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分類について

恣意的に区切ること

 分類は対象をなにかとなにかに区切る。対象もなにかも、すべて言葉である。だが実は言葉というものは既に、区切られているのだ。たとえばりんごはりんごであり、りんごではないものとは違う。

 このことば、その意味について考えるにあたって本質主義/反本質主義の対立に目を向けないわけにはいかない。そこで、孔子を中心とする儒家老子を中心とする道家について見てみよう。ちなみに「道教」は、後漢時代に起こった庶民的宗教運動のことで、老荘思想を基盤にしていると主張しつつも、実際にはまったく関係がない。

 さて、まずは儒家における本質主義を確認しよう。孔子は「名を正すこと」を大事なことだと説いた。言葉をきちんと使うということだ。たとえば四角いテーブルをスクエアブルと呼んでいたとすると、丸いテーブルをスクエアブルと呼ぶのは不適当である。孔子曰く、これとまったく同様に、もともとは””支配者””という言葉は相応の資質を持った人間の謂いであったのに、今は資質を持たないものも支配者を名乗っている。””息子””は親との関係も重要であるのに、ただ誰それが父母だというだけで息子を名乗っている。こうした状況は不適当ではないか?

 孔子の言うことはもっともなように思われる。すなわち、

  1.  人は物事の間にある類似と相違を発見する。
  2.  そのうちに、ある物事がなんであるかを規定する本質を発見する。(ひとつの事物を規定する本質を「事(じ)」と呼んでいる)

孔子は人間に含まれ、人間は動物に含まれ、動物はモノに含まれるように、階層構造が生まれる。このように個別から普遍までの存在論的な階層構造がある。

 本質主義者は、事物との間にある境界線を永続的なものだと考える。これに異を唱えるのが老荘思想だった。「美女は美しいが、魚が美女を見ても美しいとは思わない。人間、魚、鳥。いったい誰が美の本当の規準をもっているというのか」と。儒教哲学においては美しいものは本質的に美しいはずである。実は、儒家は言葉の意味が時代に応じて移ろうことは意識していた。彼らの目論見は、この移り行きを止めることにあった。

 老荘思想は絶対的な境界線の存在を否定する。境界線は、とても流動的なものなのだ。確定し得ないところを、言葉は無理に型にはめてしまう。老荘思想はこう批判した。繰り返すが、本質がないわけではない。しかし、あっても「その程度のもの」なのである。

 

 

分類作業へ

 タクソンとは、あるシステムにのっとって設定された分類単位である。タクソンを区別するためには、つまり分類をするためには基準が必要である。たとえば植物は体制が根、茎、葉に分化しているかなどが基準となっている。これをクライテリオンと呼ぶ。

 たとえば生物学でいえば、「種」「属」「科」などはそれぞれタクソンである。各種は、科や属など上位の分類に違いはあれど同格の取り扱いを受けている。タクソンはさらに、なにか或る単位において、相対的に上位の区分をマクロタクソン、それより下位のものをミクロタクソンと呼び分けることができる。これによって階層的に生物が分類されているのだ。

 さて、いま適当に二つのクライテリオンを選ぶことにする。これを用いて四つの対象を分類することにしよう。それぞれの対象について基準A,Bが当てはまるか当てはまらないかを調査していくことになる。つまりA集合とB集合の円に入るか入らないか調査することと同じである。二つの円があるわけだから、論理的には16個の位置がありうる(¬、∧、∨、⇒を使う)。16個もあるのだが、二つの対象をどうとってこようとも四つの位置を確実に共有しているのである。すなわち、どの対象もみな同じぐらい似ている。このことはいくらクライテリオンを追加しても同じで、類似度はまったく同じになってしまう(これを「みにくいアヒルの子定理」と呼ぶ)。つまり、なにをもとに分類するかは人間が決めなければならない。

 従って分類することは世界観の表明であり、思想の構築なのである。

 

分析すること

 分析とはなにか。このことを知ろうとインターネットで検索をしても、データ分析・マーケット分析・分析哲学・チャート分析など、<既製品>しか出てこない。分析とは、そのままでは把握しがたいものを要素に分けて調べることである。

 分析という作業はつねに、「分ける」ことから始まる。つまり分類である。

  1.  自転車の分析はたとえば、それを車輪やチェーンといったパーツに分けてしまうことから始まる。また、現代日本を気候や経済などと切り分けることから始めることもあるだろう。私たちはそうした作業を通じて、これまで明らかにされていなかった対象の規定や、新たな問いを発見することができるだろう。
  2.  だが分析において最も肝心なステップは、そうして分類された各要素を再統合することにある。それらの各要素のつながりによって、その対象についての経験を説明できるかもしれない。

 分類は主観的なものである。だから分析もまた、主観的なものである。それはその人の思想の表現である。考えられるありとあらゆるパーツは類似度においてまったく同様であるのにそれを抽出してきたのは、分析者がそれを重視したからである。だから分析においては、分析者と対象の関係性、「なんのために分析するのか?」という点が重要になってくる。いかに真実めいた分析も、さしあたっては、分析者の対象に対する態度を表現しているにすぎない。分類がそうであるように、分析も客観的なものではない。

 

 全体をそのまま享受できていれば、分析は必要ない。だから、

「分析」は本質的にどこか不幸な作業でもある。

ファンダメンタルな楽曲分析入門

 分析を通じた対象との関係は、「わからない」という距離感のある関係だ。分析によって得られた理解は私たちに新しいものをもたらすが、たとえば或る楽曲を完全に分析したところで、『すべての音の意味がじわじわと体に浸み込んでくるような』美の体験に達することができるわけではない。私たちがそこで目にするのは、諸要素の間にあるバランスだけである。分析において、バランスがとれていることは当然なのだ。まさにそのように分析したのだから。「均整がとれている」ということをもとに、「この対象はすばらしい」ということにはならない。

 分析によって対象が「分かる」ことと、対象が「わかる」ことには差異がある。全体を全体として把握すること。再統合がほんとうに成し得ること。そのとき、もはや分析は捨て去られ、必要のないものとなるに違いない。