2018年11月8日の記事。
carrot-lanthanum0812.hatenablog.com
【要約】
- 人はいずれ死ぬ。葬式は故人のためではなく、故人関係者のためのもの。
- 幽霊の正体は、言葉の意味である。たとえば廊下は、ふつう人が歩いてくる可能性のあるものと理解されている。しかし出入り口を施錠しているなどして人が来ないことを事実として理解すると、廊下の存在自体が持つ人が歩いてくる可能性が際立ってくる。
- だから、その人が亡くなったあと、その人が現われるであろうはずの場所に、その人の幽霊を見るのだ。
幽霊論はいま見返してもまあまあ興味深い。親戚が亡くなって、真剣に考えたものと見える。
- 死ぬということと全身麻酔を比較する言説がある。そのおかげで、ぼくの死のイメージは完全に「全身麻酔」である。こらえようとしても、生物としての自然に従って、絶対に死ぬ。気合で耐えるとか、愛の力によって蘇るとか、そういうことは一切ない。人間は死ぬ。スイッチを切るように死ぬ。麻酔と違うのは、二度と目を覚まさないことだ。寝ているときの記憶などない。死それ自体は、まったくおそるるに足りない。
- 死が怖いのは、「死に至る苦しみ」と「未練」のためである。苦しみは、もはやどうにもならない。どのようにして死ぬかなど選ぶことはできない。
ぼくは昔よりも、死ぬことを怖がっていない。一度過呼吸で病院へ行くほど苦しんだからかもしれない。あるいはあきらめがついたのか。ただ、痛いのは嫌だなとどこまでも思う。