にんじんブログ

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にんじんと読む「比較不可能な価値の迷路」

第一章 国家はそもそも必要なのか?

 何らかの制度の正当化は、発生論的なものと帰結主義的なものに分かれる。国家が「人々の自発的な意思の合致によって成立したから」正当だとするのは前者であり、国家が「人々の効用を増大させるから」正当だとするのは後者である。実際、「国家」というものは正当なのだろうか。

 この頃、国家というものが不要であるとする『国家民営化論』(=政府の機能を市場が果たす)があるが、これはもちろん帰結主義的な正当化を目指さざるを得ない。もし民営化によってもれなく全員の効用が上がるなら文句なく全員一致で(少なくとも民主的な)国家は消滅するだろう。しかし、今のところどこもそんなことになっていない。現実的なのは、「そのほうが社会全体として厚生が改善される」というような正当化だろうが、効用が低下した人に対して生じる損失補償を市場が行うとは考えづらいため、どうも無理筋である。国家ありきの状態から無政府状態を正当化するのはほぼ無理そうなので、戦略を転換するならば、政府がそもそも存在しない自然状態を出発点として議論するのがいいだろう。こうすることで、国家擁護派の人が自らの立場を立証する責任を負う。「無政府でよかったのに、なんで国家なんて作ったの?」というわけである。

 国家という存在は人々に対してこのようにせよと要求する。もし国家が正当化されるならこの「権威」が正当化されなければならないだろう。オクスフォード大学のジョゼフ・ラズ教授は権威について、

  1.  権威が人々の行動を拘束できるのは、命令の存在とは独立に名宛人に妥当する理由が存在する(依存テーゼ)
  2.  各人がそれぞれ独自に彼(女)に妥当する理由に合致した行動をとろうとするよりも、むしろ権威の命令に従った方が、その独立の理由に、よりよく合致した行動をとることのできる蓋然性が高いから権威は正当化される(通常正当化テーゼ)

 と言っている。たとえば英語教師が「Repeat after me」と言ってるのに従わないといけないのは、生徒が英語を学習したいからであり、うまく英語を吸収するためには先生の言うことを聞いたほうがよさそうだからである。つまり国の権威に従えば人々が本来とるべき行動をよりよくとることができれば、権威は正当化されるわけだ。そこでよく指摘されるのは調整問題状況と囚人のジレンマである。

(調整状況問題)車は道路の右側を走ろうが左側を走ろうが別にどっちでもいいのだが、どっちかには決まっていてもらわないと困る。多少の便・不便は生じるにしてもとりあえず決めてもらって、みんながそれに従うことがまずもって重要である。このような調整問題はゴミの日のカレンダーなどに始まり、日常的に発生する。社会の自生的な慣習、暗黙の了解でも解決できるだろうが、国家の権威に従うことによっても解決する。

囚人のジレンマ協力すれば全体としてはうまくいくのに、相手が裏切るかもしれんので先に裏切っといたほうが合理的になってしまうジレンマである。たとえば、敵襲が来た時に二人で協力すれば撃退できるのに、相棒がビビって逃げたら残ったほうが死ぬ。この問題は公共財の利用にあらわれる。警察・消防・防衛といったサービスは対価を払わない人々にも及ぶので、全員がただでそれを利用してやろうなどと考えたら事業は立ち行かなくなり、全員が公共財を利用できなくなってしまう。そこで国家はルールを定め、すべての人から公平に徴収する。

 以上によって国家が正当化されたかどうかは議論の余地があるが、もし認められるなら、次のような帰結に留意しておかなければならない。

  • ※ みんなが国家の言うことを聞くのは国家がえらいからとかではなく、従ったほうが便利だからにすぎない。
  • ※ 権威の正当性は従ったほうが便利だからという一点に尽きるので、別の権威がその問題をよりよく解決しているなら従う理由はない。
  • ※ そのような事情もあるので、国家の権威は最高のものでも不可分なものでもない。国際機関のほうが適切に問題を解決するならそちらに従うべきである。
  • ※ この役割を果たすことが肝要なので、民主的な正統性は別に必須ではない。

 調整状況問題は慣習でどうにかなる部分があるので、権威を基礎づけるのはやはり囚人のジレンマの処し方であろう。ホッブズの社会契約論は自然状態をジレンマ状況だと考えてそれを解決する手段として国家を正当化する議論である。しかし、これは正しいだろうか。

 

 

社会契約論には二種類の正当化が使われている。つまり、自然状態での生活に勝るという帰結主義的なものと、自発的合意によって成立するという発生的なものである。だから仮に合意によらなかったとしても、帰結主義的には正当化されているわけで、やはり成立した国家は支持される。というか、実際のところ発生的な正当化を証明することなどできないのだからこの方面は最初から破棄しておいたほうがよい。

 さて、社会契約論による国家の成立がもたらす帰結は、囚人のジレンマ問題を国家が解決してくれて嬉しいというものだった。ところがこれに対して、「別に国家なんかいらないだろ」という議論を提出したのがゴーティエである。ジレンマ的状況に対して自分にとっての最大効用を重視する奴と、他者が協力してくれるなら他者のことも考慮にいれる協力的な奴の二通りを考えてみよう。要するに前者は「とにかく裏切る」、後者は「協力するなら協力する」。ホッブズが想定したのは前者のような対応をする奴らだったのだが、実は協力するなら協力するという当たり前のことをするだけで効用は増えるしそこに強制力などまったく必要ではない。

 しかしゴーティエの批判を聞いてすぐに思い浮かぶのは、そもそも「他者が協力しようとしているかどうかがわからないからこそ困ってんだろ」という反論である。そしてもっともっと問題なのは、彼の話がうまく進むのは、全員が全員協力的だからである。裏切られるかもしれない、いつ裏切られるかわからないとびくびくして逃げ出すタイミングばかりうかがっているような奴がいたら終わりなのだ。このことを逆から言えば、国家の使命というのはこういう人たちを強制することなのだ。

 

第二章 比べようのないもの

 アラスデア・マッキンタイアは、比較政治学がやるような国や文化を超える普遍的な政治学上の法則を見出そうとする試みに疑義を述べる。政治学の対象となる制度や行動は文化によってまったくその姿を変えてしまう。たとえばアフリカの「政党」と西欧の「政党」では全く性格が異なるのだ。このため、比較政治学においてはその機能を分析することできちんと対象として同定しようとしてきたわけだが、マッキンタイアはこれについてうまくいっていないと評価している。

 彼の疑義は比較憲法学においても適用できる。憲法の「言っていること」は、まったく同じ文言を持ってきても文化によって変化するからだ。比較不能性について、AとBがどっちよりどっちのほうがいいともいえず、価値が等しいともいえないときにそれが成り立つ。比較不能であることは価値が等しい事とは異なるわけで、たとえばふつう、休日に読書するか散歩するかというのは比較不能である。これには【構成的】なものも見られ、たとえばあなたの大好きなアイツが「かけがえないもの」であるのは構成的な比較不能性であり、あなたのほうで比較できないと決めてしまっているのだ。一億円で大好きな相手を売れるなら「かけがえない」わけではないということになる。そこには物差しなど存在しない。そもそも物差しを否定することによって「かけがえなさ」が生まれている。憲法に対しても「基本的人権を守る憲法っていい憲法だね」などと言っているのはこの種のコミットメントであって、これは構成的なものである。どっちがどんなふうにどうという物差しを得るためにはこれが邪魔になってくるのだが、この種の比較不能性は回避不能である。

 つまり、重要なのは客観的な物差しによって比較しようと考えるのではなく、【それぞれを理解可能なものとする内在的な視点】を探求し、この視点に基づいて記述することが求められている。ここにこそ比較憲法学の存立可能性と必要性がある。