言語の目的は思想の伝達と記録であり、言葉の意味とは言葉を使う人の「心にある観念」であるという啓蒙主義的言語論は、言語行動という物理的行為のうちには意味というものが見いだせないのだから心のなかにあるはずだという考えにもとづく。これに対し、フレーゲは主観的な観念・表象と客観的な言葉の意味を区別すべきだと主張する。そして言語理論が心理主義に陥ってしまったのは言葉というものをそれが用いられている文から切り離してしまったからだと指摘し、《語は文のうちにおいて意味をもつ》という文脈原理という原則を打ち出した。なにしろ、ダメットのいうように、もしも啓蒙主義的言語論が正しいならば日常会話は相手の心のなかのものを推測しあうゲームだということになってしまう。話し手が語る意味はその発話においてあらわに示されているはずだ。
この代表的な理論は「真理条件意味論」である。たとえば「雪」という記号は雪を指示し、「~は白い」という述語は~が白いときにかぎり真であるとしたとき、「雪は白い」が真であるのは雪が白いときにかぎる。まったくなんの説明にもなっていないように見えるが、ここで指示されているのはだれかの心のなかにある雪のイメージではなく、雪という対象そのものである。ところが、そうだとしても、この記述を理解できる人は既に雪という対象を知っている人に限られるだろう。つまりは私たちが普段使っている日本語という言語に備え付けられている意味というものを流用して、改めてそれを記述していることになる。たとえば「Snow」は雪を指示するとか、「♨」は温泉を指示する、というように。
雪かどうかを判定する基準はなにひとつ示されていない点をダメットは問題視している。だからといって大脳生理学的事態や心理学的事態を(取り出せたとして)示せたとしても、私たちが雪を雪としてみることはなにひとつ説明されていない。彼としては、雪と雪でないものを区別する実践的能力を記述しようとしているようだ。だがそもそもこんなことは可能なのだろうか。どれだけ観察を続けても、雪でないものに対する振る舞いを追放するのは不可能だと思われる。結局私たちにできるのは、言語を前提としつつ真理条件説によって内部構造をあらわにしていくことだけなのではないか。
