第一哲学・形而上学に先行する学問論
個別科学(時空的で因果的な「レアルな学問」)の諸々の形而上学的前提*1に根拠を与えるために、さまざまに提案された形而上学的立場は、いずれもが意識を超越した世界の関係について何事かを述べるのであるが、しかし、意識と独立に成立する存在に対してなにかを言い当てることがそもそも可能なのはなぜなのかという問題が生ずる。
客観的な学問的真理の把握についてその一般的な可能性の条件を考察する学科を《認識論》と呼ぶことにすれば、自然科学や心理学などの個別科学にかぎらず、数学などを含めた学問一般についても認識論的問題は形而上学に先行する。逆に、もしも学問的真理の客観性が確保されていなければそのもとで形而上学的認識について議論しても仕方がない。
形而上学的認識は経験科学としての自然科学が提供する真理に適切な解釈を与えることによって得られるのだから、形而上学の可能性は、学問的真理とその把握としての認識に関する一般的理論がそれに先行することによってはじめて保証されるのである。
形而上学に依存せずにそれに先行し、そのかぎりで形而上学から分離可能な課題を包括する学問をフッサールは《学問論》と呼ぶ。学問論の課題は①学問的真理の可能性の条件(《純粋論理学》)、②そうした真理の把握としての認識の可能性の条件(《認識論》)である。
純粋論理学について
ただ真理を手に入れることそれ自体は学問を手にすることではない。学問とはリストではなく体系的にまとめられた統一的なもので論理的な根拠づけ関係をその一般的な要件とするものである。推論が頻繁に登場しないような学問はまったく存在せず、論理法則はありとあらゆる学問において等しく適用されるのだから、論理学が学問論にとっての中核であることは疑いない。これを特に「純粋」論理学と呼ぶのは、論理学の対象をわれわれの心的作用と同一視する心理主義者を批判し、学問論はそのような心的な猥雑物とは関わらないとフッサールが考えているからである。まずはこの議論を確認し、論理法則を位置づけることとしよう。
論理学について、フッサールはそれが理論的な学問と考え、実践的な学問(技術学)であるとは考えていなかった。すなわち、それは真理を獲得するための、あるいは誤りを避けるための技術の集大成が論理学だという考え方を採らなかった。人間の推論能力が頼りないという経験的・心理学的事実が、間違えないようにするテクニックとしての論理学を必要としているのだということは紛れもない事実ではある。しかしだからといって、論理学は技術学であり、技術学でしかないのだといってしまうのは早計過ぎる。
フッサールは「少なくともいくつかの論理法則はアプリオリな法則である」といってこれに反論する。この論証は《超越論的論証》と呼ばれている(p.56 真理・存在・意識: フッサール『論理学研究』を読む)。すなわち、学問というものは合理的思考によって進められる。思考が合理的なのは論理法則によっているからである。合理的思考が可能な条件として経験によらない(アプリオリな)論理法則がなければならない、と。
- まず、論理法則の妥当性について議論すること自体、論理法則を使うのだから無意味なようにも思われるかもしれない。この点について、フッサールは次のように反論する。「論理法則から推論する/論理法則にしたがって推論することを区別しなければならない」と。もし「Aだ。AならばBだ。したがってBだ」が論理法則からの推論であるならこの推論は正確には「Aだ。AならばBだ。Pという判断とPならばQという判断からQという判断を導く推論は正しい。したがってBだ」と書かれるべきであろう。だが厳密にいえば、この推論もさらに長くしなければならず、その操作は延々と続く。つまり合理的思考は不可能だ。だがこの問題はフッサールのいう区別で解決できる。つまり「Aだ。AならばBだ。したがってBだ」のような合理的思考の合理性の根拠は「Pという判断とPならばQという判断からQという判断を導く推論は正しい」というように表現される規則なのだが、「Aだ。AならばBだ。したがってBだ」という思考とは異なるタイプのものであり、その思考は推論規則の一例でそうであるがゆえに正しいと考えるのだ。私たちの思考とは関係なく成り立っている「Pという判断とPならばQという判断からQという判断を導く推論は正しい」という論理規則こそ、フッサールが導きたいところのアプリオリな論理法則なのである。逆にもしこんなものがないのであれば、合理的思考は不可能だという話になってしまう。
さて、超越論的論証に納得するならば、心理主義を否定する論証を簡単に構成しなおすことができる。もし心理主義が正しいならすべての論理法則は経験的な、アポステリオリな法則のはずだ。しかし超越論的論証によれば少なくともひとつはアプリオリな法則が存在する。アプリオリな法則はアポステリオリな法則ではもちろんないので、これは矛盾である。したがって心理主義は間違っている。
超越論的論証によって示されたことは「アプリオリで、規範的な論理法則がある」ということである。たとえば数学というものは数やそれらのあいだに成り立つ関係を対象とした学問であり、そこに登場する公理や定理は数学的思考がどのようなものであるべきかとは無関係である。つまり、アプリオリな論理法則も規範的なものに限られるわけではないと考えられる。
フッサール曰く、規範的な論理法則というものは本質的には記述的な論理法則なのである。フッサールが言うところ、規範的な命題「AはBであるべきだ」はどれも「BであるようなAだけがC」であるという記述的命題とCによって表現される命題を善いものとみなす根本的な価値認定にもとづく。たとえば兵士は勇敢であるべきだというのは、勇敢であるような兵士だけが善いという記述的命題にもとづき、それはたとえば作戦遂行能力をもつのが勇敢な兵士だけだという価値認定を根拠とするだろう。作戦遂行能力を持つことに価値をおくのだから装備品を普段から手入れすることにも価値が認められ、……という具合に徐々に序列付けられていく(より一般的な価値はたとえば、市民の生活と財産を守る、ということかもしれない)。いずれにせよ価値認定は一般的な方向へと広がっていくものだ。『根本的な価値認定』とはその最上位のクラスに属するものである。こうした根本規範のどれが正しいかは、何かに価値があるとはどういうことかという目下の問題とは全く独立なものであることを注意しなければならない。認識に価値が認められる文脈において記述的な論理法則から転用されるわけである。実際、先の議論から、規範的論理法則が規範として機能する以上、それは真理の獲得に価値を認めるような根本規範のもとにあるときに限られる。すなわち、それは学問的な文脈である。もし認識が目指されないならば、論理法則は別に従うべき規範ではまったくなく、私たちは論理法則から自由なのである。論理法則というものは学問という文脈において、ある種、たまたま、規範的なだけで本質的には記述的なのである。
ところで、認識を通じて真理とそれらの相互関係を発見し、そうした真理が認識によって後代に再発見できるような仕方で保存されることによって、学問は特定の時代と地域における個人を超えた共有物となる、という。したがって学問的活動という文脈ではわれわれは明証的な判断だけを下さなければならない。すなわち、真であるものを真であるものとして判断しなければならないという要求が立てられる。「判断は明証的であるべきだ」という規範的命題は「明証的な判断だけが認識である」という記述的命題と認識を善いものとみなす根本規範から派生する。
認識論について
《認識論》とは、客観的な学問的真理の把握についてその一般的な可能性の条件を考察する学科であった。そして《認識》とは、ある命題が真であることを、その命題が真である理由の把握と共に判断することである。たとえば「素数が無限にある」ことを教師から言われたあとには、それを言うことについて先生から聞いたのだという理由を持つ。しかしこれは「素数が無限にあると知っている」と言うための理由であって、「素数が無限にある」ということそれ自体の理由にはならない。理由を実際に把握しながら、それにもとづいて判断をくだし、それによって知識を獲得することこそ、《認識》と呼ぶものである。
われわれは認識を通じて真理とそれらの相互関係を発見し、そうした真理が認識によって後代に再発見できるような仕方で保存さえることによって学問は特定の時代と地域における個人を超えた共有物になるというのである。したがって、学問的な活動という文脈、あるいはより一般的に判断を下すことが必要とされている文脈では、われわれは明証的な判断だけを下されなければならない。
認識は明証的であるという特徴を持つ。つまり、あらゆる判断についてそれは真であるものを真であるものとして判断しなければならないという要求を満たす。明証的とはすなわち、明らかである、ということである。判断が非推論的な仕方で経験にもとづく事例における判断は明証的である。たとえば、目の前の光景の知覚にもとづいて「このテーブルは丸い」と判断するようなケースである。推論にもとづく判断が明証的であるのは、明証的な判断からの妥当な推論にもとづいて下される場合に限られるだろう。学問的な認識においては、少なくともそれが明証的でないなら認識とは呼べない。認識は明証性をともなった独自のタイプの体験である、ということを確認しておこう。
個別の思考する存在者であるわれわれにとって認識がそもそも可能であるためにはそれ相応の能力を有していなければならない。これは認識一般の可能性の条件である。真理や論理法則に即した思考を行うことというきわめて一般的な事柄にしか関わらないのであるから、その条件も、たとえば二足歩行ができるなどといった認識主体が偶然備えているにすぎない能力に左右されないものであるに違いない。換言すれば、これはアプリオリな条件なのである。すなわち、認識体験を持つ可能性がアプリオリな規範によって規制されているのだから、その規範によって要求される条件を満たすために最低限必要とされる事柄もまたアプリオリである。人間としての偶然的な特徴はすべて取り除かれ、ただ認識主観として捉えられたわれわれについてそれがどんなアプリオリな特徴を持つのであろうか。われわれはこれを《客観的認識論》と呼ぶ。
客観的認識論は純粋論理学の仕事とは決定的に異なる。たとえわれわれの研究が進み、論理学についての完全な理論が手に入ったとしても根拠づけの究極の基礎は数学の公理と同じく無根拠なものである。論理学の基礎的な諸命題についてはそのような無根拠さを仮に認めたとしても、自然科学においてはそうはいかない。われわれはいつでも、容易に、その個別命題を疑うことができるし、誤りうる。無根拠ではありながら何らかの理由を持たなければならない、という状況にあるのだ。どれだけ純粋論理学が進展しようがこの問題に純粋論理学の立場から回答することは何もない。
論理学者の課題・哲学者の課題
次に、フッサールは三つの課題を示す。
- 純粋多様体論:統一をもった客観的理論一般の可能性の条件を考察する理論。真理のある集まりが「理論」と呼べるほどの統一性を持つための形式的特徴についての探求。すなわち、理論を構成する真理のすべてを少数の原理から演繹的に説明しつくすような理論的体系性。
- 形式的存在論:対象のカテゴリーないし存在論的カテゴリーについての探求。たとえば命題には事態が対応するように、意味の水準において問題になるカテゴリーには、対象の水準におけるカテゴリーが相関する。
- 純粋蓋然性理論:帰納的な導出関係についての理論。学問論は自然科学にも適用される。フッサールは学問論のモデルを数学のような公理的学問においているため、自然科学の理論的統一性も少数の自然法則がその他の自然法則を導出するような構造を持たなければならない。ただもちろん自然科学は常に改訂の可能性に開かれており、公理的な理論とは異なる性格をもつことも事実である。だからこそ「演繹」ではない導出関係の研究が求められているのである。
ただこれらの課題は特に(数理)論理学者に託されるもので、やはり主だっては数学者が完成させる仕事である。ただ哲学者はそうした成果では満足できない。完全な理論的洞察を得るためには、自然科学者たちが扱う基本的な概念が本質的にはどのようなものであるのかを解明しなければならないのである。これをフッサールは《認識批判》という。ただ注意しなければならないのは、基本概念を解明する哲学者の仕事によって理論がまともな理論になるのだと言っているわけではない。そうではなく、探求を続ける以上、たとえ科学者であっても基本概念の解明を行う哲学者の仕事をなさなければならない、ということである。『フッサールの見解から学問の基礎づけに関する強すぎる主張を読み取ることは、少なくとも『論研』期が問題とされるかぎりでは、あまりにも皮相な解釈であると思われる』(p92 真理・存在・意識: フッサール『論理学研究』を読む)。
さらに《客観的認識論》も哲学者の仕事に加えられる。
現象学という方法
ブレンターノの記述心理学
フッサールは課題を果たすための方法を、ブレンターノの記述的心理学から受け継いでいる。それどころか、『論研』においては、記述的心理学それ自体を《現象学》と呼びさえする。そこで、まずはブレンターノの記述的心理学を見てみよう。
ブレンターノは心理学を記述的心理学と発生的心理学に分ける。《発生的心理学》は、心的現象をそれが生成消滅する因果的条件から説明することを目的とし、《記述的心理学》は、さまざまな心的現象について、それらの究極的な構成要素を突き止め、心的現象のそれぞれが構成要素のどのような組み合わせによって成り立っているかを研究する。この研究は心的現象を原因に遡って説明するのではなく、現に成り立っている心的現象の構造を要素に分解することで進められる。記述的心理学の課題は、基本概念を解明し、が心的現象なのか、心的現象のそれぞれはどういうものかが明らかにし、発生的心理学の基礎を提供することである。
ブレンターノ曰く、あらゆる概念の起源はわれわれの意識のなかにあるのだから、概念の解明はそうした意識に登場する経験を分析することによって行われる。そしてそれは私によってのみ直接アクセスできることなので、他の人と共有可能な形で分析を行うためには、その概念の起源となる経験の種類を突き止め、必然的に成り立つ一般的特徴を析出し、正しい判断や情動の具体例をいくつか出すことで、誰もがそれについてチェックできるようにしておく必要がある。……
ただちに問題になるのは、なぜ個別の体験を分析することで論理学の概念の解明が行われることになるのかである。あらゆる概念の起源が意識のなかにある、という言葉が引っかかるのである。
スペチエス説へ
これまでのあらすじを確認しておこう。論理法則はそれ自体では命題のあいだに成り立つ導出関係についての記述的法則であるが、特定の文脈においては思考や判断に関するアプリオリな規範として捉えられた。しかし、ところでわれわれが「命題を把握する」とはどういうことなのだろうか。なにしろ命題というものは無時間的な、イデア的存在者である一方で、われわれの思考は時間のなかで生じては消えていく。いったい命題というのは正確にはどのような身分で、個別の体験とどのように関わるのだろうか―――この問いに対するフッサールの答えを見ることが、記述的心理学の方法に通じていく。一言でいえば、『論研』のフッサールは《命題のスペチエス説》という考え方を採用するのである。
これを正当化するために指向性理論をみなければならないが、実は、『論研』におけるスペチエス説はじゅうぶんに正当化されているとは言い難い。スペチエス説をなぜ導入するのかという動機や、スペチエスという概念については明確になるのだが、なぜ数ある他の説のなかでスペチエス説でなければならないのかという点については不明瞭なのである。フッサールは形而上学的中立性から実際に存在する対象について言及することを避けスペチエス説に進むこととしたが、後に、この慎ましさが緩和され、現象学的還元という道に至ることになる。その道行をみるためにも、まずはスペチエス説を導入することにしよう。そしてそのために、まずは指向性理論について検討しておく必要がある。
指向性理論概観:スペチエス説のために
対象理論と内容理論
ある個体がどの特定のクラスに属するのか、あるいはある個体がどの個体であるのかを指摘することを《個別化》といい、前者をゆるい、後者を厳格な個別化と呼ぶ。つまり何かがある特定のグループに属するのだと指摘することと、そのグループにおいてそれが他とどう区別されるのかという違いである。
物的なものの個別化は、対象を精確に記述したり、時空間における位置を示すことによってなされる(たとえば「むこうにいる黒い帽子をかぶったあの背の高い男」)。一方、心的作用=心的経験=心的出来事の個別化は、その作用がだれの作用でいつ生じるのか、あるいは作用を精確に記述してひとつの作用にしかあてはまらないようにすることによってなされる。興味深いのは後者で、これを《質的個別化》と呼ぶ。心的作用に関する質的個別化が、たしかに単独の心的作用だけにあてはまると確信できるまでに至るのはきわめて困難であるが、不可能だという理由もない。
- (対象)そもそも心的作用とそれ以外を区別する特徴として持ち出されるのが《指向性》である。つまり、心的作用だけがその作用の対象の像を含む。心的作用だけが対象を指向する。海底の石はなんらの像も含まない。また仮に猫の写真であっても、それが猫の記号として解釈するためには人間が必要である。
- (心理学的様態)そして同一の対象に対しても、たとえば猫を見る・思い出す・愛する・憎む等々の様々な指向の仕方がある。逆に、猫を見る・木を見る・牛を見る等々のようにさまざまな対象に同一の指向の仕方がある。
心的作用の質的個別化は①対象、②心理学的様態の記述によって示されるように思われる。肝心なことは、心的作用を個別化するためには対象を知ることだけでは不十分で、だれかが猫を指向しているとわかったところで、思い出しているのか、好ましいのか、嫌っているのかを知らなければその猫に関する心的作用について特定したことにはならない。
質的個別化によってなされることはゆるい個別化である。つまり、心的作用のタイプの個別化である。実際、思い出すという心的作用を厳格に個別化するにはそれが誰の作用か、いつの作用かも記述しないといけないだろう(こうして個別の作用を取り出すことを《ピック・アウトする》という)。ただしその種の個別化は質的なものではないことには、明らかなようではあるが、注意しなければならない。作用の担い手は作用の性質ではないからである。
ところでここに哲学的な問題がある。
心的作用の質的個別化にあたって、対象と心理学的様態の二つに触れた。だがここでいう「対象」というものは心の内部にあるものなのか、それとも心の外部にあるものなのか、どちらなのだろうか。この発想のもとでおおまかに区分けすれば、対象が外部にあると考える指向性理論を《対象理論Object Theory:OT》、内部にあると考えるものを《内容理論Content Theory」CT》と呼ぶ。ただし、両方ともが心理学的様態の役割について認めていることは注意すること。そのうえで、正確にはOTとCTは次のような違いによって区別される。
【OTのテーゼ】
(OT1)心的作用が指向的である⇔心的作用が対象を持つ
(OT2)その作用は対象によって個別化される
【CTのテーゼ】
(CT1)心的作用が指向的である⇔心的作用が内容をもつ
(CT2)その作用のために対象をピックアウトすることが内容の仕事である
(CT3)対象のない心的作用が存在する
(CT4)心的作用はその内容によって個別化される
CTについて注意すれば、CTにおいても、心的作用はその内容に向けられているのではないという点である。あくまで、心的作用はその内容を介してその対象に向けられている。CTが強調するのは内容というものが心的作用を対象に向けるはたらきをしているということなのである。OTはペガサスなどの実在しない対象はどうするんだという批判に対応するために、「ペガサスを想像するときの対象とは心のなかのイメージなのだ」ということがある。そうするとあたかもOTとCTの差異が消し去られてしまうようであるが、実際にはそうではない。単純に、OTには内容という役割をもったものがないからである。CTは、「ペガサスという対象はないが、それがどういうものかという内容を持っているのだ」ということで、実在しない対象についての批判を軽々とかわすことができる。CTからいわせれば、心的作用を対象に「向ける」のに、わざわざ対象を持ってこなくても、内容を持ってくれば事足りるのである。
ブレンターノの指向性理論:対象理論
初期ブレンターノの指向性理論は、物的なものと心的なものの区分けのためにまず導入される。注意すべきなのは、そこにおける対象は心の中にあるということだ。そうすると太陽を知覚するというときも、その対象は心の中のなんらかのイメージということになる。つまり、彼は対象理論の信奉者であり、どの心的作用の対象もイメージであるがゆえにどの心的作用も対象を持つのだと定めた―――すると、ケンタウロスを想像するという作用は、心の中のケンタウロスに向けられている。その心の中のケンタウロスは驚くべきことに、彼によれば、物理的現象である。なぜなら心的なものは指向的であるから、心の中のケンタウロス自体は指向的でない以上、物理的なものでなければならないからである。イメージを心的なものとして考えるのは誤りであることが帰結する。
後期に至り徐々に考えは変わっていくものの、いわば《ブレンターノの原理=指向性とはまさに対象を持つことである》は変わらない。ブレンターノの学生たちはこの原理に忠実であったが、ヘフラーという学生が「対象」と「内容」を区別し、作用・対象・内容というCTの基本的概念を明晰に定義した。彼は①実在しない対象、②二つの内容に一つの対象があること、などをこれらを用いてたやすく解決することもできただろうが、ヘフラー自身はこのことを問うことさえしなかった。だが十全な指向性理論を建築するためには、実在しない対象への扱いと、同一の対象を二つ以上の異なる仕方で指示できる問題を説明できなければならない。
ブレンターノの原理はヘフラーやトワルドフスキーやマイノングといった「対象」と「内容」を区別した学生でさえもその影響下に置き続けた。なぜ彼らはそこにこだわったのだろうか。少なくとも理由は二つあるように思われる。:
- 指向的であることと対象をもつことを同じことだと思っていたので、対象を持たないとなると心的現象を区別する手立てである指向性すら失うと恐れていたから
- トワルドフスキーもマイノングも心理学が基礎科学だという心理主義に反対していたため、心理主義が無視した「対象」に集中したから。
それは心理主義との戦いなのだ。
フレーゲとフッサール:内容理論へ
近世の哲学的意味論は、世界を対象化し客観化していこうとする思想を背景とした、啓蒙主義的言語観によって方向づけられている。これは、J.ロック『人間知性論』第三巻「思想はすべて人間自身の胸の内にあって、目に見えず、他人から隠されて(いる)、…したがって、人間は、自分の思想を作る目に見えない観念を他人に知らせることができる、ある外的可感的記号を見出す必要があった」(真理条件説と実在論 | CiNii Research)によく表れている。つまり、頭のなかの観念を表示してくれるのが記号なのだから、根本的には、考えるということは心理的・主観的働きであるという。ゆえに心理学というものの地位は格段に高くなる。
心理主義者は「ただ個別的な心や観念だけが存在し、普遍的に共有される意味など存在しない」と言う。これに戦いを挑む者《概念実在論》は、「個別的な観念のほかに、間主観的に共有される意味が存在する」のだという。トワルドフスキーやマイノングは個別的存在から独立した対象の世界を維持することで心理主義に特徴的な主観性から脱出しようとし、そしてそれが唯一の道であると考えた。だが、その対象の世界とはほんとうにわれわれとは独立なもので、いわばプラトン的な””別世界””に属する。これに対して、1892年ゴットロープ・フレーゲ『意味と指示について』では、主観性から脱出する領域として「内容」「意味」をとったのである。フレーゲの理論は心的なものではなく言語的なものであるが、作用・内容・対象という用語は、表現・意味・指示項という用語に直接の対応関係が認められる。心的現象を扱う最初の現実的な内容理論を扱ったのがエトムント・フッサール『論理学研究』である。
彼は「内容」というあいまいな語を「実的」「理念的」「現実的」という三つのレベルで明確にする。《実的内容》とは、いわゆる観念であり、個々別々の一人の人に属する心的出来事や状態である。このうち実的内容だけが作用の部分である。《理念的内容》こそ、抽象的な意味のレベルにある。実的な内容も理念的な内容は人間・動物・木・家などと同じように世界に存在しているわけではない。実的内容は意識の流れの中の存在である。最後の《現実的》が、世界の中に存在する個別的対象である―――まとめれば、作用が(理念的)内容をもち、(理念的)内容が(現実的)対象をピック・アウトする。これが、作用が対象を指示するということである。内容はいつも現実的対象をピック・アウトしなければならないわけではなく、存在しなくてもよい。そうすると、たとえば概念という理念的なものと関係を持つのは作用の部分であり、『あらゆる概念の起源が意識のなかにある』と考えるのも、きわめて自然なことなのである。
つまり、指向的対象は、場合によっては存在しないが、現実の対象である。現実的対象について語ることは何らかの形而上学的含意を持つのだから、「それ以前」の学問を求めているフッサールにとって指向的対象そのものは使用不能である。こうして、概念の起源は作用の内部に還元される。
スペチエス説という「前提」
われわれはすでに《スペチエス》=普遍的なもの・タイプと出会っている(《イデア的個別者》ともいう)。
作用を《作用質料》と《作用性質》に分解するのだ。たとえば「火星人がいる」ということについてAさんが信じており、Bさんが疑わしく思っているとき、AさんとBさんは作用性質を異にしているが、作用質料を同じくしている。「金星人がいる」ということについてCさんが疑わしく思っているならば、BさんとCさんは作用性質を同じくしているが、作用質料は異なる。すなわち、《作用質料》は「作用がそのつどの対象性をどのようなものとして統握するかを規定する属性」である。《作用性質》は、心理的様態のことである。作用質料と作用性質は作用一般が持つ区別であり、どちらか一方を欠くような作用は存在しない。この作用質料・作用性質という区別は、実的内容のレベルでなされる。これを理念的内容のレベルに並行させれば《理念的質料》《理念的性質》ということになる―――そして理念的質料こそ、スペチエスである。命題とは理解するといった作用(””意味付与作用””という。後述)が有するスペチエスのことである。
先述したように、フッサールは形而上学的中立性を守るために現実的対象について言及することができない。ゆえに残された選択肢は作用と内容ということになる。作用は実的内容によって構成される、時間とともに生成消滅する心的出来事である。仮に内容が普遍的なものでなければ、手元に残るのはすべて生成消滅する出来事ということになる。すると「ピタゴラスの定理」といったものも、当然客観的なものではなく、少なくともそのときどきに正しかったり、正しくなかったりするものでしかなくなってしまう。そして、生まれては消える出来事をもとにこの客観性自体を証明するのはひどく困難な道のりである。すなわち、形而上学的中立性を守りつつ学問的な普遍性を保つための方策として取り出されたのが、スペチエス説という、「前提」なのだ。ただやはり、この方策でなければならないという意味での正当化は為されていない。
そうとはいえ、命題あるいは意味を理解してそれについて語ること自体は日常的にありふれたことであるのは間違いない。だから普遍的なものとして命題や意味を見ることがただちに不当だといわれる筋合いはないわけだ。ここで与えようとしているのは、そうしたものを前提したうえでの、普遍的なものを把握する体験の分析である。
改めて、反心理主義
こうしてわれわれはブレンターノの掲げる記述心理学の概要:「あらゆる概念の起源はわれわれの意識のなかにあるのだから、概念の解明はそうした意識に登場する経験を分析することによって行われる。そしてそれは私によってのみ直接アクセスできることなので、他の人と共有可能な形で分析を行うためには、その概念の起源となる経験の種類を突き止め、必然的に成り立つ一般的特徴を析出し、正しい判断や情動の具体例をいくつか出すことで、誰もがそれについてチェックできるようにしておく必要がある。」に戻ってくることができた。
ただ概念を解明するために個別の作用を分析するという手法は、いかにも心理主義的に見える。最後にこの点を解きほぐそう。まずフッサールは次のような原理をたてる(注:「明らかに一般的同値関係が成り立つ」といわれているが、左から右をどう証明するのかがぼくにはわからない)。
(TE-1)pという明証的な判断作用が遂行可能である⇔pということは真である
上の原理が成り立つからといって人間の思考を調べ上げれば真理が浮かび上がるわけではない。なぜならこれは《可能性》の話であり、心理学的にはまったく不可能なことであっても、つまり、人間の能力をもっては捉えることができないようなものであっても、””理想的にいえば””、存在しうるような真理について語ることを許すからである。すると、一見して人間の思考能力に真理を限るかのように見られた上の原理は、むしろ逆に、実在論的な真理を主張しているといえるだろう。
この場合の、理想的にいえば、とはどういう意味だろう。全知の神の視点に立つことだろうか。だが全知とは結局、「すべての命題の真偽を知っている」ということ以外ではありえないのではないか。すると、次の原理も認めることになる。
(TE-2)pという明証的判断が可能であるのは、pということは真であるからである。
真理が妥当するかぎりでわれわれがそれらを洞察できるのであって、逆ではないことを主張している。このことはより一般的に「赤」という性質についてもいえるだろう。赤いセーター、赤いトマトなどが共通してもつ「赤」という普遍的性質(《スペチエス》)について、
Fであるようなどんなものについても、それが存在することは可能なのは、Fであるという性質がスペチエスとして存在ないし妥当するからである。
なにが赤いか、特に「トマトが赤い」といった命題が真であるかどうかはわれわれとはまったく無関係である。このことが、体験を分析するフッサールの哲学を心理主義に引き戻せないようにしている。人間には把握することができない真理が数多く存在することを示唆する。われわれがもつ明証的判断が真理の例であるかの判定は、イデア的に(理想的に)可能なあらゆる真理の例と共有する特徴を備えているかどうかだけによてなされる。理想的といわれる以上、心理学に立ち入れる領域ではない(非経験的)。
認識の現象学
フッサールはブレンターノ記述心理学の枠組みのなかにありながらも、指向性理論に限ってみても、それを踏襲せず批判的に継承していることがわかる。しかしそれとは別に、彼の《現象学》はブレンターノ記述心理学と「言語」という点で袂を分かつ。
それは解明が与えられるべき論理学の基本概念に””命題””があり、命題が言語的に表示されていることからも要求される。彼は命題を言表文の意味として導入するため、思考や判断といった体験を分析することの少なくとも一部は、そこに構成要素として含まれる言語表現を分析することによって進められると考えられる。この考えはブレンターノが「言語表現そのものの分析を、それによって表現される体験そのものが持つ構造の記述的心理学的分析に従属させる」こと、すなわち、言語表現の分析は後の話だと脇に置いているのと対比がある。フッサールの考えは、言語を有意味に使うことそのものを、意識体験として分析可能なものとみなした点において新しい。
さて、「真理」などをはじめとした論理学的基本概念の起源は《認識作用》であろう。上述したことを再度書き直す。:
《認識》とは、ある命題が真であることを、その命題が真である理由の把握と共に判断することである。たとえば「素数が無限にある」ことを教師から言われたあとには、それを言うことについて先生から聞いたのだという理由を持つ。しかしこれは「素数が無限にあると知っている」と言うための理由であって、「素数が無限にある」ということそれ自体の理由にはならない。理由を実際に把握しながら、それにもとづいて判断をくだし、それによって知識を獲得することこそ、《認識》と呼ぶものである。
認識は明証的であるという特徴を持つ。つまり、あらゆる判断についてそれは真であるものを真であるものとして判断しなければならないという要求を満たす。明証的とはすなわち、明らかである、ということである。判断が非推論的な仕方で経験にもとづく事例における判断は明証的である。たとえば、目の前の光景の知覚にもとづいて「このテーブルは丸い」と判断するようなケースである。推論にもとづく判断が明証的であるのは、明証的な判断からの妥当な推論にもとづいて下される場合に限られるだろう。学問的な認識においては、少なくともそれが明証的でないなら認識とは呼べない。認識は明証性をともなった独自のタイプの体験である、ということを確認しておこう。
学問的探究において言語の使用が本質的であるために、認識作用には言語表現そのものが含まれる。つまり、認識作用は有意味な言語使用によって遂行される作用の一種である。さらにいえば、《認識作用》は、《表現作用》つまり記号を有意味なものとして使用ないし理解する際の体験の特殊例である。認識作用は表現作用からどのように種別化されるのだろうか。それをみるためにまず表現作用一般について考えることにする。
指標と表現
フッサールのいう「記号」概念は広い。①意味を介して対象を指示するもの、②無意味なもの(ポピ♨ウウエ☀)にとどまらず、③意味を介さずに対象を指示するというものも想定されている。①は《表現》、③は《指標》と呼ばれる。指標を指標として把握する際の体験を《指標作用》と呼ぼう。たとえば数件となりの家からたちのぼる煙をみて火事だと思うとき、煙は指標である。これは日本語など言語を知っている必要はない。煙を火事の指標として把握したのは、その人物が煙が存在することを信じており、その信念が煙の発生源である家が燃えていると信じることを動機づけたからである。
ここで議論の中心になるのは表現と表現作用である。ただ、表現が登場する多くの場面では表現が指標としても機能する点が問題となる。「ここは危ない!」と言われるとき、日本語において解釈されその意味が理解される。一方、それは何かを自分に伝えようとする意思を相手に認める指標にもなっている(相手が何を話しているかわからなくても何かを伝えようとしていることはわかる)。表現を表現にしている何かを特徴づけるためには、指標に関する要素を除外しておきたい。
表現が指標としての機能を発揮しない事例は「内語」(心の中の言葉)である。この際、頭の中で使われた言語記号は現実には存在せず知覚可能ではないため、伝達という機能を持たない。逆にいうと、伝達のためには表現は存在し知覚可能でなければならないとはいえ、ある記号が表現であるためにそれが存在する必要はない。つまり、表現作用において本質的なのは言語記号そのものではなく、それを知覚する体験だということになる(もちろん、言語の根源的使命は伝達であるが)。
表現作用の構成要素
表現が意味によって生かされている以上、表現にとって本質的な作用を《意味付与作用》という。たとえば「雨が降っている」という文を読み、あるいは聞いてそれを理解するというケースを考えよう。いずれも印字された記号列を見たり、音を聞いたりする知覚作用が含まれている。だが「理解する」という体験そのものは印字されているものを目で追う体験に尽きるわけではない。というか、われわれは字を見ているのではなく、まさに読んでいるのである。すなわち、物理的現象の単なる知覚とは異なるある独特な指向的体験が生じている。
意味付与作用も指向的体験であるから、質料と性質を持つ。そしてもちろん、意味付与作用にとって対象が存在するかどうかはまったく問題ではない。また、「イエナの勝者」「ワーテルローの敗者」の意味が異なるというのは、それぞれの質料が異なるということである。これらの表現によって同じ一つのナポレオンについて語っているのだが、意味する仕方が異なる。
また表現作用にとって本質的ではないにせよ、表現の対象的関係を顕在化するという点で論理的に根本的な関係にある作用を《意味充実化作用》という。だれかが「雨が降っている」と言うのを聞き、理解し、雨が降っているのを実際に見、たしかにそうだという意識が生じるとき、われわれは「言われていること」と「見ていること」の同一性を体験している。すなわち、意味作用の質料と知覚作用の質料の同一性である。これが《充実化》である。逆にいうと、晴れ渡った青空を見て「雨が降っている」というものの充実化は生じない。「丸い四角」も決して充実化されない。ただこの充実化不可能性は決して偶然的なものではなく、意味付与作用の本質に属する。意味付与作用はその質料や性質に従って、必然的に、ある直観作用に対応している。意味付与作用と直観作用の「質料」の同一性だという点に注意が必要である。たとえばアヒルにもウサギにも見えるアスペクト図形を考えよう。「これはアヒルだよ」といって相手に見てもらったとき、なるほど誰でも同じ一つの図形を見ているのであるが、相手がそこにウサギしか見れない場合は充実化など生じない。
意味付与作用と意味充実作用はそれぞれスペチエスをもち、それぞれ区別される。そこで、《端的な意味》=意味付与作用に例化される意味、《充実する意味》=意味充実作用に例化される意味と呼ぶことにする。
- ところで「丸い四角」が端的な意味を持つことは明らかだが、充実する意味などありそうもないように思える。これは単に存在しない以上に、そもそも存在することがありえない対象である。フッサール自身も「丸い四角」がありえないことを認めているが、すると充実する意味も存在しないということなのだろうか? ――この点に関しては、言葉遣いを整理することで解決できる。すなわち、充実する意味の不可能性は、充実の一形式であり体験のなかで把握されるものである。
認識作用
表現作用については以上の通りである。こうした考察を経て、表現作用の特別な形態である認識作用についても輪郭を与えることができるだろう。認識作用は命題的な構造を持った言表作用(言表文を使用すること)のうち、当該作用の構成要素に意味充実作用が加わっているものである。ピタゴラスの定理は叙述分の形で書かれ、その内容を意味する。そしてその普遍的存在者=スペチエス=イデア的個別者である〈ピタゴラスの定理〉を直観し、言表文によって意味されているものと〈ピタゴラスの定理〉の同一性を体験し、充実化することによってそれを認識する。言表文が働かせる意味付与作用の充実こそ、認識作用の遂行である。認識作用の遂行とは意味付与作用に直観作用がくっつくことではなく、充実という仕方で統一することである。
『論理学研究』の問題点と乗り越え
問題点
- 第一の問題:対象が存在しないかもしれないのに認識について語るのか?
現実に存在していなくてもよいということは幻覚でもよいということである。ある対象を実際に知覚する場合と質料・性質を同じくし、単に対象が現実に存在しないだけという場合も、意味付与作用は充実化される。それのどこが「真理」なのか?
- 第二の問題:全く同一の心的作用が異なる対象を指示することがありうる
これはパトナムの思考実験にあらわれる。地球とまったく同様の双子地球を考えることにしよう。ただ一点、地球では水がH2Oという分子構成だが、双子地球ではXYZなのだ。そこにいる質的にまったく同じ二人が「水だ」と判断するとき、同じ一つの命題が真であるということを意味しない。しかし仮定上、二人の心的状態にはなんの差もない。
乗り越え
この二つの問題を引き起こしているのは、フッサールが「諸体験の領域」に引きこもっているからだ。なぜ引きこもるのか。それは形而上学的中立性を保つためである。彼はこれを受けて、『論研』の立場を変容させていくことになる。
*1:外界の存在、性質を持った多様な物がそのなかで因果的に相互に関連する等々…。それらの前提は整合しないことが発覚すれば改訂されるだろうが部分的なものにすぎないし、懐疑的な見方によって容易に揺るがされてしまう