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にんじんと読む「伝記を読もう 南方熊楠」

 南方熊楠は1867年、現在の和歌山県の商家・六人兄弟の三番目に生まれた。

 本を求めても買ってはもらえず、友達に借りては写本を作り内容をすべて覚えてしまった。八歳の頃、全百五巻もある百科事典をすべて写し取り、博物学五十二巻、新聞なども写していた。彼は「神童」と呼ばれていた。

 本なんて贅沢だといっていたお父さんも、熊楠の頭の良さを見て中学校への進学を認め、ここで出会った鳥山啓先生の影響を受けて博物学にのめりこんだ。西洋の書物も読めとすすめられ、書き写し、とうとう自分で本も書いた。それが教科書『動物学』だった。13歳のときである。熊楠は読んだり書いたりしながら、山へ入って昆虫・植物・鉱物を集めることにも夢中になった。とはいえ学校の勉強はそっちのけで、神童ではあっても優等生ではなかったようである。

 16歳になった彼は上京。神田の共立学校に入学する。ここは大学予備門(現在の東京大学教養学部)に入るための準備校だった。だというのに、やはり試験勉強はしなかった。しかし一年後、試験に合格。このときの同級生は夏目漱石正岡子規秋山真之等々、そうそうたる顔ぶれ。そしてやはり、大学予備門でも好きなことにしか興味がなかった。我が道を歩く熊楠は、とうとう進級試験で落第してしまう。

 熊楠はこの落第でまったくくじけず、なら今度はとアメリカにわたろうともくろんだ。

 

 20歳の熊楠はアメリカへ発った。着いたのはサンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジ。とはいえ熊楠にとってはこのアメリカ住まいは期待外れで、ミシガン州ランシングにある州立農学校に転学。とはいえやっぱりがっかりし、もう学校には期待しないことに決めた。同じ州にあるアナーバーの町に腰を据え、古本屋を巡ってあらゆる分野の本を買いあさった。このときの植物採集のまとめが『ミシガン州産諸菌集』である。

 熊楠の実家が1889年の大水害で被害を受け、送金が滞った。本ばかり買って貧しい生活が余計に貧しくなってしまう。ところが熊楠は止まらない。1890年にはじめたカルキンスという菌類・地衣類の専門家に「フロリダが菌類の宝庫だ」と聞き、アナーバーの町を離れ、そこでの出会いに今度はキューバに向かい、サーカス団と行動をともにしながら標本の採集を続ける。アメリカでは菌類や地衣類はあまり注目されておらず、自分の学問を築くために、今度はロンドンへ向かう。ロンドンで八年過ごし、博物館を手伝いながら多くの友人たちと出会った。ところが白人から嫌がらせを受けたり、侮辱されたりして殴り返したりするうち仕事をなくす。しばらくは浮世絵の解説文などを書いて売っていたがその金はすべて酒に使われ、友人が用意しようとしてくれた大学での職の道も断たれ、とうとう日本に帰る決断をする。

 

 ところが熊楠を迎えに来た家族は仰天。大学も卒業せず、来ているのはくたびれた服、持ち帰ったのは大量の本と標本……。父は既に亡くなっている。家族は人目を気にして熊楠を寺にやった。熊楠は仕事をせず生活費は援助に頼っていた。商家の息子として洋行しながらなんの成果もないので多額の援助をすることに疑問も出て、折衷案として、人目につきにくいように和歌山から出て行ってもらうことにする。そこでたどりついたのは『熊野の森』。彼は援助のもと、採集にのめりこむ。三年がたった。

 和歌山に戻り結婚をすすめられ、結婚はしたものの、部屋は自分が座るところしかないから掃除ができないし、庭の掃除をしたら粘菌を増やしているんだからと怒られる。いつも真ん中に研究があるので、妻の松枝は苦労した。しかし賢い彼女はすぐに彼の要求をのみこんで、彼の研究生活を支えた。40歳になって長男が誕生。彼はこれを「朝まで眠れなかった」と日記に書き付けるほどに喜んだ。四年後には長女が誕生する。熊楠は論文を雑誌に投稿し続けている。

 1941年、熊楠は自宅で倒れる。亡くなる少し前、「お医者様を呼びましょうか」と聞いたところ、「紫の花が天井に咲いている。いちめんに咲いているよ。医者がきたら消えてしまうから、呼ばないでくれ」といった。そして最期には「これからぐっすりねむるから、だれもさわらないでくれ。頭からすっぽりと着物をかけてくれ。わしはねむるから、おまえたちもおやすみ」75歳だった。

 彼の遺言にもとづいて、死後には脳の解剖が行われた。