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にんじんと読む「志向性の哲学」 第三章

第三章 意味と対象

  •  対象が真理値ポテンシャルだというのは、まず理論的な困難がある。これがこの思考の対象だというのは真理値を問題とするだけではハッキリしない。たとえば「グーはチョキに勝つ」という文を考えよう。これをWgcと書く。もちろんgはグーであり、cはチョキ。ついでにpがパーである。W●●の真理値はしっかり割り振られており容易に理解できる。Wgc、Wcp、Wpgのみが真である。しかしここでgをチョキ、cをパー、pをグーと解釈している人を考えよう。この人も相変わらずWgc、Wcp、Wpgが真なのである! つまり、この人と対象について議論すると、真理値ポテンシャルを持ち出すだけではまったく足りない。(準同型にもとづく真理値ポテンシャルの不確定性
  •  また「惑星ヴァルカンは水星よりも大きい」という文の真偽は渋谷ハチ公像と同じように惑星ヴァルカンにかかっている。しかし、惑星ヴァルカンなる惑星があると考えられていたのは昔の話で、今はないことがわかっている。惑星ヴァルカンの現物がないのだから、真理値ポテンシャルもない。すなわち対象がない。だが実際私たちは惑星ヴァルカンなるものについて考えていた時代がある。いったいどういうことなのか。

 とはいえ、一番目の問題にくらべて二番目の問題は「いやいやそうじゃなくて」と言いたくなるのではないか。「惑星ヴァルカンの現物はないかもしれないが、私たちがいま対象にしているのはなんかこうふわっとした……なんといえばいいかわからないが……」のような気分になるのではないか。少なくとも、そこまで「現物」にこだわらなくてもいいではないかという気分になるのではないか。たとえばシャーロック・ホームズは確実に存在しないが、ホームズはなかなか存在感がある。

 ところでフレーゲの意味と意義の話のなかで、意義とは指示対象の与えられ方だというのがあった。だが存在しない対象の与えられ方、とはいったいなんなのか。惑星ヴァルカンは存在しないが、それについて考えることが不可能で、それについて考えているときは考えていないのと一緒だということもない。ここであなたがもし電車に乗っているとして「この車両にいる一番背の高い人」について考えてみよう。これの意味するところは誰にでもわかるはずだが、天井に頭がついているほどの巨人がいない限り、ふつうはだれを指示しているのかはわからない。これを確かめるためにはひとりひとり立たせて身長を計測するのが自然である。実際は時間がないだろうし協力的でもないかもしれないが、「いちばん背の高い人をさがすなんてやり方がまったく、なにひとつ、さっぱりわからない」という人がいたらそれは「この車両にいる一番背の高い人」という言葉の意味を理解しているとはいえないだろう。

 

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 さて、私たちは視覚や欲求といった作用が対象を持つということを最初に確認した。対象は作用抜きには語れず、作用があれば対象もある。この関係性を志向性というのであった。とはいえ惑星ヴァルカンの例でもわかるように、作用の対象というのはいつだって存在するわけではない。ホームズもこの世に存在していた歴史上の人物ではなく、架空の人物である。対象を真理値ポテンシャルとすると困難が現れるのは、このような存在していないものが対象になってしまい、それについて考えることが何も考えていないのと同じになってしまうからだった。この問題を受けてフレーゲの意味と意義の区別を振り返ってみたとき、彼が意義を指示対象の与えられる仕方と見ていたことが思い出される。

 そこで私たちは対象=真理値ポテンシャルという説を捨て、志向性が成立するとき必ず存在するのは対象ではなく「意味」―――ここでいう意味とは、対象を探し出すための手続き――だと考えてみる。この意味が定めるのは対象それ自身を探し出す手続きであって、心的イメージのような代理物をさがす手続きではない。惑星ヴァルカンをさがそうとしていた当時の科学者は、これこそが惑星ヴァルカンであるという条件を把握していたに違いない。たとえばしかじかの軌道に、しかじかの質量をもって観測されるであろう……というような。そしてこの条件を満たすものこそ惑星ヴァルカンである。この対象はこの手続きによって見つかるものである。それが存在するかしないかは、あとではっきりする。しかしこの意味によって、私たちはそれが存在しない場合でも、たしかにそれを考えていたのだといえる。