ホモ・サピエンスはどこかでことばを話し出した。それは地域ごとの特色をもった《現地語》であり、いまもそうである。ただまだ書き言葉はない。書き言葉の起源は謎だ。どこかでだれかが文字を使い始めたのである。代表的で、非常に影響力の強いものは『聖書』のラテン語、『コーラン』のアラビア語、古典ギリシャ語、パーリ語、漢語などであるが、自由自在に操れるものは少なかった。だがそれを習得しようとする傾向は、宗教としても、叡智としても、つねに生まれ続けていた。ほとんどの場所には文字文化などなく、つまり、ほとんどの人類にとって書き言葉とは外の文明から伝来したものであった。伝来した書物や巻物はただちに広まるわけではない。それを読めるようになることでいろいろな本を読むことができるために、ぽつぽつと「読める人」が生まれる程度である。書けるようになっても、まさか現地語を表現するのに使おうとは思わない。
現地語の新たな書き言葉は、このような《普遍語》を翻訳する過程で生まれる。
現地語で読み書きしようという動機が生まれるのは単一の原因ではありえない。『創造の共同体』においてアンダーソンは、グーテンベルク印刷機による大量生産と資本主義の充分な発達が、商業的に読者をひろく獲得するために翻訳という行為をつよく促進したのだと書いている。選定される現地語としては層として厚いところがよく、そうした出版語が固定され様々な出来事を経ていくうちに同じ共同体に属するというナショナリズムを醸成していく。《国語》の誕生である。自分たちのことばで自分たちの気持ちを表現する「国民文学」は、大きな貢献をした。ただ普遍性を重んじる学問においては使用されるメインの言語は普遍語であり続けた。