第二章 生物の基本形は不死
たとえばガスコンロの火はガスを供給し続けるなど条件を整えてやればずっと燃えている。だがガスは常に燃え続けており常に新しいものに入れ替わっていくだろう。人間も同じで、食って寝て出してをくり返し、少し時間が経てば体の細胞がすべて入れ替わっているが同じ人間(火)であることには変わりない。こういう非平衡状態(流れがある)なのに、形が変わらないものを散逸構造と呼ぶ。生と死の境界があいまいなのは、この散逸構造のためだろう。海が渦潮をまきはじめたとき、いったいどこから渦潮と呼ぶのかを指差すのはなかなか難しい。
ただ、もし部屋のなかにガスが充満していたら最初に火をつけた途端爆発する。散逸構造を生じさせるためには、「いい感じ」に条件が整っていなければならない。そして散逸構造を維持するためには、入ってくる物質ももちろんだが、出て行く物質もうまく処理しなければならないだろう。二酸化炭素が部屋いっぱいになったら、さすがにガスの火も燃えてはいられない。
私たちは私たちをグラスの中にある水のような、流れのない平衡状態だと考えがちである。だが私たちはガスコンロの火である。考えてみればガスコンロの火は新しいとか古いとかそういう話はない。だから基本的には、ずっといい感じの条件さえととのっていればいつまでも燃え続けることができる。ならなぜ死ぬのだろう。
進化するためには犠牲になるやつがいなければならない。
それは初期の生物たちもそうだった。だが彼らは、「一部の個体が死ぬ」だけだった。それぞれは原理的に永遠に生きられるけれども、やっぱり事故があって死ぬ個体があった。だが人間は全員死ぬ。なぜだろう?
第三章 種の保存説
自然淘汰には二種類ある。安定化淘汰と方向性淘汰である。そして基本的に起こっている淘汰は安定化淘汰である。安定化淘汰とは、遺伝子に起こった変異をつぶすほうの自然淘汰である。なぜこれが基本的なのかというと、たいていの変異というのは有害なもので、環境に適応するのになんの役にも立たないからである。方向性淘汰はこれとは逆に、変異を後押しする自然淘汰だ。
自然淘汰の基本は「変わらない」ことである。
そうすると、ガスコンロの火がもしも子どもをつくるなら(飛び火して隣のコンロに火が付く)、必ずしも親の火は消えなければならないだろうか。そんなことはないだろう。だとすると、老化や死がなぜこんなにありふれた出来事になっているのかの説明がつかない。次世代のために死ぬというありふれた「死の理由」は、老化や死を既に前提としており、循環論法になっている。そもそもこの道を選ぶ必要がないではないか。