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『ジョゼと虎と魚たち(アニメ版)』の感想

 最初は生意気で、見ていて腹が立ってしょうがなかった少女も、終わりにはとても愛おしい存在になっている。絵も可愛く、時に幻想的で想像力に満ちたものとなる。訪れる困難に共感し、一息つき、また何か起こり、立ち上がることをいっしょに体験していくなかで、キャラに対する愛着も湧く。いつまでもそこにいたくなる、そんな世界。

 

 だが映画は必ず終わる。

 

 エンディングまで見終えたとき、頭に浮かんだのは「アニメはええねえ」だった。これには二つの意味がある。ひとつは「やっぱりアニメって良いね」であり、もうひとつは「現実とは関係がないですね」という嫌味だ―――この世界の登場人物は、ジョゼも含めて、現実には誰もおらぬ。この世界から現実への土産は何もない。ただそこに住まう以外に手はない。だが映画は終わる。終われば追い出される。追い出されて途方に暮れる。実はこういう感覚をアニメではたまに味わう。まあ関係ないですよね、というような。幸せな世界の幸せな物語を見ただけだ。現実はこうはいかない。

 だが監督自身、このことを意識していたらしい。

——「現実」という言葉を聞くと、シビアな現実を思い浮かべてしまいますね。

タムラ:そうなんですよ。リアリティーを追い求めると、主人公の人生が上手くいかない展開にしがちなんです。僕は、子ども向けのハッピーエンドの作品を「表の作品」と呼び、厳しい現実を描く大人向けの作品は「裏のアニメ作品」と呼んでいます。しかし、アニメ映画版の『ジョゼ虎』では、第三の選択肢で挑もうと考えました。すなわち、「裏を知った上での表」です。これを描くことで、表面的なハッピーエンドが訪れる「表の作品」とは違う着地ができればと考えていました。

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 「裏を知った上での表」が描きたいなら、この映画は完璧に失敗している。

 この映画を見て厳しい現実を感じる観客などほとんどいないだろう。ポスターの二人がいい感じなることぐらい事前に知っているから「どうせそういう方向にまとまんだろ」というのもまぁそうなのだが、ジョゼが立ち向かうべき現実がこの映画では軽すぎる。この子の現実はたまに出てくる露悪的なオッサンだけで、しかもそのオッサンの一人は気の強いババアに強気に出られて頭を下げている。ちょっとドついたらいなくなってくれそうだ。福祉のオッサンもそうで、ちょっと出て二度と出ない。現実というのはもっとウジウジとして、気色の悪い、でもそこで生きて行かなければならず、というのもそこから恩恵も受けていることは事実で……みたいな、鬱陶しいものなのだ。くわえて、ジョゼの場合は身体障害者なので、この現実は「健常者」よりも鬱陶しい。しかもジョゼは女性なので、さらに鬱陶しい。

 だがこの映画は裏など描かない。「支え合えばなんでも気合で乗り越えられるわね♡」という空気さえ醸し出しながら、ジョゼはたくましくなっていく。男のほうもなんだかんだうまくいく。だから「裏を知った上での表」にならず、「裏に蓋をした表」になる。だから、この映画には現実への土産がない。

 「社会からズレたワガママ女の私だけど、なんだかんだで世話を焼いてくれる理解ある彼を従えてます。でも叱るところでは叱ってくれるし、ちゃんと手を引いてくれるのよ」みたいな話かな、と途中までは思っていたのだが、今はどうもそうではないように思える。むしろ、「世の中のことを何も知らない深奥の森の美少女は俺なしでは生きてはいけない。こいつは困ったやつでまぁしょうがない子なのだが、ほんとはちゃんとしてて、俺のこと支えてくれたりもすんだよね。ドラマチックな事件も経て今は相思相愛です✌」という話だろう。

 要するに、車椅子は””か弱さ””。ジョゼを引き立てる萌え要素

 二人がそれぞれ自立した存在だというのは、それぞれが別行動して何かを決めたということなのか。二人はもっと、お互いを不安に思い、疑ったりするべきだったのではないか。ジョゼには、選択肢などなかったのではないか。

 

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 この映画で最も象徴的なシーンは、家を潰す場面であることは間違いない。