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A Virtue Ethical Account of Right Action(Christine Swanton,2001)を読む

1.Introduction

目的

 徳倫理学は、「行為」を軽視・無視し「行為者」ばかりに焦点をあてていると言われる――このcommon viewはハーストハウス『徳倫理学について』第一章冒頭にも挙げられている。要するに、どんな行為をすべきかよりもどんな人であるべきかばかり話していて、なにが正しい行為かを全然教えてくれないよね、という意味だ。
 そこでこの論文でSwantonは、

I wish to show in particular that a virtue ethics can offer a criterion
of rightness that has certain structural similarities with act conseqen-
tialism.
徳倫理も、行為帰結主義(act consequentialism)と一定の構造的類似性をもつ正しさの基準を提示できるということを示したい

本文p.32

 類似点は以下の通り。:

  1.  正しさの基準は、行為の成功を、徳のある行為者の内的性質だけに完全に還元されない形で説明するものである。 ⇒ 正しさは心のきれいさだけでは決まりません。結果もきちんと見ましょう。

  2.  そのような基準は、行為の「正しさ」と「称賛に値すること」、行為の「誤り」と「非難に値すること」とを区別することを可能にする。 ⇒ 正しいけど称賛に値しない行為、正しくはないけど称賛に値する行為を区別できますよ。

  3.  そしてその基準は、意思決定手続きや行為を導くための方法と同一視されるものではない。 ⇒ この基準を使うのは事後です。マニュアルは提供いたしません!

 そしてこう言いたい。「道徳的な善さ」と「正しさ」は別物!

既存のアプローチ

 「正しい行為」についてはほかの立場もある。:

  1.  Qualified agent - 適格者説(ハーストハウスなど) 「行為は、徳のある行為者がその状況で典型的に(すなわちその人の性格に沿って)行うであろうものである場合に限り正しい」 ⇒ 有徳な人がやるんだったら正しい

  2.  motive-centered - 動機中心説(スロートなど) 「行為は、徳のある(称賛に値する)動機を示すか、または少なくとも悪徳的な(非難すべき)動機を示さない場合に限り正しい」 ⇒ 称賛に値する動機だったら正しい

 そしてここでSwontonが第三の説を提示する。
 それに関しては第三節でみることにして、まずは既存のアプローチの見当から入ることにしよう。

2.RIVAL ACCOUNT

 まず、ハーストハウス「行為は、徳のある行為者がその状況で典型的に(すなわちその人の性格に沿って)行うであろうものである場合に限り正しい」についてである。これについては一言でいえば、「徳のある行為者」って誰? という事だろう。
 有徳な行為者というのは、一定水準以上の徳があればいいのか、完璧に理想的な行為者のことをいうのか。一定の水準以上だというなら、「上には上がいる」のだから誰を頼りにしていいかわからない。理想的な行為者はほぼ全知全能の行為者なので、現実の人間が同じ状況で同じ行動を起こそうと考えるのには無理がある。

 次に、スロート「行為は、徳のある(称賛に値する)動機を示すか、または少なくとも悪徳的な(非難すべき)動機を示さない場合に限り正しい」についてである。これについては一言でいえば、最低最悪の結果を招いても動機がよければそれでいいのか? という事だろう。
 たしかに行為の動機が重要なのは言うまでもない。ただ、善い行為だからといって正しい行為だとはいえない。一般的にいえば、この区別がなされていないのである。

3.A TARGET-CENTERED VIRTUE ETHICAL CONCEPTION OF RIGHTNESS

 Swontonの立場は、「Target-centered(目標中心的)」といわれる。

(V 1): A virtue is a good quality or excellence of character. It is a disposition of acknowledging or responding to items in the field of a virtue in an excellent (or good enough) way.
(V 2): An action from virtue is an action which displays, expresses, or exhibits all (or a sufficient number of) the excellences comprising virtue in sense (V 1), to a sufficient degree.
(V 3): Hitting the target of a virtue is a form (or forms) of success in the moral acknowledgment of or responsiveness to items in its field or fields, appropriate to the aim of the virtue in a given context.
(V 4): An act is virtuous (in respect V) if and only if it hits the target of V.

V1:徳の定義

「徳とは、性格に備わる優れた特性や卓越性のことである。それは、徳の領域に属する対象に対して、卓越した(あるいは十分に良い)方法で認識し、反応する性向である。」

 中身がどうと話す前に、循環的な定義に見えるのが問題である(徳がわからないのに、徳の領域といわれても困る)。
 おそらくここで注目すべきなのは、「徳」というものは単純に「優れた性格」ではなくて、なんらかの領域におけるなんらかの対象に対して、適切に反応する性向だということである。つまり、徳はなにか対象といつもセットであり、「何かに対して」「適切に」反応するような性格特性なのだ。

  • この定義は徳が幸福主義倫理学とも他の何とも関係がない、中立的なものである。

  • 十分に良いというのは、ある一定ラインを超えればOKという意味で、理想化された徳ではない。

V2:徳からの行為(Action from virtue)

「徳からの行為とは、V1で定義された徳を構成するすべての(または十分な数の)卓越性を、十分な程度で示し、表現し、発揮する行為である。」

 十分な量の徳をいっしょに発揮する行為を「徳からの行為」という。ここで思い出すべきなのは、徳とは、ある領域と、その領域内の対象とセットに考えられるということだ。たとえば『勇気』という徳からの行為であると言い切るためには、ただ単に敵陣に突っ込んでいっただけではわからない。たとえば恐怖というものをコントロールしたり、危険な状況で適切に行動したり、いろいろな「証拠」を見せていただかなければならない。

V3:徳の目標(Target of a virtue)

「徳の目標を達成するとは、その徳の領域に属する対象に対する道徳的認識や反応において、与えられた文脈でその徳の目的に適した成功の形(または形態)を達成することである。」

V4:徳のある行為(Virtuous act)

「徳のある行為とは、行為がその徳の目標に到達した場合にのみそう呼ばれる。」

 V2においては「徳からの行為だなあ」であればよかったものが、ここでは実際にその行為が成功していることが求められている。

【1.Hitting the targets of virtue may involve several modes of moral response】

 徳に応じて、関心のある対象があって、いくらかの項目に分けられる。それが「徳の領域」と呼ばれているものである。対象としてはたとえば、行為者の内部(身体的快楽)、外部(人間、財産、お金、名誉)、状況(危機的状況など)、抽象的対象(知識、美)、物理的対象などなど、ありとあらゆるものが含まれる。
 V3において「その徳の領域に属する対象に対する道徳的認識や反応」と書いた。これを道徳的応答の様態と呼ぶとすると、この様態にはさまざまなものがある。たとえば(利益や価値を)促進・実現することだけでなく、価値を尊重すること(大まかに言えば、価値に関して手を汚さないこと、例えば正義を促進する際に不正を行わないこと)、規則のようなものを尊重すること、創造すること、評価すること、愛すること、敬意を払うこと、創作すること、受容的または開かれた態度を取ること、使用・取り扱うことなどなど。

(例1)正義の徳は、まず第一に、規則に従うことで正義の規則を尊重すること、および個人の地位への敬意に関心を持つ。
(例2)鑑賞の徳は、例えば芸術を促進すること(芸術財団に寄付するなど)には関心がなく、芸術のような価値ある対象の評価に関心がある。
(例3)創造の徳は、単なる評価以上のものを要求する。
(例4)倹約はお金の使用に関わる徳である。
(例5)節制は快楽の取り扱いと追求に関わる徳であり、思いやり、礼儀、適切な敬意は他者およびその地位への尊重に関わる徳である。
(例6)良き友は単に友の善を促進するだけではない:友を評価し、尊重し、さらには愛する。
(例7)ケア(思いやり)の徳は、受容性を含み、ある意味で愛を含むかもしれず、そして大部分において善の促進を含む。

 このように単一の徳でさえ、複数の対象を有し、様々な様態で反応することができる。この複雑さのもとで「成功」について語ることは、相当に難しく、それぞれの徳・対象・様態においてたいへんな議論を必要とする事柄である。

【2.The targets of some virtues are internal】

 多くの徳の標的(が外的であることは認められている。しかしすべてがそうではない。

【3.Some targets of virtue are plural】

 徳の標的は複数でありうる。徳が有する複数の領域、そしてそれぞれの標的(目的)がひとつしかないと考えるのは難しい。

【4.Contextual variability of targets】

 徳の標的の文脈的変動性。
 いったいなにが徳の標的を決めるのかというと、「文脈」である。例えば、どうしても金が必要な文脈では、たとえその寄付がいやいや行われたものであっても、大金を寄付すれば寛大な行為を行ったと言えるかもしれない。しかし、別の文脈では、与える行為が寛大な心からなされたものでないという理由で、それを寛大な行為とは認めないかもしれない。
 またたとえば、フクロネズミを毒殺することに対して「残酷な奴だな」と言う場合もあれば、海岸沿いのポフツカワの木を救うために仕方なくやっていることを知っているならば「フクロネズミはかわいそうだが、君のやってることは残酷ではないよ」と言う場合もある。

【5.Some targets of virtue are to avoid things.】

 徳の標的なんて言い方をするから、まるで能動的な印象を与えるかもしれないが、「なにかを避ける」ことが目的になることもある。謙虚という徳がなにを標的にするかは議論があるが、Swontonの考えでは、まさに「なにかを避ける」ことが謙虚さの標的である。たとえば、自分に注意を引くこと、自分について過剰に話すこと、自慢することなど。

徳からの行為/徳のある行為

  1. An action from a state of virtue may not be a virtuous act because it misses the target of (the relevant) virtue. ⇒ 徳からの行為であっても標的を外していたら徳のある行為でない。

  2. A virtuous act may fail to be an action from virtue because it fails to manifest aspects of the profile of the relevant virtue at all. ⇒ 徳ある行為であっても、関連する徳の概要(領域・対象・様態)の側面を全く示さない場合、徳からの行動ではないことがある。

  3. A virtuous act may fail to be an action from virtue because it fails to manifest the profile of a virtue in a good enough way, namely, it fails to express sufficiently fine inner states (such as practical wisdom, fine motivation, or dispositions of fine emotion). ⇒ 徳ある行為であっても、徳の概要を十分によい仕方で表さない場合、つまり実践的知恵や優れた動機、優れた感情の性向といった立派な内面的状態を十分に表現しない場合、徳からの行動ではないことがある。

  4. What counts as a virtuous act is more heavily contextual than what counts as an act from virtue. ⇒ 徳ある行為と見なされるものは、徳からの行動と見なされるものよりもはるかに文脈依存的である。

 この四点が主要な違いである。2,3番目は、徳ある行為であっても徳からの行為とは限らないことを示している。最初は「全く」示さず、次に「十分に表せていない」ときである(3番目だけ書けばいいのでは、と思わなくもない)。

4.OVERALL VIRTUOUSNESS

An act is right if and only if it is overall virtuous, and that entails that it is the (or a) best action possible in the circumstances.
ある行為が正しいのは、それが全体的に徳ある場合に限られ、その場合、それは状況において可能な限り最善(あるいは最善の一つ)の行為であることを意味する。

 この「全体的に」という言葉がきわめて難しい。まず個々の徳について、その標的を達成しているかどうか判断できると仮定しておこう。そこで、ある徳においては徳ある行為だといえるが、他の徳にはそうでない場合、全体的にはどうだかを考える。だが、それはきわめて文脈依存的である。ひとつの徳が駄目であるがゆえに全体として駄目な場合もあれば、ただひとつ「寛大」であったがゆえに正しい行為になる場合もある。
 ジョナサン・ダンシーの個別主義は『ある理由が別の事例でどう働くかは予測できない』という。なるほど、その通りだとしても、これを強い意味で解釈して「だから正しい行為なんてのは事例を個別に見ていくしかねえんだよ」と考える必要はない。トム・ソレルが言うような意味での原則は存在しうる。つまり、「原則とは、何かを行う理由、または何かを犯す理由であり、第一に一般的なものであることを意味する。広範な状況に適用されなければならない。」要するに、ふつうはこうだよね、通常の場合はこうだよね、というぐらいのことは個別主義のもとでも言うことができる。

5.OBJECTIONS

 ここではSwonton宛ての反論を取り扱う。

反論1:行為が正しい・間違っているのは、徳や悪徳とは関係ない場合もあるのではないか?

 たとえば「不快だから間違っている」とか「時間がないからやめるのが正しい」とか。

回答1:徳や悪徳が関わっています

 不快なのは、「不品行」だから。
 時間がないのは、たとえば「怠惰」であったり「節制の欠如」であったりするかもしれず、もしかすると「勇気」や「親としての徳」が絡むかもしれない。

⇒ 要するに行為の正しさについての理由をすべて徳/悪徳に還元している。

反論2:正しさは、行為者の動機や理由とは関係がなく、完全に外的な成功に関わるものである

回答2:動機も、外的な成功も、どっちも考慮すべきでしょう

 ターゲット中心の徳倫理では、正しさは単に結果だけでなく、行為者がどのように道徳的に応答したか(内面的性質や態度)も含めて評価される。

  • 徳には「内面を含む標的」を持つものもある(例:思いやり)。

  • そのため、外的結果だけで正しさを決めるのは不十分で、内面的性質も正しさの評価に含める必要がある。

  • たとえ行為が外面的には正しい結果を生んでも、行為者が徳ある態度を示していなければ、その行為は正しいとは言えない場合がある。

要するに、外的結果だけで正しさを決めるという批判は、ターゲット中心の徳倫理では受け入れられない

反論3:「正直さ」などの徳用語は文化的なもので、正しさの客観的基準にならないのでは?

回答4:徳用語が正確に反映していない場合もある。肝心なのは、その標的を達成しているかどうかです

 行為が徳Vの標的を達成しているかどうかで判断することは、単に言葉の使用に依存するものではない。「ある用語が徳を正確に表していない」としても、理論的に正しい徳の定義を構築できる余地がある。

反論4:「個別主義的立場では、理由が新しい状況でどう働くかは他の事例から予測できない」とされ、道徳判断が直観や文化に依存しすぎるのではないか

回答4:個別主義は理由の文脈依存的な働きを強調する理論であり、直観や文化依存に縛られるわけではないです

 「正しいかどうか」という判断は、その理由が全体としてどのように機能するかを見る必要がある。個別主義はただそれだけのことで、弱い個別主義では「通常こうである」といった一般的原則も認められる。認識論的に不確実というわけではない。

反論5:規則に基づかない徳倫理では、極端に悪い選択肢しかない場合に正しい行為を判断できないのではないか

回答5:全体的に判断することで、ジレンマ状況でも正しい行為を見出せます

 行為を態度・動機・思考過程・反応・感情まで含めて評価することで、ジレンマ状況でも「全体として徳ある行為」を認められる。

反論6:徳倫理は規則に基づかないため、行為の正しさを決定する基準が不明瞭ではないか

回答6:正しさの判断は、基本的に徳ある行為者の私的な熟慮や直観ではなく、公開されているルールの問題です

 なぜなら、正しさは「思いやり」「効率的」「親切」「友好的」といった用語の適用可能性に依存しており、それらの適用は規則に従っている。
 しかしもちろん、高度な文脈においてはもはや哲学の領域だけで決着がつくような話ではなくなる。

★感想

 正しい行為というのは、徳が目指すところに的中するかどうかが肝心である。その試みが成功するかどうかが文脈依存的になるのは当たり前で、普遍的な原則が打ち立てられないのも当たり前である。全員がそうだと思うが、成功することを意図して行為したとしても、はじめから成功すると思って行為することはほぼない。朝起きて歯を磨くぐらいのことならよほどのことがない限り成功するだろうが、「個別主義のもとでも一般的原則なら言える」というのもだいたいこの歯磨き程度のことではないか、と思える―――徳のある行為=全体的に成功する行為に関する考察を深めることに、なにか意義があるのだろうか? むしろどう行為すべきなのかを教えるのは、徳からの行為のほうではないのか?
 正しい行為なんてほぼできやしないし、できたとしてもそれを判定するのに裁判レベルで時間がかかりそうだし、どうも様々な専門家の知恵まで必要そうで手間もかかりそうだ。そうではなくて、私たちは「思いやりのある人」に、「勇気のある人」に、「徳のある人」に、なりたいのではないのか? 成功しないにしても、『わたしの試みは間違いではなかった』と言いたいのでは? 成功することがどうでもいいわけではない。それがどうでもいい人は徳などないだろう。だが、成功すること自体は二次的な問題に思える。