自分が誰かがそんなに大事?
自分自身を業績や挫折、教育、所属グループ、アイディア、政治、セックスアピール、知性、道徳律、宗教観などによって定義してはいないか? たとえば人は自らを職業と同一視し、果ては、収入こそが人間の値打ちだと言い出す。だがそれらは自分自身ではない。ではそれらを足し合わせたものかというと、そうでもない。もし何か一つを抜いたら、自分ではなくなるというのか?
習慣とはパターンであり、パターンとは構造によって決まる。たとえば建物を玄関から入って目的の部屋まで行くにはあなた自身の話をするよりも建物の作りについて話すべきだろう。これと同様に、目の前に理想がぶら下がっていてそれを目指してずんずんと進んでも、背後にある『嫌な思い込み』にも引っ張られていて、進んだぶんだけ反動で後ろに引っ張られてしまう。ダイエットしようとして頑張るも、結局反動で食べ過ぎてしまうのと似ている。勝者を単に目指すだけなら問題ないが、敗者であることを避けるようになるとこの構造に入り込む。そして前へ後ろへ永久に振られ続ける―――いくらポジティブであろうが、自分を愛そうが、何も関係がない。後ろ向きのゴムが絶えず自分を引っ張っている限り、ずっと似たような運命を繰り返すことになるだろう。
もちろん、ポジティブであっても全く構わない(そうでなくても別にいい)。問題は、ポジティブでなければならない、という理想を持つことだ。いつもポジティブでいようとすると、現実の認識を歪ませることに繋がる。