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現象学的還元とはなにか(メモ)

 現象学的還元は、現象学においてその中核を担う方法論でありながら、その内実は漠然としていて捉えどころがない。それは一言でいえば「自然的態度から超越論的態度へ」であるが、単なる態度変更にとどまるならば「現象学者らしくがんばりましょう」と似たようなものになってしまい、意味がまったくわからない。

 このブログにおいては明証性の原理からの要請として——なにかを「よく見る」ための方法論として——現象学的還元が求められたのだと説明してきた。この言葉を言い出したフッサール当人は晩年までこの現象学的還元について語り続けたが、その学問において最も基本的であるはずの方法論が確立していないかのように思えるのは奇妙なことである。『イデーン』における還元は内在/超越という二項対立を際立たせ、意識への回帰、内在的所与の確実性に傾いていた。つまり還元とは分析の対象を意識に限定するという方法だったということになる。だが後年、『受動的綜合の分析』において指摘されるように、内在的所与の確実性などなんの役にも立たないことが明言される。なにしろ確実な所与など次の瞬間には消え失せてしまうのだから。基礎のような、特権的なものはもはやなくなる。そこにはどれもが確固とした恒常的なものではない、束の間の平衡状態においてのみ、存在者が成立することが示される。すると現象学とは「反ー基礎づけ」「非ー同一性」「反本質」の哲学だということになる。

 先ほど『成立することが示される』と書いたが、そうした分析を現象学的に行っているというためには、当然その方法論である還元が整備されていなければならないだろう。だが還元はいまだによくわからないままである。それは一体なんだったのか。いらないものなのか? そうした分析を行うために、超越論的還元はどのような意味で必要だったのか? ———これが問題である。

超越論的還元がもたらす「方向性」

 私たちは今、「なにかをよく見よう」としている。だが私たちは既にそのなにかをなにかとして把握している。だからこそ、そのなにかを分析しようという話になる。しかし哲学を新たに始める者として、なにかの存在を前提とするわけにはいかない。この存在者が、いかにして私たちに与えられたのかということをも、叙述したいのである。したがって、私たちの学問的分析に先立っては、そうした事物や世界の存在を忘れなければならない。このような特殊な態度が超越論的態度であり、自然的態度と対置される。

  1.  このような態度表明は、具体的にいかなる行為をとるかは不確定で、範囲も限定されていない。しかしこの表明を繰り返さなければならなかったのは、自然的態度のあまりの自明性以前とさえ言える自明性ゆえである。私たちは自然的態度を決断してその態度でいるわけではなく、普段からの、まさに自然な習慣として、自然的態度でいる。それがデフォルトである。だが超越論的態度はそうではなく、何度も気を取り直して、決断しなければならないものなのだ。たとえば自らの感覚が疑い得るものであることは「夢かもしれない」と言えば終わりだが、夢だと言われてそれを簡単に引き受けられるわけではない。それは私たちが、あまりにも感覚を信頼しているからである。
  2.  くわえて、超越論的還元には、超越論的態度を表明し分析する現象学者たちが「何をやっているのか」という意味を明らかにする意味がある。こういうことがやりたい、ああいうことがやりたい、だから還元を行うのだということで、自らの分析の意味を現象学外部からのことばをふんだんに用いながら説明し、意味を確定させる。つまりできあがった現象学を、どのように位置づけるかという問題に答えを与える。これによって、諸学問など、現象学以外のあらゆることに現象学が結び付けられる。

超越論的還元がもたらす「制限」

 超越論的態度というものがいかに困難か、現象学の意味を確定させる議論がいかに重要か。こうしたことによって超越論的還元が必要であることが確かだとしても、この超越論的態度によって分析にどのような影響があるのかを明らかにしなければ、相変わらず還元はわけのわからないものとどまる。次は還元によって可能になる分析とはどのようなものなのかを確認することにしよう。

 超越論的態度への移行にはいつもエポケー(判断停止)という言葉を用いる。

 この操作が問題となるのは志向性の文脈であって、たとえば、われわれが関わるさまざまな対象のなかには「テーブル」だけではなく「ペガサス」「三角形」「丸い四角」などがある。それはいわゆる現実に存在する対象、虚構的な対象、抽象的な対象、不可能な対象である。私たちはこれらの対象に関わっており、現にこれらについて考えることができるが、それがいったいどういうことなのかを叙述するためにはこれらの存在を前提とするわけにはいかないのだった。作用と対象とは、私たちがよく使用するところの、二項の存在を前提としたうえでの「関係」にあるわけではない、関係なのである。

 だが話はこれだけ、つまり、叙述にあたっては当の対象の存在を前提してはならない、ということに尽きない。超越論的態度への移行とはつまり、存在するとされる対象へかかわることから、対象へかかわるために持っていなければならない背景の分析への主題転換である。作用、つまり志向的体験がすべての対象を構成してくるという超越論哲学は、対象にまとわりつく疑わしさもまとめて排除する。ここに明証性、ものをよく見るためにヴェールをとることに通じてくる。