にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

(メモ)にんじん的物理の勉強① 空間

 ニュートン力学は物体の運動を研究している訳だけれど、「物体の」というほど物体に目を向けているわけではないように見える。物体はまず点として与えられているわけだけれど、(1,1,1)が物体というわけではなくその運動c(t)が物体なわけでもない。そこにあるのはただの「運動」であり、むしろその主語を補完するために物体というものが仮構されているにすぎない。質量があるじゃないか、という話だが、あれだって「動きづらさ」を表しているわけで、別に物体とは言ってない。

 まずユークリッド空間R^3と、まっすぐ均一に流れる時間Rとの直積をとった空間を前提する。ここで安易に「ハイハイ。つまり、R^4ね」と言ってしまってはいけない。集合論的には正しくとも、構造が異なるからだ。なぜならR^3×Rという空間にはR^4と同じ内積など定義されておらず、完全に独立別個の「空間」「時間」として扱われているからだ。ふたつが同型かどうかという話以前に内積空間ですらないわけだ。ちなみに実数といえば線状に点がミッチミチに詰まっているという含意がある(実数という言葉をやたら強調する場合、このミッチミチさを意味していることがよくある)ため、これを危惧した人が「単にベクトル表示ができるだけでいいからR^3じゃなくて三次元アフィン空間にしましょう」とするケースがあるが、そのアフィン空間の基準集合をR^3と仮定している時点で「なんでそれはR^3でいいんですかね」という話になっている気がするので、別に気にしなくていいと思われる。恐らく、物理の人は誰もそんなことは気にしていない。そしてこの記事を読んでいる人はアフィン空間のことは知らなくてよい。

 ……で、この空間の上を走る謎の関数c:R→R^3がある。これが運動の軌跡とされ、運動である以上何かが動いている気がするが、別に何も動いていない。

 

 

 

「ナラトロジー入門」②

 物語行為に焦点をあてることは、物語を「語り手と読み手のコミュニケーション」として捉えることである。ジュネット『物語のディスクール』においても、物語は「物語内容」「物語言説」(形式)「物語行為」という区別が採用されている。

 物語行為を考えるにあたって登場する語り手という概念は、作者とは異なり物語内部に存在する。最もわかりやすいのが夏目漱石吾輩は猫である』で、作者は夏目漱石だが語り手は猫である。では太宰治『思い出』という自伝的小説はどうだろうか。このときも物語論では、太宰治と”私”という語り手を区別する。文学批評では一般的に作者論に傾いてきたが、物語がいかに書かれているかという構造を主題にする物語論においては物語を作者から説明しようとはしない。したいのは時代背景や作者の研究ではないからだ。また、そもそも物語というものを【作者によって創造される】というほどに主体性に偏ったものだとは考えない。作者はむしろ様々な事柄に縛られなかば操られるようにして書いている(多くのものに影響を受けている)のだから、作者について研究しても物語に対する理解は深まらないのである。これをロラン・バルトは「作者の死」(神のような作者の死)と呼び、むしろ物語は無数の起源不明の引用たちからなる「起源不明のエクリチュールの織物」という。物語は既製品の複雑な結びつきで、できあいのもので作ったがゆえに作品内部にいろいろな矛盾も生じてくる。作品をひとつの正しい意味につなげるのは間違いなのだ。

 さて、物語はいまやたいてい文字で書かれている。バンヴェニストはなにかを語るときの「いま、ここ」な話し方をディスクールといい、誰もしゃべっていないかのように書かれるイストワールと区別した。話し言葉においては「昨日友達が来たんだけど、すごい大酒飲みでさ」というのに、小説においては「友人を家に泊めた。彼は大酒のみだ」というように書く。

 しかしそう区別してみると作者と語り手を異なるものとして置くのは不自然なようにも思える。『吾輩は猫である』の語り手は猫のようだが、現実の会話のような話し手ー聞き手というものはない。バルトは語り手も読み手もいないような物語はありえないといっているが、語り手を含め登場人物は紙の上の存在で、語り手というのは言語活動それ自体に近い。語り手は人格的なものではなく物語を維持するために存在している。では「読者」はどうなのか。先ほど物語は「起源不明のエクリチュールの織物」だとされたが、しかし受け手は統一されたメッセージを受け取っているように考えるだろう。まさにその統一される場こそが「読者」と呼ばれる。語り手を実在するものと考えるとあまりにも彼は知りすぎている。テクストを構成しているものがいるのだ。私たちは「作者」によって描かれつつあるところの物語を通して「内包された作者」「作者の像」を作り出し、それが糸を引くように感じる。だがそれがまさに「語り手」と呼ばれる言語活動、物語の機能そのものなのである。

 

 

「ナラトロジー入門」①

 物語に「何が書かれているのか」という解釈ではなく、「どのように書かれているのか」という形式を問題にしたものを物語論(ナラトロジー)という。

 物語の背後にある設計図について二十世紀に入って*1最初に分析したのがウラジミール・プロップ『昔話の形態学』だった。昔話はバリエーションがいろいろあるが、共通するものもある。それは「機能」と呼ばれる物語の筋の展開に直接影響を及ぼす人物の行為のことであり、合計31個・飛ばすことはあれど順番通りに起きる―――たとえば機能①「留守」だれかが家を留守にする。機能②「禁止」あれやっちゃダメと言われる。機能③「違反」絶対に破られる。

(メモ)

プロップの視点は人物の行為のみに焦点をあてており、そこに登場するキャラはそれをするためだけに、あるいはそれをし合うためだけに存在している。人物のキャラクター性はあまり問題にならず、心理を重視して描かれることもない。しかし役割を重視するプロップの分析は多くの物語に適用してみせることができるだろう。たとえば週刊少年ジャンプで典型的な物語は①自分より強い奴②援助する者登場③試練④クリア⑤倒すというパターンを繰り返す。

 ロラン・バルト『物語の構造分析序説』においては「機能」にくわえて「指標」が区別される。指標は物語の筋とは関係しないがキャラクター性や雰囲気、その他もろもろの状況を伝える。たとえば登場人物が誰かを殺害するのは物語におけるひとつの機能だが、その際の手ごたえなど物語の筋に一切関係しないが語られることがあるだろう。近現代の小説は昨日よりもむしろ指標を重視しているといえる。物語は機能とそれをまとめたシークエンスと、細かな指標の集合代なのである。

 バルトも登場人物をその行為から分析することを支持しているが、同時に、違う角度での分析も提案している。つまり物語を語っているのだれかという「物語行為」という視点である。

 

 

 

*1:古代ギリシャではアリストテレスが悲劇について分析している

「歴史の哲学 物語を超えて」③歴史哲学の書き換え

歴史哲学の書き換え

 ブローデル『地中海』という全体史は、自然環境などの「安定した構造」、社会文明などの「緩慢な変化」、そしてその表面で生じる「波頭」としての出来事の総体だった。ここで、各時期値域における、さまざまな規模と位層にわたる諸システムを総称して「歴史システム」と名づけることにしよう。個別の活動なしに構造はありえず、構造なくして個別の活動はない。その都度生まれ、変形していくこのシステムの根底にはどのようなメカニズムがあるのだろうか―――もろもろの構造はだれかが全体の設計図をひいて作られたわけでも、特定の原因で作られたわけでもない。そこかしこで小さく生まれた不均衡が小さな、あるいは大きな闘争や衝突を引き起こし、これを回避するためのミクロなゲームも起こっていく。やがてそのいくつかが定着し、状況に応じて変形したり、何かが廃れたりする。そしてそこでも不均衡は起こりつつある。

 創造者や原因・本質をもたず偶然に支配された闘争の過程としての歴史システムは、その全体を複雑系をモデルとして把握することができる。特に「カオス系」が歴史システムの理解に向いていると考える歴史学者は多い。

  1.  システムの変化は、個々の出来事や個人、要素間の線的因果関係の束ではなく、システム全体の再組織化として把握されなければならない。
  2.  一度成立した慣行や制度というマクロ秩序がミクロな行動を規整し続ける。
  3.  全体の制作者はおらず、いかなるシステムも充分に統合されることはない。
  4.  偶然が決定的な役割を果たす
  5.  システムの成長と衰退両方に適用可能でなければならない。

 これが正しければ、歴史はもはや物語ではなく、複雑系となった。これによって私たちが知ることのうち最も重要なことのひとつは「自由な主体」が幻想であり単に物語にすぎないということだ。それはニーチェの『人はなにかを意志することはできるが、意志を意志することはできない』という言葉がわかりやすい。それはその者が埋め込まれた各システムの力学によって形成され、その者自身は構造の可変的項にすぎない。では個人はどういう存在なのかといえば、パトチカがいうように『単なる継電器』なのだ。つまり、蓄積された力を流し続けるための装置であり、電圧を高め電気の方向を変える装置である。だが別にそれ自体が力であるわけではない。

 

 

「歴史哲学への招待」

第一章 変動する歴史

 1914年6月18日に起きたサラエボ事件は、人類史上最初の世界大戦を引き起こした。記念日に皇太子とその妃が市庁舎に行く途中で車に爆弾を投げつけられ、急遽ルートを変更。たまたま運転手が道を間違え立ち往生していたときにそこに居合わせたセルビア人大学生に狙撃され殺害されたのである―――オーストリアセルビアに宣戦布告。同盟国であるドイツとイタリアも参戦した。この波はここで留まらず、オーストリア&ドイツと対立していたロシアも参加し、さらにドイツに対抗していたイギリス・フランスも参戦。日英同盟と日仏協商により日本まで参戦した。

 相互に連関した出来事はほんの些細なきっかけでその局面が急激に変わっていく。これはあたかも自然科学の分野で知られる「カオス」(変数同士が相互に連動している運動方程式の解のうち、予測不可能で複雑な振る舞いをする運動形態)に似ている。カオス理論で注目されるのは『初期条件に対する鋭敏な依存性』であり、すなわち、わずかな誤差が増幅されて予測不可能性をもたらす現象はさきほど見た歴史現象と実に似通っている。

 そこで、歴史を無数の出来事が相互作用し変動していくカオスとして捉えよう。歴史はつねに激動している訳ではない。安定状態においては同じようなことが繰り返され人びとの行動も既成の規範に従って行われる。しかしこのような安定状態はちょっとした攪乱でもきっかけさえあれば変動し、予測不可能な激動に見舞われる。もはやこの動きは誰にも止めることができない。カオス理論においても、安定状態では同じようなことが繰り返される中で規則性と構造が産生され、ふとしたきっかけで激動が訪れる。この『カオス的遍歴』はまさに歴史そのものだろう。このことが教えるのは、あるひとつの出来事に対して「原因はこれにある」と言ってしまう探究方法は歴史認識を誤るだろうという教訓である。

 ただ出来事だけが生起し、歴史は起こったことと起きることによって成り立つ。しかも起きることはそれまで起きたことのすべてを含んで立ち現れてくる。いわばひとつの出来事はあらゆる出来事の集結・結節点である。そしてその出来事は今度はまた別の出来事の要因となる。歴史を形成する出来事は継続的に更新され、現在はすぐに過去になり、記憶や記録だけでしか生きられない―――歴史とは、相互連関からおのずと自己自身を形成していく自己組織系である。自己組織系とは自己自身で秩序を形成する能力をもつ動的系である。

 

第二章 歴史と偶然

 わたしたちは、二つ以上の事象が因果性という必然的関係なしに出会うことを「偶然」と呼んでいる。ひとつの出来事を起こす複数の因果系列同士は必ずしも因果的に結びついてはいない。すなわち、どちらの因果系列からも片方から片方を予測することができない。出来事へ向かうドミノの列は突然に倒れ始める。この「偶然性」が歴史を形作っていく。第一次世界大戦はまさに皇太子夫妻とセルビア民族主義学生が鉢合わせたことにより起こった。ほんの少しなにかが変わっていれば、大戦はなかったかもしれない。そして一方、ほんの少し何かを変えてもやはり起こったかもしれない。

 歴史には多くの分岐点がある。分岐するまで、分岐することさえもわからない。決定論が主張するようには、歴史は単純でも理屈に合ったものでもない。歴史はマルクスの言うように「奴隷制」「封建制」「資本制」「共産制」と進むわけでもなく、トインビーの言うように「発生」「成長」「挫折」「解体」「消滅」と進むわけでもない。自然の猛威、外敵の侵入、支配者の権力欲、英雄の野望、民衆の熱狂……といった法則化できないものによって、偶然によって進むのだ。

 

第三章 進化する歴史

 近代市民社会の樹立としてフランス革命を高く評価する声は多いが、あの革命の経過は血なまぐさいものでまさに《嵐の時代》だった。古い秩序が崩壊し新しい秩序が樹立するためにはこうした時代を通過しなければならないのは歴史の常である。そして生命も、技術も、文明もすべて、創造と破壊を反復しながら「進化」してきた―――長い人類史の過程をみると何段階にもわたる革命的な飛躍があった。石器の発明や火の発見。農耕牧畜による生産性。人口の周密化と階層化。ソクラテス仏陀孔子などによって起こされた精神革命。それらを背景として古代帝国が出現。宗教。ユーラシアの商業革命。科学革命。産業革命。そして、情報革命。

 歴史には完成もなければ安定もない。だが変化してやまない歴史の流れのなかに「パターン」はある。古代ギリシアの最大の歴史家・トゥキュディデスはペロポネソス戦争を眺めながら、人間の性情が変わらない限り未来でも繰り返されるだろうと考えた。このパターンを見出すのも歴史家のひとつの役割だ。

 

第四章 歴史の認識

 多くの出来事が絡み合う歴史は今はもう史料を通してしか見ることができない。しかもそうした様々な「証言」は時には間違った情報である。しかも史料として残るものも少なく、残ったとしても情報として偏っている。もしも中国の歴史書のみから遊牧民を見るならば、彼らはいかにも好戦的な集団に移るだろう。しかも歴史のすべてを記述することはできずどうしても選択しなければならないが、それによって書き手の価値観が混入してしまう。歴史的史料そのものが①さまざまな事情によって滅失する・残る②記録すべきとされたことだけ記録されるという選択にかけられているのに歴史家によってさらに選択されたことだけが記述される―――歴史は歴史叙述を超えている。

 

 

「現代哲学のキーコンセプト 真理」ch5まで

真理とはなんなのか?

 この問いはこうも言い換えられる。「ニワトリは卵から孵る」という主張が持っていて、「両生類は羽毛を持つ」という主張が持っていない性質である《~は真である》という性質は一体なんであるのか? ———真理とは何かと問ううえで、真理をこの世界全体のことだと勘違いしてはいけないし、また、「真理とはなにか」と「何が真であるのか」は区別されなければならない。なにかある言明が真であることを知りたいことと、真理がなんであるかを知りたいことは異なる。Xとは何かという形式の問いはソクラテスが探求したことで知られる類のものだ。彼と同様に私たちが知りたいと思っているのは、『なにが真なる主張を真とし、なにが偽なる主張を偽とするのか』を説明することである。

 次になにがこの《~は真である》の担い手になるのかについて見たい。文、命題、発話、言明、信念、理論などがこの候補になる。ただ、文にそれを帰する哲学者の中には命題という抽象的対象の存在そのものを認めていないこともあり、論争は大変込み入っている。そこでここでは「主張」ということばを中立的に用いることにしよう。

  •  次のような誤解もある。(1)私たちになにか真であるとみなす権限は決してない。ゆえに何も真ではない。(2)誰かが信じていることを真でないとする権利はない。ゆえに何も偽であることはない。――――この議論の問題は、真であることと真であるとされることを区別し損なっていることである。当たり前だが犯罪者とされていることと本当に法を犯していることの間には差がある。

 

客観性

 《真である》という性質は、誰がなんと考えていようと持つものなのか、そうではないのかという問いは「客観性」というテーマに括られている。真なのか偽なのかわからない主張(特に、原理的に知り得ないようなもの)でさえも真や偽でありうるのだろうか。さらに言い換えれば、真ではあるが知り得ない主張は存在するのだろうか。

  1.  実在論:それが誰かに信じられていること、あるいは誰かがそれを知る可能性にすら真理が依存していないような主張というものが存在する 実在論はつまり「誰がどう考えていようが世界はあるがままにある」という常識的な立場を擁護する。真である主張は真であるがゆえにそう知られるのであり、知られ得るから真であるわけではない。この立場にある人間は『620億光年先に奇数個の水分子がある』という主張は知り得ないが真か偽かのいずれかである、と述べる傾向にある。
  2.  相対主義:いかなる主張の真理もそれをだれが信じるかに常に依存するという意味で、真理は常に意見の問題である 相対主義者は、真理と虚偽は人びとが何を信じるかに依存していると主張する。なにかが面白いのはそれを面白いと考えるということを含意する。真理とは常にだれかにとっての真理である。
  3.  反実在論:ある主張を真にするもの一部には、私たちがそれを知ることができるという事実が含まれ、そのため、私たちが真か偽か知り得ないような主張は、真か偽かにはなりえない 反実在論は真理に信念が関係していると思っていないが真理は誰かにとっての真理だとは言わない。真であることと認識可能性は密接に結びついており、620億光年先の水分子が奇数かどうかなど知る方法がないのだから真だとか偽だとかそういうことはいえない。それについての事実は存在しないのである。

 実在論はたいへん常識的だが、「世界がどうあるか」「世界がどう見えるか」を根本的に分離してしまうのでそもそも何も知り得ないのではないかという懐疑を誘発する。どれだけ確かめようがどれだけ確からしかろうがそれは「どう見えるか」の話にすぎないのである。たとえば哲学者カントは《実在の不可知の世界》がないと私たちの経験は不可能になると論じ、そして私たちの知識というものを《現象の世界》に限定したのである。あるいは、真であることを知るために誤る可能性のない完璧な証拠を用意すべきだという前提を攻撃する手もある。

 相対主義にはさまざまなバリエーションがある。主観主義においては、真理は個人に相対的である。合意相対主義においては、真理は集団に相対的である。主観主義の問題点は明らかに、誰も決して間違わないことになってしまう点である。合意相対主義も同様の問題を回避できておらず、その文化集団で地球が平らだと信じられているならばそれが真になるだろう。また、よく知られているように相対主義の主張自体が相対的なのかという問題もある。それに、Aさんが「Bは冷蔵庫に牛乳があると思ってる」と信じ、Bさんが「俺は冷蔵庫に牛乳があると思っていない」と信じていたら、相対主義において一つの正しい答えは存在しない。これはそもそも誰かから「いやそれは違うよ」と言われたら「いや俺にとってはこうだから」という破滅的な帰結を正当化する。

 反実在論は、真理値を見いだせないならいかなる事実も存在しないという。彼らの見立てではなにか主張が真であるというのは、それが真であると見出すのはどういうことだろうかと想像すること以外には何もない。まさに真理の概念=認識可能性の概念なのである。

 実在論者なら言うだろう。:恐竜は化石が最初に発見されたときに存在し始めたわけではない。つまり恐竜について何も見出すことができないとしてもそうであろうことがあると想定することは容易だ。それに、たとえば《最後の恐竜個体は一週間のうちどこかで死んだ》わけだが、これは七つの命題《最後の恐竜は〇曜日に死んだ》を∨で繋げたものである。各々の命題をチェックする方法などなくても一週間のうちどこかで死んだことぐらいわかる。古典論理を放棄するのと反実在論を放棄するなら後者のほうがましだ。さらに反実在論はアロンゾ・チャーチによる「認識可能性のパラドクス」を引き起こす。つまり、すべての真理は知り得るというならすべての真理はもうすでに知られている、というパラドクスである。このパラドクスの論証はやや複雑で、決定的に反実在論を論駁するものではないが、少なくとも反実在論者は完全に正常な文が真でも偽でもないという考えに踏み込んでおり、古典論理の二値原理を放棄しないといけないように思われる。というのも、チャーチによれば、反実在論者は彼の議論に含まれる次のいずれかを拒否しなければならないからだ。

  •  もしpが知られているならばp
  •  もし「pかつq」が知られているならば、pは知られており、1qも知られている。
  •  知られていない真理も存在する
  •  二値原理+「知られていない真理はない」と「すべての真理は知られていない」の同値性

 

 

真理と価値

 価値がその本質に組み込まれているような性質を「規範的性質」と呼ぶ。ここでの問題は、真理が規範的かどうか、つまり真理が或る種のよさとその本質に含むかどうかである。これを肯定的に論じるものを取り上げてみよう。『そもそも真であるというのは正しいということであり、正しいとは規範的なものなのだから、真であるも規範的だろう』がそれである。ただ、真であると正しいが同じかどうかはわからない。もちろん真であるときには正しいというのであるが、「皿の右にフォークがある」ときに「正しい位置にある」というからといって二つが同じ意味にはならない。前者は単にフォークの位置を記述し、後者はなんらかの一群のルールを適用しフォークの位置を評価している。これと同様に、真であるも主張を記述しており、正しいはルールに照らして評価しているのかもしれない。これ以外にも、そもそも正しいというのが規範的だというのも疑うことができる。「一週間は7日だ」「それは正しい」と言う時、単に同意しているのであってその主張がいいとか悪いとか許容できるとかできないとか規範的評価を行っている訳ではない。

 そうとはいえ、真理というものが気に掛ける価値のあるものだと私たちが考えているのは事実である。いったい何によって真理は気に掛けるに値するものとなっているのだろうか。

  1.  内在的な価値=信念が真であるということはそれ自体でよいことだ 真理はそれ自体で価値があるとする。なにしろ、実際に私たちはそれを気にかけているのだから。これはほかにも『現実とマトリックスを選ぶなら当然現実だろう』『必要とされるものが満たされる存在者がふたりいるとする。一方は全知、一方はそうではない。私たちは自分の必要が満たされるとしても全知のほうを選ぶ』と擁護される。ただマトリックスを選ぶと真なる信念以外のものも失うことになって比較にならないし、もし仮に全知の存在が必要なものを少しでも受け取れない風に設定を変えたなら選択が変化することを想像するのは容易である。早い走者のほうが遅い走者よりよいが、それはスピードの本性からして走ることの目的だからではなく、走ることの本性がスピードを目的とするからである。同様に、全知はいかもしれないが、それは信念の本性ゆえによいのであって、真理とは関係がない。
  2.  最終的な価値=合理的な存在者が真理を気にかけていること自体 切手収集家は売却などの目的のために集めているのではなく収集のために収集している。別に収集すること自体に価値があるわけではないが、コレクションの作成を望んでいるのである。カントは『合理的な存在が目的をもちそれ自体のために欲求している』ということ自体に価値をおいており、この見解はこの伝統に連なる。ただそれ自体のために欲求しているがゆえに真理がなんらかの価値をもつのだと想定することにはやや混乱がある。収集するという欲求が満たされることに価値があると想定すればよく、切手に特有の価値があると想定する理由はどこにもないからだ。
  3.  道具的な価値=真理は信念をより役に立つものにする 真であることが信念を役立つものにしているとする立場。だが当然のように信じていてはまずいこともこの世にはいくらでもあり、最終的には『行為の成功につながる』まで後退することになるだろうが、そうするともはや真理が本性上道具的な価値があると述べるのは無理だろう。丈夫なハンマーをすべて青色に塗っているとしよう。だが青く塗ること自体がくぎを打つ助けになっている訳ではないのだから。
  4.  構成的な価値=よい生を送ることの不可欠な部分であるがゆえに たとえ真理が道具的な価値をもつことが無理筋だとしても、正確な信念をもっていたほうが助けになるのは間違いない。マイケル・リンチは真理そのものを価値ではなく、それを気に掛けることの価値に焦点をずらした。真理を気にかけるに値するものとしているのは、それがよい人生を送るのに気にかけなければならないものだからである。
  5.  目的的な価値=真理を気にかけると私たちに恩恵をもたらす 登山者は頂上に到達することによってなんらかのよい感情が引き起こされる(道具的価値)。そして第二に、頂上に到達することを目的とすることによって他の仕方で恩恵を被る(目的的な価値)。

 

 

真理とはなにか①

「主張が真だというのは、真であるかどうかのテストをその主張がパスすることであり、そしてそれがすべてである」

 テストをパスすることと真であることの差はない。これを真理の認識説という。代表的なものは「整合説」と「プラグマティズム」である。前者は、その主張が適切なかたちで整合的で包括的な信念の集合に含まれるというテストを求め、後者は実践というテストを求める。たとえばパースは《十分に偏見のない人々が十分に長いあいだ探求すれば疑いのない合意に意見が収束する》として調査や観察が行きつくし全ての人が受け入れることになる主張を真と呼んでいる(収束すると考えるべき理由はないという欠点がある)。一方、ウィリアム・ジェイムズは真理を””都合のよさ””だと考える。すなわち、「真理」とはその信念にもとづいて私たちは行為すると成功するだろうという意味である信念が役に立つことがわかったときに適用されるラベルである(だが真なる信念が都合の悪いことはありうる)。

 また、真理の認識説は一般的には反実在論にコミットすることになり、反実在論に対する批判をすべて受け止めることになる。しかも場合によっては主観的相対主義に陥ることもある。牛乳が冷蔵庫にあるかないかということが私にとっては真だがあなたにとっては違うなどということはバカげている。認識説のメリットは真理の価値を拾い上げてくれるところだが、反実在論のデメリットをすべて受けとめなければならないし、そもそもテストを通ろうが通るまいが冷蔵庫に牛乳があることはありうる。テストはよい測定器ではあるかもしれないが、それがずばり真理そのものであるという根拠は薄い。

真理とは何であるか②

 真理の認識説がテストをする私たちを重視していたのに対して、「真理の対応説」は世界の側を重視する。「対応説」においては、真なる主張とはその主張が実在に対応するということに他ならないとする。””いかに実在に対応するか””に対して整合説では他の信念と整合していること、プラグマティストは探求の理想的な極限における一致というだろうが、ここでいう対応とはそのようなものではない―――真理とは関係的な性質であり、主張はなにか他のものに対して対応関係を持っている。

 「古典的対応説」は主張と事実の対応を考える。:ある主張が真であるのは、その主張に対応する事実が存在するときでありそのときに限る。だが主張は文であり、事実とは実際の状況なのだから””一致””などするわけはなく、いったい何をもって””対応””なのかは説明しなければならない。最も自然な回答は《主張は、世界を特定のあり方にあるものとして表象する》である。主張は世界のある場面を描きだすもので、その様が事実と一致しているならば真だという。だが100の正の平方根は10であるという主張はどんな事実に対応しているのだろう。この主張は世界の特定のあり方を描写しているはずではなかったか。

  1.  事態(描写されているもの)と事実について満足のいく説明は?
  2.  主張が事態や事実に対応するとはより正確にはどういうことなのか?

 「因果的対応説」は文の真理を指示によって定義する。まずは「グランドキャニオン」などの語をグランドキャニオンを指示するものとして、同様に他の語も順々に定義していく。それらを元に文をつくり、論理結合子を用いて複合文をつくる。「白い」という””性質””を表す語はある対象がその性質をもつときに白いを「充足する」という。まずは単文にでる語の充足を真と定義し、それを複合文へと拡大していくのだ。つまり、ある文が真であるかどうかというのは究極的には、ある対象がある性質をもつかもたないかという話になっている。この利点は、””事実””””事態””というものを導入しなくて済み、《ある対象が性質を持っているかどうかだけ見よ》と、「対応」という言葉さえなくて済ませられる―――だが「彼女が図書館にいたから、彼は公園に行った」という主張はどうだろう。たしかに彼女が図書館にいたことも彼が公園に行ったことも見やすいが、図書館に彼女がいたことが彼を公園に行かせることになったのかはまったくわからない。