第一章 競争原理
競争は、うまく働けば創造性や卓越を生み出す原動力になる。問題は、時にそれがお互いをつぶしあう争いに発展することだ。そもそも「競争」と「争い」はどのように異なるのか。競争では、限られた地位や立場をめがけて一定のルールの下で皆が同じ方向へ向かう。ここでは勝敗よりも序列が重要である。一方、争いでは勝敗を決めようとする。つまり、競争が共存を前提としているのに対して、争いは共存を否定する。そして問題は、競争という序列づけがいつしか争いに転じてしまうことである。手がかりは、競争が常に争いに発展するわけではない、ということだろう。
- どうして自分の利益を犠牲にしてまで他人に協力などしないといけないのだろうか。人間は複数の集団に同時に所属できる。競争や合理性の意味は、その所属によってその都度変化するのである。たとえば同じ部署内では出世争いで競争しているとしても、部署間の競争となれば協力する仲間となる。会社間の競争では部署同士は仲間であるし、業界間となれば同業者はみな仲間となるだろう。つまり、より上位レベルの競争に勝つことを目的に下位レベルでの協力が促されている。こいつとはやりあう、やりあわない、といった単純な話にならないのは集団がこのように入れ子状になっているからだ。
- 競争は生産的なことばかりではない。(1)ニーズや生きがいなどの無形の価値を財に置き換えてしまう。コーヒーチェーンが広がるにつれ地域の個性的な喫茶店がなくなるのも歪みの一つである。(2)価格競争の激化によって値段の背景にある人間が見えなくなる。(3)自然の存在を忘れさせる。野菜も魚もスーパーにあるため、食料品の値段には敏感でもその生産そのものの問題などには関心がない。
徒競走でいつも負ける子どもがいじめられて不登校になったとしよう。この場合、徒競走は自分の存在をかけた友達との争いとなる。ここで争いを避けて、友達と競争することはできるだろうか。
- 勝敗の判定基準を多元化し、勝敗を一つの基準で決めない。スキーでは飛距離だけでなく、着地のフォームも評価対象である。
- 負けの処理を工夫する。たいていの競争では勝者よりも敗者のほうが多い。勝敗を個人の能力とはせずに天の采配としたり、「負けるが勝ち」であったり、「気前の良さ」であったり、勝ちを不必要に自慢したりして周りの嫉妬を煽らないなど、負けの処理について色々な文化的装置がある―――「負けの処理」は共同体の持続可能性にかかわる。
第二章 社会分業
興味深いことに、分業が最も浸透した社会では個々人の自立こそあるべき姿として高く掲げられている。タイの農村では髪を切るのがうまい人がいるのだが、その人は理容を専門にしているわけではなく、農民と兼業である。収穫の季節には他人の畑仕事を手伝い、子どもたちの面倒を見、食事も分け隔てなく提供する。日常生活では経済的に「遅れている」といわれている地域のほうがお互いに助け合っているようにみえるが、分業の進んだ社会のほうが、そこに関わる人は比べものにならないほど、けた違いに多い。つまり発展した国の「自立」は、実際には依存関係の濃密化なのだ。
個人の自立は分業体制の一部を担うことで成り立つ。一人ひとりが自分の可能性を絞っているのになぜお釣りがくるほどの経済発展するのかについてアダム・スミスは説明した。分業は個人のやりたいことをやりたいままに徹底させ、しかも社会全体を豊かにするものであったはずなのだが、実際の現場ではあまりにも細かく分かれすぎて、自分が一体なにをやっているのか、わけがわからないままでいる。ブルシット・ジョブというのは働き手本人さえも必要性を感じていないような仕事が様々な業界で生み出されている実態を研究したグレーバーの言葉だが、こうしたことによってむしろ個人同士の引き離しが起きている。
【分業の弊害】
- 分業の担い手たちの目的意識の喪失
- 立場の弱い人が条件の悪い仕事に追いやられて、そこで固定されてしまうことに由来する格差構造
- 経済的に有益な特技だけがシステムに組み込まれるために、弱さを補い合う共同体の機能が弱体化する
米国ではこの解決としてもっと自立せよと奨励する。ネギを切ることしかできない人は完成品の饅頭までつくれるようになるべきだというのだ。だがもしそうなっても生活のすべてが饅頭の顧客のみに依存し他の生業につく可能性が閉ざされているならば自立は限定的なものにとどまる。