物語の基本構造
物語とは、単なる出来事や行為記述の連鎖ではなく、最低、つぎの条件を満たすようにその要素が選択され、配列されたテクストであることになる。第一に、各項はそれに先立つ項から導かれ、あるいは唐突に出現した項もそれ以前との項との首尾一貫性を保ちつつ、後続の項を導くために必要でなければならない。第二に、結末は、当初の設定などからただちに演繹、予言され、はじめから見えてしまってはならず(Gally 23-4)、逆に、最後にあらわれる「機械仕掛けの神」によってすべてが解決してしまうようなストーリーもできの悪い物語である(Gally 29)。いずれも、途中の、また先行する要素の必要を一気に奪うからだ。第三に、ひとつのストーリーには、なんらかの仕方で結末を導くという目的に照らして不要な項が含まれてはならない(Gally 37)。
すなわち、物語とはまず出来事や行為の記述の連鎖であり、振り返ったときに偶然の出来事はないようなものである。唐突に出現するものも後に続く出来事の伏線となって最終項へと向かっていく目的論的なものなのだ。もし不要なものが出てきたり、ただ偶然的としかいえないようなものですっかりすべてが解決してしまうような物語は、物語ではあるものの【しょうもない】物語とみなされる。要するに出来栄えの問題なので、基本的にはE・M・フォスターが言わんとしていたことも上のようなことだろう。ある項が必要なのか不要なのかは、その作品が何を目的としているかという解釈によって普通はいろいろ評価は分かれる。
物語の出来事の意味は次のドミノのピースを倒すことにあるが、最後のピースだけは異質である。そこには物語内には決して登場しない歴史家の顔がある。彼は起こった出来事を進んでいく列車の上から拾いあげ、ひとつの大きな物語へと統合する。そしてその物語はある役割を果たす。
たとえば次のような記述を見てみよう。
- 前夜、私の車に故障はなかった。
- 昨夜、気温が低下したため冷却液が凍結した。
- その結果、今朝、私の車は破損した。
これは第二項において一般法則を記述している。別の変化についての記述においてはたとえば「某氏は政治資金規正法によって逮捕された」であったり「世界大恐慌は景気循環の三つの波動が同期したため起こった」であったりするかもしれない。法則・法律・構造といったものは問題となっている事柄だけでなくより普遍的に当てはまる複数の事例を持つ抽象的なものである。
これに対して「物語」は、説明・理解されるべき事柄に関連する個別の出来事や行為の記述した含まない。逆に言えばそれだけによってある出来事がどのように、なぜ帰結したのかを説明している。これによってもたらされる理解は、「理論的理解」と区別して「物語的理解」と呼ばれる。物語的理解は抽象的一般的なものの理解を前提せず、非常にわかりやすい。
なぜ物語は出来事の移り変わりを自然に記述できるのか。それは「自明の理」が用いられているからだ。自明の理は法則というほどではない。たとえば『困難を解決し導いた人物が統治者になるのは当然』といったようなもので、カロリング王家の誕生を自然なものに映す。だが困難を解決し導いた人物が常に統治者になるわけではない。
歴史における物語の役割はいまや明白であろう。それは変化を説明するのに用いられる。ことに特徴的なのは、個々人の生にくらべるとはるかに長い期間にわたって生じる大規模な変化を説明するためにしばしば用いられることだ。こうした変化を顕在化させ過去を時間的全体に組織化すること、なにが起こったかが変化によって語られると同時に、それらの変化を説明すること…それが歴史の仕事である。