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にんじんと読む「東洋の合理思想」

 東洋思想は実践的関心を中心とし、それを知的に捉えようとするところに極めて合理的な一面がある。そのひとつの結実が仏教思想であり、これはカントの批判哲学に類し独断的な形而上学を排し現実に目を向けるものである。しかしカントの目的は近代科学の基礎づけという点にもあり、「知識のための知識」という向きがあるが、仏教の目的は解脱という一点である。また中国においては道徳や政治が中心であり、これを見据えたある種の論理が発展してくる。とはいえ、主たる関心が道徳や政治で不必要なものを研究しないという姿勢がこれを未発達のままで済ませてしまったが。

※ 日本思想は「もののあはれ」が中心であり論理学はあまり顧みられない。

  •  解脱の心境そのものは、『非合理なる情緒または直観』である。合理と非合理を交互に見つめながら螺旋のように発展していくのは「仏教系の弁証法」と呼べるだろうが、これがヘーゲルに代表される西洋の弁証法と異なるのは、西洋が新しい認識内容を展開していくのと違って仏教系は、『同一内容を種々の観点から見直してゆくため』だということだろう。

インド思想①

 インド思想はほとんど常に宗教的解脱を目指す。そしてそれは知性の助けを得て到達しようという傾向を持っていた。その好例が仏教であるが、日本にもある仏教である禅宗念仏宗日蓮宗真言宗などは情緒や直感を主とするものであるが、奈良仏教・法相宗華厳宗の教理には論理的な要因が濃厚に含まれているのが見て取れる。しかし釈迦が生きていた時代の初期仏教はさらに簡潔な合理的精神によって貫かれている。

 初期仏教の教理を簡単に要約するといわゆる三法印諸行無常諸法無我涅槃寂静の三原理である。すべてのものは普段に変化しつづけており同一性を持たない(諸行無常)。そして変化し続ける現象の背後に不変の実体などはない(諸法無我)。実体がないというのはつまり、なにものもそれ自身によって独立に存在しているわけではなく、すべてのものは他によって存在する。だというのにこれを認めず、実体を認めようとすると現実と対立して不満がつのる。苦を除きたいなら実体という考えを捨てなければならない。苦悩のない状態を涅槃という。涅槃であれば心は安静になる(涅槃寂静)。

 この教理をさらに四諦によって検討してみよう。四諦とは苦諦・集諦・滅諦・道諦のこと。人生は苦悩にみちている(苦諦)。苦悩にはそれ相応の原因がある(集諦)。この原因とは三法印で示されたような真理を知らないことである。そして苦悩が消滅すれば心が安静になる(滅諦)。そして苦悩の滅に至る道が道諦であり、その内容は「八正道」としてまとめられる。この八つの道は「三学」として簡潔にまとめられ、戒・定・慧である。戒律を守り、精神を統一し、智慧をもつ。このように仏教の教理では知的方法が重視されているのである。知性を欠けば解脱は得られない。苦悩の根本原因は無知なのだ(現実の苦悩の原因を順にたどった「十二因縁」がまとめられている)。

 仏教思想は形而上学的な問題を、それは永久に解決できないもので仮に解決されても解脱にはなんの利益もないと切って捨てる。これはカントが実践のうえでは形而上学を必要とした点からすると徹底的な形而上学の排除といえる。仏教は「解脱」を目指す点で宗教的だが、その方法は合理主義なのである。ところが合理的だとばかりもいえないのは、思考だけでは解脱はムリだといっているところだ。つまり智慧だけでなくて、「戒」と「定」が必要不可欠なのだ。

 

 初期仏教の合理的態度は、後年、「論理」へと繋がっていく。陳那(ジンナ)によって完成された形式論理学を新因明シンインミョウといい、それ以前を綜合して古因明と呼ぶ。

 インド論理学者は知識または認識の源を「量」といい、これを重視する。量がいくつあるかについては各宗派・学派によって異なり、一量説・二量説・三量説・四量説などがある。*1いくつかの認識の源のうち、純粋に論理的なのは比量(推理)であり、やはりインド論理学の中心にあたる。というかインド論理学では概念も命題も、推理論と独立しては語られない。これでは認識の合理性を十分に確保することができず、インド論理学の欠点といえる。

  •  なぜかというと、たとえば認識の統一性を保つのは矛盾律(命題は同時に真・偽をとらない)であるが、インド論理学ではこの原理が明確に捉えていないのである。もちろんインド論理学でも、推理のなかに出てくる矛盾についてはこれを排除しており、あくまで「推理」においてはこの原理を捉えている。なぜ独立に””矛盾律””という形を与えなかったのかといえば、それはやはり目的が解脱という実践にあり論理はそのための方便にすぎず、矛盾律などの命題を””真理””と捉えることは解脱を妨げるだろう。

 インド論理学の頂点は新因明である。こちらも量を詳論する。陳那は二量説をとり、「現量」(直接的知覚)と「比量」(推理)である。現量は概念規定される以前のもので、言語を離れる。実は悟りという体験も現量に属する。つまりこれは論理の外にあるものであり、非合理なもの。しかしこれがなければどのような認識もない。『非合理なくしては合理性はない』ということだ。

 現量には四種ある。五識身ゴシキジン、互俱意識ゴグイシキ、自証分ジショウブン、修定者シュジョウシャである。第一には五感、第二には五感を統一するもの(意識、統覚)、第三には感情および自意識(末那識)、最後は解脱した人の直接体験でいっさいの煩悩を消した知覚である。『認識は非合理から出て非合理に達するものであり、その過程が合理的思考となる』。この過程、架け橋こそが比量である。

 

 陳那によると、認識の対象は自相ジソウと共相グウソウに大別される。自相とは個別性、共相とは一般性をいう。前者を認識するものが現量、後者を認識するものが比量である。比量とは推理のことであり、推理は自比量と他比量に分かれる。自比量とは『論者が自己自身のために正しい認識を得るための推理』(自分の心の中での推理)であり、他比量とは『論的に正しい認識を得させるための推理』(推理を言葉にあらわして他人に示す)である。現量は言語以前のことであるが、自比量は言葉を媒介にして成立する。陳那が分別(判断作用)を認識源として考えなかったのは、インド論理学全般に共通の特性であるといえよう。

 インド思想は合理性を追求し陳那によってインドにおける形式論理学が確立されたが、ただ、この合理性はいつも解脱という非合理性を見据えてのことである。この合理性と非合理性の関係を追求したのが竜樹の『中論』であった。竜樹は合理的思考の突き詰め、その先に自己矛盾を見出し、合理性によって合理性を否定するのだ―――これはソクラテスの対話に似ている。彼は相手の主張のなかにひそむ矛盾をついた。だが竜樹と異なるのは、ソクラテスが求めていたのは正しい知だった。竜樹が目指すのは合理性を放棄して非合理性へかえっていくことである。

 竜樹よりおよそ200年後、世親が生まれ、唯識思想を完成する。これは『解脱の真理を研究する仏教心理学』である。「識」という心のはたらきの一番奥には阿頼耶識があり、これには過去のあらゆる経験を種子として含んでいる。だから現在の意識現象はいつも過去の影響を受ける。そしてもちろん、そのつど阿頼耶識に影響を与える。この相互関係を持っている。だからすべてはいつも流れ、恒常不変の実体などない。これを実体だと勘違いすると苦悩が生じ、これを煩悩と呼ぶ。すなわち煩悩の原因は実体化にある。

 実体があるとする誤った判断を「妄分別」という。これを否定し、唯識という現実を認識する段階がある。分別性、依他性、真実性である。分別性とは妄分別の基本的形態であり、事物を孤立的・実体的に見る判断である。依他性とは実体があるというその考えがそれを考えるという判断作用によって成立しているということである。そして真実性とは依他性も独立しているわけではないということである。この三段階は世界そのものは何も変わらずただその見方を変えていく。この「見方」を繰り返していると、徐々に阿頼耶識にその経験が蓄積されることで、実体への固執がなくなっていく。唯識はこうして、解脱に至って完成する。

 

 

*1:五や六もあるが、『それらはあまり重要ではない』(p37)