2022.10.1記
自らの興味関心に従ってやりたいことをしたり、学びたいことを学ぶのが一番いい。しかしいったい自分がなにに関心があるのかがよくわからない、ということがある。不思議なことだが、ここから話をはじめないといけない。
関心には明らかにいくらかの層があって、その最も「深い」「濃い」部分のことを好きなことと呼ぶ。好きなことの特徴は、誰に強制されたわけでもないのにいつもそれについて調べたり、考えたり、やってしまうことである。あとになってからあれは強いられていたのだと気づくことはあろうが、いずれにせよ、今はそれをするしかない。にんじんの場合は小説を書くことで、二次創作だろうがなんだろうが、とりあえずなにか書くと落ち着くというところがある。あるいはアニメを見ること。洋画を見ること。邦画はあまり見ない。たとえばかわいいものを見るのは好きだ。お金に関する情報も気になる。将来への備えだとかサバイバルだとか、これをすることが苦になるということは基本的にない。つまらないアニメや洋画を見るのは苦痛だが。
好きなものに関する行動はそれぞれの中で完璧に動機づけられている。これから少し関心が離れるのはクラシック音楽で、是非聴いて楽しみたいと思っているが、実際に聞いてみると別におもしろくもなんともない。「いい感じ」なのはわかるが、激しいのと落ち着いたのと以外の区別などない。解説を読んでも「気に入ったものを聞け」としか書いていない。あるいはプログラミング。やりたいのだが、なにがおもしろいのかわからない。でもやりたい。なんかかっこいいし。イラストとかも。一切書ける気がしないが、一年に一度は熱心に勉強したくなる。
これらの探索の目的は、関心を見つけ、適切に分類し、関心のないものも含めて整理することだが、なぜそんなことをするのかというと、楽しいことが増えたほうが楽しいからだろう。意識の高い人びととは違い、世の中をよくしようなどとは考えないのがふつうの人間の考えと思う。自分に興味のないどうでもいいことを学ぶのは、文化というものが色々な技術や知識が降り積もった最強物だからで、シェイクスピアを知っていれば楽しめる作品は世の中にはひじょうにおおい。「細かいことなんか知らん」と言っていてもいいのだが、全員がそうなると、文化が死ぬし、表面的なものしかないので脳にビリッと電気をやられてアッと言って「次行こう」とやっているのとほぼ同じになる。さきほど意識高い系とは違うといったものの、結局、一人ひとりがマックスに楽しんでいるとそれだけで世の中のためになっているのだ。見えざる手だ。しかしながら、原理的にマックスはありえないが。だから色んな人がいて、それぞれに手を広げ合って文化という遺産を守っている訳だ。