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Phenomenology is explanatory: Science and metascience(Heath Williams&Thomas Byrne, 2023)を読む

INTRODUCTION

 It seems that, if one could be sure about anything concerning Husserl's conception of phenomenology in 1901 it is this: it is not
explanatory, because it does not deal with material causes and is instead descriptive.
 1901年当時のフッサール現象学概念について、もし何か確かなことが言えるのだとすれば、それは次の点だと思われてきた――すなわち、それは物的原因を扱わず、代わりに記述を行うがゆえに、説明的ではない、ということである。

Phenomenology is explanatory: Science and metascience
(Heath Williams&Thomas Byrne, 2023)p.1170

 これはメルロ=ポンティ含め、多くの現象学者に受け入れられている。だが実際のところ、何をして、何をしないことなのだろう? 理論の化学的価値はその説明力にあるというのに、彼は説明をしないというのか?

EXPLANATION

Three tiers of science

 フッサールの区別によると、標準的な科学には三層ある。

  1.  the concrete sciences 時空内の個別的・具体的出来事や対象(個々の運動、知覚事例、生体の振る舞い等)

  2.  the nomological sciences 自然や心的領域に成り立つ一般法則や体系(力学法則、心理学的一般化など)

  3.  the a priori disciplines 数学・幾何学・純粋論理など、経験に依らぬ形式的・本質的構造

Deductive-nomological explanation: First and second tier

 初期フッサールにとって、説明とは二つの前提から結論が導かれる演繹論証の一形態である。第一層(具体科学)に属する諸科学の目標は、「地上および天体の存在の、個別的かつ典型的な個体化の記述」であり、第二層に属する法則科学は、第一層の具体科学が対象とする事物についての諸事実を包摂する法則を定式化する。これにより、 法則 + 記述 ⇒ 当の事象 という形で説明がなされる(科学的説明のDNモデルという)。
 ここには「個別事例」(このムクドリが攻撃的である)と、「一般事例」(ムクドリには群れる傾向がある)の説明が含まれている。

Tier one concrete sciences “reach up” to a corresponding discipline above them in tier two and use the nomological resources they find there in order
to explain the facts they have described.
第一層の具体科学は、上位(第二層)にある対応する学科へと「手を伸ばし」、そこで見いだされる法則資源を用いて、自らが記述した事実を説明するのである。

Phenomenology is explanatory: Science and metascience
(Heath Williams&Thomas Byrne, 2023)p.1172

Interlawful explanation

 だが第二層の一般法則も説明を受けないわけではない。たとえばケプラーの法則万有引力基本法則と力学の基本法則からその説明を受ける。これを一般化して言うと、「一般法則が根本法則によって説明される」ということがある。
 以上から、説明にはいま三種類のタイプがあることがわかった。:

  1.  個別的事実の説明(facts → laws) 一般法則+その場の前提条件(初期条件・状況)から、演繹で当該事実を導く(DNモデル)。

  2.  一般的真理(一般事実)の説明(general facts → laws) 上位の“法則(群)”+補助前提(定義・領域制約・ceteris paribus 条件など) ⇒ 下位の一般命題

  3.  法則の説明=法則間説明(laws → deeper laws) それをより基本的・根本的な法則(Grundgesetze)のもとに包摂し、演繹的に説明する。(より基本的な法則(群)+原理 等 ⇒ 下位の法則)

Explanation within a priori sciences

 法則はさらに序列が上の法則から説明される。だがこの連鎖はどこかで打ち止めになるのか。フッサールはなると考え、著者は「基礎づけ主義」だと言っている(筆者としては、基礎付け主義のレッテルを貼るのは早計だと思う)。それが公理であり、理念的・不可改訂なものである。これにより生じる説明は非経験的で、非因果的なものとなる。たとえば「すべての偶数は2で割り切れる」という公理は、「2より大きい偶数の素数がない」ことを説明するが、原因ではない―――ここに生じる説明の第四のタイプは、公理 ⇒ 定理 という非因果的なものである。

Husserl is a unificationist

 さて、「説明」は演繹的なものであることを見た。だが演繹的だからといって説明であるとは限らない。フッサールが求めるのは統一性である。説明は、単に“結論が前提から出る”ことではなく、多様な事実や下位法則を、より基本的な法則・公理へ“還元”して束ねるときに生じる。フッサールの言い方では、統一を担う命題が「根拠真理(grounds)」で、証明の網(web of proofs)がそれへ遡るとき、私たちは「説明された」と言えるのだ。
 要するに、Aが説明されたといえるのはB⇒Aがいえればいいということではなく、BもまたCに説明され、CもまたDに説明され、最後には公理へと行きついて初めて説明なのだ。大切なのはその体系性である。

PHENOMENOLOGY

Pure logic

 ここまでの三層は標準的な科学の三層であったが、フッサールはこれを統括する第四の層に居る。第四層はいわば標準的な科学で当たり前のように使われている概念を明確化する管制室である。

 第1課題:概念の明確化(Begriffsaufklärung) 科学や論理で使う基本概念(命題・推論・証明・理論・妥当性…)の意味と用法を曖昧さなく整える。
 第2課題:法則の定式化(Gesetzeslehre)  純粋論理領域における公理・純粋法則(推論の規則・証明の規範・理論構成を制御する一般法則)を提示する。
 第3課題:マテーシス・ウニウェルサリス(Mathesis Universalis) 理論一般の「可能な形式」とその合法則的連関を、メタ科学として体系化(理論の形式=命題形式・推論形式・証明形式・学科形式の総覧)。

The third, arithmetic task of pure logic: Mathesis Universalis

 まず第三課題から。
 命題・推論・証明・学科にはそれぞれ形式がある。それを演繹でたどり、可能な理論形式を組み立てるのが課題である。それにより、純粋法則(公理)を土台に、「この形式は妥当」「この組合せは不可」のように形式の有効性を判定できる。
 この課題は完全に数理論理学者の仕事!

The first, philosophical task of pure logic: Basic concepts and meaning-forms

 次に第一課題。公理はいかなるさらなる前提にも依拠しないため、もはや演繹的証明を与えることはできない。公理は証明されるのでも説明されるのでもなく、明確化されうるだけである。概念は演繹によっては明確化できない。やれることは、ある語を取り上げ、その語が取りうる可能な意味を列挙し、それらの異なる諸意味の批判的評価に従事することである。
 この課題によって得られるものは説明ではない。

The second task of pure logic: Concept clarification and laws

He thinks that once a concept has been clearly delimited via intuition during the first task of pure logic, then—during the second task—its necessary and sufficient conditions and its relationship to other concepts (e.g., which other concepts it subsumes) could subsequently be articulated in non-ambiguous lawful propositions.
彼の考えでは、純粋論理の第一課題で直観を通してある概念が明確に画定されたなら、第二課題では、その概念の必要条件・十分条件や他の概念との関係(たとえば、どの概念を包摂するか)を、曖昧さのない法的命題として後続的に定式化できる。

Phenomenology is explanatory: Science and metascience
(Heath Williams&Thomas Byrne, 2023)p.1179

 「哲学者の課題は……支配的な基礎概念[第一課題]と基礎法則[第二課題]の本質と意味に関する補完的反省にある」と言っているので、これが哲学者の仕事である。これは要するに、第1課題(概念の明確化)で“何を指す概念か”を一義化したら、第2課題ではその概念についての本質的な成り立ちを、必要条件/十分条件や包含・関係として法則(本質法則)にまとめる――という段取りになる。

 と、すると。
 記述(第1課題)だけなら非説明的でも、法則の定式化(第2課題)まで踏み込む現象学は、フッサール自身の基準で説明科学に近づくのではないか?

Relation between the second and the third task

 しかも、である。
 第2課題の定式化は、そのまま第3課題の出発点(公理・規制法則)になる。すなわち、第1+第2課題で決まる概念と法則が、理論を理論たらしめる形式的根拠(可能性の条件)を提供する。すると、現象学的作業(概念の明確化→法則化)が説明的メタ科学土台を直接つくっていることになる!

 これまでの現象学理解では、現象学は記述と明確化に努め、説明するほうは科学の側に任せてきた。だが現象学が法則まで与え、公理として説明を駆動し始めると言う。つまり、現象学は単なるリスト作りではなく、科学の基準にさえも着手するところのメタ科学なのである。

ORIGINAL THESIS

Phenomenology is de facto explanatory

 主張「現象学は、事実上、説明的である」

A new defense of phenomenology as not explanatory

 まず確認しておくと、現象学の第一課題が説明的でないというのはたしかなことである。なぜならそれは論証ではないのだから。だが第二課題までも説明的でないと認められなければ、現象学が説明的でないという話にはならない。
 フッサールは間違いなく、概念明確化はするが第三課題は数学者に任せると言っているし、第二課題もやると言っている。第二課題をやる、つまり法則を定式化しながら説明的でないと言っている。すると、もし非説明的だとなおも言いたいなら、数学者に任せるのと同じように、「現象学者はそれを用いない」とでも言わなければなるまい。

The inadequacy of the “articulating but not employing” defense

 だがそんな弁護が十分なはずがない。

An argument from analogy

 この弁護は 法則を用いる学/法則を定式化する学 の区別に基づいている。
 ところで第一層の科学の本務は現象を記述することではあるが、説明も行う。それは第二層の法則を諸条件に当てはめ、現象を説明するのだ。第二層自身は「法則を与え、法則間で統一・導出する」から説明的であるといえる。つまりは法則を用いる学/法則を定式化する学も説明的である。

 この議論をもう少し整理してみることにしよう。:

 ある営みが説明的(explanatory)であるとは、少なくとも次の二条件を満たすこと:

  1. DN条件(演繹—法則):一般法則/公理(L)と適切な前提(条件・橋渡し原理等; C)から、被説明項(E)を演繹的に導出できる。
     (型:L + C ⇒ E。Eは個別事実でも一般命題でも下位法則でもよい)

  2. 統一条件(unification):その枠組みが多様な事実や下位規則を少数の原理へ束ねる機能を持つ(「根拠」へ遡らせる)。

Claim①:第一層は説明的である。

  • 記述だけをしている段階は非説明的。

  • しかし、上位の第2層の法則(L)を借りて、観測された初期・境界条件(C)を当て込み、対象事実(E)を導出すればDN条件を満たす。

  • さらに、多くの個別事実を共通法則のもとに包摂するので統一条件にも資する。
    → よって、第1層は「法則の適用(use)」に成功している限り説明的と認められる。
    (逆に、純粋記述や相関の列挙に止まるときは非説明的。)

Claim②:第二層は説明的である。

  • 法則間説明(inter-lawful):下位法則や一般命題(E)を、より基本的な法則(L)と橋渡し前提(C)から導出することでDN条件を満たす(例:ケプラー法則 ⇐ ニュートン力学万有引力)。特定事例E(個別出来事)を直接扱わなくても、一般命題や下位法則そのものを説明対象にできる!

  • 統一の中核:多様な現象・下位規則を少数の基礎法則へ還元・統合することで統一条件を満たす。
    → よって、第2層は「法則の定式化(articulation)と上位化」によって説明的

 ゆえに両方ともが説明的。

The argument from interlawful explanation

 あらためて、第二課題とは、第1課題で一義化された基礎概念に基づき、その概念が成り立つ本質的条件と概念間の法的関係を、曖昧さなく法則命題として確定することを目的とする。具体的には明確化された諸概念の必要条件十分条件、同値条件不可能性条件排他条件、包摂/従属(サブサンプション)含意整合/不整合の関係を定式化し、その諸法則をより基礎的な法則によって根拠づけ、公理を探り出す。

 つまりは、単なる定式化だけでなく、法則間説明が中に含まれている。ゆえに説明的である。

CONCLUSION

手短にまとめれば、本稿は現象学哲学に二つの貢献をなす。第一に、現象学は説明的ではないというフッサールの主張を理解するための、従来のすべての解釈と一線を画す独自の見方を提示した。第二に、その結論は――正しく理解するなら――維持不能であることを示した。

Phenomenology is explanatory: Science and metascience
(Heath Williams&Thomas Byrne, 2023)p.1184

 

 

組織の徳倫理学 ― 組織不祥事を評価する枠組みの提案(2022年, 杉本俊介)を読む

内容

 本稿の目的は、企業不祥事を倫理的に評価するための新しい理論的枠組みとして「組織の徳倫理学(Organizational Virtue Ethics, OVE)」を提案することである。従来の徳倫理学は個人の徳を中心に論じてきたが、現実の企業不祥事は組織文化や制度設計に由来する側面が強く、個人の倫理的失敗だけでは十分に説明できない。著者は、組織そのものを倫理的主体として捉え、組織に「徳」を帰属する可能性を探る。

 まず先行研究の検討がなされる。Solomon は企業にも友情や忠誠のような徳が存在すると述べたが、理論的基盤は不十分であった。Schudt は、企業には人間と異なり「欲求」が存在しないため、効率性など異なる種類の徳があると主張した。これに対し Gowri は、企業にも欲求を認め、中庸の概念を組織に適用できると論じた。また Moore & Beadle はマッキンタイアの実践/制度の枠組みを応用し、有徳な組織は外在的善の過剰な侵入を制御できるとした。だがこれらの研究はいずれも「組織の徳とは何か」を明確に定義しておらず、理論的に十分ではない。

 そこで著者は、Bishop (2012) の議論を手がかりに組織の徳を定義する。Bishop は、組織に徳を帰属するためには三つの条件が必要だとした。すなわち、(1)組織自体が繁栄していること、(2)その繁栄が人間の繁栄と両立、あるいはそれを促進すること、(3)組織が性格特性に相当する習慣やパターンを形成できることである。著者はこれを踏まえ、組織の徳を「ステークホルダーの繁栄を構成する性格特性」と定義する。この定義によって、組織に人格を擬人化することなく、制度的・構造的な行動パターンとして徳を理解する道が開かれる。

 次に具体例として「信頼性(trustworthiness)」が論じられる。不祥事後に企業はしばしば「信頼回復」を掲げるが、重要なのは「信頼されること」ではなく「信頼に値すること」である。Mayer et al. (1995) を参照し、信頼に値する組織の条件として、能力(ability)、善意(benevolence)、インテグリティ(integrity)が提示される。これらの性格特性を備えた組織は、ステークホルダーの繁栄に資する有徳な組織と評価できる。

 さらに、評価の基準として Swanton の徳倫理学が導入される。Swanton によれば、行為が有徳であるとは、それが徳の目標に適っている場合に限られる。この枠組みを組織に適用すれば、組織活動が有徳か否かは、それが信頼性などの徳を体現しているかどうかで判断できる。

 本稿はこの理論を、日本のかんぽ生命の不適正募集問題に応用する。この問題は局員個人の不正として説明されがちだが、実際には達成困難な営業ノルマ、過度のプレッシャー、内部統制の欠如といった組織的要因が背景にあった。OVE の観点からすれば、日本郵政グループは「能力・善意・一貫性」という信頼性を欠いていたために不徳であると評価できる。こうして、不祥事を個人の逸脱ではなく「組織の性格的欠陥」として説明することが可能となる。

 結論として、組織の徳倫理学は、従来の個人中心の徳倫理学では捉えにくい企業不祥事の評価に有効であるとされる。本稿は組織の徳を「ステークホルダーの繁栄を構成する性格特性」として定義し、具体例として信頼性を論じ、ケーススタディを通じて応用可能性を示した。ただし、信頼性以外の徳をどう同定するか、また OVE の理論的長所と短所をどう評価するかといった課題は残されており、今後さらなる研究が必要である。

感想

 

 

 

この論文は「組織の徳」という概念を導入することで、不祥事を個人の逸脱に還元せず説明しようとしている。しかし私の評価では、この目的のために「組織の徳」を持ち出すことはまったく必要ではない。なぜならマッキンタイアの枠組み(というより徳の発達のための環境)を参考にすれば、徳と制度的文脈はそもそも表裏一体であり、個人の責任を追及すれば必然的に制度や共同体の在り方が同時に問われるからである。
 従来の徳倫理学は個人の徳を中心に論じてきたとはいうものの、マッキンタイアが提案している徳倫理学は徳の発達のために、個人の背景にある社会というものを織り込んでいる。言い換えれば、ある社員の不正は単にその個人の倫理的欠陥を示すのではなく、組織文化や制度の粗さを露呈させる。マッキンタイアを踏まえればこれは自明のことであり、「組織にも徳がある」と改めて言う必要はない。むしろ組織を擬人化し、性格特性を持つ主体のように扱うことは、かえって問題を曖昧にしかねない。

 したがって、この論文が提示するOVE(組織の徳倫理学)は、少なくとも今のところ、理論的には冗長な試みと映る。評価すべきは「不祥事を個人責任に還元しない」という動機だが、そのための方法論として「組織徳」を掲げることには独自の意義を見出しにくい。むしろマッキンタイアに立脚すれば、個人と制度の関係性はすでに十分に説明されており、「組織の徳」を導入しなくても同じ目的を果たせるように思える。

 

 

フッサール現象学を理解する際の避けがたい困難さについて(南 孝典, 2023)を読む

1.現象学理解の困難さを問いにしたフィンク

 フッサールが作り出した「現象学」は、創始者が作り出す用語法が異様に小難しいことが理解を阻んでいる学問だというのがなによりの印象であるが、この論文で語られていることはひとまずその件ではない。問題となるのは、それって理論としてどうなんだよと思わず口に出してしまいかねないこんな指摘である。

「超越論的現象学」は超越論的ではない態度でしか説明することも論じることもできない。現象学研究においては,超越論的な仕方でそれを行うという選択肢は存在しないのである。

p.123

 用語がわからないとしても、どうやらその学問は「なにか特定の態度」がないと説明することも論じることもできないらしいことはすぐわかる。文字通り解釈すると、現象学は完全に身内ネタである。

 さて、現象学的還元という特有の方法(いわば””現象学的態度のススメ””)をどう解釈するかにもよるのかもしれないが、ともかく、それはこの学問をメタ哲学的にするものと思われる。
 それはたとえば「ペンが存在している」こと自体を考察するのではなく、「ペンが存在している、と正当に言い得るための条件はなんなのか?」という意味の探求なのである。現象学の焦点はペン自体には無い。さらに別の喩えを出すなら、「人間は理性的動物である」という文言があったとしても人間が実際に存在しているかどうかはまったく興味が無い。ただもし存在しているならば、人間は理性的動物であらざるを得ないという話をしているのだ――現象学の分かりづらさの一部はこのあたりにあるのかもしれない。超越論的態度とは考察をこのメタレベルに移すという話であって、「態度」という言葉に含まれる「心構え」というような意味は一切ない。ないのだが、……現象学的還元に関するフッサールの説明を(あるいは入門書の説明をいくら読んでも)単なる心構え以上にわかることがなく、主観を絶対視しますという時代錯誤な理論にしか見えない。

 だが、上のように説明できていることからすると、どうやらここで問題になっている困難さとは違う。『問題が,理解する者の側に,すなわちその理解度の水準に,あるのではなく,フッサール現象学そのものにある』(p.125)ことが困難さなのだ。理解度を高めても無駄らしい。いったいどんな困難だというのか?

2.「批判主義」による現象学批判

 さきほど超越論的還元をメタ哲学的態度転換だと書いた。これだけで話を済ませられないのは、このことは一見、カント哲学(「批判主義」)と何も変わらない。どちらもが超越論的観念論を名乗っており、経験の可能性の根拠を問うているからだ。
 ではいったい何が違うのか。批判主義の見方では、現象学は、認識を「直観(Anschauung)」、つまり感覚的に与えられたものに依存させすぎる立場だった。つまり直観で与えられるものを、そのまま「存在するもの」とみなしてしまう存在論主義である。だが、哲学の課題は、「存在」そのものではなく、存在について語ることを可能にする条件=意味の妥当性を問うことだったはずで、これは現象学が自分の仕事もできない理論だということを示している、と。どうしてそれが「存在する」と言えるのかを反省せず、「見えたからある」と短絡してしまう独断論だ、と。

 だが現象学は「存在がある」と主張するのではなく、存在が「どう現れるか」「どう成立するか」を分析する営みだ。勘違いしているのは、直観という概念を「存在を保証するもの」と見たことで、実際には、「意識における与えられ方(自体能与)」を意味しているに過ぎない。だから批判主義の攻撃は的を射ていない。

 ではいったいなにが違うのか。

3.「批判主義」とフッサール現象学との決定的な相違

 批判主義も現象学「この言葉や判断はどんな条件で正しい意味をもつのか」を問題としている。だが現象学はさらに進んで、「そもそも『意味』が意味たりうるのは、世界という地平が与えられているからではないか?」という形で世界そのものの成立を問う。それは単に「世界」という言葉の条件を探ることとは違う。机を見ているときも、その背後に「まだ見えていない空間」「他の可能な視点」「他者の経験」などが地平としてひそんでいる。なにかを見るときの背景、それがそもそも成り立っている仕方を分析対象とするのだ現象学の「世界」は一つの存在者でも存在者の総体でもなく、存在者が現れる究極の地盤(地平)を意味する。普段は自明すぎて主題化されないが、知覚分析を通じてその地盤性が浮かび上がってくる。それを、分析する。

 この問いは「神話・宗教・形而上学」でも古来問われてきた。「世界超越的な原事象」「世界の根拠」「神」といったものが答えに持ち出されてきたが、現象学はそうした超越的存在を仮定せず、純粋に意識と現れの分析から徹底的に考察しようとする。
 だが世界はあまりにも自明であって、一つの存在者でも存在者の総体でもない。それは存在者の背景であり、そちらに目を向ければすぐにまた別の背景に引っ込むような捉えどころのないものである。だから自然的態度のままでは現象学が何を問うているのかさえまったくわからず、それをなんとかひねり出そうとして、誤解してしまうのだ。

4.現象学理解の困難さの要因としての「超越論的還元」

 「批判主義」は還元をどのように理解したのか。彼らは,還元を決して否定的に捉えずに,むしろ自分たちの問いの領野である「意味領野」を確保するために有効な手段であると見なした。つまり「批判主義」は,さしあたり「超越論的還元」のための方法と言える「現象学的エポケー」を,「存在者一般(内在的及び超越的存在者)を排除し,そのことによって,存在者を初めて可能にする意味領野(『基礎づける領野』)を際立たせるために非常
に適している」(PK, 109-110)方法だと考えた。当然「批判主義」の解釈では,フッサールの「超越論的還元」は「意味領野」への還元だということになる。

p.133

 1章で「ペンが存在している、が成立する条件」について書いた。批判主義者もおおよそそのように理解したのだろう。だが実際のところはそれよりも進んで、「世界の根源への問い」を開くことが還元の真の目的だったのだ。

 だがこれがそれほど「困難」だろうか、とも思ってしまわないだろうか。
 たとえば「机を見ているとき、机の背後には見えていない側面や文脈がある」という分析は、世界を背景(地平)として捉えることになるではないか? だがこれもまだ自然的態度であり、「机には裏側もあるよね」「他の人も同じ机を見ているよね」という水準にとどまってしまっている。還元は、この「背景を分析する」という自然的態度の水準そのものを括弧に入れる。すなわち「机の裏側もある」「他者も机を見る」ことを前提にしている“世界の成立”を問い直す。だから還元の問いは「存在者の背景をどう分析するか」ではなく、「そもそも“背景”や“世界”が成立しているとはどういうことか?」 という水準に移る。

 じゃあ、と思うだろう。「背景や世界が成立しているとはどういうことかを調べるのが現象学です」と言えばいいではないか、と。ここに困難がある。口にするのは簡単なのだが、ここに批判主義者が出てきて「なるほど、世界の形式や条件の話ね」と解釈してしまう。彼らは同じ超越論哲学の人だから、余計にそう誤解してしまう。つまり「世界の根源」を「世界内的な諸条件」にすり替えて理解してしまう。
 比喩として適切かはわからないが、これは図地反転図形に似ているかもしれない。批判主義者はウサギしか見えない。「ちょっと視界をぼやっとさせて~……」といっても裏にいるアヒルが見えない。結局問題は「言葉として表現できるかどうか」ではなく、その言葉が指し示す態度転換を自ら遂行するかどうかにかかっている。

 図地反転図形で図しか見えていない人に地を教えないといけない――これが困難さである。いや、たしかにこれは難しい。目をこう使ってみて、といっても滅茶苦茶漠然としているし、なんと言っていいやらわからない。

5.超越論的概念としての「自然的態度」

 フッサールは知覚分析から、われわれの意識には常に「世界はある」という前提がつきまとっていることを見いだした。フィンクはこれを 「自然的態度の一般定立」=「世界信念」 と呼ぶ(世界信念:個々の経験の背後でいつも働いている「世界は現に存在している」という普遍的・恒常的な確信)。これは心理的な「信じ込み」ではなく、存在の地平としての世界が常に意識されているあり方だから、どうしようもない。

 フッサールによれば,そのような「世界信念」の「意識」を問題にするためには,問う者自身が,その「世界信念」そのものを断念する,若しくはそれに参与しないようにする「現象学的エポケー」を遂行しなくてはならない。この「世界信念」を断念するという意味での「現象学的エポケー」を遂行するのは,「世界信念を初めて本来的に発見する」(PK, 116)ためである。

p.136

 現象学的エポケー(括弧入れ)では、この「世界はある」という信念を一時停止する。すると逆に、「世界があると感じられる」というはたらきそのものが見えてくる。この「はたらき」を 超越論的主観性 と呼ぶ。「超越論的主観性」は「人間の心」や「心理的な働き」ではない。なぜなら「私は世界の中の人間である」という自己理解すら、エポケーによって括弧に入れられるからだ。現象学=人間の意識が世界を勝手に構成する主観主義的観念論だと批判されるのは、このあたりの無理解から来る。

6.「超越論的現象学」の不可避的な困難さを自覚することの意義

ここまでの考察の経た今,「超越論的還元」が出発点において動機づけられず,独特な仕方で誤ってしまうという指摘の意味も,次のように説明することができるだろう。すなわちそれは,「超越論的主観性」それ自身が「世界」の内に存在しないので,「超越論的主観性」を問うことを可能にする「超越論的還元」が,どこからも展開していくための動機を得ることができないからである。それにもかかわらず誤った形でも還元が理解できてしまうのは,また,そのような「超越論的主観性」の学である「超越論的現象学」を大まかには理解できてしまうのは,この「超越論的主観性」を内世界的で心的な意識主観性と見なしているからである。

 

 

 

 

【有料記事】女性の配偶者選好について

 

配偶者選好にかかわる他者の特徴

 配偶者選好に関わる特徴としては3Gモデル(Lu, Zhu & Chang (2015))が知られている。ここでは少し一般化して、Good fathersをGood Parentsとしよう。 従来は GG と GP が強調されてきたが、現代的な経済・社会環境では GPt(優しい、子供好き、家庭的など)が重要になっている。

  •  GG(良い遺伝子): 健康・対称性・魅力・リスクテイキングなど、性的魅力や適応力を示す「オーナメント」。

  •  GP(良い供給者): 資源獲得・社会的地位・学歴・収入など、競争に勝つ「武器」。(保有資源と資源獲得能力を区別すべきだと主張しているのが、Zhao, Su, Hou (2023) である。2023年の論文なので、この影響は不明確)

  •  GPt(良い親): 子育て参加、優しさ、協力性、家庭への関与といった「直接的な養育」。

 これらは個人が相手に求めるものの候補リストである。これに基づいて、相手についての情報は「好ましい情報(dealmakers)」と「好ましくない情報(dealbreakers)」に分けられるのだろう。

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What Is Conceptual Analysis?(Hristo Valchev, 2018)を読む

Framework of the Inquiry

 「概念分析」という言葉を分析してみよう。「概念分析とは何か?」この問いにはいろいろ答え方があるだろうが、もっともストレートなのは定義を答えることに違いない。ちなみに、ほかにも答え方はある。これから語るのは定義に関することだが一応言及しておこう。たとえば「本質」(それがなければ概念分析でなくなるような性質)、「一般的特徴や特性のリスト」、「タイプ」(どんな種類のものなのか)、「メカニズム」……。
 さて、定義にはさまざまな分類法がある。:

形式による分類

定義は、その「与え方の形式」によって3つに分けられる。

  1.  指示的定義(ostensive definition)
    → 実際の例を指し示して「これがXだ」と説明するもの。たとえば「椅子とはこれ(実物)だ」と示す場合。

  2.  辞書的定義(dictionary definition)
    → 言語慣習や既存の用法に基づいて、その語がどのように使われているかを記述するもの。例えば辞書に載っている「椅子=人が座るための家具」という説明。

  3.  分析的定義(analytic definition)
    → ある概念が成り立つための必要条件と十分条件を示すもの。例えば「椅子=座れる+背もたれがある+一人用の家具」といった条件づけ。

目的による分類

定義は、その「何のために与えるのか」という目的によって4つに分けられる。

  1.  規約的定義(stipulative definition)
    → 既存の言語的意味を気にせず、新たに「こういう意味で使います」と決める定義。新語の導入に近い。

  2.  記述的定義(descriptive definition)
    → 既存の言語的意味を余さず記述しようとする定義。つまり「その語が実際にどう使われているか」をできるだけ完全に反映する。

  3.  改善を目指す定義(aiming improvement)
    → 既存の意味の一部はそのままにしつつ、他の部分を改めることで、対象となる概念をより良いものにする意図で与える定義。たとえば「知識」の定義を従来より厳密化する試みなど。

  4.  改善を目指さない変更の定義(aiming change, not improvement)
    → 既存の意味を部分的には記述するが、残りを改善のためではなく別の理由で変更してしまう定義。たとえば「概念分析」という言葉を単に「哲学的方法」と言い換えてしまうような場合。

今後の方針

そこで「概念分析とは何か?」に答えるために、まず分析哲学における「conceptual analysis」という表現の意味を調べ、その後その概念が改善可能かどうかを考える。もし改善できないと判断されれば、与える定義は記述的定義となり、分析哲学での意味のすべての側面を記述することを目的とする。逆に、改善できると判断した場合には、その改善を取り入れ、定義は「改善を目指す定義」となり、一部を記述しつつ他を変更して概念分析の概念を改善することを目的とする。

p.132 左段

 概念分析という以上は「概念の分析」なのだろう。だが「腹黒い」の意味は「腹が黒い」ことではない。同じように、概念分析も哲学において伝統のあるところの、特別な方法論を指している。いわばこれは比喩的用法なのだ。そこでこちらの比喩的意味を通常的意味と呼び、対応する概念を概念分析の通常概念と呼ぶ。

 さて、定義に関してそもそもの話だが、定義を述べよと言われたら基本的には分析的で記述的な定義を目指すだろう。そこにいきなり現れた「改善」という言葉は、求めている概念の定義をこっちにとって便利なように歪めてしまうもののように思える。著者はその歪みを最小のものとするように、「改善」が次の二つの条件を満たさなければならないと主張している。:

  •  有用性条件:哲学的問題の解決や立場の擁護において、以前よりも力を発揮できること。

  •  近接性条件:通常の意味と大きくかけ離れていないこと(言語感覚的に「別物」にならない程度)。

 「改善」という以上は、何らかの目的に対して善になっているということを意味する。つまりある概念に対して、なんらかの目的をもって眺め、その目的のもとでは上の2条件を満たす範囲でいじくったほうが便利だ、ということである。だから実生活での使われ方とは微妙にズレる。「これこそが本当の意味です」などという権利はまったく持たない。正しいのは日常的な使われ方である。だがある目的のもとで使うならば、改善を目指す定義のほうが(目的に照らして)明らかに正しい。

The Ordinary Concept of Conceptual Analysis

 概念分析は概念の単なる分析ではなくて、ひとつの方法である。これは1958年にグライスによって分析哲学に導入され、日常言語の哲学者たちが用いていた方法を説明するために使われたものである。
 まず「概念」から整理しよう。概念分析において、概念の分析は語の意味を分析することによって行われる。ただ表現には概念を表すものと、概念を表さないものがある。前者を「述語」という。ゆえに、概念分析とは述語の意味の分析である。

 ところで、概念を表さない表現とは、固有名詞だったり、あれこれといった指示語、論理演算子、!とか、?とかである。述語という言葉のこの使われ方自体、日常的な用法をかけ離れている感があるが、「犬」も述語と言われる。犬はDog(x)=xは犬であるという風に扱われたときに、述語になる。逆に言うと、概念を表さない表現は、こんな捻りまくったやり方をしても述語には絶対にならない。述語とは表現の機能であり、概念を表さない表現はそうした機能を持たない。「?」や「!」は世界の対象や出来事にある性質/カテゴリーを帰属させる役割を持つことができない。

 しかし述語の意味の分析だからといってすべてが概念分析になるわけではない。概念を分析するというのはその概念の適用条件を調べることで、(1)必要十分条件、(2)必要条件、(3)十分条件、という種類があるが、概念分析は必要十分条件しか目指さない。したがって、こうなる。:

概念分析とは、述語の意味を分析し、その述語に対して記述的な分析的定義を与えることを目的とする分析である。

p.134 右段

 たとえば、「嘘」という概念の適用条件はだいたい次の三つになる。:(1)発話が事実に反している。(2)話者がそれを事実に反していると知っている。(3)話者が聞き手を誤導しようとしている。
 つまりこの三条件さえ満たせば「嘘だッ!!」と言っていいことになるのだろうか? 哲学者はそう言うだろうが、実際の感覚では絶対にそうではない。つまりは、そう述べる権利はあるものの、その場で行使していいかどうかが微妙なのである。

 著者が「概念の適用条件」と「述語の適用条件」を区別するのもこのことが理由だと思われる。著者は言う。述語の適用条件には二種類ある、と。

  •  意味的適用(semantic application) その述語が表す概念の適用条件に基づく。

  •  語用的適用(pragmatic application) 文脈・礼儀・発話目的などによる制約。

 だから嘘という概念に乗っかっている以上は「嘘だッ!!」と言っていいのだが、クールにならなければならないときは嘘だと言ってはいけない。嘘だと指摘したらぶっ転がされる状況などもそうだろう。ミステリー小説に出てくる反社会的な探偵たちは定義に当てはまれば使っていいと思っている節があるが、まさにあれが概念の適用条件と述語の適用条件を同じだと考える人のモデルになる。ただ一般的には概念の適用条件と述語の適用条件は同じだとされているそうなので、定義をちゃんと扱わないといけない研究者界隈はそうなのかもしれない。
 よって、こうなる。:

したがって、通常的意味での概念分析とは、述語の意味を分析し、その述語の意味的適用に必要十分な条件を与えることを目指す分析である。

p.135

 そして概念分析なのだから、こうなる。つまり「反例探し → 必要十分条件の特定 → 定義を決定する」というプロセスである。安楽椅子的に調査するというのは、要するに家から出ないで頭のなかだけでやるということである。

定義1(通常的意味での概念分析)
概念分析とは、述語がさまざまな可能事例において意味的に適用可能かどうかを安楽椅子的に調査し、その結果に基づいて当該述語の定義が何であるかを結論づける方法である。

p.136

 仮説を立て、いや違うな反例があると言い、それを踏まえて仮説を立てる。この反例がまさに反例になっているなと決めるのは哲学者の直感にもとづく。たとえば「椅子は座るための家具」だとすると、ソファは椅子とは呼べない、と言い出す。つまりソファが意味的に適用可能かを考え、直感的にノーという。これはわかりやすい。では「椅子は一人用の座具だ」と考え直す。すると今度は、スツールは椅子ではないと言い出す(ちょっとこのあたりから同意がとれるか微妙なラインである。少なくともぼくはスツールを椅子だと思っている)。

 さて、述語Fの意味を説明するためには、別の述語Gによってでなければならない(でないと説明にならない。犬は犬であると言われても困る)。すると述語が意味的に適用可能であるとは、∀x. F(x) ⇔ G(x)なのだろう。だが今度は逆に、これが概念の適用可能性とは異なることがわかる。なぜなら、この式が経験的に成り立っているならば、FとGは同じ概念を持つとは言えないからだ。たとえば心臓をもつ生き物は今のところ全部腎臓を持っており、腎臓を持つ生き物は今のところ全部心臓を持っているが、これが必然的なのかはわからない。そして必然的であるとは、「私の妻は結婚している」と同じように、言語表現(妻)の意味ゆえに真である――分析的に真であるということである。

定義2 概念分析とは、述語がさまざまな可能事例において意味的に適用可能かどうか安楽椅子的に調査し、その結果に基づいて「∀x. F(x) ⇔ G(x)」型の文が分析的に真であると結論づける方法である

p.137

 一方、概念分析は「すること」でもあれば「した結果」であることもある。つまり頭の中のプロセスと、テクストがある。そこで著者はわざわざ、こう定義する。

定義(テクストとしての概念分析)
ある人物が書いた(または話した)テクストにおいて、そのテクストが思考過程としての概念分析の結果である場合に限り、その人物はそのテクストにおいてテクストとしての概念分析を行ったと言える。

p.137

Possible Changes in the Ordinary Concept

 以上が「概念分析」の記述的で分析的であることを目指した定義である。次はこの代替案・拡張案を順にみていく。

Conceptual Analysis As Every Analysis of Concepts

 要するに概念のあらゆる分析を行うのが概念分析だとする立場。「どうやんねんそれ」というのが著者の立場。

Conceptual Analysis As Every Analysis of Linguistic Usage

 概念分析は実際の用法、つまり語用的適用条件も探っていくとする立場。だがそうだとすると「こういう場合ってこれ言っても大丈夫かな?」というあらゆる問いに回答していく羽目になる。それはまず哲学なのかという問題があるし、そもそもそれで「概念」を分析しているといえるのかという問題もある。

Conceptual Analysis As Putting Forward a Theory

 概念分析とは、考察対象についての一つの理論を提示することだとする立場。たとえば心について概念分析したいのなら、心というものについての理論を組み上げていくことが求められる。なるほど、ただ単に定義を述べるよりよっぽど役立ちそうだが、もはや「可能事例をテストして定義を探す」という営みとはかけ離れている。

Adding a Normative Aspect to Conceptual Analysis

 対象とはなんであるかだけでなく、なんであるべきかを調べる立場。なんか「最近の若者はコレをこういう意味で使っているが、本来はアレなのだ」と言っている人を思い出すが、そうではない。これには理論的な目的がちゃんとあって、それを解決するうえで「改善」した定義を探すのである。たとえばこうだろう。「『知識』という言葉は通常『正当化された真なる信念』として理解されている。でもその定義では Gettier 反例に対応できない。だから『知識』をもっと厳密に定義し直すべきだ」
 かなり有用な営みで是非ともやるべきなのだが、やはり「可能事例をテストして定義を探す」という営みとはかけ離れている。

Extending the Aim of the Armchair Investigation

 必要十分条件ばかり探求してきたが、ここでちょっと必要条件と十分条件も認めてみようという立場。

  •  必要条件のみ(例:知識であるためには真である必要はある)

  •  十分条件のみ(例:もし〇〇なら必ず知識になる)

  •  必要でも十分でもない(反例によって「条件として不適切」と示す)

 知識は正当化された真なる信念なのだというのは必要十分条件を与えようとしているが、それの反例を出してきたゲティアだって「その条件は充分ではないのだ」と言っており十分に概念分析しているという言葉にふさわしい。
 つまりこれは概念分析の改善としては OK な事例となる。

Adding an Empirical Aspect to Conceptual Analysis

 哲学者の直観が大多数の言語使用者とずれている可能性があるのだから安楽椅子に座らずに、経験的に調査したものも概念分析だと捉える立場。普通の人々がどう考えているかを調査したりする。
 これもまた有用だし、概念分析という言葉にも沿うので改善としてOK。

Investigating the co-application conditions

 あるものが「その概念に属し続ける」ために必要十分な条件である共同適用条件を探る立場。たとえば人間は生物学的にホモ・サピエンスだが、どこまで切り刻んだら人間とは呼べなくなるかを検討する。たとえば腕をロボットにして、足をロボットにして、……どこまでが人間なのかという話である。
 著者は概念分析という言葉にも沿う(近接性)としつつも、役には立たないという。なぜならそれは結局のところ、適用条件を探す営みをすればわざわざ共同適用条件などと言わずとも達成できるからだ。

Considering different uses of concepts

 概念がすべて世界について何か言うために使われるわけではなく、行動を計画したり世界を変えたりするために使われることを考えると、①まずなんのために使われているかを調べ、②どのようにその役割を果たしているかを見なければならない。これが概念分析だと言う立場。
 ただ著者は否定的である。概念は世界をカテゴリーに分けるために使われる以外の意味は、分析哲学にはない。だから②の問いの答えは、何によって分類が行われるかという適用条件を調べることになる。よって、概念分析と同じであり、改善にも代替案にもなっていない。

The Final Definition

定義2(新しい概念分析の定義)
概念分析とは、述語がさまざまな可能事例において意味的に適用可能かどうかを調べ、その調査を基礎として、「∀x. F(x) ⇒ G(x)」型の文が分析的に真であるかどうかについて結論を導く方法である。

p.141

 これは必要十分条件を求めるという要請をゆるめ、安楽椅子的調査から脱した「拡張」版の定義である。だから、「Aという概念は少なくとも(1)~(3)の条件を満たさなければならない」という言い方も概念分析の結果となる。
 
 

「現代徳倫理学における徳の一性(西野真由美,2022)」を読む

現代徳倫理学における徳の一性-実践的知性と徳の多様性をめぐって- | CiNii Research cir.nii.ac.jp  
 
 

 これまでの記事で大まかに描いてきた「徳」も、その中身の具体的な徳目についてはあまり詳細に考えてこなかった。そこでソクラテスを端緒とするという『徳の一性』説を見ていくことにしよう。
 Swantonによる徳の定義は、次の通り:

徳とは,性格に備わる善い特性のことである。より細かく述べるなら,徳
の(諸)領域 field 内にある諸項目 items に対して,卓越した十分に善い
やり方で反応 respond し,それら諸項目に応答する気質 disposition のこ
とである。

倫理学におけるエウダイモニア主義と多元主義(林誓雄,2024)

はじめに

 「徳の一性 unity of virtue」とは、ソクラテスに由来するとされる説で、徳は、勇気や節制などその現れは多様だが本質は一つの同じもの、すなわち善悪に関する知であると主張される。プラトンの初期対話篇で見られるこの主張は、標準的には次のように解釈されている。:

ペナーの解釈に従えば、ソクラテスは有徳な行為の背後に何らかの心的状態を想定しており、全ての有徳な行為はその単一の状態から発生するがゆえに、その状態こそが徳の本体にほかならず、全ての徳はこの状態と同一であるという仕方で一性を形成する。そしてこの単一の心的状態とは、 ペナー に従えば「善悪の知」に他ならず、それゆえ、この「善悪の知」こそが徳の単一の本体に他ならないことになる。

プラトン初期対話篇における「徳の一性」 中澤 務 北海道大學文學部紀要, 46(1), 1-2

 善悪の知が徳の本体なので、勇気とか節制とかいろいろ名前はあるものの結局のところ、「善悪の知を持ってるか持ってないか」=「勇気があるかないか」=「節制という徳をもつかもたないか」=・・・、というイコールが成り立つことになる―――これにより、徳の多様性は失われる。すると、『親切だが軽率な人』『節制するが冷酷な人』などが存在しなくなる。そして、原理的に徳同士の衝突は存在しない。これが現実的な説明として受け入れられるだろうか?

 アリストテレスは、善悪の知がすなわち徳であるとは言わなかった。そして必要なのは知識ではなく、実践的・状況的な判断力である。そこで彼は「フロネーシス」を「人間にとってよく生きることに関して、何を為すべきかを思慮深く判断し、選択する能力」と定義し、

  •  「フロネーシスがあればすべての徳が現前する」

  •  「ある徳をすでに獲得していて、別の徳はまだ、という状態はありえない」

 という風に、真の徳というものが現前する条件として設定した。これによってある意味で徳の同一性は乗り越えられたが、結局のところ、問題は全く解決していない。
 ある徳を持っていればほかのすべても持っていることになってしまう。だからやはり、有徳な人間はおよそ存在するようには思えないし、そして「二つ以上の徳が、ある具体的な状況で互いに矛盾する行為を要求すること」と「複数の徳の価値や重みを、単一の基準(共通の尺度)で比較できないこと」といった対立する徳と共約不可能性を納得することが難しい。

実在への応答

マクダウェル

 さて、マクダウェルは「徳の一性」を擁護する。ただそれはアリストテレスがフロネーシスを理性的熟慮や判断力を伴うものとして見ていたものを再解釈し、『感受性』=様々な状況が、ある人の振る舞いに突き付けてくる要求を認識する能力として取り入れたうえでのことである。
 感受性は、状況の要求を認識する能力であり、単純に主観的なものではない。そして明文化されるような要求でもない。たとえば、偉い人が目の前にいるという状況になればたとえば「謙虚」という要求を突きつけられるし、自分が風邪を引いている状況ではマスクをしたり距離をとったり周囲に配慮するような要求を突きつけられるだろう。これは、その人がある文化のなかに住まい、育てられてきたことによって作られてきた。マクダウェルはこれによって、行為者と実在世界とのかかわりをつける。:

  •  徳は単なる知識やスキルではなく、現実に応答する能力として理解される。

  •  スキルは通常、事前に与えられたゴールを達成するための手段として訓練されるが、徳の場合、ゴールそのものは状況に応じてその都度具体化され、再解釈される。 ⇒ ジュリア・アナスと緊張関係?

  •  固定的なパターンではなく、常に新しい状況で意味を見直すプロセスを含む。

 だが、マクダウェルが擁護する「徳の一性」の強い主張は残っており、感受性があればすべての徳を備えることになる点では変わらない。感受性によってある一つの徳を達しようとすると他の様々な徳を参照することにつながる。たとえば親切にすることで他者の権利を侵害しないように配慮しなければならないだろう。派生的にどんどん有していなければならない徳が増えていき、結果的にすべての徳が現れることになる。
 そしてやはり、次の問題が起こる。:

  •  有徳者は現実離れした人間となる。

  •  現実には人は葛藤するし、複数の価値がぶつかる場面で悩む。マクダウェルのモデルは、そうした現象を「有徳者には起こらない」として切り捨ててしまう傾向がある。

  •  徳の一性を強く取ると、複数の徳が対立して互いに矛盾する行為を要求する事態は「起こらないはず」とされるが、実際にはそういう事態が存在するように思われる。

ワトソン

 これを「行き過ぎ」だと捉えたのがワトソンだった。

ワトソンによれば、徳を単一の全体とみなし、有徳者をあらゆる状況に応じて徳を実現できる人と捉えてしまうと、有徳な人は、判断に専門的知識が要請されるような状況においても、その状況に即した判断を下すことができる
人になってしまう。このような有徳者像は現実的ではない。

倫理学年報第 71 集「現代徳倫理学における徳の一性」 p.207

 ワトソンは、自身の立場として「due concern view(適切な関心の見方)」を提示する:

  • すべての徳を完全に持つ必要はない
     あらゆる観点から完全であることではなく、「状況に関係する諸徳」について「適切な関心」を持っていればいい。その諸徳が為すクラスターを調和させることが有徳な行為なのだ。たとえばもしもうまく調和できないと(行き過ぎた親切!)、かえって正しくない行為を導く。

 これによって、徳の一性は非常に現実的な案(ジレンマを抱えながらも有徳な行為者)となった! そして「調和」というものが『その人の運、文化的文脈や人格、引いてはその人の生き方全体に依拠』することによって人間のいろいろな生の可能性と諸価値を担保した。

 だがクラスターに含まれる徳がどんなものなのかがまだよくわからない。限定されたとはいえ徳自体が腐るほどあるので、まだまだ実践的には現実的とははっきり言えない。

 ……いや、それよりもっと問題だと思うのは、次の記述である。:

ワトソンは、徳それ自体に、「適切に」という視点が含意されて
いると示唆する。そして、有徳な行為とは、関連する一群の徳が適
切に統一されることだと捉えるのである。この見方をとれば、我々
が日常経験する諸価値の対立は、徳自体の対立ではなくなる。なぜ
なら、徳には適切な調和を追求する能力か含まれており、まさしく、
現実の状況における衝突や対立を調和することが徳の働きだからで
ある。

p.208

 クラスター内の諸徳を調整する働きを「徳」が行うとはいったいどういうことなのだろうか。当たり前だが、クラスター外部の徳にそれを求めているわけではないだろう(定義上、クラスターは関連する諸徳を集めているはずだ。それに付け加えるとその新たなクラスター間の調和が必要になり、これが延々と続く羽目になる)。親切メーターがグッと上がると他の徳のメーターが自動で下がるとでもいうのだろうか。だがそれはメーター自体の機能ではないはずだ。

クラスターとしての諸徳と実践的知性の発達

ラッセ

 すべての徳を統合する理想的な行為者はワトソンの説では消えたが、ラッセルはそれを指標として残すことを選ぶ。「理想像=完全統合された有徳者」は、現実には存在しないかもしれないが、指標として必要なものなのだ。完全統合の理想は、「現実の我々の判断を振り返り、修正するための批判的基準」として役に立つ。実際には「十分に有徳」で済む場合が多いが、理想像があることで「ここでの判断は他の徳を軽んじすぎていないか」と自己批判が可能になる。言い換えると、理想は「現実を照らし出す鏡」として機能することになる。 ⇒ 調和の基準! クラスターで考えると徳同士の相互依存関係が弱まる!

 そして、現実の人間がなしうることこそ、ワトソンが掲げた現実像である。ラッセルはこれをそのまま受け止めたうえで、たくさんある徳をなんとかすることを考える。「関連する諸徳」とはいうが、一体関連する徳が何個あればいいのか?

この困難を解決するため、ラッセルは、諸徳の構造化を提唱する。
これは、諸徳を互いに関連し合う「枢軸徳」とその下位の様々な徳
に分類することである。こうすれば、下位の徳がどれほど多様であ
っても、枢軸徳は限定的で、しかも互いに関係しあって一性を形成
するのだから、実践においては有限個の枢軸徳を参照すればよいこ
とになる。

p.209

 正義・思慮・勇気・節制の四つが基礎でほかの徳がすべてそれから弾きだされるものなら、とりあえずこの四つに関して有徳であれば「十分」だと言ってよいのではないか?(「枢軸徳」)
 この考えはかなり魅力的なものだ。だがこれによると、徳が状況から離れてしまう。徳は状況からの要求だったはずなのに。

ジュリア・アナス

 アナスはワトソン説の限定的な有徳者と、徳同士の対立など無くただ調和がうまくいっていないだけだという思想を引き継いでいる。そしてラッセルと同様に「理想的な有徳者」を現実を照らす目標として引き継いだ。ただし特権的な徳(枢軸徳)を与えて強い相互依存関係を取り戻そうとはせず徳同士をフラットな関係にし、相互参照する関係として弱い相互依存関係のままにとどめている。
 発展させたのは:

  1.  諸徳のクラスター全体を見回して思考する「実践的知性」を導入

  2.  人間の持つ有限性を徳の発達モデルで説明

 ワトソンの項の最後に指摘しておいた徳を調和させる機能をアナスが「実践的知性」として導入した。状況に関連する徳は、その状況が埋め込まれている文脈のなかで実践的知性によって最初から統合的に作用する。簡単に言うと、徳が内部でごちゃごちゃやるのではない。「正義省としてはこうですね」「親切省としてはその見解は~」と会議をやっているのではなくて、実践的知性が徳のレベルを眺めて「私は何を大切にして生きるのか」という問いに答える形で熟慮し、状況に応じる。ゆえに徳同士の対立はない。
 そして調和がその人の運、文化的文脈や人格、引いてはその人の生き方全体に依拠するという部分をスキル習得のアナロジーで説明し、徳の発達論によって具体的プロセスとして提示した。ワトソンは文化・文脈への依存を指摘しただけで「じゃあ何が正しいかは文化によるんだな」という疑念に応えなかったが、アナスが明確に「学習そのものが文脈を一歩引いて見る」とし批判する可能性を与えた。

※ ラッセルが徳同士の依存関係を強調するために理想像を導入したのに対し、アナスの場合は単なる学習の指針(「君たちもこんな立派な人になりなさいよ」)にしかなっていない。それがなにかただちに問題というわけではないが、理論的には別に主張するほどの内容ではないとも感じられる。もちろん教育の実践にあたってはそういう理想像があったほうがはかどるだろうが。

複数性に開かれた一性

 ところでこうした徳の「統一説」には批判もある。つまり、これまでの成果としては実践的知性という各役所(徳)の意見を一気に吸い上げて統合する省庁が、そもそも疑わしいと反論される。:

  1.  知性や思考を諸徳全体を貫く本質とすることによる徳の内実の形骸化 ⇒ 徳やなんや言うてるけど結局は実践的知性とかいう「知性」の話で、中身なんかどうでもええんやんけ論

  2.  調和や統合の偏重によって、個々の徳が持つ多様性が損なわれること ⇒ 徳同士の違いなんかどうでもよくて結局調和が大事なんやろ論

  3.  そもそも実践的知性が、ある状況で行為を決定するためにあらゆる徳を参照しなければならないという前提 ⇒ 勇気がいる場面では勇気について考えたらええんちゃうんか論。

 1,2はともに、統一の偏重によって徳の固有性を削っていることを批判している。3の批判はそもそも参照という関係が考えられた背景について言及していない点で反論としては弱い。事実として参照関係があるからこそ参照していたのであって、あらたに立論されても困る。そして今度は「その都度、新たな徳」と言い出すので、もはや徳倫理学が規範として全く機能しなくなる。変化に適応するために柔軟さを求めるのはいいが結果的に理論としても実践としてもなんの役にも立たなくなってしまう。ともかく、これらの記述からは「柔軟性が大事だよね」というアドバイスは受け取れる。

 そこでデカロとヴァカレツァは、徳の一性から視線を移し、そもそも誰かを有徳とみなすプロセスに着目する。そもそもマクダウェルの「感受性」という概念からして、個人の内側から生まれいづるものではなく他者との相互作用から生まれる相互主観的な概念だったことを思い出そう。1,2および3に対する答えは次のようになるだろう。

  1.  「有徳とみなす」という具体的文脈(行為評価)が個々の徳の厚みに応える。つまり個々の徳は行為評価の場面で際立ってきている。

  2.  多様な行為評価のやりとりによって徳の多様性も生まれてくる。

  3.  「徳を参照する」ではなく、「行為者と解釈者(評価者)が共有できる一定の視点」と読み替える

 柔軟さについては行為評価のやりとりによって生まれる多様性によって守られるといってよいだろう。すると「実践的知性」は個人の熟慮の力として保たれつつ、一方でそれが個人の力とはいうものの相互作用のなかで鍛えられ、修正され、深められてきたもの、あるいは深められていくものとして解釈し直される。これによって形骸化という批判からは逃れ、個々の徳は行為評価のなかで際立つということで多様性を確保する。

おわりに

 実践的知性は解釈し直され、生き残った。「状況⇒感受性でキャッチ⇒実践的知性で総合判断⇒評価の際に「この観点では~」と徳が際立つ⇒けんけんがくがくの議論の末に更新」という流れである。ただここには「徳」というものの行為の規整的な面と、評価的な面のあらわれが二つ生じている、とぼくには読める。徳はこの二側面を実践的に行ったり来たりすることが明らかとなったわけだ。だから、『具体的な文脈において熟慮し、行為を選択する実践的知性の働きを徳の本質とする現代徳倫理学』といわれるように、実践的知性の働きが徳の本質だと考えるのは違和感がある。たしかに相互作用しているのだから両面捉えてはいるのだが、実践的知性が働く場面では徳はあまり問題になってはおらず、外的条件とほぼ同じ位置になるだろう。そして行為の解釈にあたっては徳は「評価のラベル」になっている。

 あらためてSwantonの定義を見直すと、

徳とは,性格に備わる善い特性のことである。より細かく述べるなら,徳
の(諸)領域 field 内にある諸項目 items に対して,卓越した十分に善い
やり方で反応 respond し,それら諸項目に応答する気質 disposition のこ
とである。

倫理学におけるエウダイモニア主義と多元主義(林誓雄,2024)

 まずもってそれは規範性「行為を事前に方向づける」に寄っていることがわかる。個別化されているわけでもないし、反応と応答の仕方について書いており規範的な位置にある。だが一方で「徳ある行為」をあとから定義することによって二次的に評価的な側面も用意している。