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にんじんと読む「人間の経済と資本の論理」 第一章

第一章 経済の二つの意味

 カール・メンガーはある物が財になるための四つの条件を挙げている。要するに「人間の欲望満足に役立つあらゆる物」なのだが、ここに因果連関という観点を導入することによって、欲望を直接叶えてくれるものだけでなく間接的なもの、たとえば生産手段なども財の範囲に含めている(『京都産業大学論集』社会科学系列第23号H18.3 メンガー『国民経済学原理』の統一的解釈について)。

 この本の著者は財についての説明に””……という諸財の関係””という言葉を使っており、循環している。だから適当に解釈しながら読み進めよう。

 

 ある物が財になるための基本的な前提はもちろん欲望の存在である。食欲に対してそれを満足させる多くの物が存在する。たとえばそれはパンである。そしてパンを作るためには小麦粉・酵母・水・労働等々、小麦粉のための小麦・ひき臼・労働……こういった因果関係もまた存在する。財と呼ばれるものは必ずこの因果関係の中に身を置いている。たとえば小麦粉がパンを作ることにしか使えず、それでいてパン酵母が枯渇しているならば、小麦粉はなんの役にも立たない。つまりそのとき小麦粉は財ではないことになる。この因果関係は現実の状況によって変化する。人間はその因果関係を認識していなければならない。でなければ、なにかが財であるとは言えない。ポイントは労働も財でありしかも高次財として必ず現れ、空気や太陽光のように獲得しようと努力しないでもいい種類のもの(自由財)があるということであろう。

 ある財が経済財であるとは、その財の支配可能な数量が必要量より小さいもの(供給<需要)である。たとえばアンパン、カレーパンを数十個ずつ作るのに小麦粉が足りていないようなものだ。人間はそうした経済財を用いて欲望を満足させるために、(1)与えられた可能性の限度内で獲得(2)劣化をふせぐ(3)その支配可能量をもって満足させる重要な欲望とそうでもない欲望を選別する(4)合目的的に使用して最大の成果、あるいは最小の数量で一定の成果をおさめる という努力を行う。

 つまりここでは人間の経済が四番の最大化/節約の原理で説明されている。しかし後年、メンガーは経済はこれとは違う側面を持っていると考えた。財の供給が需要を満たすことができない場合、生産活動をストップするわけではなく、その財を生産するための高次の財を求めようとするからである。もしもパンが足りないときに、パンを生産することができる材料がそろっているなら当然、パンを生産するだろうというわけだ。この方向を「技術ー経済的な方向」あるいは「第一の方向」と呼び、先ほどの「節約化の方向」あるいは「第二の方向」と対比する。

  •  技術ー経済的な方向:消費財であれ生産財であれ、それらが欲望を充足するのに不十分なら、欲望を充足するためにより高次の財を用いて不足する低次材を生産することになるということ
  •  節約化の方向:手元にある財が不足しているか、これから不足が見込まれる場合には、さしあたりその財をできるだけやりくりして、より多くの欲望を満たそうとすること

 新古典派の経済モデルにおいてはすべての消費財生産財も市場で調達されることが前提とされ、しかも市場で取引される財はすべて経済財つまり稀少なものであることも前提される。結局それらをどうやりくりするかが問題なので、技術ー経済的な方向などという分析ツールは不必要だと無視されてきた。

 カール・ポランニーは新古典派に対して異議申し立てを行った。経済という言葉は「形式的な意味」と「実体=実在的な意味」という二つの意味(それぞれ第二・第一の方向を指示)がある。経済史というのは単に市場経済の発達史ではなく、人々が生命を維持するために生活必需品を獲得する方法や制度の歴史を含むのである。未開社会においては形式的意味を適用できる場面は少なく、本当に経済を分析するためには両方の側面が大事だと強調した。

 

 さて、人間は欲望を満たすための物的手段を得るために自然に働きかける。人間は自然の営みを模倣して農耕文化を築いてきた。ポランニーは自然と人間との相互依存関係が持続するように制度化されるとき、そこには「互酬」「再分配」「交換」といった三つのパターンの統合形態が現れると考えた。たとえば隣接する農家同士の贈答やお手伝い・色々な方法で調達した食糧をコミュニティの長が働いてくれた人々へ分配する・市場での商品売買や労働力の売買などである。私たちにとってなじみ深い【経済学】は交換ばかりを分析しているが、互酬や再分配を分析するためには別のツールが必要になるだろう。