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フッサール現象学を理解する際の避けがたい困難さについて(南 孝典, 2023)を読む

1.現象学理解の困難さを問いにしたフィンク

 フッサールが作り出した「現象学」は、創始者が作り出す用語法が異様に小難しいことが理解を阻んでいる学問だというのがなによりの印象であるが、この論文で語られていることはひとまずその件ではない。問題となるのは、それって理論としてどうなんだよと思わず口に出してしまいかねないこんな指摘である。

「超越論的現象学」は超越論的ではない態度でしか説明することも論じることもできない。現象学研究においては,超越論的な仕方でそれを行うという選択肢は存在しないのである。

p.123

 用語がわからないとしても、どうやらその学問は「なにか特定の態度」がないと説明することも論じることもできないらしいことはすぐわかる。文字通り解釈すると、現象学は完全に身内ネタである。

 さて、現象学的還元という特有の方法(いわば””現象学的態度のススメ””)をどう解釈するかにもよるのかもしれないが、ともかく、それはこの学問をメタ哲学的にするものと思われる。
 それはたとえば「ペンが存在している」こと自体を考察するのではなく、「ペンが存在している、と正当に言い得るための条件はなんなのか?」という意味の探求なのである。現象学の焦点はペン自体には無い。さらに別の喩えを出すなら、「人間は理性的動物である」という文言があったとしても人間が実際に存在しているかどうかはまったく興味が無い。ただもし存在しているならば、人間は理性的動物であらざるを得ないという話をしているのだ――現象学の分かりづらさの一部はこのあたりにあるのかもしれない。超越論的態度とは考察をこのメタレベルに移すという話であって、「態度」という言葉に含まれる「心構え」というような意味は一切ない。ないのだが、……現象学的還元に関するフッサールの説明を(あるいは入門書の説明をいくら読んでも)単なる心構え以上にわかることがなく、主観を絶対視しますという時代錯誤な理論にしか見えない。

 だが、上のように説明できていることからすると、どうやらここで問題になっている困難さとは違う。『問題が,理解する者の側に,すなわちその理解度の水準に,あるのではなく,フッサール現象学そのものにある』(p.125)ことが困難さなのだ。理解度を高めても無駄らしい。いったいどんな困難だというのか?

2.「批判主義」による現象学批判

 さきほど超越論的還元をメタ哲学的態度転換だと書いた。これだけで話を済ませられないのは、このことは一見、カント哲学(「批判主義」)と何も変わらない。どちらもが超越論的観念論を名乗っており、経験の可能性の根拠を問うているからだ。
 ではいったい何が違うのか。批判主義の見方では、現象学は、認識を「直観(Anschauung)」、つまり感覚的に与えられたものに依存させすぎる立場だった。つまり直観で与えられるものを、そのまま「存在するもの」とみなしてしまう存在論主義である。だが、哲学の課題は、「存在」そのものではなく、存在について語ることを可能にする条件=意味の妥当性を問うことだったはずで、これは現象学が自分の仕事もできない理論だということを示している、と。どうしてそれが「存在する」と言えるのかを反省せず、「見えたからある」と短絡してしまう独断論だ、と。

 だが現象学は「存在がある」と主張するのではなく、存在が「どう現れるか」「どう成立するか」を分析する営みだ。勘違いしているのは、直観という概念を「存在を保証するもの」と見たことで、実際には、「意識における与えられ方(自体能与)」を意味しているに過ぎない。だから批判主義の攻撃は的を射ていない。

 ではいったいなにが違うのか。

3.「批判主義」とフッサール現象学との決定的な相違

 批判主義も現象学「この言葉や判断はどんな条件で正しい意味をもつのか」を問題としている。だが現象学はさらに進んで、「そもそも『意味』が意味たりうるのは、世界という地平が与えられているからではないか?」という形で世界そのものの成立を問う。それは単に「世界」という言葉の条件を探ることとは違う。机を見ているときも、その背後に「まだ見えていない空間」「他の可能な視点」「他者の経験」などが地平としてひそんでいる。なにかを見るときの背景、それがそもそも成り立っている仕方を分析対象とするのだ現象学の「世界」は一つの存在者でも存在者の総体でもなく、存在者が現れる究極の地盤(地平)を意味する。普段は自明すぎて主題化されないが、知覚分析を通じてその地盤性が浮かび上がってくる。それを、分析する。

 この問いは「神話・宗教・形而上学」でも古来問われてきた。「世界超越的な原事象」「世界の根拠」「神」といったものが答えに持ち出されてきたが、現象学はそうした超越的存在を仮定せず、純粋に意識と現れの分析から徹底的に考察しようとする。
 だが世界はあまりにも自明であって、一つの存在者でも存在者の総体でもない。それは存在者の背景であり、そちらに目を向ければすぐにまた別の背景に引っ込むような捉えどころのないものである。だから自然的態度のままでは現象学が何を問うているのかさえまったくわからず、それをなんとかひねり出そうとして、誤解してしまうのだ。

4.現象学理解の困難さの要因としての「超越論的還元」

 「批判主義」は還元をどのように理解したのか。彼らは,還元を決して否定的に捉えずに,むしろ自分たちの問いの領野である「意味領野」を確保するために有効な手段であると見なした。つまり「批判主義」は,さしあたり「超越論的還元」のための方法と言える「現象学的エポケー」を,「存在者一般(内在的及び超越的存在者)を排除し,そのことによって,存在者を初めて可能にする意味領野(『基礎づける領野』)を際立たせるために非常
に適している」(PK, 109-110)方法だと考えた。当然「批判主義」の解釈では,フッサールの「超越論的還元」は「意味領野」への還元だということになる。

p.133

 1章で「ペンが存在している、が成立する条件」について書いた。批判主義者もおおよそそのように理解したのだろう。だが実際のところはそれよりも進んで、「世界の根源への問い」を開くことが還元の真の目的だったのだ。

 だがこれがそれほど「困難」だろうか、とも思ってしまわないだろうか。
 たとえば「机を見ているとき、机の背後には見えていない側面や文脈がある」という分析は、世界を背景(地平)として捉えることになるではないか? だがこれもまだ自然的態度であり、「机には裏側もあるよね」「他の人も同じ机を見ているよね」という水準にとどまってしまっている。還元は、この「背景を分析する」という自然的態度の水準そのものを括弧に入れる。すなわち「机の裏側もある」「他者も机を見る」ことを前提にしている“世界の成立”を問い直す。だから還元の問いは「存在者の背景をどう分析するか」ではなく、「そもそも“背景”や“世界”が成立しているとはどういうことか?」 という水準に移る。

 じゃあ、と思うだろう。「背景や世界が成立しているとはどういうことかを調べるのが現象学です」と言えばいいではないか、と。ここに困難がある。口にするのは簡単なのだが、ここに批判主義者が出てきて「なるほど、世界の形式や条件の話ね」と解釈してしまう。彼らは同じ超越論哲学の人だから、余計にそう誤解してしまう。つまり「世界の根源」を「世界内的な諸条件」にすり替えて理解してしまう。
 比喩として適切かはわからないが、これは図地反転図形に似ているかもしれない。批判主義者はウサギしか見えない。「ちょっと視界をぼやっとさせて~……」といっても裏にいるアヒルが見えない。結局問題は「言葉として表現できるかどうか」ではなく、その言葉が指し示す態度転換を自ら遂行するかどうかにかかっている。

 図地反転図形で図しか見えていない人に地を教えないといけない――これが困難さである。いや、たしかにこれは難しい。目をこう使ってみて、といっても滅茶苦茶漠然としているし、なんと言っていいやらわからない。

5.超越論的概念としての「自然的態度」

 フッサールは知覚分析から、われわれの意識には常に「世界はある」という前提がつきまとっていることを見いだした。フィンクはこれを 「自然的態度の一般定立」=「世界信念」 と呼ぶ(世界信念:個々の経験の背後でいつも働いている「世界は現に存在している」という普遍的・恒常的な確信)。これは心理的な「信じ込み」ではなく、存在の地平としての世界が常に意識されているあり方だから、どうしようもない。

 フッサールによれば,そのような「世界信念」の「意識」を問題にするためには,問う者自身が,その「世界信念」そのものを断念する,若しくはそれに参与しないようにする「現象学的エポケー」を遂行しなくてはならない。この「世界信念」を断念するという意味での「現象学的エポケー」を遂行するのは,「世界信念を初めて本来的に発見する」(PK, 116)ためである。

p.136

 現象学的エポケー(括弧入れ)では、この「世界はある」という信念を一時停止する。すると逆に、「世界があると感じられる」というはたらきそのものが見えてくる。この「はたらき」を 超越論的主観性 と呼ぶ。「超越論的主観性」は「人間の心」や「心理的な働き」ではない。なぜなら「私は世界の中の人間である」という自己理解すら、エポケーによって括弧に入れられるからだ。現象学=人間の意識が世界を勝手に構成する主観主義的観念論だと批判されるのは、このあたりの無理解から来る。

6.「超越論的現象学」の不可避的な困難さを自覚することの意義

ここまでの考察の経た今,「超越論的還元」が出発点において動機づけられず,独特な仕方で誤ってしまうという指摘の意味も,次のように説明することができるだろう。すなわちそれは,「超越論的主観性」それ自身が「世界」の内に存在しないので,「超越論的主観性」を問うことを可能にする「超越論的還元」が,どこからも展開していくための動機を得ることができないからである。それにもかかわらず誤った形でも還元が理解できてしまうのは,また,そのような「超越論的主観性」の学である「超越論的現象学」を大まかには理解できてしまうのは,この「超越論的主観性」を内世界的で心的な意識主観性と見なしているからである。