真であるとはなんだろうか。なにが真理の規準なのだろうか。
1+1=2は真だが、7は偶数であるが真ではない。この二つの言明はいったい何が違うのだろうか。前者がもっていて、後者がもっていないものとはなんなのだろう。
真理とはなにか
真理の担い手
トムは男性ですという文と、Tom is a manという文は同じことを表しているように思える。この共通するものを「文」自体と区別して「命題」と呼ぶ。二つの文は異なるが、同じ命題を表している。文を口に出すのが「発話」であり、出したものが「言明」と呼ばれると理解して問題ないだろう。そしてこのいずれも、〈~は真である〉と言うことができる。
いまそれぞれの用語を「文」をもとに整理したが、〈真である〉ことの分析にとって基礎的なのが文だと考える必要はない。「命題」から考えても良いし、「文」が「信念」の表現だと思えばこれから始めても問題はないのである。どれを基礎的とするかは議論があるが、たとえば「文」派の人は、そもそも「命題」の存在を認めなかったりする。二つの文に共通なものがわからない、つまり、何を以って同じであるか説明ができないからであろう。トムは男性ですということと、Tom is a manということの、一体何が同じなのか、よくわからないのだ。
この議論に手を出すことはせず、中立的に「主張」という言葉を使っていくことにしよう。
真であることと真であるとされること — 真理と確実性の混同
- しかしそもそも〈真である〉ようなことなどあるのだろうか。たとえば目の前にペンがあるとしよう。これは真だろうか。そのように見える。しかし本当にそうだろうか。たとえばそれは錯覚ではないだろうか。100%絶対の確信をもってそう言い切れるのだろうか。つまりこの世のすべての主張は、真でありそうなことではあるが、別に真だとは言い切れないのではないか。
- いや、こうも言えるかもしれない。すべてのことは真なのだと。そこにペンがある。それはもしかしたら間違いかもしれないし、あるときは本当に錯覚であったりするだろう。しかし、その人がそう信じているのだから、それは真なのだ。そう言ってしまっていいではないか。
この二つは〈真である〉ことについて極端なふたつの立場に立っている。前者はありとあらゆることを真ではないとみなし、後者は逆にありとあらゆることを真だとみなす。
この考えにはさまざまな間違いがあるが、とりわけ間違っていることがある。それは「真であること」と「真であるとされること」の間違いである。前者は真であることを決める権限は誰も持っていませんといい、後者は真でないことを決める権限は誰も持っていませんといっている。犯罪者であることと、犯罪者だとされることにはまったくの違いがあるように、この二つにもまったくの違いがある。
客観性
真なることは、人々あるいはまともな人々が信じることに依存しているのだろうか、それとも、誰が何を考えていようと真である主張は存在するのだろうか。
現代哲学のキーコンセプト 真理
ここに三つの立場がある。
- 「誰かに信じられていること、知る可能性にさえ依存しないような主張が存在する」→真理実在論と呼ぼう。
- 「いかなる主張もそれを誰が信じるかに依存する、意見の問題である」→真理相対主義。
- 「ある主張を真にするものの一部には、私たちがそれを知ることができるという事実が含まれ、そのため、私たちが真か偽か知り得ないような主張は、真か偽にはなりえない」→真理反実在論。
630億光年離れた宇宙に奇数個の水分子がある、という主張は真だろうか偽だろうか。620億光年以上離れた宇宙の情報は一切私たちに届かないのだが、実在論者は真か偽かのどちらかだという。相対主義者にとって真理は誰かにとっての真理であるので、教授のジョークがおもしろいと思うのが人によるのと同じく、真理も人によると考える。そして誰も意見をもたないところでは真でも偽でもない。
反実在論者にとっての真理性は、それを知る方法と結びついている。
(1) あるものは誰がなにを信じていようと真であるのか?
(2) 原理的に誰もそうだと知る方法がないにもかかわらず、真であるものは存在するのか?
実在論は常識的な立場である。恐竜の絶滅を見届けた人はいないが、その最後の恐竜が死ぬ間際に歯が折れていたか折れていないかはどちらかに決まるように思える。
実在論についての反論は、「たとえ客観的に真なる主張があったとしても、われわれにはそれがなんだかわからない」ということである。実在論は懐疑主義に至る。1+1=2はあなたにとっては真にみえるかもしれないが、その真理性はわれわれとは関係がないため、実際はどうだかわからない。悪魔が幻覚をみせているのかもしれない、その可能性を排除できない。カントは二つの世界を提唱した。物それ自体の世界と、私たちが見たり感じたりする現象の世界である。私たちの知識は現象界に限定され、物自体について知ることはできない。
これにはいくつかのヴァージョンがある。まず主観主義。これは「人それぞれ」の真理観を持っている。そして合意相対主義。これは「集団にとって真」を意味する。
もし主観主義が正しいとすれば、誰も間違うことがない。しかしこれは、われわれが計算違いをしたり、財布を忘れたりすることを説明できない。だが、合意相対主義はこの困難を乗り越えている。ある文化において地球というのは巨大な亀だと信じられているとしよう。そこであなたが「丸いですよ」といったとしても、間違っているのはあなたのほうである。そこでは人は間違い得る。しかしもし合意相対主義が正しいとすれば、主観主義と似たような問題に直面するだろう。合意相対主義は集団において決して誤ることがない。
相対主義ではない立場を絶対主義と呼ぼう。絶対主義とは、『その真理がそれを誰かが信じていることに依存しないような主張が存在する』とする立場である。ここで問題となるのは、相対主義が正しいとすると、相対主義の主張自体は相対的なのか、絶対的なのか、ということである――この反論はよくある。peritropeと呼ばれる。
相対主義に対する反論は他にもある。たとえばAさんが「猫はリビングで寝てるよ」と言ったとする。Bさんが「いやいや、寝室だよ」と応じる。この時点で相対主義には問題が生じるのである。AさんやBさんを集団に置き換えれば同じ問題が起きる。
人それぞれ、という考え方が危険なのは「あいつは悪い奴だからブッ転がしてもいい」と思う人がいるからだ。過激派は時にこのような思想に至り、あらゆることを正当化する。
とはいえ、相対主義にも一定の説得力がある。8.6秒バズーカというお笑い芸人のネタが面白いかどうかは人によるだろう。「人それぞれ」とどうしても言いたくなる事柄は存在する。
反実在論者にとってそれが真であるかどうかは、わたしたちがそれをどう知るかということと関係がある。飼い猫がリビングで寝ているかどうか知りたいなら部屋に行けばいい。実在論者の真理観では、知ることができないとしてもそれが真だということには変わりがない。反実在論者の見解では、わたしたちがそれを真か偽か見出せないなら、そもそもそういう事実は存在しないという。ある主張が真であること、主張が真であることを見出すことが可能であること。このふたつは反実在論者にとってはおなじことである。
これに対する反論は、次のようなものである。たとえば「最後の恐竜が死んだのは月曜日または火曜日または水曜日または木曜日または金曜日または土曜日または日曜日である」という主張を考えよう。「AまたはB」が真になるのは、AあるいはBが真であるときである。しかし最後の恐竜が死んだのは〇曜日であることは、決して確かめることができない。要するに全部が真でも偽でもなくなるが、しかし、上記の主張はふつう認められなければならないだろう。反実在論者は古典論理を放棄しなければならない。
そしてフィッチのパラドクスと呼ばれる問題が起きる。これを見ていくために確認しておくことが二つある。(1)猫がリビングにいないならば、猫がリビングにいることは知られ得ない。つまりpでない⇒pは知られ得ない。つまりpが知られうる⇒p(2)猫と犬がリビングにいることが知られているならば、猫がリビングにいることは知られており、犬がリビングにいることも知られている。つまり「pかつq」が知られている⇒pが知られており、かつ、qが知られている。
- さて、反実在論が正しいとしよう。ふつうの感覚として、「真ではあるが知られていない主張がある」ことには納得してもらえるだろう。その主張をPとおく。
- 『「P:真」かつ「P:真は誰も知らない」』は真である。
- 反実在論は正しい。つまり【『・・・』ことを誰かが知っている】は可能である。
- (2)を【・・・】に適用しよう。すると《「P:真」を誰かが知っている、かつ、「P:真は誰も知らない」を誰かが知っている》は可能だと言える。
- さて、もし「P:真は誰も知らない」を誰かが知っているとしよう。すると(1)から「P:真は誰も知らない」が真であることが導かれる。
- ゆえに《「P:真」を誰かが知っている、かつ、「P:真は誰も知らない」》は可能である。こういうことになる。しかしこれは矛盾している。
- よって、Pは存在しない。これは真ではあるが知られていない主張など存在しないことを意味する。つまり、知られていない真理などどこにもない。われわれはすべてを知っている。
反実在論者は真か偽かという二値原理を放棄し、古典論理をも捨て去らなければならない。しかもそのうえで次の選択を迫られる。
- (1)または(2)を否定する。
- われわれはすべてを知っていることを認める。
- 「知られていない真理はない」と「すべての真理は知られている」が同じ意味でないような非古典論理を採用する。
①真理の認識説
- テスト原理:真理とは何であれ、私たちが、主張を真かどうかテストするときにテストしているものである。真理とはそうしたテストをパスするときに主張がもっていて、そうしたテストに失敗するときに主張がもっていない性質である。
真理の認識説と呼ばれる真理の考え方の諸形態は、テスト原理を共通して持っている。たとえば猫がリビングにいるかどうかは、リビングを見てみているかどうかテストすればいい。このことは極めて当たり前のことで、真理について扱うなら、このテスト原理かこれに類似したものが真でなければならないように思われる。
認識説を唱える者にとっては真理とは「テストをパスする性質」である。「整合説」と「プラグマティズム」は認識説の形態であるが、これらは、テストをパスする、ということをどう理解するかによって立場がわかれている。
認識説は反実在論に与している。だから反実在論に対する批判はすべて認識説にも当てはまる。逆に、実在論者はテスト原理とは少し距離を置いた真理論を必要とするだろうことがわかる。真理が認識と結びつきすぎると、懐疑主義の問題は取り返しがつかなくなる。
真理の整合説
- 整合説:ある主張が真であるとは、適切なかたちで整合的で包括的な信念の集合に含まれるということである。
これを理解するためには整合性と包括性について理解しなければならない。
〈整合性〉とは伝統的に論理的に無矛盾であることだとされてきた。Aくんは男だ、と、Aくんは男ではないというのが同時に真であっては困る。しかしそれだけではない。単に論理的無矛盾だけではおかしな話になる。信念の集合に含まれる諸要素は無矛盾である以上に繋がっていることが要求される。つまりその要素が他の要素によって説明されなければならない。
〈包括性〉とは信念の集合があらゆる話題をカバーしているシステムだということである。『適切に整合的な信念のシステムは真理値をもちうるすべての主張に対して真理値を定めることが保証される』。
整合説の問題点は、そのような「適切に整合的な信念のシステム」が複数考えられる場合、これこそがというものを取りだすことができない。たとえば今猫がリビングにいたとしよう。しかし猫がリビングにいない場合も容易に考えられる。そして猫がいない場合の信念システムを考えることもできるだろう。整合説を唱える者はなぜ「猫いるシステム」が真理で、「猫いないシステム」が真理でないというのだろう。おそらくこれに対しては、現実がそうなってんだろ、という以外ないと思うが、そのように言った途端整合説を放棄していることになる。なぜなら整合説の人は真理というものをそのように考えていなかったはずだからだ。
ある概念の意味というのは、その概念を何かに適用したり適用しなかったりすることによってもたらされる実践的な差異にある。実践的な差異とは、物事が私たちの行為にもたらす結果の差異のことである―――とプラグマティストは考える。
例えば硬いという言葉の意味はなんだろう。もし何かが硬ければ、それで人を殴れば痛いだろうし、それをナイフで一突きにしても豆腐のように貫かれてしまうこともないだろう。そして真理という概念もこれと同じように説明されるはずなのだ。
ある主張が真であるということ。それは「もしその主張を私たちが熱心に偏見なく探求するとしたら、結果として私たちはみなその主張を受け入れることになるだろう」ということだ。真理とは『あらゆる探究者が最終的に同意するように運命づけられている見解』である(パースのプラグマティズム)。
しかしこの真理観には問題がある。なにが最終的なのかよくわからないからである。そして探求さえ続ければいずれそこに達するだろうと想定するのも無理がある。どうすれば最後に死んだ恐竜の歯が折れていたか、同意に達することができるだろうか。
これに対してウィリアム・ジェイムズは異なった見方をとった。ジェイムズにとって真理とは、その信念にもとづいて行為すると成功するだろうという意味である。つまり役に立つことがわかったときに、われわれはそれを真と呼ぶ。
これによって最終的に同意が得られるだろうという想定は避けることができる。けれども、偽なる主張が都合のよいことはよくある。
②真理の対応説
主張を真にするとき、大切なのはわれわれが何を信じているかではない。雪が白いかどうかは雪がどうなっているかによって決まるはずである。真理の対応説はこのように、主張と世界との間の「関係」として真理を捉えようとする。
そして主張が一体なにに関係しているのか、その上で主張が真となるとはどういうことかが議論される。
対応説は実在論とも反実在論もうまく調和する。実在というものを主体に引き戻せば反実在論にもなるし、対応をどこにするかで柔軟な改変ができるだろう。
古典的対応説
古典的対応説においては、主張は事実と対応する。主張が真であるとは、その主張に対応する事実が存在するときであり、かつ、その時に限る。事実とは世界のあり方のことである。古典的という名を冠するように、これは極めて常識的な発想であると思われる。雪が白いことが真であるのは、実際雪が白ければよいだろう。
- 古典的対応説:ある主張が真であるのは、その主張に対応する事実が存在するときであり、そのときに限る。
当たり前だが、「雪は白い」はただの言葉だからそれがそのまま事実と対応するわけではない。その対応方法はいろいろ説明があるだろうが、ふつうは、「雪が白い」という主張は世界の特定のあり方を表象すると考える。そして主張が表象する事実が存在するときに、その主張を真と呼ぶわけだ。
さて、このように取り決めたとき、問題となるのは真ではなく偽な主張である。
「すべての爬虫類は胎生」これは偽。だが何を表象しているのか? もし何も表象しないなら、次の2tの主張と単なる偽な命題の区別がつかなくなる。
「3辺しかもたない4角形がある」これは偽。だが、ありえないという意味で、普通の主張とは区別できるだろう。「モームなレイスたちがアウトグレイブする」これは無意味。しかし何も表象しないという点では最初の例と区別できない。
上記3つの主張を区別するには、たんに「ありうる」「ありえない」「無意味」で区別できるようにすればよいだろう。そこで持ち出されるふつうの方策は、〈事態〉という概念である。つまり主張が表象するのは事実(この世界のありかた)ではなく事態(そうだったかもしれない世界のあり方)であり、事態が成立しているとき、それは事実と呼ばれるようになる。
- 「すべての爬虫類が胎生」であることは、あったかもしれない世界のあり方を表象するが、それは事実ではない。よって偽とみなせる。この主張は必然的なものではない。
- 「3辺しかもたない4角形がある」ことは、必然的にありえない。これは成り立ちえない事態である。しかし事態としてはやはり存在している。成立することがまったくないため、これもやはり偽となる。
- 「モームなレイスたちがアウトグレイブする」ことは、なんの事態も表象しない。だからこれは偽ではなく、意味がない。
古典的対応説はすんなり納得しやすい。しかし問題はある。たとえば何を表象していいやらわからない主張がある。「100の正の平方根は10」もそうだし、「AがBを射殺したのは悪い」もそうだし、「こうなっていたこともありえた」もそうだ。だいたい、「100×1=100」と「2×50=100」と「2×50=99+1」はどれも違う事態や事実を表象しているのだろうか。偽だと語ることができる以上、事態としては存在しているといわざるをえないため、存在しているものが限りなく増えていく。
因果的対応説
古典的対応説の困難を乗り越えるために、因果的対応説は事態というものがどんなものか、どうして主張がそういうものに対応するのかの説明を与える。
- 戦略①:指示関係。「雪」という語は世界のなかの雪を指示する。「白い」は白さという性質を指示する。
- 戦略②:語を組み合わせてできた文で原子文を作り、その真偽値によって複合文の真偽値も決まる。
対応説全般に当てはまる困難ではあるのだが、因果的対応説にも問題がある。具体的個物なら指示関係は納得できるが、「悪い」とか「ありうる」とか、そういう語をどう理解するかが難しい。そこで対応説の支持者はこういう語を無意味だとかいって切り捨てたりするが、この切り捨ては多くの代償を伴う。とんでもない理由で家族を殺されても「これが悪いことだとは言えない」ということにもなる。なにせ、真でも偽でもないのだから。
古典的・因果的対応説は意味論的に真理を説明した。真理メイカー論者によれば、それは意味論的なプロジェクトというより、形而上学的なものである。主張が真になるためにわざわざ一対一の対応なんかなくても、真にするものさえあればよいのだ。
たとえば「雪が白い」という主張の真理メイカーは雪が白いことだし、誰でもいいが誰かが死ぬことは「すべての人間は死ぬ」の真理メイカーである。
だが、「ジャックは馬を所有していない」の真理メイカーはなんだろう。「ジャックに所有されている馬が存在しない」をなにかの存在によって説明することができるのだろうか。そして、仮にトムが死んだとしても「すべての人間は死ぬ」ことを真だというには十分ではない。トム以外の人間は死なないかもしれない。
真理メイカー理論は真理論ではないという見方もある。これは単に「真なる主張には少なくとも真理メイカーがある」ことだけを教える。
③真理のデフレ理論
真理のデフレ理論は認識説と対応説を乗り越えるために生まれてきた。基本的な発想は「ある主張を真と呼ぶことはたんにその主張そのものを主張することとほとんど変わらない」である。たとえば「猫がリビングにいることは真である」ことを、われわれはいろいろな言い方をする。わざわざ真であるなどといわずに単に「猫がリビングにいるよ」ということもあるだろう。このことが、真理について理解するうえでのすべてなのだとしたら?
「~は真である」という表現をどのように理解するかについて、たとえば2つのバージョンがある。余剰説(ラムジー)、引用符解除理論(クワイン)である。
余剰説
ラムジーは「~は真である」を直接的なものと間接的なものにわける。直接的なものは「雪は白いのは真だ」といい、「昨日君が言っていたことは真だ」が間接的である。間接的なもののほうはなんらかの方法を使って内容を突き止めなければならない。
直接的なほうは、「真である」という表現はまったく余計なものだ―――ラムジーはそ考えた。Pは真であるというのは単にPだということであって、真であるというのは単に無駄ないし強調でしかない。二つには意味の違いがないのである。
間接的なもの「君の言ったことは真だ」というものを考えよう。これは無限の連言だと見なされる。【君の言ったことがPならば、Pは真だ】ということが連なっているのである。そしてPは真だというのは直接的だから、【君の言ったことがPならば、Pだ】と同じ意味になって、真だというのは消えてしまう。
よって、真であるなどというものの問題は消える。しかしもちろん余剰説にも疑問が残る。
- 問題① どうしてわれわれは間接的な真理帰属を理解できるのだろう(ex それは無限の連言なのに)
- 問題② 真という表現あるなしで意味が違うように見えることがある。(ex 「水は室温で液体なので「水は室温で液体である」は真だ」「水は室温で液体なので、水は室温で液体である」後者は無内容に見える)
引用符解除理論
引用符解除理論は「文」が真理の担い手であるとされる。文について話すためには文に名前をつける方法がないといけない。文を一塊として扱わなければならない。たとえば、猫がリビングで寝ている、というのは文ではなくて猫について述べているだろう。しかし【「猫がリビングで寝ている」は11文字である】は文について述べている。
さて、「~は真である」というのは文にくっつくものである。この述語の効力は引用符の効果を打ち消してしまうことにある。【「猫がリビングで寝ている」は真である】というのは、文ではなくて猫について話しているだろう。「~は真である」は引用符を解除し、世界について話すことを促す(意味論的下降)。
引用符解除理論は余剰説のように真があるのとないのとで「意味が同じだ」とは言わない。論理的には同じことだという。たとえば、「A」ということと「Aでないということはない」の違いを考えよう。この二つがまったく同じ意味だというのが余剰説論者である。しかしやはり普通の感覚では、「好き」と言われるのと「好きでないことはないよ」と言われるのは意味が違うだろう。しかし論理的には二重否定だから真理値は同じである。引用符解除理論は意味について何も語らない。
※メモ
真理論とは「真理とはなにか」という問いである。
すなわち、何がある主張を真であったり偽であったりさせるのか、と問う。真であることの本性はなんなのだろうか。これについて考えていく前に、注意しなければならないことがある。
第一に、それは「〇〇は真である」という文を並べてそれに共通していることを抜き出す試みはうまくいかない。なぜなら、そうやって並べた文が正しいかどうかわからないからだ。第二に、真であることと真とされていることは異なる。犯罪者であることと犯罪者とされていることが異なるように。これを取り逃すと、あるふたつの極端な立場に逢着する。①真であることなど存在しない、②すべてが真である。
- すべてに疑いの余地がある。100%そうだといえない以上、すべての主張はありそうな主張でしかなく、真ではない。
- 人それぞれ信じていることがある。そう思うんならそうなんだろう。
しかしもしも真であることと信じられていることが同じなら、「冷蔵庫に牛乳があるなら、冷蔵庫に牛乳があるのは確かだ」といった主張が正しくなる。しかし仮に牛乳があったとしても、私たちにとって確かかどうかはわからないし、特に買い物に行く前はそうである。アリストテレスはこれらの極端な主張に対して、「全部が真じゃないならお前の意見も真じゃないし、全部が真なら、全部が真でないことも真なんだな」と論駁している。
主要な三つの立場
- 実在論 …… それが誰かに信じられていること、あるいは誰かがそれを知る可能性にすら、その真理が依存していないような主張というものが存在する。
- 相対主義 …… いかなる主張の真理もそれを誰が信じるかに常に依存するという意味で、真理は常に意見の問題である。
- 反実在論 …… ある主張を真にするものの一部には、私たちがそれを知ることができるという事実が含まれ、そのため、私たちが真か偽か知り得ないような主張は、真か偽にはなりえない。
このいずれにも問題点はある。たとえば実在論は懐疑主義に至る。実在論者のいうような真理があったとしても、われわれはそれを知ることができない。もしかするとわれわれの知らない凶悪な悪魔がいて、どう見たって真でありうることも、悪魔がそのように見せているだけかもしれない。しかもわれわれはそれを否定することもできないのである。デカルトは神を持ち出してこの問題を回避し、カントは「物自体の世界」と「現象の世界」の二つに分けて、われわれの知識を現象界に限定した。
容易に理解できるように、相対主義はお互いの意見のぶつかりが起こり得る。つまりどっちも正しいとなって、前に進めなくなる。
反実在論は真でも偽でもない真理値を受け入れる。つまり古典論理を捨て去ることを選ばなければならないし、フィッチのパラドクス(以前の記事参照)を受け入れると、知られていない真理など存在しないなどという立場に立たなければならないハメになる。
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