個別科学(時空的で因果的な「レアルな学問」)に前提されている諸々の形而上学的前提に根拠を与えるためには、これらの科学に依拠しないような学問が必要とされる。自然科学と心理学はどちらも外界が存在し、性質を持った多様な物がそのなかで因果的に相互に関連するといったさまざまな前提を不可欠なものとする。もちろんそれらの前提は整合しないことが発覚すれば改訂されるだろうが部分的なものにすぎないし、懐疑的な見方によって容易に揺るがされる。このような懐疑に対してさまざまに提案された形而上学的立場は、いずれもが意識を超越した世界の関係について何事かを述べるのであるが、しかし、意識と独立に成立する存在に対してなにかを言い当てることがそもそも可能なのはなぜなのかという認識論的問題が浮上する。
ただ数学に関して考えればわかるように、一般的な学問に共通するものは「レアルな現実世界についての認識を与えてくれる」ことではなく、「真理についての認識を与えてくれる」ということだろう。学問一般の前提を明らかにするためには真理と把握の可能性の条件を考察しなければならず、外界の問題は特殊な問題となるだろう。つまり、真理とは何なのかというようなもっとも一般的な議論は、レアルな現実世界に何がどのように存在するのかという形而上学的主張に対して中立的なのである。もしも学問的真理の客観性が確保されていなければそのもとで形而上学的認識について議論しても仕方がない。形而上学に先行するこうした課題を包括する学問を「学問論」と呼ぶ。
学問論の課題は「学問的真理の可能性の条件」「そうした真理の把握としての認識の可能性の条件」の二つある。ただ真理を手に入れることそれ自体は学問を手にすることではない。学問とはリストではなく体系的にまとめられた統一的なもので論理的な帰結関係をその一般的な要件とするものである。すると論理学というものは学問論にとってきわめて重要な意義をもつことがわかる。学問論内部にある論理学を《純粋論理学》と呼ぶ。これが研究対象とする根拠づけ関係とはいったいなんなのか? 論理法則とはいったいなんなのか? ―――フッサールは論理法則をわれわれの心理作用と同一視する心理主義者に反対し、それが心的作用の内実をなす客観的な存在者であると主張する。
論理学とはなにか:心理主義批判
論理学について、フッサールはそれが理論的な学問と考え、実践的な学問(技術学)であるとは考えていなかった。すなわち、それは真理を獲得するための、あるいは誤りを避けるための技術の集大成が論理学だという考え方を採らなかったのである。まず反対する見解を否定しておこう。
測量という技術は建築に役立ち、幾何学という理論的学問がある。これと同様に、論理学が技術学というならば理論的学問を基礎に持ちそうだ。論理学の場合はなにか。たとえば複雑な計算をするために因数分解の式を利用して簡単にする技術を高校生ならばやらされるものだ。これは人間が複雑な計算にあたる場合に間違いやすいという心理学的事実により、正しい計算をするという目的に即して一つの工夫を述べたものである。人間の標準的な計算能力がはるかに高かった場合、別にそのような工夫を練る必要などなかった。つまり人間の偶然的な、経験的な心理学的事実を基礎に持つ論理学が類比的に考えられる。たしかに論理法則をリストにしてまとめておくことは、人間の間違いを訂正するのにたいへん役に立つ。AならばBということが成り立つからといって、BならばAが成り立つとは限らない。だが人はよく間違えてしまう。論理学にはそういう技術的な側面もあることは間違いない。――しかしだからといって、論理学は技術学であり、技術学でしかないのだといってしまうのは早計過ぎる。
フッサールはこの点について論証しているが、結論からいうと、その論証には不十分な点がある。彼は「少なくともいくつかの論理法則はアプリオリな法則である」と前提してしまったからである。心理主義者を相手にこんなことを前提しても「いや、論理法則はすべて経験的だ」と言われて終わりだろう。フッサールは自分の主張を正当化しなければならない。なぜアプリオリな論理法則があるといえるのか?
この論証は超越論的論証と呼ばれている(p.56 真理・存在・意識: フッサール『論理学研究』を読む)。学問というものは合理的思考によって進められる。思考が合理的なのは論理法則によっているからである。合理的思考が可能な条件として経験によらないアプリオリな論理法則がなければならない―――しかし、これは論点先取ではないか。なにしろ論証なのだから、論理法則がアプリオリであると示すために使っている論理法則はいったいなんなのか。この議論を押し広げれば、そもそも論理法則の妥当性について議論すること自体無意味なことのように思われる。
フッサールは次のように反論する。「論理法則から推論する/論理法則にしたがって推論することを区別しなければならない」と。もし「Aだ。AならばBだ。したがってBだ」が論理法則からの推論であるならこの推論は正確には「Aだ。AならばBだ。Pという判断とPならばQという判断からQという判断を導く推論は正しい。したがってBだ」と書かれるべきであろう。だが厳密にいえば、この推論もさらに長くしなければならず、その操作は延々と続く。つまり合理的思考は不可能だ。だがこの問題はフッサールのいう区別で解決できる。つまり「Aだ。AならばBだ。したがってBだ」のような合理的思考の合理性の根拠は「Pという判断とPならばQという判断からQという判断を導く推論は正しい」というように表現される規則なのだが、「Aだ。AならばBだ。したがってBだ」という思考とは異なるタイプのものであり、その思考は推論規則の一例でそうであるがゆえに正しいと考えるのだ。私たちの思考とは関係なく成り立っている「Pという判断とPならばQという判断からQという判断を導く推論は正しい」という論理規則こそ、フッサールが導きたいところのアプリオリな論理法則なのである。逆にもしこんなものがないのであれば、合理的思考は不可能だという話になってしまう。
さて、超越論的論証に納得するならば、心理主義を否定する論証を構成しなおすことができる。簡単だ。心理主義が正しいならすべての論理法則は経験的な、アポステリオリな法則のはずだ。しかし超越論的論証によれば少なくともひとつはアプリオリな法則が存在する。アプリオリな法則はアポステリオリな法則ではもちろんないので、これは矛盾である。したがって心理主義は間違っている。
そうとはいえ、超越論的論証によって示されたことは「アプリオリで、規範的な論理法則がある」ということにすぎない。認識、合理的思考というものはまさにそれが合理的である以上論理法則というルールに従ってなされるものである。だがたとえば数学というものは数やそれらのあいだに成り立つ関係を対象とした学問である。そこに登場する公理や定理は数学的思考がどのようなものであるべきかとは無関係である。つまり、アプリオリな論理法則も規範的なものに限られるわけではないと考えられる。
だが「たとえば」といったように、数学と論理学を並行的に考えることに問題がないと示されなければこの論証に意味はない。また仮に命題の構造や関係にかかわる記述的な論理法則があるのだとしても、それは規範的でもなければならない(でなければ無限に続き、合理的思考など不可能だろう)。
(つづく)
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