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にんじんと読む「入門講義ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』」🥕 ②

論考の中身①

 論考の記述は独断的である。著者の解釈によると、冒頭の形而上学的記述は「語り、考えること」に伴う常識の明示化が目的になっている。前理論的な考えをあぶりだし、

  •  世界は成立していることがらの総体である。
  •  世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

 世界はモノの寄せ集めではない。なにしろモノを単に集めてきただけではそこに無数の組み合わせができてしまい、いま目の前にある世界が出来上がらないからだ。

 世界が事実の総体であることがわかると、それに反する事態は成立していないこともわかる。事態というのはものの結合であり、私たちはこれによって世界の可能なあり方について考えることができる。成立している事態が事実である。つまり事態とは「成立/不成立」が問題となるようなものである。

 ものとものとの組み合わせが無数にある、といっても「ポチは営業中だ」などと言うことはできない。対象は事態に登場する可能性込みで存在する。この可能性を「対象の形式」と呼ぶ。さらにウィトゲンシュタインは対象が単純でありそれ以上分解できず、それが存在しないというようなことが考えられないものであることを要請する。

 

 次に、彼は「思考」に踏みだす。像である。像は模型であるといわれる。たとえば部屋の模様替えをするときに、本当にタンスを動かすよりも紙切れにタンスと書いたほうがよいだろう。紙切れに書かれるタンスや机、観葉植物などは対象の代理をしている。しかし〈タンス、机、観葉植物〉というリストだけではもちろん駄目で、像が像として成立するためには対象との対応だけでなく要素間の関係がきちんと描写されたものでないといけない。つまりタンス、机、観葉植物が模様替えであるためにはその空間的関係が現実の空間的関係と共通していないといけない。たとえばタンスが上側にあるというのは現実の部屋の北側にあるということだ。―――このような現実と像が共通してもつ関係の可能性のことを写像形式という。

  • 〈北海道、滋賀、沖縄〉の位置関係といって滋賀をてっぺんに持ってきたらそれは誤っている。しかしそのような像はつくりうる。像は正誤関係ないのである。像の真偽を知るためには、現実を見てみなければならない。
  •  像は自身の写像形式を写し取れない。つまり「位置関係」のようなものは要素に現れない。「 下 ↑ 上 」という像は上と下がたてに並んでいるところを表すとしよう。しかしこれがもし「上 ↑ 下」なら、下のほうが上側に来てしまう。つまり位置関係が要素に入っていないからといって、要素に組み込んでみても、結局””こういう風に並んでいるから””という仕方での提示が不可欠になる。

 事実の論理像が思考である。論理像とは写像形式が論理形式である像だ。地図は二次元的な位置関係にかかわる写像形式、楽譜は音の高低や時間的進行などを表す。このように特定の写像形式は像によりけりなのだが、『論理形式』だけは像が像である以上必ず持っていなければならない。たとえば地図においても、市役所が駅の北にありかつ北にないようなものを書くことはできない。楽譜においても、ドの次がミでありかつミでないようなものを書くことはできない。

 すべての像は論理像なのだから、思考とはなんらかの事態についての像を作ることである。