ホモ・サピエンスはどこかでことばを話し出した。
それは地域ごとの特色をもった《現地語》であり、いまもそうである。ただまだ書き言葉はない。書き言葉の起源は謎だ。どこかでだれかが文字を使い始めたのである。
ところで、世界中には文字を読み書きできない人々が多く存在している。日本の識字率も100%ではないのである。たとえば戦中・戦後に過ごした人は十分な教育が受けられなかったとされる。ユニセフのSDGsの目標の一つには読み書きの教育機会の提供が掲げられている。
文字の文化人類学
音声はすぐに消えてなくなるが、文字は消えない。記憶ではなく、目の前に残るたしかなものを手掛かりに、文明は蓄積を覚え、文脈から離れることでそれを検討する議論が盛んにもなったのは合理性や論理の精緻化をもたらした。こうした話し言葉から書き言葉への移行は意識の変化も生じさせていく。
私たちは本を読み書きすることがリテラシーと考えがちだが(「書物を正統視する」意識)、買い物リストなどの表も読み書き能力には違いない。リストの特徴は【それに向かって自らの行動を組み立てようとする】ことだが、より重要なことは、【本来は互いにつながりあっているものをそれぞれ独立に切り離す】ことでもある。こうした境界線を引く操作は体系的に物事を整理分類し配置するには実に都合がいい。しかしジャック・グディは口承性の文化を歪めると批判する。つまり、境界線を引くことによって本来的に流動的なものを固定化・硬直化させてしまうのである。実際に読み書きのできる「紙上の世界」を生きる人々が、いかに現地民の流動的な経験世界を捉え損なっているかを論じたのがホーキンズの研究をみよう―――それは民族アイデンティティと結婚の定義の硬直化について書かれている。実は日本でも明治政府が「複名」と「改名自由の習俗の禁止」をし、戸籍として固定化しようとしたのだが、それと似ている。その土地の複雑さ・多様さを覆うにはあまりにも文字文化はおかたいのである。
北西ガーナのロガダアという民族は王や首長などの統治者を持たなかった。彼らは非常に多くの名で呼ばれていたが、イギリスによって居住地域が植民地にされると管理のために民族名は統一され、首長を任命し、法を定め、統治しようとした。さらに、こうした管理は婚姻や姦通・かけおちを見かけ以上にスキャンダラスに演出する。イギリス人たちの性道徳はもちろんロガダアのものとは違ったが、それを押しつけ、「結婚」を定めた。だが、現地では、一緒に暮らす男が気に入らなければ女は自らの意思で別の男のところに行くものであり、そもそも婚姻の概念がない。ただ気に入った相手と女が一緒にいることがあり、住まう場所を変えるだけがあった。だが「結婚」によって夫は法的権利を得、父親は生物学的父親であり、そうして生物学的に正当な子ども(嫡子/非嫡子)という区別も生まれた。
グディが口承文化/文字文化と分割したのに対し、マーシャル・マクルーハンは文字文化をさらに写本文化/活字印刷文化に分けた。
(つづく)
普遍語と翻訳による「国語」
代表的で、非常に影響力の強いものは『聖書』のラテン語、『コーラン』のアラビア語、古典ギリシャ語、パーリ語、漢語などであるが、自由自在に操れるものは少なかった。だがそれを習得しようとする傾向は、宗教としても、叡智としても、つねに生まれ続けていた。ほとんどの場所には文字文化などなく、つまり、ほとんどの人類にとって書き言葉とは外の文明から伝来したものであった。伝来した書物や巻物はただちに広まるわけではない。それを読めるようになることでいろいろな本を読むことができるために、ぽつぽつと「読める人」が生まれる程度である。書けるようになっても、まさか現地語を表現するのに使おうとは思わない。
現地語の新たな書き言葉は、このような《普遍語》を翻訳する過程で生まれる。
現地語で読み書きしようという動機が生まれるのは単一の原因ではありえない。『創造の共同体』においてアンダーソンは、グーテンベルク印刷機による大量生産と資本主義の充分な発達が、商業的に読者をひろく獲得するために翻訳という行為をつよく促進したのだと書いている。選定される現地語としては層として厚いところがよく、そうした出版語が固定され様々な出来事を経ていくうちに同じ共同体に属するというナショナリズムを醸成していく。《国語》の誕生である。自分たちのことばで自分たちの気持ちを表現する「国民文学」は、大きな貢献をした。ただ普遍性を重んじる学問においては使用されるメインの言語は普遍語であり続けた。