重量は価値中立的だが、「スマートさ」はそうあるべきとされている。私たちの身の回りはスマートフォンからスマートウォッチまでさまざまあり、国は超スマート社会を目指すべき未来像として掲げている。いったいスマートさとはなんなのか。果たしてそれはよいことなのか。
第一章 超スマート社会の倫理
超スマート社会とはなんなのかというと、「狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会に続くような新たな社会」と書いてある。そもそもこのような直線的な歴史観、進歩史観に科学的な妥当性があるとは言い難い。それはだいたい次のようなものらしい。
必要なもの・サービスを、必要な人に、必要な時に、必要なだけ提供し、社会の様々なニーズにきめ細かに対応でき、あらゆる人が質の高いサービスを受けられ、年齢、性別、地域、言語といった様々な違いを乗り越え、活き活きと快適に暮らすことのできる社会
このような社会の実現のための主要な手段がICTである。各分野がシステム化され、サイバー空間で処理されることで、自律化していく。
まずそもそも「課題」が常に解決されるべきものかという問題はある。たとえばナチス目線でのユダヤ人問題は解決されるべきではなかったであろう。つまりは、解決すべきか、すべきでないかという境界があいまいになると、超スマート社会は私たちにとって牙をむくものになりそうだ。いったいどんなものを満たすべきなのか? この社会は「幸福」のような究極的なものに向かい合わなければならないことになるだろう。
第二章 「スマートさ」の定義
スマートさは「賢い」という意味だが、特に、最適化された賢さといえるようなものだろう。スマートフォンさえあればそれで多くのことができるし、それ以外の道具について考える必要はなくなる。
第三章 駆り立てる最適化
スマートさの本質が最適化であるなら、一体「何を」最適化するのか。それはテクノロジーの性能ではなく「仕組み」である。個々のプロダクトの仕組みではなく、それらの間の仕組みである。これを「ロジスティクス」と呼ぼう。
物流の諸機能を高度化し、調達、生産、販売、回収などの分野を統合して、需要と供給との適正化を図るとともに顧客満足を向上させ、併せて環境保全、安全対策などをはじめとした社会的課題への対応を目指す戦略的な経営管理
スマート決済がスマートなのは、コンビニの読み取り機械の性能ではなく、利用者、加盟店、通信会社、決済代行会社を連携させ、そこに新しい仕組みを創り出していることがスマートなのである。
これだけ見れば目新しいものではないが、問題が起きるのはすべてをAIに処理させようとするときである。アマゾンは人事採用AIを開発していた。それは履歴書を分析し、評価されるべき人材像を学習していた。だがその結果、AIは女性よりも男性を高く評価する傾向をもつことがわかってきた。その性的な偏向は、過去十年間の応募者の大半が男性だったことからもたらされた。あらゆる問題を最適化によって解決しようとした結果、最適化の外部にある価値が尊重されなくなったのだ。
技術とは単に目的に対する手段を提供するものではなく、大理石から彫刻を彫りだすように新たなものを生み出すようなものである。目の前の山に対して、それを絵や詩の題材にするのも技術である。だがいま求められているものは「資源」であり、山からいかに資源が取り出せるかが重要になっている。このとき、もはや山は見られてはいない。そしてその技術はいま人間をも対象にしている。<人材>という表現がよくそれを表している。
対象を対象自身として見ない態度において、どのように利用するか、何に使えるかで眺められるあり方である。そのような存在は思い立った時「即座」に使える必要がある。だがそうして人材を使う人間も人材のひとつであり、人間も自然もすべてがそのような存在である。そして「スマートな」ロジスティクスは、資源以外の価値をすべて尊重しない。