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にんじんと読む論文「フッサール生活世界の現象学」

cir.nii.ac.jp

 

 フッサール論文『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』)において、彼は学問の危機を論じた。科学技術は人類の無限の発展と繁栄を約束してくれるかに見えたが、それは第一次世界大戦の惨禍を招き、そしてまた、「この人間の生存全体に意味があるのかないのか」といったような大切な問いに一切答えようともせず、自分たちで形成したにもかかわらずよそよそしいものとして私たちに対立してくるのはいったいなぜなのか———それは科学が主観的なものとの関連を断ち切るからだ。

 だからこれは近代科学の客観主義に対する批判である。

 彼は自然が数学化されることで、私たちの暮らす世界が「理念の衣」にぴったりと包まれ、””一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる””のだと論じた。理念の衣に覆われた「生活世界」は、具体的な生活のなかでたえず現実的なものとして・自明なものとして与えられふつうは問われることもない世界である。生活世界で出会われるものは石や動物などの意味をもった具体的な事物であり、点や直線といった理念的なものではない。それは学問以前に、主観的-相対的に与えられている世界である。

 私たちはものの見方がいろいろあることを知っているが、複数の世界があるとは思っていない。同じ世界の存在を信じている。そしてだからこそ、””真の世界””というものを客観主義という特殊な態度によって求めたのだ。そして「世界は本当はこうなのだ」と、生活世界を覆い隠したのだ。ここに客観主義の起源がある。生活世界は主観的-相対的なものとして、客観主義のもとでは軽んじられる。しかし実のところ、学問は生活世界を主題としたものであり、生活世界においてそれを基盤として成り立つ活動である。生活世界こそは客観的学における真理の妥当性を究極的に基底づける領域なのである。

 

 

 ふだんは覆い隠されてる生活世界を主題化するために、フッサールは客観科学を槍玉にあげた。客観科学はその地盤として生活世界を持つのであった。そして今度はこの生活世界に立ち返って、これを学的に扱おうというのである。この生活世界の学は、生活世界が持つありとあらゆる活動に対する「基底」としての仕方を問うものでしかありえない。この学が単なる客観科学と区別されるのは「真理」の違いであって、生活世界についての学はその真理性の源泉を主観的-相対的な直観のうちに有している。

 これに対して客観科学は、主観的-相対的なものを排除し、そこに””仮説的な実在物””(原子とか?)を組み入れる。そしてこの存在物に対してさまざまな仮説を打ち立て、これを更新し、客観的真理にたどり着こうとしている。だが実のところ、どれほど客観的に示されたと言おうとも、主観的-相対的なものはその理論的-論理的な存在物がまさにそうであることを究極的に根拠づける機能を持っていた。

 客観的-学的世界と生活世界をこのように対比してきたが、考えてみればどちらの真理性も結局のところ主観的-相対的なものである。客観科学が生活世界という地盤の上にステージを作ってその上に建物を建築するのに対し、生活世界についての学は地盤の上にそのまま建てられるのだから、いずれにせよ、全学問は生活世界のものには違いない。

 

 生活世界にはいくつかの区分がありそうだ。まずありとあらゆる実践の底、ありとあらゆる建物が建っているまさにその地面がそれである。客観科学のある地面もそのうちのひとつであり、客観的真理という特殊な理念によって指示されるところの生活世界である。だが比喩からいっても、建物のない土地だってあることは想像がつく。フッサールはこの最も広い意味での生活世界を「全世界」という。だがもはやその土地はありとあらゆる経験主観に関係づけられてはいない。

 するとある疑いが生じる———地盤地盤といって頼りにしてきたが、そこまで頼りにしてもいいようなものなのだろうか?

 

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 生活世界についての学は、客観科学の「理念の衣」を取り去らなければならない。

 生活世界はわれわれにとってつねに、あらかじめ与えられた世界である。意識するしないとにかかわらず、あらかじめ与えられている。「生」とはたえず、世界のなかで生きることであり、世界確信のなかで生きることである。ここでいう世界が単なる「事物」「対象」と異なるのは、対象がつねに世界のうちにある対象として与えられているからで、対象は世界なしには存在し得ない。一方、世界は一個の対象のようではなく、それが複数であることは無意味であるような「唯一性」という仕方において存在する———要するに、対象と世界は原理的に別のものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フッサールが判断停止を求める第一のステップは、まさにこの理念の衣である。それは生活世界へ還れという要請なのだ。直接的に経験されたものを経験されているとおりに反省することが求められているのだ。

 客観的学が対象としている世界は原理的には決して直観されえない世界であるのに対して、生活世界はすべての点において現実に経験しうる。客観的学が対象としている世界は特定の態度——主観的なものを一切捨象し、客観的・論理的に確定しうるものだけを真に存在するとみなす——に相関してあらわれ、生活世界はわれわれのあらゆる現実的・可能的実践の普遍的領野として、つねにあらかじめ直観的に、直接的に与えられてある世界である。客観的学が対象としている世界は、生活世界における特定の態度において現れる。