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にんじんの書棚「それは私がしたことなのか 行為の哲学入門」

 「行為」という概念に対する分析。

 

 

内容一部要約

 「行為」は、意図や欲求、そしてその背景にある信念などの心の働きによって引き起こされるというのが直観的な理解である。しかしなぜ心の働きが実際に体へ影響するのかといったことを考え出すと、満足な説明にはなっていない。一方、意図などといった心の働きを考えず、物理法則にしたがった機械仕掛けの説明を試みる場合もある。それによれば、私たちがいつその行為をするかは先行する条件によって既に決定されているのである。しかし科学的知見はいずれもこの立場を証明しない(第一章)。そこでもう一度立ち返り、意図や欲求、信念について確認する。

  1.  それらは自覚的な意識を伴う必要がない。手をあげるときに手をあげようと思っているときはあまりないし、駅まで自転車で行くことが物理的に可能であるという信念を確認することはほぼない。
  2.  始まりの瞬間が問題にならない。いつから意図しはじめたのか、いつから蛇口をひねれば水がでると信じ始めたのか。その「瞬間」について語ることは問題にならない。
  3.  長時間持続する
  4.  ほとんどの意図的行為は別の意図的行為に再記述できる。自転車に乗ることはペダルをこぐことやハンドルを操作することなどに言い換えられる。この試みを徹底すれば私たちは最後に単純な身体動作に至るだろう。これを意図的基礎行為と呼ぶことにする。通常、意図しないような、右足の腿を二センチあげるとか、大腿筋を収縮させるようなものは、特殊な意図的基礎行為と呼んで区別できるだろう。単に手を挙げただけで他になにもいいようがないようなケースも存在する。当たり前だが、再記述できるからといって複数の行為を同時に行っている訳ではない。ペダルを漕ぐことは自転車に乗ることの一環としてあり。
  5.  意図することの前提となる信念は一定程度必要であり、一つではない。

 アンスコムは次のように述べる。「意図的行為とは、ある意味で用いられる「なぜ?」という問いが受け入れられるような行為のことである」。たとえば手を挙げたひとに対して「なぜ?」と問うと「挨拶しようとしたんだ」という。注意すべきは、なぜと訊いても意図が返ってこない形態もあるということだ。だが最後には意図が返ってくるだろう。もちろんなかには「理由などない。ただ手をあげたかったんだ」という場合もあるだろう。逆説的だが、意図などないという理由によって有意味な行為として認められることがある。これに対して「ピラミッドに登りたかったんだよ」と言われたら本当に意味が解らず途方に暮れるだろう。遂には心神喪失とみなされ、意図的行為をしたとさえみなされない。

 本当になんの理由もない、というのは理由として認められるという話だが、実際のところ、この適用はそれほど多いわけではない。本当になんの理由もなく自転車に乗るために自転車に乗るというようなケースはあまり考えられない。髪をかきあげるとか貧乏ゆすりするとか、そういうシンプルな動作以外で理由がないことを理由にするのはなかなか難しい。

 他人がなぜそれをやっているのかはよくわからない場合がままあるので、私たちは「なぜ?」と問う訳だが、そこにはそれが「意図的行為である」という前提があることに気づく。その人がその行為をするのは何かあってのことなのだと原則的には考えているからこそ、質問するのである。これを寛容の原則という。私たちは相手がなんらかの意図を持っていると推定してかかっている。寛容の原則の重要なポイントは、たとえば発話の場合、

  1.  話し手は語った後に自分の語ったことを観察し、解釈することによって、自分の言葉を意味を知るわけではない
  2.  話し手は語る前に発話の内容を観察して解釈することによって言葉の意味を知るわけではない。
  3.  話し手は基本的に、観察して解釈することによってではなく、自分の言葉の意味を知っている

 というところにある。ここで「知っている」という言葉は、従来的な、自分の内側で起きる隠された現象として用いられていない。相手がじゃんけんで何を出すかがわからないのは、心が身体内で隠されているせいではない(だからたとえば、脳をもっと調べて隠されたものを暴けば、何を出すかわかる! などといったりする)。だが心をめぐる非対称性は、行為者当人だけが観察と解釈によらずになぜそれを言ったかという意味を知っている、というところに由来する。つまり隠されたモノではなく、持っている知識の種類から、相手が何を出すかがよくわからないのである。

 寛容の原則は「行為者は行為者である以上、おおよそ自分の意図を知っているのでなければならない」ことである。そしてこのことは「行為者は観察して解釈することによってではなく知っている」ということを意味していた。これはいわば心の一人称的権威、私とあなたの非対称性である。すなわち、あなたの心が私にわからないのはあなたの心が肉体(脳とか)に隠されているからではなく、論理的に要請される事柄なのである。

 

 ともかく、これで意図というものの内容が、たいていの場合行為者本人が語ることによってもたらされることがわかった。この「心の働き」たる意図とは、根本的にコミュニケーションである。もちろん誰かと意図について話し合わなかったとしても、その可能性さえあればよいことは、アンスコムの『問いが受け入れられるような行為』という慎重な言い回しを見てもわかる。聞かれれば答えることができる、という可能性が大事なのだ。

 私たちは脳の動きから行為を説明するモデルと、全くかけ離れた地点に立っている。だがこの考え方は意図や信念に関わる諸特徴を満たすし、さらに、行為する前に持つべき信念が無限に増殖してしまう事態を防ぐことができる。たとえば私が自転車に乗ろうと意図するために必要な信念は「タイヤはパンクしてない」といったことから腐るほど挙げられるが、私たちのモデルにおいては、問われ語られることがまさに行為者の信念の中身となる。たとえば自転車に乗るための信念としては「タイヤがマカロニではない」ということまで挙げられるが、まさか「タイヤがマカロニじゃないと思ったから乗ったんだ」と言われて意味のわかるやつはいないだろうし正気か疑われるだろう。たとえばバラエティの企画などで、職人が自転車のタイヤをマカロニで作ってしまうケースなど、上にあげた信念がまともになるような場合も存在する。こうした特殊な文脈でなければ、意味不明なのである。