ダメットが意味理論に要求するのは、その言語の表現や文の意味を知るときにその人が何を知っているのかについての説明能力である。すなわち、意味理論はその「何」を表示を提供するものでなければならない。たしかに《地球外生命体》について知るときは別の語を使うことによって言葉で内容を説明できるだろう。だが最終的に、語の意味を知るということがその語を十分に使いこなせるという実践的能力の複合体であることを受け入れるなら、いったいその「表示」はどのようなものになるのか?
言語に関する最も基本的な観察は次のものであることを確認しよう。
- その言語で生み出される文の数は潜在的に無限なので、それを有限個のリソースで表示するためには再帰的な理論にならざるをえない。
- その再帰的な合成パターンは文に意味を与えるときにも利用される。つまり、『たとえば句や文といった言語的意味はその構成要素の意味と結合方法から完全に派生できなければならない』(認知語用論の意味論—真理条件的意味論を越えて)という合成性の原理が成り立つ。
この上で、もっとも見込みがあるとされている言語知識の表示は次の「T-文」ではないかとされてきた。:《’S'が真であるのは、Pのとき、そのときにかぎる》。わかりづいらが、これはたとえば《「Snow is white」が真であるのは、雪が白いとき、そのときにかぎる》のようなものであり、たしかに「Snow is white」という文の意味内容をたしかに説明しているように見える。だが私たちが表示に求めていたのは意味内容の特定だけでなく、話者がそれを知っているのだといかに正当化するかということでもあった(その意味内容を話者が把握するということが何に存するか?)。この点、たとえばSnowが雪を指示し、A is whiteが真になるためにはAが白いときそのときにかぎると定めたならば、自動的に、Snow is whiteのT-文が導かれ、私たちはSnow is whiteが真となる条件を知ることができるだろう。この操作はSnowもis whiteもまったく意味を把握していなくても帰結する。だが、Snowが雪を指示するという循環的にさえみえる公理自体が、当の言語においてSnowについて真とされている文の多くを知っておりその知識を通して雪についての理解を表示することができそうだ―――この点をもう少しくわしく説明しよう。
- ポイントは「雪」が雪を指示しているというとき、「雪」は記号であって、雪はまさに雪そのものを指しているという点である。たとえば「ゆうずつ」という言葉の意味がわからないとしよう。調べた結果、次のような情報が得られたとする。《「ゆうずつ」とは、宵の明星のことである》。これはある言語表現を別の言語表現に置き換えることではない。《あそこに宵の明星が見える》とは記号について語っているわけではなくて、まさに宵の明星について述べているのである。《「ゆうずつ」とは、宵の明星のことである》とは、言語表現と、宵の明星という巨大な物体とのあいだの、支持するという関係の成り立ちを述べているわけだ。そしてこのことは「雪」は雪を指示するということにも成り立つ。これを理解することはつまり未知の言葉の意味を既知の言葉の意味を通じて理解するということでもある(「雪」は記号で、いま説明されているもの。「♨」は温泉を意味する、と同じであることに注意)。(分析哲学 これからとこれまで (けいそうブックス))。
- しかし「雪」が雪を意味し、つまり雪という対象へと関係づけられていることは何が保証してくれているのだろうか。雪ならばまだしも「浦島太郎」ならどうだろう。それどころか「フロギストン」という存在すると考えられていたが今は存在しないであろうとされている対象はどうなのか。「ツチノコ」は?
- 答えはこうなる。その表現の意味を理解するというのは、どういうときにその言明が証明されたことになり、どういうときにそれが反証されたことになるのかを把握することである。注意点は、これらの条件が実際に満たされている必要はないという点である。これによって、対象が実際に存在している必要も、空想的な対象も、対象として位置付けることができる。