にんじんブログ

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(日記)プロフェッショナル

2024.06.05記

 新人さんがやってきた。「わからないことがあったらAさんに聞けばいいよ」とアドバイスされている。「だってあの人はプロだから」でもそれをはたで聞いているぼくはプロではない。なんのプロでもない―――妙なことだが、しばらくのあいだ続いていた憂鬱が、これでいくぶんかマシになっていた。

 自分は突出したなにかを持っている訳ではない。小説は書くが、お金が儲けられるほど一般には支持されていないし認知されてもいない。もし何かを書いてくれと言われても、ぼくは書きたいものを書いてきたので、受注してなにかやることはできないし、きっとしないだろう。文章のアドバイスもできない。勉強もしているけれど公的に証明できるような資格はほとんど持っていない。ぼくは社会の中で「ありふれたひとり」として生活し、代替可能な仕事で金をもらっている。

 頼りにされるのはうれしいことだ。所属集団において役割があるというのは安心であるし、その安心が嬉しさを引き起こしている。だから、プロだといわれた同僚をうらやましく思った。だが考えて見れば、その案件に対していつも頼られているなんて面倒くさいではないか。質問されて答えるのが面倒というよりも、柔軟に対応できるほどの経験を持つに至るまでが面倒くさい。たとえばITパスポートの資格を持っている人は多いだろうが、パソコンのことを教えてくださいと急に来られても対応できないだろう。いつもITのことを考えていないと頼られるまでには力がつかないのだ。

 すると、どうだろう。安心感のために、つまり役割を得るためにいつも社会のなかで位置を占め続けることは、「ありふれたひとり」であることよりも善いことなのだろうか。もちろんぼく自身が何かに熱中していて自然とそのような立場になることはあるだろう。だが、逆にその立場を目的として自分をなにかのただなかに置くぐらいなら、なんのプロでもなくてよいのではないか。

 強調しておけば、なにかに熱中する結果として専門家になることはなんの問題もない。問題がないどころか、望ましい。要点は『社会の中での特別な位置、は別になくてもよい』『代替可能な職場の歯車で別によい』ということである。熱中なしに立場をうらやむのは本末転倒で、つまり、人はただ思うように過ごせばよろしい。