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「論理哲学入門」 ch7まで

第一章 「論理学」とはなにか

 論理学は妥当な形式的推論(ただし、推論の妥当性がもっぱら言明の単なる形式にもとづくかぎりで)に関する学であるとするのが今日的な見解であり、その主たる主題は言語である。すなわち、論理法則とは言語の法則なのである。

  •  だが古来には論理法則とは存在の法則、あるいは中世においては思考の法則でもあった。ここで考えたいのはこれらの相違にかかわって現代的論理学が取り逃すものはないかどうか、である。結論からいえば現代的論理学はそれまでの成果を上に掲げた研究テーマにおいて十分に取り込むことができている。なぜなら推論について考えるためにはその推論において用いられている概念や判断について吟味することを迫られるからである。
  •  論理学は妥当な推論を漏れなく体系的に探究するが、これに対して論理学の哲学は論理学で重要とされっる種々の概念の分析を課題とし区別される。言ってしまえば論理哲学的探究は中世的な「判断の論理学」の枠内にとどまることになる。
  •  また「論理学」という言葉は理性を適切に導くための「方法論」としての意味合いでも用いられ、真理発見の術として考えられる場合もあるが、このとき上述してきた論理学は形式論理学と呼ばれる。これは真理を発見することはないが、真理の根拠づけを与える。ただ真理の根拠づけがすべて形式論理学において与えられるわけではなく、たとえば知覚などによって直接的に根拠づけられることもあるだろう。そして帰納的推論に見られるように形式的には妥当ではないが一体いかなる状況においてであれば認められるかという点で形式論理学的に問題となる。すなわち、一般に理解されている論理学は根拠づけの規則を探る形式論理学に包まれている。ただ論理形式をめぐる問題群に考察の的を絞る本書はこの広い意味での論理学には立ち入らない。

 

第二章 文、言明文、言明、判断

 論理学というものを考えるうえで、その基礎概念として存在論的なもの・心理学的なもの・言語論的なものをおく時代がそれぞれあった。現代は「言明文」が基本であるが、これに対応する存在論的概念は「事態」であり、心理学的概念は「判断」である。事態は「命題」とも呼ばれ、言明文で表されている当のものを表現するときに使われる「言明」もまたこれに相当する。一方、判断と一口にいっても「判断すること」は心理学的だが「判断されるもの」という意味でこの言葉を用いるなら「命題」と同じことになる。かように、これらの概念はゆるやかなつながりを持っている。どの立場を表明していたとしてもまったく素朴に別の立場のものに依拠していてもおかしくはないのである。ゆるやかでない場合のそれぞれの見解を注記しておく:

  •  強い形の存在論的見解:言語的なものに頼らないで事態がなんであるか説明できる。論理哲学論考『事態とは、諸対象の結合である』。
  •  強い形の心理学的見解:言語的なものに頼らないで判断がなんであるか説明できる。カント『判断とはさまざまな表象に関する意識が統一されていることの表象である』
  •  強い形の言語論的見解:言明文はあるが言明はない。

 存在論的見解の優勢だった古代においても、言語的なものに立脚している。たとえばアリストテレスの『命題論』は「文」に関する定義からはじまる。ところで彼のこの文の定義は現在に至るまで強い影響を与えている。すなわち名前と動詞を意味の最小単位とし、それを繋げたものが文なのである。この定義によると一語文は存在しない。だがたしかに「ペーターは」と言われたところで何が言いたいかはっきりしないのもたしかなことだ。だが「火事!」は立派にその役割を果たしているのではないか?

 むしろここでの誤りは『何かを伝えること』『何かを理解させること』のために名前と動詞のふたつがどうしても必要だと考えた点にあるのであって、文というものをそもそも『何かを伝える』という意味論的機能によって理解するならば一語文について考えることも許されるだろう。なにかを理解させようとするならばたとえ語であろうが「文として」機能しているのだ。しかし文にはさまざまな種類があり、必ずしもすべての文が何かを提示してくるわけではない。いわば私たちが語りたいのは文は文でも「言明文」であって、このような種類の文は依頼文や命令文や疑問文などとは違って、その人の言うことが真か偽かを問うことができる。

 以上によって文一般に関する漠然とした意味論的説明と、言明文の範疇に属するかという意味論的基準を手にしたことになる。

 ゆるやかな意味での存在論的見解や心理学的見解は、命題や判断について説明する際にこうした言明文の概念から出発する。たとえばフレーゲは言明文の「言いたいこと」「内容」「意義」のことを「命題」と呼び、言明文からそれをあぶりだす。たしかに私たちが言明文について考える時考えているのは、言明文の字面ではなくて中身であるから、言明文から言明・命題・思想に踏み出すのは自然だと思われる。フレーゲは言明文の構成要素が「内容」+「主張すること」と考え、疑問文の構成要素が「内容」+「要求すること」と考え、文のいくつかを区別しているがこれは厳密には正しくない。なぜなら「私はいま北海道にいます」という言明文は誰が使っても内容は同じだが、博多にいる人が使うのと北海道にいる人が使うのとでは異なるからだ。よって正確にはそれが発言される状況も加味して、思想というものを意義と状況の二因子の関数であるとみなさなければならないだろう―――さて、彼はこうした回り道をすることで「判断」というものにも位置を与える。判断するとはある思想を真と認めることである。判断という概念を判断すること(=判断作用)によって説明する意図がみられる。

 

第三章 論理的含意と論理的真理

 カントは推論というものを判断から別の判断を導き出すものだと説明した。これは単に判断という語を使っている以上に心理学的な見方であり、推論というものを動的なプロセスとみている。一方、アリストテレス曰く、推論が成り立っているというのは、その前提が措定されるならば当の結論が必然性をともなって出てくるということにほかならない。ここでも動的な含みがあるが、重要視されるのは「必然性」のほうだろう。誤解の余地を残さない説明は、遂に現代論理学によって果たされることとなった。つまり含意・導出とは、言明の真理値間のある関係であって、前提が真であるならば結論は必然的に真であるということをその内容としている。すなわち、前提が真であるならば結論は「必然的に」真なのである。導出においては前提も結論も真であるとは一切保証されておらず別に偽であっても構わない。このように導出が真理値間の関係であるならば、『Aならば必然的にBだ』という言明文は『AならばBは必然的に真だ』と表現することも許されるだろう。すなわち、「AならばB」を「必然的真理」という括りで語ることが許される。この(論理的)必然性がいったいなんであるか―――すなわち、それが必然的であるというのは何によってか?——と問われなければならない。

 真理要求をする言明文にとって、「分析的」と「総合的」というふたつの区別は本質的である。言明文はその本質上、現実に世界がしかじかと述べられているとおりのものなのだ、と言う。だからそれに対して「そうである」「そうではない」があるわけだが、なかには「そうである」としか言いようのないようなものがある。たとえば《男は男である》がそうである。「分析的に真である文とは、それの真であることがそれの意味に基づいているような文」のことをいい、つまり同じことを反復する文のことである。そして分析的ではないものを総合的という。要するに、分析的であるような文はたしかに真である(あるいは偽である)のだが、同じことを言っているだけなので、なんの情報もない。世界に対して何事も述べないので、言明文としてはいわば不完全な代物なのだ。

 分析的言明の真or偽であることは、定義からわかるように、語の意味にもとづいている。ところで「AかつBならばAだ」というのは、「かつ」という語の意味にもとづいているのだから、これもまた分析的であるといえる。だがこの二つは区別しなければならない(内容的ー分析的:既婚者は結婚している/形式的ー分析的:A→B、AならばB)。形式的分析的言明は「かつ」といった語の脇にある項を何にしようが成り立つため、論理学は古来からこれを上のようにAやBといった記号に置き換え(形式化)、これを研究してきた。そして論理的妥当性というものを、そうした項になにを置き換えようが分析的に真であることだと定めてきた。だから、《マリアが亭主持ちならば、マリアは既婚者である》という言明文はたしかに分析的に真であるのだが、論理的にそうではないのは「マリア」「亭主持ち」「既婚者」という項によって真理性が変化するからである(内容的ー分析的な真理と形式的ー分析的真理の区別)。

 私たちは言明文とその真理性についていくらかの区別を得た。だが形式化する方法はいくらかあり、上の区別自体に明確な境界線があるのかどうかもいまだわからない(やり方次第で移行できるのかもしれない)。それに、AかつBならばAになるということがどうして妥当なのか、何によってそういえるのかということも明らかにできていない。

 論理的真理とはなにか?

 内容的ー分析的真理/形式的ー分析的真理

 

 

第四章 矛盾律

 言明が分析的に真(or偽)であるとは、その言明において用いられている言語表現の意味にもとづいて真(or偽)であることだった。ところでこれまで暗に真であり、かつ偽であるようなものを暗に拒否していたのだが、この「(排)矛盾律」の必然性それ自体は何に由来するのだろうか。あるいはこの問いは、いつまでもその正当性を求めてもどこにも行きつかないのでやめておくべきなのだろうか。たしかに根拠への問いはまた別の根拠を求める。しかしこのことは、私たちの目下の問いかけを、この方向で求めてはいけないことを示すに留まる。すなわち、この必然性がいったい何にもとづいて成り立つのか、言い換えれば、矛盾律が何を意味しそれが何を含意するのかについて釈明しなければならない。

 考えてみれば、どの花もいつも鮮やかな色をつけているわけではないので「この花は赤い」と「この花は赤くない」は別の時点ではふつうにどちらも成り立つ。アリストテレスもこの点を考慮していて、【同時に】という補足をつけている。またさらに一般的に【同一の観点で】とも書いているのである。たとえば赤なのか紫なのか微妙な色合いのときに「赤いとも赤くないともいえる」というようなことがありえる。矛盾律はいかにも当たり前のように見えて、《あ、同時じゃないと困ります》《あ、その言葉遣いだと~》といろいろ注文をつけたうえで成り立つ。【同一の観点で】と補足したのも無理はないぐらいに、矛盾律が成り立たない例というものは予想もしえないほどのバリエーションがある。そしてだからこそ、なぜ矛盾律など堅持しなければならないのかと問われているともいえる。

 そうとはいえ、いかに矛盾律の反対者といえども自分が何かを語っていることは認めざるを得ない。何も語っていないものと論争はできない。なにかを語るというのは自分自身にも他人にも何かを理解させることである。そしてなにかを理解させるのには、なにか一つのことを理解させることができなければならない。もし一つも理解させることができないなら何も理解させられないだろう。私たちは「この花は赤い」といったような述定文で語る。これが何かを理解させるのはなにか特定のことを意味しているからだ。なにか特定のことを意味していながらそれと反対のことを同時に意味することなどできるわけがない―――アリストテレスの論証はだいたいこう流れる。

 ストローソンの矛盾律の解明において、より明確になるように、述語をある対象に適用する述定文は対象が境界線のこちら側にあり、あちら側にないということを理解させることによって特定の何かを語ることができる。それが「どちらの側にも対象はあります」と言ってしまってはなんの情報価値も持たない。ストローソンが明確にしていることは『述定の特定性』が、その述語が他のあらゆる述語から区別されていることにあるのではなく、その述語によって対象が他の対象から区別されることにある、ということである。

 アリストテレスの論証はこの役割が曖昧なので、妙なところに「矛盾」を見出してしまう危険がある。たとえばなにか図形を考えたときに、その図形はふつう色々な性質をもつだろう。赤い、角ばっている等々。だが「この図形は赤い」かつ「この図形は角ばっている」は矛盾ではないのか、という者が現れる。なぜならこの図形は赤く、角ばっていながら、赤いことと角ばっていることは別のことなのだから(この図形=赤い=角ばっている。でも赤いと角ばっているは全然違う)。ストローソンの解明によって学ぶことは、矛盾とはそういうことではないということである。つまり「aはFである」が「aはGではない」を含意し、かつ「aはGである」が「aはFではない」を含意するとき、FとGという述語は互いに両立不可能であると定義しよう。赤いと角ばっているという二つの性質は両立不可能な述語ではないため同一の対象を帰属することができる。

 さらにストローソンの解明は別のことも明らかにする。用いられる述語が完全に規定されなくても矛盾律は妥当することも理解できる。たとえば「この花は赤い。でも赤くない(紫なような気も……)」という不鮮明なケースを説明できる。どうだかわからないときに「赤いような、赤くないような」と言うのはまったく正当なことだが、ただし、それは「部分的に赤いからね」とか「ほら、赤と紫のあいだにあるだろ」といった説明をする用意が話し手にあるという前提のもとでのことである。その前提がなく、まったくまさに言葉通りに「赤い、かつ赤くない」と語っているやつは何も語っていない。ゆえに矛盾律(=述定の意義)とは、一定の状況では私たちの述語をより厳密に規定する必要があることを教えてくれる。述語というのは最初からできあがっているものではなく、より厳密になるためには矛盾律によって徐々にもたらされるものなのだ。だからこそ矛盾律はいつも後手後手に回ってしまう。

 

第五章 略(六章に含める)

第六章 単称文と一般文の構造に関する現代の考え方

 伝統的論理学は「単純な言明文はすべて述定的、すなわち主語と述語から合成されている」と考える。そこには既に《すべての》とか《若干の》とかいった語彙が見られ、それに応じた分類がなされている。私たちは主語と述語という概念を純粋に文法的に理解しているが、伝統的には述語表現の表すものが主語表現のあらわすものに関して言明される、すなわち、なにかが「赤い」とかいった概念のもとに属することを語っているという意味論的意義とともに常に把握されていた。そしてこの結果として三段論法については整理されることとなったが、多くの含意関係を見逃すことになってしまった。

第一の例:「すべての円は図形である」「彼は円を描く」ゆえに「彼は図形を描く」

 三段論法の一種のようにみえるが、実は伝統的論理学はこれについて何も教えてはくれない。一つ目の前提はたしかに主語+述語になっており、二つ目の前提もそのとおりなのだが、もし二つ目を同じように解した場合「彼は」「円を描く」となってしまい論理的連関がつけられなくなる。私たちはまったく異なった分析:「円」「を描く」を必要とする。「を描く」のことを関係表現という。重要なことは「すべての円」は「図形である」という性質をもっていると述べている第一の前提に対して、第二の前提は「彼」と「円」の間に「描く」という関係があると述べていることである。

 この種の関係表現はアリストテレスもはっきり自覚していた。このような表現は日常に溢れており、たとえば「こいつはペーターの息子だ」というのは「こいつ」と「ペーター」の関係について述べている。そして注意しなければならないのは「ペーター」は「こいつ」の息子ではなく、「こいつ」と「ペーター」の順番は守られなければならないということであろう。ゆえにフレーゲは第二の文を単に主語+述語で分けるのではなく、「関係表現」+「主語表現の順序対」で分けた。このことが新しいのは、たしかに第二の言明文も主語+述語に文法的には分けられるのだけれども、論理的にものを考えるときは別にそれに固執せず、「…は~の息子である」+「(こいつ、ペーター)」で分けたほうが見やすいことに気付いたからである。つまり文法的構造と意味論的構造が区別されたのだ。

第二の例:「すべての人に好まれる誰かがいる」ゆえに「誰かは自分自身が好きだ」

 前提が一つしかなく、伝統的論理学では対応できない。しかも《すべて》と《若干》という論理語が同じ言明文の中で使われており、対応できない。量化子が二つもある文はもちろん知られていたが主語+述語の枠組みに囚われていてはこの解決は困難なのである。そもそも主語と述語の「合成」について語り得るためには主語と述語がある対象を表さねばならない。対象には具体的なものと抽象的なものがあり、「禿げである」という述語に具体的対象は考えにくいため、伝統的論理学は「ソクラテス」という具体的対象と「禿げである」という抽象的対象をごく自然に合成してきた。

 そこで文が主語と述語の「合成」だというのはやめ、[主語のあらわす対象が述語のあらわす概念のもとに属する]というアイディアを突き詰めよう。ここに真理値が現れる。つまり文というものをどのように理解するのかといえば、なにかとなにかが合成されており合成によりどのような対象のあり方を表しているのか……ではなく、それがどのような条件のもとでなら真となるのかということである。言い換えれば、どういうときに述語が対象に当てはまるかどうかを知っているのが文を理解しているということなのだ。これは「ソクラテス」という人物が「禿げである」という謎の抽象的対象と「合成」されなんらかのあり方を示しているとするよりも、よほど見やすい。

 さて、このような理解のもとで「すべての蟻」といったような一般文について考えてみよう。従来的な理解ではこの主語表現が「蟻のクラス」というようなものを指していると考えられ、「若干の蟻」は蟻のクラスの中の一部分と言う風に考えられてきた。だが、私たちが問題としているのはクラスではなく個別の蟻のすべてである。「すべての蟻は紫だ」というとき、紫なのは蟻であってクラスではない。同様に「若干の蟻は紫だ」といっても、その部分クラスが紫なのではなくてそこに属する蟻が紫なのだ。文法的な単位としてはあきらかに「すべての蟻は」「若干の蟻は」はよろしいが、「若干の蟻は紫だ」と「紫色の蟻が若干いる」とは文法表現が異なりながらも意味論的には全く同じである。そこでこの文を分析する際には文法的に主語部分と述語部分に分けるよりも、「若干」「蟻」「紫」に分けてしまったほうがよい。

 そして《すべて》とか《若干の》という言葉はいわば作業の指示のようなものであり、「とりあえず好きにとりなさい」に続けて「それは紫だ」と書いている文だととれる。このようにみることの利点は、「ソクラテスは禿げである」のような単純文での成果をここで使うことができるからだ(《すべて》// その蟻は紫だ)。

 

 

第七章 複合文

 複合文とは、それ自身文であるような部分表現を一つ以上含む文のことである。二つの文を《または》などで繋げたものはもちろん複合文であるし、《雨が降っている、ということはない》もまた複合文である。『ある文を理解しているというのはその文の真理条件を知っていること』という見解を複合文にも当てはめて考えてみよう。文A、BがあってAかつBという複合文があるとき、この複合文の真理値はAとBの真理値に依存することはごく自然な考えである。またAでないという複合文の真理値もAの真理値がどうであるかに依存することだろう。私たちは文をA,B,C,D……といくらか用意し、それらを論理語を用いて繋ぎ合わせることで複合文を作るが、労力さえ厭わなければA,B,C,Dの真理値の組み合わせに対して複合文の真理値も計算することができるだろう―――よく話題になるのは「p⇒q」の真理条件である。論理学の本を開いてこの複合文の規定を眺めると、pが偽のときはqが真であろうが偽であろうがこの複合文は真として扱われているのである。このように規定されているのは「p⇒q」が「pでありながらqでない」ことと同じくみられているからであり、この後者こそp⇒qで言いたいことに他ならないからである。

 とはいえ、このような《ならば》の使い方は論理学に特有なものである。p⇒qという文はpが偽の場合だけでなくpが真の場合にも違和感がある。なぜなら「東京が日本の首都ならば草は緑だ」という複合文が真になってしまうからである。そしてもちろん「名古屋が日本の首都ならば草は緑だ」も真だし、「名古屋が日本の首都ならば草は赤い」も真である。私たちはこんなふうに《ならば》を使わないのに、論理学に出現するに際してはこのような取り扱いがされる。なぜならば、日常言語における《ならば》は純粋にその部分文によって真理が決定されるようなものではないからである。たとえば「10分火にかけたなら、もうお湯は沸いている」などがふつうの使われ方であろうが、これが受け入れられるのは、前件から後件は一定の法則性を引き合いに出すことで正当化できるからである。つまり論理語としての《AならばB》は純粋にA,Bだけから真理値をはじきだすのに対して、日常語ではA,B以外のほかの要素が真理値を考える要素になっているということである。

 あるいはこんな複合文はどうだろうか。「日本の首都は名古屋であるとペーターは思っている」この文の真理値はこれまで見て来たようなものと同列には扱えない。なぜなら「日本の首都は名古屋にある」という文の真理値はまったく考慮されておらず、単にペーターがどう思っているかで真理値が決まるからだ。

 

 すなわち、複合文というものには「真理関数的」と呼ばれるような、部分文の真偽によって文全体の真理値が確定するものと、そうではないようなものがあるということだ。