近世心理主義から
近世の哲学的意味論は、世界を対象化し客観化していこうとする思想を背景とした、啓蒙主義的言語観によって方向づけられている。これは、J.ロック『人間知性論』第三巻「思想はすべて人間自身の胸の内にあって、目に見えず、他人から隠されて(いる)、…したがって、人間は、自分の思想を作る目に見えない観念を他人に知らせることができる、ある外的可感的記号を見出す必要があった」(真理条件説と実在論 | CiNii Research)によく表れている。つまり、頭のなかの観念を表示してくれるのが記号なのだから、根本的には、考えるということは心理的・主観的働きであるという。ゆえに心理学というものの地位は格段に高くなる。それは経験科学である―――だがこのような《心理主義》は、たとえばピタゴラスの定理がたとえ誰にも考えられていない瞬間にも真であろうことをまったく説明しない。それが真であるというのは、それを考える人がどこで、いつそれを考えるのかということによって損なわれるようなものなのだろうか。しかし同時に、ピタゴラスの定理が思考することとまったく関係ないというのもどうかしている。
このことは考えられる対象と対象を考えるということの関係を問うことでもある。より一般的にこうも言えるだろう。私たちは目の前のペンを見ている。だがペンは見ても見なくても存在し続けるだろう。だが一切なにも見られることもなく一切検知もされないようなペンなどについて考えるのはなんの意味もないだろう。いったい私たちが見ているペンと、ペンを見るということには一体どんな関係があるのだろうか―――この問いかけは「超越論的観念論」と呼ばれるひとつの方法論である。対象が実在しているのかとかいう問題にはかかわらず、なぜそうであるといえるのかという条件を問う。そしてその真理性は考えるとか知覚すといった意識とかかわらなければ語っても無意味なものであると共通認識のもとで、分析が行われる。実際、「実際そうなんだ!」といいながら、どんな意味でも知覚できないし、なにかの説明のために仮構されたものでもないような何かの存在を私たちは認めることができるだろうか?
志向性
事物の現実存在とその在り方、そして事物の経験は決して切り離すことができない。なんであれ対象は対象といわれる以上、なんらかの意味で経験される。逆に、どんな意味でも経験されないならば対象もない。《どんな意味でも経験されないもの》という概念について考えることはできるが、””考える””必要はある。いずれにせよなんらかの意味で経験されなければ対象もないことに変わりはなく、受け入れやすい理論的決定であるといえる。この「対象」と「経験」の本質的な関係性を「志向性」と呼ぶ。だがこの関係性はふつうの意味で関係ではない。なぜならばAとBという独立したなにかがあってそのAとBの関係というのではなく、志向性はそもそも二つがそれがそれである以上、すでに結びついているものだからだ(志向性=非関係的性質)。
ここで「経験」といわれるものは「志向的体験」と言い換えられる。なぜか。経験はいつも対象に関係づけられており志向的である。また、経験というものは《●●を経験した》というように主題的な、はっきりと自覚された、という含みがあるが、対象とかかわる経験はそのほとんどが非主題的で意識されることは少ない。たとえば駅まで歩くのに道の存在を、それを踏みしめ一歩ごとに《道だ》《道だ》と確認しているわけではない。このことを言い表すために、体験という語をあえて用いるのである。フッサール独特のまぎらわしい用語法によれば、可能なすべての志向的体験の総体を「意識」あるいは「純粋意識」「絶対的意識」などという。ポイントは””可能な志向的体験””というところで、たとえば、隣の部屋に人がいることを私たちが実際にそうだと主張するとき、それはなにも隣の部屋がスケルトンで中がはっきり見えているときだけではない。いまは別室にいるが、実際に行ってみたらいるだろう、ということも含まれている。私たちはふつうそういう風に正当化するのである。まだ超越論的観念論の具体的展開については述べていないが、「意識」の定義はそういう考えにもとづいている。
ただ超越論的観念論にせよ、対象と志向的体験の結びつきにせよ、それは受け入れやすいのだとしても、一見してきわめて観念論的に見える。つまり世界の存在というものは結局私たちの頭のなかの話だという気がしてくるのである。だが超越論的観念論はそのような形而上学的主張とは一切関係がない。世界が現実に存在するかどうかは知らないし、世界が意識に完全に依存しきっているかどうかも知らない。ただなにかの存在やその在り方についてまともに語ろうとするならば意識とつながっていないといけないだろう、と言っているだけなのだ。
主だっては非主題的な志向的体験は、いわば波のように流れ次々に現れる。そうした志向的体験を区別するものはまずもちろん、それが何についての志向的体験なのかという点である。この『作用がそのつどの対象性をどのようなものとして統握するかを規定する属性』を志向的体験の「質料」という。同じ図形でありながら、美女にも老婆にも見える絵について考えよう。美女についてみているとき、老婆についてみているとき、二つは異なる志向的体験である。同じ図形、同じ感覚与件でありながら、そこに美女や老婆を現出させる、この””変化したもの””の位置を占めるのが「質料」なのだ。ゆえに質料なしにはどんな対象もありえない。一方、《火星に知的生命体はいる》という場合と、《火星に知的生命体はいるかなあ》という場合では、同じ質料ではあるが、関わる仕方が異なる。これを志向的体験の「性質」という―――逆から言えば、ある体験が志向性を持つと言われるとき、その志向性は当該体験の質料と性質の関数であるとも言えよう(""フッサールにおける超越論現象学と世界経験の哲学””佐藤駿著)。
『論理学研究』から『イデーン』への変遷
志向性という対象と志向的体験の本質的つながりは初期の『論理学研究』からすでに重視されていた。そして私たちが決して物事を神のように俯瞰してみることはできず志向的体験の枠内で物事をとらえなければならないという問題意識もそうである。
『論理学研究』においては「対象」はあまり取り上げられない。なぜならそれはどうともコメントしえないものであり、私たちが語れるのは体験の内容だけだからだ……というわけである。ここでフッサールが問題視したのは、たとえば””ピタゴラスの定理””のようないわば客観的なものが、どのようにして私たちの体験のうちに、いわば主観的なものとして、与えられるのか、ということだった。それは無数の人々によって学ばれ把握されているが、それはすべて同一の定理であり、人によって違うピタゴラスの定理があるわけではない。この同一性の源はいったいなんなのだろう。
『論理学研究』いわく、その答えは「理念化的抽象」にある。
まずそもそもの話として、志向的体験というのは人それぞれ個別の体験である。もし本当にそれだけならば、ピタゴラスの定理というのは普遍的なものでもなんでもない、ただ蓋然的に正しいだけのものとなるだろう。イマヌエル・カントは、そこにある対象を私たちが認識するのではなく、そもそも対象の存在が認識によって与えられるのだというひとつの大きな転回を成した人物であるが、彼は学問的な普遍性のために、私たちの主観の内側に、普遍的なものを生み出す装置を想定したのであった。時間とか空間もこの装置のうちの一部である。だがこういった概念をあたかも正しいもののように主観のなかに植え付けておく理論的想定は、果たして妥当なものだろうか? フッサールもまたカントと同じように普遍的なものの在処を見出さなければならない課題を負っているが、彼は””主観””といった私たちの側にそれを備え付ける真似はしなかった。普遍的なものは志向的体験のなかに、経験のなかに、備え付けられているのである。そしてそれを抽出することによって、私たちは普遍を見出す。たとえば《木》について考えてみよう。世の中にはいろいろな木がある。もっといえば、空想もできる。だが空想のなかでさえ、《木を空想する》という以上、すべてを恣意的に決めてしまうわけにはいかないのである。
理念化的抽象とは、まさにそうした普遍的なもの、理念的なものを把握するという志向的体験である。問題は理念化的抽象によって同一の命題・意味が与えられるということにあった。その同一性はなにに由来しているのか? それは「意味作用」と「直観作用」との同一性である。このそれぞれは志向的体験である。たとえばなにか文章を読むとき、それは単純に物理的なインクの染みを知覚することとは違う。意味作用とは知覚作用とはちがう、いわば意味という対象への向け換えが行われているといえる。そして《雨が降っている》という発話を聞き、実際に外に出て雨が降っているのを見たとき、そこで体験されるのは《言われていることと見ていることの同一性》である。それは意味作用の質料と直観的である知覚作用の質料の同一性でもある。これを体験することを「充実化」と呼ぶ―――つまり理念化抽象という志向的体験の同一性は、意味作用が直観作用によって充実化されたときの質料の同一性に由来する。赤いものはこの世にいろいろあるが、人は赤いものを見るという志向的体験のなかにひそむ《赤》という一般者、本質を充実化を通じて直観することができる。真理もまた《赤》と同じように取り出された本質のひとつであり、個別的ないろいろの赤いものと同じ意味では、生成消滅を免れている。
ただ、『論理学研究』のこの説明には問題があるように思われる。
整理しよう。まずたとえば《雨が降っている》という発話によって””意味されていること””あるいは””言われていること””に目を向ける意味作用が、知覚などの直観作用によって充実化(《たしかに雨だなあ》)される。その体験はその二つの志向的体験の対象が同一性を示している。捉えられた同じ質料というものは普遍的な一般者・種である。ここで注意点がふたつある。①意味作用の対象はインクの染みや物理的な音波ではないということから理念的な対象であるということになっている。②知覚作用は理念的な対象をそこに含んでいる。そうでなければ意味作用の質料と同一になりうるわけがない
この説明の問題点はふたつある。
- 「ある対象が実際にそうである」というのは、その対象について述べた命題が真であるということだろう。真理というのは上で見てきたようなやり方で抽出される普遍者(ピタゴラスの定理など)であった。その普遍者というのは意味作用と直観作用の同一性からあぶりだされてきた質料である。つまり志向的体験の対象である。だが志向的体験の対象というのは実際に存在している必要はなく、虚構的なものでもよかったのだった。ということは幻覚の入り混じる世界をふわふわ生きている人でも””真理””を抽出できてしまう。だがその真理は実際にはそうではない―――こんなものが真理の名に値するのか?
- ある一点を除いて完璧に同じ地球を想定する。その違いとは、水がH2OではなくXYZという分子構成を持っている点である。それ以外の点はすべて同じである。それぞれに住む人は目の前に流れる川を見て「水だ!」という。どれだけ反省を重ねようが、二人のあいだにはどんな相違もない。しかし《それは水である》という一つの同じ命題が正しいと認めるわけにはいかない。なぜなら一方においては《それはH2Oだ》と同値であるが、もう一方においてはそうではないからである―――だがもし命題が上に述べてきたような抽出物であるなら、まったく同じ状態の二人から取れた命題は同じものだとみなさざるをえない。
- 理念的なものの存在はもちろん、それを支える多くのものの存在をもあらかじめ仮定している。そもそも、蓋然的とはいえても普遍的とはとてもいえないような不安定な経験のうちに、真理の足場を確保するために体験のなかに普遍的な装置が組み込まれたわけだ。ピタゴラスの定理だって、あぶりだされてきたものである。だがそれによって、ピタゴラスの定理に限らず無数の命題がそもそも志向的体験に組み込まれていることになるという信じがたい結論が出てきてしまう。
- こうした””意味””の区別が荒すぎる。この点は(パトナムによる)先ほどの二番目の批判とも関係してくるが、説明があまりにも内在主義的すぎて、「文脈」というものが入る余地がまったくない。私たちの言語は文脈依存表現であふれており、文があったからといって一意的に命題が取り出せるわけではない。
このような致命的な問題点を受け、フッサールは方針を転換する。
これらの問題を発生させている原因は、《体験そのもののうちに見出されないようなものについては語らない》というある種の慎ましさである。いわば、ココロのほうに寄りかかりすぎたのだ。『論理学研究』におけるこの方法論――制限的還元――は当然、志向的対象について語ることを禁止し、したがって、事物の間に成り立つあらゆる関係もすべて考慮の外に置かれなければならない。もちろん人間も、各個人も、そうである。だからここに生きているということによって成立しているいかなる連関も排除される(フッサールはこのとき、現象学という自らの学問を記述的心理学ともいっている。それは体験を扱うからである。ただ、それは事実的なものではない。本質である。志向的体験はごく自然に心的なものと前提されているが、だれのものでもない、一般的なだれかである)。
ではこれをどう改革するか――まず体験的に与えられる内容以上のものは決して語らないというスタンスは変えたくない。これは経験を重視するというスタンスでもある。だがこれでは対象について記述できなくなってしまう。しかしこれは基本スタンスに反するのではないか。そして理念化抽象、つまり本質というものもいまやろうとしていることが学問である以上必要であろう――フッサールはこの課題に挑み、最後には「形相的還元」「超越論的還元」に行きつく。形相的還元は理念化抽象のことであり、本質をあぶりだすものである。だがここには制限的還元はもうなく、代わりに超越論的還元があらわれている。
制限的還元がもたらしたものは、経験的・実在的連関からの体験の切り離しであった。それによって目の前に残るのはそういう意味で具体的なだれというわけでもない非実在的なもの、本質であると考えられていたわけだ。だが、非実在的なものであればすなわち本質なのだろうか。……フッサールは『論理学研究』を終えて、現象学は本質を扱うから心理学とは違う、とはいいそれを強調しはするものの、あまり決定的に区別できているとは思えないようになっていった。
これを解決したのが、いわばデカルトの発想である。つまり、《わかっていないことを理解するためにわかっていないことを引き合いに出したらダメ》ということの徹底である。疑わしいものはすべて正しいのか間違っているのかも含めて判断を留保していかなければならないだろう。だが、なにもかもわかっていない状態におかれて、いったいそこから何をはじめることができるのか。デカルトのいうように自我だけがたしかなのか。いやこれも疑わしい。認識がなんであるのか、どうして成り立っているのかもわからない―――だが、明らかな認識がある。というより、それ以上その理解を問うことが不可能な認識というものがある。それは、私が認識しているという認識である。それが錯覚や幻覚であろうがなんであろうが、それがそのように見えているということを「疑わしい」と言われても仕方がない。こうした意味で与えられるといえるもの、そのような仕方で直観されるものへと足場を固めることこそ、後年、「超越論的還元」とよばれる手続きである。こうして与えられた体験は、個体化されたある人間がもつ何かとしての体験のような、《内的経験》ではない。それが心的であるという判断もまた留保されなければならない。それは物的でも心的でもない、かといって神秘的なものでもない、いままさに体験されてしまっているものである。ここで強調されているのは意識と心の区別、特に認識論と心理学の区別であり、今や絶対的な意味で、現象学と心理学は区別されたこととなるのだ。これを体験あるいは現象、もしくは、「純粋現象」という。純粋現象は本質とは一切関係がないため、《本質だから心理学じゃない》という制限的還元はもはや不要なものとなっている。
さて、たしかに純粋現象は本質の話とは関係がない。ただ、本質に限らず、なにとも関係がないように見える。純粋現象は流れのようなもので、個別的・一回的である。時間的・空間的にこれとこれは異なるともいえない。『純粋現象は、それ自身としては一回的であり、絶対的に個体的であり、いかあんる意味においても一般者ではないのである』(""フッサールにおける超越論現象学と世界経験の哲学””佐藤駿著)。だが私たちは学問がやりたい。ここでようやく本質という概念が登場し、方法的には形相的還元が取り上げられる。だが本質について語り出すことは、現象学の基本的なスタンスに反するのではないのか。ただ私たちがやりたいことは純粋現象の確定ではないし、概念的に規定することでもない。目的はあくまで純粋現象のなかにある本質と、それらのあいだに成り立つ連関を研究することである。純粋現象自体はつねに流れていくが、そこに含まれる色・音・判断・認識といったものについてなにかを語ろうとする。概念的に規定したいのはむしろその内容である。だがそうした一般者・本質もその流れのうちでたしかに直観される、すなわちそれ以上疑われてもしょうがないというレベルではっきりと見て取られる。
(つづく)