にんじんブログ

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国家について

 

国家とはなにか

暴力による定義

 私たちにとって「国家」とは、憲法があり法律があること、すなわち政治機構のことである。つまり人間共同体に政治機構がプラスされることによって、国家が形成される。この定義は妥当であるように思われる。

 だがマックス・ウェーバーはそう考えなかった。たとえば隣の国を侵略して現地人を新たな民として吸収するとき、違和感が起こる。国家とは、人間共同体+政治機構なのであるから、人間共同体が変われば国家も変化することになる。だが私たちは単なる名前以上に、侵略前後の二つの国家に同一性を認めている。

 そこで国家の定義を考え直すこととなる。ウェーバーは国家を次のように定義する。

国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。 

『国家とはなにか』

 すなわち、国家とは、物理的暴力を正当に認められ・その他の物理的暴力行使を不当なものとするような団体である。国家が行使する以外の暴力行為は厳しく取り締まられ、暴力を行使した者のところへ国の組織がやってきて場合によっては制圧する(実効的)。だからたとえばスーパーマンが一人いるだけで、国家は成り立たなくなる。国家は物理的暴力を実効的に要求するために、その一定の領域内部において最強の物理的暴力を備えていなければならないからだ。

 この定義によれば、もし他国を侵略して併合しても、その前後で国家が変化するわけではない。物理的暴力の行使を実効的に要求する団体は変わらないからだ*1*2

暴力の種類

  1.  法措定的暴力 自らの暴力を正当なものだと決めてしまう暴力
  2.  法維持的暴力 正当でない暴力を取り締まる暴力

 だが実際問題、国家が暴力を自由に扱いすぎると、その領域内に住む人間たちの反感を買ってしまう。そこで国家の暴力は次の二つの正当化を持つ。

  1.  暴力に対抗するための「予防的対抗暴力」なのだと説明され、正当化される。
  2.  国家の成立を神などと結び付けすべての暴力を正当化する。

 

国家の誕生

秩序と支配の保証

 国家は単に暴力を行使すればいいわけではない。

 たとえばもしある地域を制圧しても、そこの住民たちが絶え間なく反抗してきたならば、物理的暴力の独占を実効的に要求できているとはいえないからだ。ある暴力を不当なものだと制定したとしても、日常的に反旗を翻されては永久に支配はできない。それらの”反乱”をすべて鎮圧していたとしても、そうなのである。

 どうやって支配するか。

 それは物理的暴力ではなく、その行使可能性によってである。フーコーはこれを「権力」と呼んで、暴力と区別した。たとえば相手の頭に拳銃を突き付けてなにかを命令するとする。そこで彼は服従するか、死ぬかの選択を迫られる。もし従わないなら射殺すればよい。一方、もし従うならば、彼は自らそれを選び取ったことになる。権力とはこのように、人間の行為に働きかけるものであり、肉体に直接働きかける暴力とは区別される。

 もちろんデコピンを脅しの道具として恋人を殴れと命令しても、誰も従わない。「もしそれをやめてくれるなら」という程度の暴力行為の可能性がなければならない。当然のように、相手はその行動を「選んだ」といっても、そこには通常の意味での合意は存在しない。ここでいう合意とは単なる理論語であって、”仕方がないから従う”ようなものなのだ。この点を勘違いすると、たとえばレイプ被害者に対して「合意したはずだ」という意味不明の主張が生まれてしまう。

 ふつうの人は痛い目に遭うのも殺されるのも嫌であり、抵抗を続ける中で傷つく人が増えてくる。次の戦いに消極的になり遂には従う。その権力が作り出す行為同士の結びつきが複雑化するにつれ、それは私たちの知る「制度」になる。

国家の誕生

 アメリカの政治人類学者ジェームズ・スコットは『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』のなかで、人類最古のメソポタミアにおいていかに国家が誕生したのかを考察している。まず定住化や農業の開始があったが、実はそこから四千年は国家ができなかった。そもそも定住化の段階で感染症などの問題が激増し、人間が密集して暮らすことの困難がつきつけられた。その間、人口はほとんど増えていない。

 スコットは国家の誕生を気候変動から説明する。それは国家ができたり消えたりといった点滅の説明でもある。海水面の低下によって河川水量が減少すると、土地が乾燥して農地が減ってしまい、生きられる範囲が狭くなって人口密集が進む。そこでは貴重な水をどう分けるかで階層化が生じたが、実に脆弱で、つねに戦争をしつねに奴隷を獲得し、相手から食料を収奪しなければ存続が出来なかった。人々は面倒なその場所からさっさと離れたいと考え、国家や穀物栽培から手を切って狩猟採集に戻ることを望んだ———国家は、人々から富と労力を吸い取る機械として誕生し、煙たがられたのだ。人々の目下のねらいは、国家からいかに逃れて生きるかであった。

 興味深いことに、初期国家の成立と文字がはじめて登場した時代は、ぴったり一致している。国家は常に非生産者が食うための余剰食糧を必要としており、それを確保するためにも記録・管理が不可欠だった。じっさい、最初期のメソポタミアでは簿記の目的のためだけに文字が使われたのだ。最古の文学作品とされるギルガメシュ叙事詩が文字で記されるのは千年以上もあとのことである。

 いかに国家が厄介なものであったかは、それがもたらした不利益からもよくわかる。国家を維持するためには安定的な定住人口が必要であり(農民だけでなく兵士も必要)、彼らが頼ったのは戦争による捕虜獲得と奴隷狩りだった。国家はまずまとまった人民がいたわけではなくて、周辺の人びとを強制的にかきあつめることで維持される。たとえば十九世紀後半の東南アジアチェンマイ王国では、人口の四分の三が戦争捕虜であった。

  •  国家は税を徴収する。水田稲作は土地が畔によって囲まれ栽培面積が一目瞭然であり、すなわち、収量も予測できた。つまり事前にどれぐらい徴収できるかが計画できる。国家はつねに焼畑などの移動耕作を原始的農業として禁止し、たとえば米作りを推奨する。日本においても、江戸時代までお米は「年貢」用のものであり、百姓が食っていたのは雑穀である。徴税・徴兵というシステムは国家の基本的な姿である。
  •  そしてもちろん感染症・戦争も災厄のひとつである。また、国家は外から人を取り入れるだけでなく、内に居る人が逃げ出さないように取り締まることもする。

 国家から逃れた人々は、国家の支配が及びにくい山奥へ逃げた。中国南部から東南アジア大陸部の山岳地帯をスコットは「ゾミア」と呼んでいる。そこにはたくさんの少数民族がおり、非国家空間を形成している。彼らはつねに移動し、狩猟採集をしたりする。彼らは国家の中心的な道具である文字を、もともとは持っていたが、捨て去ってしまった可能性がある。彼らにとっては”進んだ”国家で生きるより、辺境にいるほうがよっぽどましだったのだ。

 世界中にこの「非国家空間」はあったし、日本でも山人(やまびと)が明治末においてもあったことを柳田国男がまとめている。

国家を正当化する

 国家という存在は人々に対してこのようにせよと要求する。もし国家が正当化されるならこの「権威」が正当化されなければならないだろう。ジョゼフ・ラズ教授は権威について、

  1.  権威が人々の行動を拘束できるのは、命令の存在とは独立に名宛人に妥当する理由が存在する(依存テーゼ)
  2.  各人がそれぞれ独自に彼(女)に妥当する理由に合致した行動をとろうとするよりも、むしろ権威の命令に従った方が、その独立の理由に、よりよく合致した行動をとることのできる蓋然性が高いから権威は正当化される(通常正当化テーゼ)

 と言っている。たとえば英語教師が「Repeat after me」と言ってるのに従わないといけないのは、生徒が英語を学習したいからであり、うまく英語を吸収するためには先生の言うことを聞いたほうがよさそうだからである。つまり国の権威に従えば人々が本来とるべき行動をよりよくとることができれば、権威は正当化されるわけだ。そこでよく指摘されるのは調整問題状況と 囚人のジレンマである。

(調整状況問題)車は道路の右側を走ろうが左側を走ろうが別にどっちでもいいのだが、どっちかには決まっていてもらわないと困る。多少の便・不便は生じるにしてもとりあえず決めてもらって、みんながそれに従うことがまずもって重要である。このような調整問題はゴミの日のカレンダーなどに始まり、日常的に発生する。社会の自生的な慣習、暗黙の了解でも解決できるだろうが、国家の権威に従うことによっても解決する。

囚人のジレンマ協力すれば全体としてはうまくいくのに、相手が裏切るかもしれんので先に裏切っといたほうが合理的になってしまうジレンマである。たとえば、敵襲が来た時に二人で協力すれば撃退できるのに、相棒がビビって逃げたら残ったほうが死ぬ。この問題は公共財の利用にあらわれる。警察・消防・防衛といったサービスは対価を払わない人々にも及ぶので、全員がただでそれを利用してやろうなどと考えたら事業は立ち行かなくなり、全員が公共財を利用できなくなってしまう。そこで国家はルールを定め、すべての人から公平に徴収する。

 以上によって国家が正当化されたかどうかは議論の余地があるが、もし認められるなら、次のような帰結に留意しておかなければならない。

  • ※ みんなが国家の言うことを聞くのは国家がえらいからとかではなく、従ったほうが便利だからにすぎない。
  • ※ 権威の正当性は従ったほうが便利だからという一点に尽きるので、別の権威がその問題をよりよく解決しているなら従う理由はない。
  • ※ そのような事情もあるので、国家の権威は最高のものでも不可分なものでもない。国際機関のほうが適切に問題を解決するならそちらに従うべきである。
  • ※ この役割を果たすことが肝要なので、民主的な正統性は別に必須ではない。

 調整状況問題は慣習でどうにかなる部分があるので、権威を基礎づけるのはやはり囚人のジレンマの処し方であろう。ホッブズの社会契約論は自然状態をジレンマ状況だと考えてそれを解決する手段として国家を正当化する議論である。しかし、これは正しいだろうか。

 社会契約論による国家の成立がもたらす帰結は、囚人のジレンマ問題を国家が解決してくれて嬉しいというものだった。ところがこれに対して、「別に国家なんかいらないだろ」という議論を提出したのがゴーティエである。

 ジレンマ的状況に対して自分にとっての最大効用を重視する奴と、他者が協力してくれるなら他者のことも考慮にいれる協力的な奴の二通りを考えてみよう。要するに前者は「とにかく裏切る」、後者は「協力するなら協力する」。ホッブズが想定したのは前者のような対応をする奴らだったのだが、実は協力するなら協力するという当たり前のことをするだけで効用は増えるしそこに強制力などまったく必要ではない。

 しかしゴーティエの批判を聞いてすぐに思い浮かぶのは、そもそも「他者が協力しようとしているかどうかがわからないからこそ困ってんだろ」という反論である。そしてもっともっと問題なのは、彼の話がうまく進むのは、全員が全員協力的だからである。裏切られるかもしれない、いつ裏切られるかわからないとびくびくして逃げ出すタイミングばかりうかがっているような奴がいたら終わりなのだ。このことを逆から言えば、国家の使命というのはこういう人たちを強制することなのだ。

 

 以上のように、国家は「囚人のジレンマ」といった困った状況を埋めてくれるがゆえに存在する。逆にいえば、国家を持たない社会の政治というものは協力というものがそもそも難しく、荒れ果てている。『個人の意見を尊重してばかりいては全体の秩序が保てない』というのは社会契約的な国家観においてはふつうの感覚であろう。

 

 だがところで、国家のもとにありながらも、社会保障制度もなければ裁判所も警察署も遠方にしかない地域がある。エチオピアの農村である。けんかや仲たがいが起きれば、当事者の双方が年長者を招いて話し合いの場をもうける。年長者の役割は調停人であり、問題の解決を目指して延々と何時間も話し合う。和解の場だ。

 あるいは、エチオピアケニア南スーダンの国境付近に暮らすダサネッチという牧畜民である。そこでは近隣集団との戦いが頻発する。だから戦いに行く必要がある。ところがそこでは戦争への誘いを断っても臆病者と罵倒されたり排除されたりすることはない。そこには戦争に参加させる制度がないだけではなく、個人レベルでも他者への共生を嫌い自己決定を尊重する態度がある。

 私たちは何かと白黒つけたがり、しかも話し合いをしようとはしない。問題の解決能力に乏しく、下手である。話し合っても結論が変わることはなく、話し合いは茶番になっている。国会では選挙で勝ったほうが政策を実行し議論しても結論は変わらないし、会社ではどれだけ訴えてもなにかが変わることはほとんどない。派遣会社に勤めている人は、営業の人になにかを相談しても、本当に「相談」だけで状況が変わらないことを何度も経験しただろう。

 だが例に挙げたような「コンセンサスをとる」という営みは、まさに民主的なものである。それは選挙で多数をとったほうが勝ち、といったようなものよりもずっと、そうなのである。

 

 

アナキズム

 アナキズムは、無政府主義とも訳される。鶴見俊介はこれを「権力による強制なしに人間がたがいを助けあって生きてゆくことを理想とする思想」と定義した。だが同時に彼は、そのような相互扶助の社会建設の目論見が短期間で失敗に終わってきたことにもふれる。思いつきではとうてい不可能なのだ。

 先述のように、フーコーは暴力と区別して、権力を定義した。だがそれは権力がつねに国家権力ではないということでもあった。権力はいたるところにあり、いたるところに生じる。つまりアナキズムが抵抗する権力は国家だけではないし、国家廃絶によって逃れられるわけでもない。

  •  たとえば性的なことは、ある種の強制力をもって統制されている。両親や保育士や医者によって監視され介入される。性に関する言説(精神医学・法解釈・文学)が権力を産みだし、<性の倒錯>を統制の対象にしたのだ。性という個人的な領域でさえも権力の重要な戦略拠点だということである。

 国家から逃れても権力からは逃れられず、国家から逃れることに力点を置きすぎている今自分が取り込まれている権力関係から目を逸らされてしまう。このことを意識することによって、私たちはアナキズムを単なる国家否定ではなく、あらゆる権力的なものと向き合う方法を考える視点へと拡張する。

 私たちは<性の倒錯>も含め、性に関する統制のもとに置かれている。だが注目すべきは、そのような統制が行きわたりながらも、その統制通りに管理されている訳ではないということである。

セルトーは、人びとの日常性の細部には、監視の編み目のなかにとらわれながらも、その構造の働き方をそらし、ついには反規律の網の目を形成していくような策略と手続きが潜んでいるという。そこで描きだされる民衆の「知恵」や「戦術」は、人類学がずっと目を向けてきた名もなき人びとの実践でもある。

くらしのアナキズム

 

 

 

*1:でもそれを要求する領域の範囲は変わる。このあたりが「一定」という言葉の意味なのか、にんじんが話の筋を理解していないのか不明

*2:くわえて、国家の定義が広すぎる。上掲した本でもその点の弁明がされているが、たとえばアニメなどでたまに見る「ある一帯を征服するマフィア」が国家ではないことを示すものではない