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にんじんと読む論文「合理論と経験論における生得観念について」

cir.nii.ac.jp

合理論と経験論における生得観念について

観念とは、「われわれの意識の内容として与えられている、あらゆる(現実の、また空想上の)対象」をさす(デカルト、ロック以来の用法)。

岩波 哲学小辞典から。

 これが今日の一般的な「観念」の理解である。ところが当のデカルトにおいてはここに混乱が見られる。それは彼のいう「生得的な観念」が、対象であるのか能力であるのかはっきりしない点である―――デカルトは観念を三種にわけた。(1)生得的な観念、(2)外来的な観念、(3)作為的な観念である。外来的な観念というのはわれわれの日々の経験のなかで得られるものであり、作為的な観念とはたとえば学者などが太陽についての推論によって、経験されたわけではないけれども、持っている観念のことをいう。そして生得的な観念とは、まったく経験によらず、いわば生まれ持っているところの観念である。

 デカルトが生得的な観念の主要なものとして考えるのは「神の観念」である。これは観念をわれわれが辞書で理解する通りに「対象」としているが、彼が生得的な観念を「能力」とも見ている明確な証拠は『第三答弁』に見られる。デカルトは生得的な観念が、生得的だからといっていつも「顕在しているわけではない」と指摘したあとで、「われわれ自身がわれわれの観念を喚起する能力」をもっているというのである。すると生得的な「観念」とはいってもそれはいつも意識の内容として与えられているわけではなく、むしろ根本的なのはその「能力」であるといっていることになってしまう。

 一方、ロックは生得的な観念というものを否定した哲学者である。そうとはいえ、デカルトの上述の混乱によって、二人の哲学者は相反するどころかほとんど同じことを言っているのが明らかにされる。ロックが生得的な観念というものを否定する理路は常識的で、生得的なんだからどの人間であれ生まれ持っているはずだがじゃあ「赤ん坊や白痴」はどうなんだ、というものである。ロックは観念というものが「感覚と反省」の二つの経験から作り出されるという。だがこれは作り出すことができるといっているだけで、どういう風なメカニズムなのかは説明が足りない。単純に経験だけでいいならヒト以外の動物もヒトと同様の観念を有しているはずだ。いずれにせよ、生得観念を否定したロックも、ヒトがそのようなメカニズムを持っていること自体は否定しなかった。それが「能力」である。このことと、先のデカルトの三分類を眺めれば、デカルトとロックがほとんど同じことを言っているのがよくわかるだろう。

おわりに

 ところで著者は次のように述べる。

しかし、観念は経験からしかできないとすると、アプリオリな知識はロックには認められないということになってしまう。すべて経験から観念ができるとするとアポステリオリな知識しかありえないことになってしまうのである。

合理論と経験論における生得観念について | CiNii Research

 果たしてそうだろうか。ロックの枠組みではたしかにそうかもしれない。

 われわれは知識を知識として認めるために、上の問題を解決しなければならない。ここにおいて『純粋理性批判』における「しかし我々の認識がすべて経験をもって始まるにしても、そうだからといって我々の認識が必ずしも経験から生じるのではない」(純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3))という言葉が役に立つことだろう。