第一章 楽しさと内発的動機づけ
働くのは金を得るためだ。金を稼がないことは「非合理的」な行動であるとみなされる。ところが、にもかかわらず、そのような物的報酬を自ら放棄して藝術に精を出したり、チェスや将棋に打ち込んだり、エベレストを目指す登山家がいる。
金銭や地位のような外発的報酬は人間の基本的欲求(略)であるということは常識的な仮説である。
だが物的財貨を求めるのは、私たちが一つの文化へ社会化された結果、つまり学習される動機付けのひとつにすぎないことは文化人類学におけるさまざまな研究からたしかなことである。世俗的な物的報酬と結びつかない目標の追求にエネルギーを注ぐ人々の存在からもこのことを理解することが出来よう。
外発的報酬がもたらす慰めは、危険を伴う。
- たとえば、金が手に入るとなれば仕事の中身などどうでもよくなるように。その行為を正当化するものはただひとつ、金だけだ。そしてそのことが「為さねばならぬ」ことが「つまらない」「楽しくない」ことを意味するようになり、この文脈において、仕事と余暇の区別を学習する。余暇は好きなことをする時間なのであるが、物的報酬とは結び付かず、””なんの意味もない””ことを私たち自身が受け入れているので、余暇に罪悪感を感じる。
- 物的報酬は物的であるがゆえに、限度がある。資源の浪費と搾取は必然の結果であり、人類がみな物的報酬のために動き出せば、すぐに大地は枯れはてるだろう。
- 同じことは権力・威信・尊厳など、その他の外発的報酬についても当てはまる。これらはほかの人々が「持たない」ことを頼りにするゼロサムゲームなのである。外発的報酬に依存すると成員間の疎外を生みだす。
私たちが向かうのは外発的に対抗する内発的動機づけである。心理学的研究の焦点を個人の内的事象の上に戻そうとする試みは行われてきたものの、「楽しさ」と「快楽」を同等に扱っている例が多い。プラスの反応を生みだす生理的な刺激=快楽は、わざわざ危険なところに赴くクライマーたちの行動を説明できない。普通に考えれば危険だし、本人だって怖いと思っているのだが、適切な条件におかれると痛快な経験に変わる。このことがなぜ可能なのかを理解するためには、(1)外部刺激の客観的特徴、(2)当人と学習の結果として得た快体験との結びつきのパターンだけではなく、(3)個人の目標や能力、(4)外部状況に対する主体的評価といったようなものも含んだ全体的な研究が必要である。それが「楽しい」ものであるかどうかは、単に快いものというよりもずっと複雑なものなのだ。
心理学の中において自然科学的領域である行動主義は刺激ー反応図式で説明しようとして、たとえば絵画などの行動は、その過程ひとつひとつが報酬となりうる刺激と結びつき、やがてパターンが構成され、最終的には絵を描くこと自体が報酬となるがゆえに、絵を描くのだという。あるいは精神分析の場合、人々はリビドーに基づく好奇心を直接満たすことができないために絵を描く。ところがこうした「還元論的説明」は不満足な結果に終わる。リビドーだけが原因なら、別にあんなにむずかしくなくていい。満足したいなら手早いほうが便利だ。それでその複雑さの説明を超自我に求めていく羽目になるが、はっきり言えば、十分な説明とはいえない。
これらの説明が現象の近似だと、一個のモデルだと解する限りなんの問題もないが、しばしば絶対的なものとみなされ、登山は男根崇拝となる。還元論的モデルはすべての科学的説明と同様、的外れというほどのものではないが、しかし一個のモデルである。いま私たちが問いたいのは、なぜそんな危険な真似までしてするクライミングが楽しいのか、ということである。そういう行動が結果として種が環境に適応するのに好都合だということは間違いないことだが、「なぜ楽しいのか」という問いかけの答えにはなっていない。
第二章 自己目的的活動の報酬
世俗的報酬の欠如は、報酬の欠如を意味しない。活動から何らかの満足を引き出し、その満足が報酬となるがゆえに追及を動機づけられる。これらの内発的報酬はいったいなんであるかを、リビドーなどの還元論的説明ではなく、それ自体として迫ってみたい。
面接と質問紙によって行われた実験によれば、たしかにそのような活動を行う理由は、多くが「その経験それ自体が報いのあるもの」であるからだったと回答している。活動によっては重視するものに差はある。たとえばバスケットボールに打ち込む人々にとってそこで育まれる「交友」は重要だが、ダンサーや作曲家はそれほど重視していない。これらの相違は自己目的的な活動が内発的動機づけに強く結びついていることを否定するものではなく、たとえばバスケにより打ち込む人々と活動から少し離れている人を比較すると、経験の楽しさや個人的技能の向上、そして理想の追求が重要な報酬としている傾向が強い。
明らかに、作曲のような基本的な自己目的的活動に、より深く没入するようになるには、内発的報酬に感応しやすいことが必要である。
ここで分析上、三つの概念を区別しておこう。ふつう自己目的的な活動とは、自己目的的な経験を伴うもので、自己目的的な人とはこのような経験をもつ傾向にある人のことをいう。ゆえにこの三つは切りはなされたものではないのだが、自己目的的な活動が常に自己目的的な経験をもたらし、内発的報酬に敏感な人はどんな経験も楽しむという風に単純なものではない。
ある種の活動から人々は楽しい経験をすることができることを知っている。そこで肝心の「自己目的的な経験」とは一体何なのか。どうしてその活動がそれを可能にするのかについてはまだ答えられていない。
第三章 略
第四章 楽しさの理論モデル
自己目的的な経験は退屈ではなく、またふつうの生活のなかで入り込んでくる不安を生みださず、活動に完全に没入させ、絶えず挑戦を提供する。人は必要とする技能をフルで働かせ、明瞭なフィードバックを受け取り、すなわち人は筋の通った因果の体系の中にある。
全人的に行為に没入しているときに人が感ずる感覚を「フロー」と呼ぶことにする。これは「自己目的的経験」を言い換えただけのものだが、この理由は、「自己目的的」という言葉がもつ含意を避けるためである。これではまるで内発的動機だけしか持たないように見えるが、そのような仮定はまったく必要ない。人はフローをいかなる活動においても経験し得る。そしてフローがある程度容易になるような活動(フロー活動)もある。ゲームや遊びは明らかにフロー活動である。創造的活動もまたフロー活動である。遊びと創造以外では幻想的とか宗教的と呼ばれることがらが関係する。ヨガや瞑想、宗教的体験についても言える。フローの重要さはその活動がもたらす外的目標のようなもの(完成した絵、科学者の理論、神の恩寵)によって覆い隠されてしまうが、実のところ、これらの目標は活動を方向づけるものであり、その活動を正当化するために表象にすぎない。そこで重要なのは行うことであり、その結果自体が満足をもたらすわけではない。
さて、フローの明瞭な特徴は行為と意識の融合であり、彼は自分の行為を意識するが意識していることを意識することはない。意識していることを意識することはそれを外部から見ることであり、フローは妨害される。しかし人間は束の間しか意識の意識を止めることができない。しばらく続く程度にまで融合するためにはその活動はその人にとって手ごろなものでないといけない。儀式やゲーム、ダンスなど、ルールが確立しているものにおいて、もっとも頻繁にフローが観察されるのはこのためである。
フロー経験の第二の特徴は、限定された刺激領域への注意の集中=〈意識の限定〉である。この特徴から行為と意識の融合が生ずるのだろう。邪魔な刺激を外に追い出すことでもある。動機付けに金が絡むと、外からの侵入をうけやすくなり、プレイから気が逸らされる。
フロー経験の第三の特徴は、〈自我喪失〉などと呼ばれてきた。創作活動をしている人やプレイヤーなどが「自分がいなくなってしまう感覚」などと呼んだものである。フロー状態にある人は自分の行為や環境を支配し、しかも支配している感覚がない。先に書いたように、フロー経験は、ある程度手頃さが必要であった。ルールによって認められたことがらのほかに、なんらかの脅威が自分に起きようはずもないと確信できている。フローの状態にある人はその活動に没入しきっており、次にどうすればいいかなど考えない。行為とそれによるフィードバック、そして反応が自動的で、噛み合っている。
最後の特徴は、自己目的的、つまりそれ自体のほかに目的や報酬を必要としないことである。
フロー活動は刺激の領域を限定することによって、人々の行為を一点に集中させ、気持ちの分散を無視させるが、その結果、人々は環境支配の可能性を感ずることになる。フロー活動は明瞭で矛盾のないルールを持っているところから、その中で行動する人々は、しばしの間、我を忘れ、自分にまつわる問題を忘れることができる。以上のすべての状態が、人々に報いのある過程を発見させるのである。
私たちはしばしば外発的動機を必要とする。その意味では、フローに入りやすいフロー活動というものは、フローを促す構造化された行為の体系と見ることができる。フロー活動はもっぱらフローを生み出すためにのみ構成されているようなのである。いかにしてフロー活動はフローを生み出すのだろうか。
フロー活動が共有する特徴は人が退屈や不安を感ずることなく行為する機会を含んでいるということであり、言い換えれば、行為者の技能に関して最適の挑戦を用意している活動のことである。もしも挑戦に比して技能があまりにも上回っているなら退屈だし(レベル2でクリアできるダンジョンをレベル100で挑む)、あまりにも下回っているなら不安である。とはいえ、この単純なモデルは挑戦対象の性質と技能の客観的水準のふたつにのみ依存しているという点で、おのずと限界が見えてくる。実際のフローは、その人本人が挑戦や技能をどう知覚するかにかかっている。傍からみれば技能と釣り合った挑戦だとしても、フローになるか、不安や心配、退屈が起きるかは決して予測できない。つまり客観的要求と自己目的的なパーソナリティ構造について理解しておかねばならないが、後者については特に、未知のままである。とはいえ、近似的でよければ、客観的構造について理解するだけでいいだろう。
より重要なことは、フローが生じうるように環境を再構成するその人の能力である。フローを経験したいときに心配が生じて来るなら、挑戦レベルを落とすか技能レベルを上げればよい。相手にハンディキャップを課すのもよいだろう。
日常生活において行われる些細な、自動的な行為は、それ自体が楽しいこととはいえないとはいえ、より構造的な活動への没入を助長するが故に重要である。たとえば退屈な講義中に落書きをしたり、手紙や論文を書く際に喫煙をしたり、固い本を読むときに心をさまよわせたりすることは誰しも行うことである。これらを「マイクロフロー活動」と称し、考えてみよう。フローの分析の時にみたように、フローは極端に単純なものから複雑なものへと至る連続体の上に位置している。それゆえ、マイクロフロー活動のような極めて単純で、低い水準の技能しか要求していない点で、フロー・モデルに照らして研究することは当を得ている。(第九章より)