にこれを洗練させて、表現が一般的に意味することとと、特定の話し手が特定の場面で意味することの区別を提唱していく。