アプリオリについてのカント的な考え方
カントのいう「アプリオリ」という概念は、認識論的な概念であり知り方を特徴づけるものである。だからある命題がアプリオリであるというのは「その命題はアプリオリに認識される」の省略形として理解されなければならない。このアプリオリな認識とは「端的にあらゆる経験に依存せず生じるような認識」と定義されるが、当たり前のように、いかなる経験もしたことがない者でも持つことができるとは言っていない。
それどころかカントは、なんらかの認識をもつことができるためにはなんらかの経験をもっている必要がある、と考えている(『我々のあらゆる認識が経験でもって始まるということには全く疑いの余地がない』)。さらに、アプリオリな命題といえども、そこに含まれる概念が経験を通じてのみ獲得されうるようなものであってよい、とも認めている。ここでカントが経験に認めているのは、我々に概念を獲得させることでそれを含む概念を理解できるようにするという役割=「能力付与的な役割」である。
ではアプリオリな認識とは、どのような意味で経験に依存しないのか。カントは『だからといって、我々のあらゆる認識が経験から生じるわけではない』と続けるが、このこにおいて彼は経験というものの「正当化的な役割」に触れており、アプリオリな認識とはつまり正当化的な役割に関して経験に依存しないような認識だということである。どのようにすることが正当化になっているのかはひとつの問題だが、いずれにせよ、そうした正当化が経験に依存するならばアプリオリな認識とはいえないのである。
カントの功績は、この「経験へのある意味での非依存性」とはどのような意味での非依存性なのか、という問いにかかわるある重要な区別を示唆した点にある。
おわりに
デカルトとロックにおける生得的な観念についての対立を以前見た。そこにおいてどうやら生得観念というものは「対象」としてはありそうもなく、しかし、観念を得るための「能力」といったものはありそうだと確認した。だがそこで指摘されたのは、経験だけだと認識がすべてアポステリオリになるのではないか、ということだった。
だがもはやこの点は心配しなくてもよい。経験は能力を付与するだけであって、正当化に関して経験に依存していなければアプリオリな認識がありうるのである。