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「現代徳倫理学における徳の一性(西野真由美,2022)」を読む

現代徳倫理学における徳の一性-実践的知性と徳の多様性をめぐって- | CiNii Research cir.nii.ac.jp  
 
 

 これまでの記事で大まかに描いてきた「徳」も、その中身の具体的な徳目についてはあまり詳細に考えてこなかった。そこでソクラテスを端緒とするという『徳の一性』説を見ていくことにしよう。
 Swantonによる徳の定義は、次の通り:

徳とは,性格に備わる善い特性のことである。より細かく述べるなら,徳
の(諸)領域 field 内にある諸項目 items に対して,卓越した十分に善い
やり方で反応 respond し,それら諸項目に応答する気質 disposition のこ
とである。

倫理学におけるエウダイモニア主義と多元主義(林誓雄,2024)

はじめに

 「徳の一性 unity of virtue」とは、ソクラテスに由来するとされる説で、徳は、勇気や節制などその現れは多様だが本質は一つの同じもの、すなわち善悪に関する知であると主張される。プラトンの初期対話篇で見られるこの主張は、標準的には次のように解釈されている。:

ペナーの解釈に従えば、ソクラテスは有徳な行為の背後に何らかの心的状態を想定しており、全ての有徳な行為はその単一の状態から発生するがゆえに、その状態こそが徳の本体にほかならず、全ての徳はこの状態と同一であるという仕方で一性を形成する。そしてこの単一の心的状態とは、 ペナー に従えば「善悪の知」に他ならず、それゆえ、この「善悪の知」こそが徳の単一の本体に他ならないことになる。

プラトン初期対話篇における「徳の一性」 中澤 務 北海道大學文學部紀要, 46(1), 1-2

 善悪の知が徳の本体なので、勇気とか節制とかいろいろ名前はあるものの結局のところ、「善悪の知を持ってるか持ってないか」=「勇気があるかないか」=「節制という徳をもつかもたないか」=・・・、というイコールが成り立つことになる―――これにより、徳の多様性は失われる。すると、『親切だが軽率な人』『節制するが冷酷な人』などが存在しなくなる。そして、原理的に徳同士の衝突は存在しない。これが現実的な説明として受け入れられるだろうか?

 アリストテレスは、善悪の知がすなわち徳であるとは言わなかった。そして必要なのは知識ではなく、実践的・状況的な判断力である。そこで彼は「フロネーシス」を「人間にとってよく生きることに関して、何を為すべきかを思慮深く判断し、選択する能力」と定義し、

  •  「フロネーシスがあればすべての徳が現前する」

  •  「ある徳をすでに獲得していて、別の徳はまだ、という状態はありえない」

 という風に、真の徳というものが現前する条件として設定した。これによってある意味で徳の同一性は乗り越えられたが、結局のところ、問題は全く解決していない。
 ある徳を持っていればほかのすべても持っていることになってしまう。だからやはり、有徳な人間はおよそ存在するようには思えないし、そして「二つ以上の徳が、ある具体的な状況で互いに矛盾する行為を要求すること」と「複数の徳の価値や重みを、単一の基準(共通の尺度)で比較できないこと」といった対立する徳と共約不可能性を納得することが難しい。

実在への応答

マクダウェル

 さて、マクダウェルは「徳の一性」を擁護する。ただそれはアリストテレスがフロネーシスを理性的熟慮や判断力を伴うものとして見ていたものを再解釈し、『感受性』=様々な状況が、ある人の振る舞いに突き付けてくる要求を認識する能力として取り入れたうえでのことである。
 感受性は、状況の要求を認識する能力であり、単純に主観的なものではない。そして明文化されるような要求でもない。たとえば、偉い人が目の前にいるという状況になればたとえば「謙虚」という要求を突きつけられるし、自分が風邪を引いている状況ではマスクをしたり距離をとったり周囲に配慮するような要求を突きつけられるだろう。これは、その人がある文化のなかに住まい、育てられてきたことによって作られてきた。マクダウェルはこれによって、行為者と実在世界とのかかわりをつける。:

  •  徳は単なる知識やスキルではなく、現実に応答する能力として理解される。

  •  スキルは通常、事前に与えられたゴールを達成するための手段として訓練されるが、徳の場合、ゴールそのものは状況に応じてその都度具体化され、再解釈される。 ⇒ ジュリア・アナスと緊張関係?

  •  固定的なパターンではなく、常に新しい状況で意味を見直すプロセスを含む。

 だが、マクダウェルが擁護する「徳の一性」の強い主張は残っており、感受性があればすべての徳を備えることになる点では変わらない。感受性によってある一つの徳を達しようとすると他の様々な徳を参照することにつながる。たとえば親切にすることで他者の権利を侵害しないように配慮しなければならないだろう。派生的にどんどん有していなければならない徳が増えていき、結果的にすべての徳が現れることになる。
 そしてやはり、次の問題が起こる。:

  •  有徳者は現実離れした人間となる。

  •  現実には人は葛藤するし、複数の価値がぶつかる場面で悩む。マクダウェルのモデルは、そうした現象を「有徳者には起こらない」として切り捨ててしまう傾向がある。

  •  徳の一性を強く取ると、複数の徳が対立して互いに矛盾する行為を要求する事態は「起こらないはず」とされるが、実際にはそういう事態が存在するように思われる。

ワトソン

 これを「行き過ぎ」だと捉えたのがワトソンだった。

ワトソンによれば、徳を単一の全体とみなし、有徳者をあらゆる状況に応じて徳を実現できる人と捉えてしまうと、有徳な人は、判断に専門的知識が要請されるような状況においても、その状況に即した判断を下すことができる
人になってしまう。このような有徳者像は現実的ではない。

倫理学年報第 71 集「現代徳倫理学における徳の一性」 p.207

 ワトソンは、自身の立場として「due concern view(適切な関心の見方)」を提示する:

  • すべての徳を完全に持つ必要はない
     あらゆる観点から完全であることではなく、「状況に関係する諸徳」について「適切な関心」を持っていればいい。その諸徳が為すクラスターを調和させることが有徳な行為なのだ。たとえばもしもうまく調和できないと(行き過ぎた親切!)、かえって正しくない行為を導く。

 これによって、徳の一性は非常に現実的な案(ジレンマを抱えながらも有徳な行為者)となった! そして「調和」というものが『その人の運、文化的文脈や人格、引いてはその人の生き方全体に依拠』することによって人間のいろいろな生の可能性と諸価値を担保した。

 だがクラスターに含まれる徳がどんなものなのかがまだよくわからない。限定されたとはいえ徳自体が腐るほどあるので、まだまだ実践的には現実的とははっきり言えない。

 ……いや、それよりもっと問題だと思うのは、次の記述である。:

ワトソンは、徳それ自体に、「適切に」という視点が含意されて
いると示唆する。そして、有徳な行為とは、関連する一群の徳が適
切に統一されることだと捉えるのである。この見方をとれば、我々
が日常経験する諸価値の対立は、徳自体の対立ではなくなる。なぜ
なら、徳には適切な調和を追求する能力か含まれており、まさしく、
現実の状況における衝突や対立を調和することが徳の働きだからで
ある。

p.208

 クラスター内の諸徳を調整する働きを「徳」が行うとはいったいどういうことなのだろうか。当たり前だが、クラスター外部の徳にそれを求めているわけではないだろう(定義上、クラスターは関連する諸徳を集めているはずだ。それに付け加えるとその新たなクラスター間の調和が必要になり、これが延々と続く羽目になる)。親切メーターがグッと上がると他の徳のメーターが自動で下がるとでもいうのだろうか。だがそれはメーター自体の機能ではないはずだ。

クラスターとしての諸徳と実践的知性の発達

ラッセ

 すべての徳を統合する理想的な行為者はワトソンの説では消えたが、ラッセルはそれを指標として残すことを選ぶ。「理想像=完全統合された有徳者」は、現実には存在しないかもしれないが、指標として必要なものなのだ。完全統合の理想は、「現実の我々の判断を振り返り、修正するための批判的基準」として役に立つ。実際には「十分に有徳」で済む場合が多いが、理想像があることで「ここでの判断は他の徳を軽んじすぎていないか」と自己批判が可能になる。言い換えると、理想は「現実を照らし出す鏡」として機能することになる。 ⇒ 調和の基準! クラスターで考えると徳同士の相互依存関係が弱まる!

 そして、現実の人間がなしうることこそ、ワトソンが掲げた現実像である。ラッセルはこれをそのまま受け止めたうえで、たくさんある徳をなんとかすることを考える。「関連する諸徳」とはいうが、一体関連する徳が何個あればいいのか?

この困難を解決するため、ラッセルは、諸徳の構造化を提唱する。
これは、諸徳を互いに関連し合う「枢軸徳」とその下位の様々な徳
に分類することである。こうすれば、下位の徳がどれほど多様であ
っても、枢軸徳は限定的で、しかも互いに関係しあって一性を形成
するのだから、実践においては有限個の枢軸徳を参照すればよいこ
とになる。

p.209

 正義・思慮・勇気・節制の四つが基礎でほかの徳がすべてそれから弾きだされるものなら、とりあえずこの四つに関して有徳であれば「十分」だと言ってよいのではないか?(「枢軸徳」)
 この考えはかなり魅力的なものだ。だがこれによると、徳が状況から離れてしまう。徳は状況からの要求だったはずなのに。

ジュリア・アナス

 アナスはワトソン説の限定的な有徳者と、徳同士の対立など無くただ調和がうまくいっていないだけだという思想を引き継いでいる。そしてラッセルと同様に「理想的な有徳者」を現実を照らす目標として引き継いだ。ただし特権的な徳(枢軸徳)を与えて強い相互依存関係を取り戻そうとはせず徳同士をフラットな関係にし、相互参照する関係として弱い相互依存関係のままにとどめている。
 発展させたのは:

  1.  諸徳のクラスター全体を見回して思考する「実践的知性」を導入

  2.  人間の持つ有限性を徳の発達モデルで説明

 ワトソンの項の最後に指摘しておいた徳を調和させる機能をアナスが「実践的知性」として導入した。状況に関連する徳は、その状況が埋め込まれている文脈のなかで実践的知性によって最初から統合的に作用する。簡単に言うと、徳が内部でごちゃごちゃやるのではない。「正義省としてはこうですね」「親切省としてはその見解は~」と会議をやっているのではなくて、実践的知性が徳のレベルを眺めて「私は何を大切にして生きるのか」という問いに答える形で熟慮し、状況に応じる。ゆえに徳同士の対立はない。
 そして調和がその人の運、文化的文脈や人格、引いてはその人の生き方全体に依拠するという部分をスキル習得のアナロジーで説明し、徳の発達論によって具体的プロセスとして提示した。ワトソンは文化・文脈への依存を指摘しただけで「じゃあ何が正しいかは文化によるんだな」という疑念に応えなかったが、アナスが明確に「学習そのものが文脈を一歩引いて見る」とし批判する可能性を与えた。

※ ラッセルが徳同士の依存関係を強調するために理想像を導入したのに対し、アナスの場合は単なる学習の指針(「君たちもこんな立派な人になりなさいよ」)にしかなっていない。それがなにかただちに問題というわけではないが、理論的には別に主張するほどの内容ではないとも感じられる。もちろん教育の実践にあたってはそういう理想像があったほうがはかどるだろうが。

複数性に開かれた一性

 ところでこうした徳の「統一説」には批判もある。つまり、これまでの成果としては実践的知性という各役所(徳)の意見を一気に吸い上げて統合する省庁が、そもそも疑わしいと反論される。:

  1.  知性や思考を諸徳全体を貫く本質とすることによる徳の内実の形骸化 ⇒ 徳やなんや言うてるけど結局は実践的知性とかいう「知性」の話で、中身なんかどうでもええんやんけ論

  2.  調和や統合の偏重によって、個々の徳が持つ多様性が損なわれること ⇒ 徳同士の違いなんかどうでもよくて結局調和が大事なんやろ論

  3.  そもそも実践的知性が、ある状況で行為を決定するためにあらゆる徳を参照しなければならないという前提 ⇒ 勇気がいる場面では勇気について考えたらええんちゃうんか論。

 1,2はともに、統一の偏重によって徳の固有性を削っていることを批判している。3の批判はそもそも参照という関係が考えられた背景について言及していない点で反論としては弱い。事実として参照関係があるからこそ参照していたのであって、あらたに立論されても困る。そして今度は「その都度、新たな徳」と言い出すので、もはや徳倫理学が規範として全く機能しなくなる。変化に適応するために柔軟さを求めるのはいいが結果的に理論としても実践としてもなんの役にも立たなくなってしまう。ともかく、これらの記述からは「柔軟性が大事だよね」というアドバイスは受け取れる。

 そこでデカロとヴァカレツァは、徳の一性から視線を移し、そもそも誰かを有徳とみなすプロセスに着目する。そもそもマクダウェルの「感受性」という概念からして、個人の内側から生まれいづるものではなく他者との相互作用から生まれる相互主観的な概念だったことを思い出そう。1,2および3に対する答えは次のようになるだろう。

  1.  「有徳とみなす」という具体的文脈(行為評価)が個々の徳の厚みに応える。つまり個々の徳は行為評価の場面で際立ってきている。

  2.  多様な行為評価のやりとりによって徳の多様性も生まれてくる。

  3.  「徳を参照する」ではなく、「行為者と解釈者(評価者)が共有できる一定の視点」と読み替える

 柔軟さについては行為評価のやりとりによって生まれる多様性によって守られるといってよいだろう。すると「実践的知性」は個人の熟慮の力として保たれつつ、一方でそれが個人の力とはいうものの相互作用のなかで鍛えられ、修正され、深められてきたもの、あるいは深められていくものとして解釈し直される。これによって形骸化という批判からは逃れ、個々の徳は行為評価のなかで際立つということで多様性を確保する。

おわりに

 実践的知性は解釈し直され、生き残った。「状況⇒感受性でキャッチ⇒実践的知性で総合判断⇒評価の際に「この観点では~」と徳が際立つ⇒けんけんがくがくの議論の末に更新」という流れである。ただここには「徳」というものの行為の規整的な面と、評価的な面のあらわれが二つ生じている、とぼくには読める。徳はこの二側面を実践的に行ったり来たりすることが明らかとなったわけだ。だから、『具体的な文脈において熟慮し、行為を選択する実践的知性の働きを徳の本質とする現代徳倫理学』といわれるように、実践的知性の働きが徳の本質だと考えるのは違和感がある。たしかに相互作用しているのだから両面捉えてはいるのだが、実践的知性が働く場面では徳はあまり問題になってはおらず、外的条件とほぼ同じ位置になるだろう。そして行為の解釈にあたっては徳は「評価のラベル」になっている。

 あらためてSwantonの定義を見直すと、

徳とは,性格に備わる善い特性のことである。より細かく述べるなら,徳
の(諸)領域 field 内にある諸項目 items に対して,卓越した十分に善い
やり方で反応 respond し,それら諸項目に応答する気質 disposition のこ
とである。

倫理学におけるエウダイモニア主義と多元主義(林誓雄,2024)

 まずもってそれは規範性「行為を事前に方向づける」に寄っていることがわかる。個別化されているわけでもないし、反応と応答の仕方について書いており規範的な位置にある。だが一方で「徳ある行為」をあとから定義することによって二次的に評価的な側面も用意している。