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にんじんと読む「志向性の哲学」 第一章

志向性の謎

 なにかを考えるとき、なにかを思い浮かべるとき、なにかを見る時、なにかを愛するとき、なにかを証明するとき、なにかを望んだりするとき……そのなにかを一般に「対象」と呼ぼう。反対に、考えたり思い浮かべたり見たり愛したりする関わりを「作用」というが、この「作用」は本質的に「対象」を持たざるをえないように見える。この必然的関係のことを「志向性」という。いったいなんの対象も持たないで、欲するということが可能だろうか。まったくなんの対象も持たないで、思い浮かべることが可能だろうか。すべての関わりが志向性を持つかどうかはわからないが(たとえば「感覚」や「気分」がそういったものであるという議論がある)、少なくとも知覚や欲求などの作用は必然的に志向性を持つように思われる。それがたとえ「なにかしてあげたい」というようなあいまいなものであったとしても……。このような「不定の対象」が単なる言い逃れではないことは、「対象」を精査していくことで見えてくるだろう。

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 志向性とは対象と作用の関係のことである。この関係を支えているものはいったいなんだろうか。ここに志向性の謎がある。たとえば母子関係を成立させているのは出産という出来事であるし、夫婦関係を成立させているのは婚姻届だが、対象と作用の関係はいったい何によって成立しているのだろう。私たちがブラックホールについて考えているとき、ブラックホールは目の前にないだろう。だがブラックホールについて考えていると言えている。いったいどうしてそんなことが可能なのか。冷蔵庫のなかにあるはずのビールについて考えているとき、この思考がビールについてのものであるのは何によってだろう。

  •  ひとつの回答は『頭のなかのイメージ』だろう。ブラックホールについて考えられるのは頭のなかにあるイメージを目の前にして、それを見ているからと説明するわけだ。それじゃあ双子の兄弟の兄について考えている場合、うっかり弟について考えてしまっていたというようなことがあるのだろうか。ホクロの位置を間違えていたので赤の他人についての思考になっていたということがあるのだろうか―――たぶんないだろう。この回答を弁護する人は「いや、そうではなくて」というだろう。まさにその通りで、ここで問題になっているのはまさに、そのイメージがまさにそれのイメージになっているのは一体なんでなのか、と問うているのだ。イメージでは答えになっていない。
  •  ひとつの回答は『因果性』だろう。知覚においては光の反射が志向的関係を保証してくれていると説明する。だが、幽霊かなと思ったら枯れ尾花だったことがあるように、主要な原因が思考の内容と食い違っていることはよくある。また、素数や未完成のワクチンやユニコーン、天使、ドラゴンについて因果的影響によって説明することができるだろうか。
  •  フロギストンについて昔の科学者は考えていたが、それは存在しないことが今ではわかっている。では彼らはまったく何もしていなかったのと同じなのだろうか。なにも考えていなかったのだろうか。

 

*1:※ところでここにいう「対象」というものを、ごく単純にナニカと理解するのは簡単に過ぎる。というのも、対象というものはいつも作用と結びついており、適当なものを指差して「これは対象ですか」と問うことにはなんの意味もないからだ。すなわち、こう訊かなければならない:「これはあの作用の対象ですか?」。