にんじんブログ

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にんじんと読む「パラダイム論を超えて」 パラダイム

パラダイム

ある業績がパラダイムであるとは、次の2特徴を持つことである。

  1.  その業績が、他の競合する科学研究活動を捨てて集まる支持者の持続的グループを形成させるほど十分ユニークなものである。
  2.  その業績が、再構成された研究グループに解決すべきあらゆる種類の問題を提示してくれるほど十分発展性のあるものである。

 科学活動は、通常科学・危機・科学革命という三様態をとりながら進展する。つまり、「パラダイムに基づく発展的研究活動」「パラダイム崩壊にともなう多方向に分散した研究活動」「新パラダイムの構築と整備」という様態である。科学は直線的に発展してきたわけではなく、科学活動において何が適切であるかはパラダイムやこの三様態のどこに位置付けられるかという文脈依存的なものだとクーンは主張した。

 科学者は通常科学の段階ではパラダイムに疑問など抱かない。ひたすらそれに従って問題を解こうとする(ポパーはこの通常科学の説明が気に入らなかった)。そこに説明できない現象が出てきて、しばらくそれもパラダイムのもとで解くべき問題として解釈されるが、あまりにもそうした問題が累積され始めたとき、科学者はとうとうパラダイムに疑いを持ち始める。科学革命における科学者の変化は単に頭の中にとどまらず、その分野における考え方や方法や目標をすっかり変えてしまう。クーンのパラダイム論は、パラダイム間に共通の枠組みが存在しないことを主張する(通約不可能性)。パラダイムの転換は片方の陣営が片方を説得するのではなく、結果的に片方が消え失せることによって起きる。クーンが強調したのは、科学活動の社会文化的な面である。

科学的研究プログラム

 クーンと対立関係にあったのはポパーである。彼は科学の方法論の基盤は反証にあるものと訴え、科学者はいかなる既存の権威にも屈せず批判的に主張を吟味しより反証に耐えうる立場を提案することを求めた。ポパーの弟子であるラカトシュポパーとクーンを統合しようと試みる。どうしてもポパーの「反証主義」は単純な形では維持できないけれども、少し考え直せば彼の精神を引き継げるものと考えた。

 ラカトシュパラダイムに代わって提案したのは「科学的研究プログラム」である。これは基盤理論(固い核)とそれに付随する補助仮説の集合(防御帯)からなる。プログラムの同一性はコアによって定められ、防御帯は時間的に変化する。たとえば予測がはずれてコアが危機にさらされると、科学者はコアではなく防御帯という仮説を手直しすることで整合性を確保する(否定的発見法という。肯定的は、防御帯の調整に関する方法論や戦略。たとえば質点の導入は運動の説明に役立つ)。*1

 ラカトシュは科学活動をより適用範囲の広い理論構築のための修正・拡張という活動であると捉える。科学活動の歴史はある理論から生まれ、変則例をその都度叩き、再編成し、それを繰り返すことなのだ。理論列中のいかなる理論もコアを含む。

 理論列が理論的に前進的であるとは、後続理論が先行理論よりも経験的内容が豊かになっている、つまりそれまでできなかった予測ができるようになっていることである。

 理論列が経験的に前進的であるのは、理論列が理論的に前進的であり、新たに予測された後続理論の経験的内容が裏付けを得ていることである。

 こうしてラカトシュは理論選択のための合理的基準を与えたことになる。

 ラカトシュポパー派の一人として合理性への特別な思い入れがあった。クーンのパラダイムはそれぞれに共通する土台がなく「進歩」とかそういう言葉とは無縁のものであるが、ラカトシュは進歩を問題解決する範囲の拡張として捉えた。また、クーンの場合は、なぜ研究者が研究などしているのかがよくわからない。ラカトシュの問題意識を引き継いだラウダンは、この「問題解決の拡張」というものを精確に特徴づけようとした。

 まず実際の科学活動を見回してみると、「コア」と言われてもそれに当てはまるようなものがないときがある。だがそれでも「研究伝統」はある。

<研究伝統>

  1.  研究伝統は、研究領域内の存在物や過程についての一般的前提と、問題を探求しその領域の理論を構築するための適切な方法についての一般的前提とから成る集合である。
  2.  あらゆる研究伝統は、それを例証したり部分的に構成したりする固有の理論を多くもっており、それらの理論の一部は同じ時期にともに存在し、他のものは先行する理論とともに継承されていったものである。
  3.  どんな研究伝統でも、その研究伝統を全体として特徴づけ、他の研究伝統から区別する、何らかの形而上学的・方法論的な内容への関わりを持っている。
  4.  各々の研究伝統は(特定の理論とは違って)多数の異なる、細部にわたった(そして互いに矛盾することが多くある)定式化を受け、一般的にはかなりの期間にわたる長い歴史を有している。それとは対照的に、理論は短命であることが多い。

 クーンのパラダイム論に登場する科学者は、いったいなぜ研究活動などしているのかがよくわからない。だがラウダンの科学には目的がはっきりある。それは、解決済みの問題を最大限に拡大し、変則的・概念的問題を最小限に縮めることである。科学の目的は「問題解決」であることを、その中身も含めてはっきりと示している。パラダイムにおける通約不可能性は、研究伝統においては選択の基準がある。それはいかに問題をうまく解いているか、だ。どの理論が正しいかについては一致をみなくとも、いったい何が問題かということに関しては立場を超えて一致できるはずだ。どっちが正しい理論かについての「言語」を私たちは共有していないが、別にそんなものはなくても、問題解決能力を基準にすれば、それをもとに合理的に選択できるのである。

 

 

 

 

*1:否定的発見法は、「コアを疑わない」。肯定的発見法は「内部で発生した困難への対処」

にんじんと読む論文「人生はなぜ生きるに値するか」

researchmap.jp

 レジンスターは人生の意味を二つに区別する。まずは「俺が生きる意味ってなんだろう」というように、自分のしたいこと・やりたいこと・すべきことを表すもので、つまり道徳性や幸福といった概念と並置されるものとしての人生の意味である。だが仮にそういったものがはっきりしていたとしても、なお人生の意味について問うことができる。だからなんなんですか、と言うことができる。これはそもそも、生きるに値するのかしないのか、といったような包括的な意味である。

(ペシミズム)人生は生きるに値しない

 この主張には二つの意味がある。一つは、この現実世界では生きるに値しないという弱いもの。二つは、たとえどんな世界であったとしても、やっぱり生きるに値しないという強いものである。今わたしたちはたまたまこんなような世界に生きているが、たとえどんな世界に放り込まれようが、生きるに値しないと言うのである。論証はだいたい次のように進む。

  1.  倫理的な生は理性的な生である
  2.  実践理性による生が可能であるためには、世界が合理的でなければならない
  3.  世界は不合理である
  4.  倫理的に生きることは不可能である
  5.  倫理的に生きることはそうでない価値よりもつねに高い価値を持つ
  6.  最高の価値を実現できない生は生きるに値しない
  7.  あらゆる生は生きるに値しない

 人生にとって一番大事なのは、単に生きるということではなく「よく生きる」ということだよね。そんで、よく生きるというのは理性的に生きるっていうことだ。でも、自分の生きてる世界が理性的に生きられるような世界か考えてごらん。どんなに頑張ったって死んじゃうし、病気になっちゃうような世界だよ。君個人の話じゃあない。人類だっていずれ滅ぶし、地球だって吹っ飛ぶし、宇宙もなくなっちゃうよ。生きるってことはどこかしらの世界に生きるってことなんだから、どこであれ最後はみんな消えるよね。考えてみると、どんな世界でも理性的に頑張り続けるなんてどんな意味でも無理だよね、死んだり壊れたり邪魔が入っちゃう。ということはよく生きることなんかできないね。よく生きれないのに生きる価値なんかあるかな。ないよね。・・・

 一言で言うと「目標たててもどうせ死ぬぜ( ˙ᾥ˙ )」ということだろう。これを否定するならどこかしらで論証をストップさせないといけない。ここでは⑥を考えよう。最高の価値を実現できない生は生きるに値しないか? 実現しようと努力することが大事なのではないか。たとえば愛である。だれかを愛することは「愛しました」で終わるようなものではない。自分の愛しているものが愛するに値するかどうか問題になることはありえる。愛は不安定なもので、時には正当化が必要になる。愛するというのは愛し「続ける」ことでもある。努力が必要なのだ。愛でなくとも、実現する努力こそが大事ということはあるだろう。

 「まぁ滅ぶかもしれないけどね」といいながら、世界を少しでも住みよく変えるように努力し続ける道を選ぶのもひとつの道である。なにかの病気の薬が開発され、苦しむ人が減る。その技術を後世に伝えていく。いずれ人類は滅ぶかもしれないが、滅ばないように整え続ける。決定的な回避にはまったくなっていないが、ひとつの考え方ではある。

 

※ 実際の論文は、哲学者フッサールを彼自身の理論によってペシミズムから救う手だてを考えよう、というものです。多くの部分をかなり省略して、にんじんの興味のある部分だけをまとめています。

※レジンスターの著作「生の肯定」が2020年に出版されています。⇩

 

 

にんじんと読む論文「科学の’進歩’と’合理性’」

www.jstage.jst.go.jp

 科学はなぜ反証可能でなければならないのか。

 私たちは「カラスがみんな黒い」ことを証明できない。なぜなら個別のカラスからカラス全体のことなどどうあってもわからないからである。ゆえに、『いかなる認識も真なるものとして根拠づけることができない』

  •  だが白のカラスが一匹でもいれば、「カラスがみんな黒い」を間違っていると叩き出すことができる。つまり私たちにできるのは反証することだけなのである。反証可能性が大きいということは、間違っている言明をさっさと棄却して次に進むことができるということでもある。
  •  反証しうるというのは、論理的に観察可能ななにかと矛盾するということである。だから理論は「そういう観察はできません」という言明の集まりなのである。反証不可能な理論は真だから反証不可能なのではなく、観察という経験的な内容が一切なく、私たちとはなんの関係もないからである。

 ポパーの「合理性」は、反証して次に進んでいくという科学の「進歩」により規定される。研究者は常に自らの理論・仮説に疑問を持ち、反証の努力をしなければならない。だがクーンによって批判されてきたように、科学史ポパーのいうように推移してはこなかった。クーンは理論というものが反証によって進むどころか、別に矛盾していても進み、別の理論によって打ち倒されるまで生き残ると言った。だがポパーはそうした例があることを認めながらも、それは科学的態度ではないし、危険なのだと強調する。彼にとって重要なのは、歴史と自分の方法論の不一致よりも、科学者の認識の目標がブレてしまうほうである。

 ラカトシュポパーの方法論を修正して、クーンの考えを説明しようとする。反証は観察によってもたらされるが、そういえば観察も反証可能である。とすると、理論が観察と矛盾するのは理論の責任であるとは限らない。手持ちの理論と矛盾するだけでなく、他の理論とぶつかって旧理論を叩き出してもらわないといけない。説明力の大きい理論によって整合的に説明してもらえれば、理論の反証になる。ここに理論の連鎖系列が生じる。この理論系列は中心にある固いコア言明とそれを守る保護言明を適宜修正する流れでゆるやかにつながっている。ラカトシュはこの転換が説明力を豊かにしていくことを「前進的」、その場しのぎの転換に過ぎないなら「退行的」と呼ぶ。ラカトシュはクーンの科学革命をこの流れの中に位置づけた。クーンは革命を社会・心理学的過程として、ラカトシュは合理的過程として説明しようとしたという違いはあるものの、ポパーの反証概念を修正してクーンの考えを取り込んだ。

 ラカトシュによってもたらされる図式は、当然、前進的なものを受け入れ、退行的なものを排除するという規準を招くように思われる。だが彼は退行的なものがあとで復活する可能性もあるためにこの考えを採らない。プログラムを排除するためには単に退行的というだけでなく、それよりも説明力の強力なライバルの存在がなければならないと考えた。理論の「前進」が説明力の豊かさによって方向づけられるのはそのためである。だがよく考えてみると、新理論というのは支配的な理論よりも歴史が浅く、説明力は弱いのが普通である。ラカトシュはこの批判を受けて、若い理論は強力な確立されたライバルとの比較を少しの間やめてあげるべきだと応じた。言っていることはもっともだが、廃棄されたほかのプログラムも、同じように将来の可能性に期待して保護してやるべきではないのかと思える。退行的で競合に説明力で負けるという理論は、別に叩き出されなくてもよいらしい、ということになる。

 ラカトシュの図式によってもたらされる科学の方法論は、なにが合理的な流れなのかを説明しない。これは彼も認めるところではあるが、合理的方法論でなくても、規範的方法論であるという考えは維持する。ポパーは「反証できるかもしれないぞ。批判的になれよ」というのが科学者の合理的態度であったが、ラカトシュにおいては科学者の態度について云々言う必要はない。理論転換が「進歩」であったことを示せればそれでよいのである。ラカトシュの科学は進歩が目的であり、進歩とはすぐれた理論への転換であり、その転換を説明する方法論が必要であった。彼はなにがすぐれている理論なのかということを説明できなかったが、こうあるべきだよねということは説明した。これが合理的ではなく規範的な方法論だという意味である。

 ラカトシュに求められているのはなんでその価値判断が正しいといえるのかということに答えることである。ポパーラカトシュも経験内容の増大が進歩である点には違いはないが、ラカトシュの場合は最終的に科学者たちの価値判断が大事なので、方法論がいくら「これすぐれてるね」と言おうが、科学者が受け入れたなら、間違っているのは方法論ということになる。科学の””合理性””は科学者の判断にゆだねられ、彼らの価値判断を受容しない限りうまくいっているとは言えない。彼らの価値判断を受容しないでも科学の合理性を問うことはできるのだろうか?

 

にんじんの書棚「それは私がしたことなのか 行為の哲学入門」

 「行為」という概念に対する分析。

 

 

内容一部要約

 「行為」は、意図や欲求、そしてその背景にある信念などの心の働きによって引き起こされるというのが直観的な理解である。しかしなぜ心の働きが実際に体へ影響するのかといったことを考え出すと、満足な説明にはなっていない。一方、意図などといった心の働きを考えず、物理法則にしたがった機械仕掛けの説明を試みる場合もある。それによれば、私たちがいつその行為をするかは先行する条件によって既に決定されているのである。しかし科学的知見はいずれもこの立場を証明しない(第一章)。そこでもう一度立ち返り、意図や欲求、信念について確認する。

  1.  それらは自覚的な意識を伴う必要がない。手をあげるときに手をあげようと思っているときはあまりないし、駅まで自転車で行くことが物理的に可能であるという信念を確認することはほぼない。
  2.  始まりの瞬間が問題にならない。いつから意図しはじめたのか、いつから蛇口をひねれば水がでると信じ始めたのか。その「瞬間」について語ることは問題にならない。
  3.  長時間持続する
  4.  ほとんどの意図的行為は別の意図的行為に再記述できる。自転車に乗ることはペダルをこぐことやハンドルを操作することなどに言い換えられる。この試みを徹底すれば私たちは最後に単純な身体動作に至るだろう。これを意図的基礎行為と呼ぶことにする。通常、意図しないような、右足の腿を二センチあげるとか、大腿筋を収縮させるようなものは、特殊な意図的基礎行為と呼んで区別できるだろう。単に手を挙げただけで他になにもいいようがないようなケースも存在する。当たり前だが、再記述できるからといって複数の行為を同時に行っている訳ではない。ペダルを漕ぐことは自転車に乗ることの一環としてあり。
  5.  意図することの前提となる信念は一定程度必要であり、一つではない。

 アンスコムは次のように述べる。「意図的行為とは、ある意味で用いられる「なぜ?」という問いが受け入れられるような行為のことである」。たとえば手を挙げたひとに対して「なぜ?」と問うと「挨拶しようとしたんだ」という。注意すべきは、なぜと訊いても意図が返ってこない形態もあるということだ。だが最後には意図が返ってくるだろう。もちろんなかには「理由などない。ただ手をあげたかったんだ」という場合もあるだろう。逆説的だが、意図などないという理由によって有意味な行為として認められることがある。これに対して「ピラミッドに登りたかったんだよ」と言われたら本当に意味が解らず途方に暮れるだろう。遂には心神喪失とみなされ、意図的行為をしたとさえみなされない。

 本当になんの理由もない、というのは理由として認められるという話だが、実際のところ、この適用はそれほど多いわけではない。本当になんの理由もなく自転車に乗るために自転車に乗るというようなケースはあまり考えられない。髪をかきあげるとか貧乏ゆすりするとか、そういうシンプルな動作以外で理由がないことを理由にするのはなかなか難しい。

 他人がなぜそれをやっているのかはよくわからない場合がままあるので、私たちは「なぜ?」と問う訳だが、そこにはそれが「意図的行為である」という前提があることに気づく。その人がその行為をするのは何かあってのことなのだと原則的には考えているからこそ、質問するのである。これを寛容の原則という。私たちは相手がなんらかの意図を持っていると推定してかかっている。寛容の原則の重要なポイントは、たとえば発話の場合、

  1.  話し手は語った後に自分の語ったことを観察し、解釈することによって、自分の言葉を意味を知るわけではない
  2.  話し手は語る前に発話の内容を観察して解釈することによって言葉の意味を知るわけではない。
  3.  話し手は基本的に、観察して解釈することによってではなく、自分の言葉の意味を知っている

 というところにある。ここで「知っている」という言葉は、従来的な、自分の内側で起きる隠された現象として用いられていない。相手がじゃんけんで何を出すかがわからないのは、心が身体内で隠されているせいではない(だからたとえば、脳をもっと調べて隠されたものを暴けば、何を出すかわかる! などといったりする)。だが心をめぐる非対称性は、行為者当人だけが観察と解釈によらずになぜそれを言ったかという意味を知っている、というところに由来する。つまり隠されたモノではなく、持っている知識の種類から、相手が何を出すかがよくわからないのである。

 寛容の原則は「行為者は行為者である以上、おおよそ自分の意図を知っているのでなければならない」ことである。そしてこのことは「行為者は観察して解釈することによってではなく知っている」ということを意味していた。これはいわば心の一人称的権威、私とあなたの非対称性である。すなわち、あなたの心が私にわからないのはあなたの心が肉体(脳とか)に隠されているからではなく、論理的に要請される事柄なのである。

 

 ともかく、これで意図というものの内容が、たいていの場合行為者本人が語ることによってもたらされることがわかった。この「心の働き」たる意図とは、根本的にコミュニケーションである。もちろん誰かと意図について話し合わなかったとしても、その可能性さえあればよいことは、アンスコムの『問いが受け入れられるような行為』という慎重な言い回しを見てもわかる。聞かれれば答えることができる、という可能性が大事なのだ。

 私たちは脳の動きから行為を説明するモデルと、全くかけ離れた地点に立っている。だがこの考え方は意図や信念に関わる諸特徴を満たすし、さらに、行為する前に持つべき信念が無限に増殖してしまう事態を防ぐことができる。たとえば私が自転車に乗ろうと意図するために必要な信念は「タイヤはパンクしてない」といったことから腐るほど挙げられるが、私たちのモデルにおいては、問われ語られることがまさに行為者の信念の中身となる。たとえば自転車に乗るための信念としては「タイヤがマカロニではない」ということまで挙げられるが、まさか「タイヤがマカロニじゃないと思ったから乗ったんだ」と言われて意味のわかるやつはいないだろうし正気か疑われるだろう。たとえばバラエティの企画などで、職人が自転車のタイヤをマカロニで作ってしまうケースなど、上にあげた信念がまともになるような場合も存在する。こうした特殊な文脈でなければ、意味不明なのである。

 

 

 

にんじんと読む論文「現象学の探求プログラム化」

irdb.nii.ac.jp

探求プログラム

 理論は常に仮説であり、仮説は経によるテストを通じて修正されなければならない(可謬主義)。可謬性を持たない理論はそれを承認する人の間でだけ流布し、膠着するドグマとなる。もうそれ以上展開することができなくなっても可謬性がないために捨て去られることがない。逆にいえば、理論が展開可能であるためには修正されうる余地もなければならない———これはポパーの優れた洞察である。

 一方、理論が常に仮説にとどまることは極端な懐疑主義を呼び起こす。そもそも観察データに付きまとう理論的負荷(数多くの隠された前提たち)ははっきりとした検証・反証を許さない。私たちが私たちの理論を展開させるために構築される「探求プログラム」は、独断的でなく懐疑的でもない両者のはざまにとどまるようなものでなければならない。プログラムというのは物事の実行計画や処理手順を示す規則のネットワークで、ここには必然的に共有・吟味・展開可能性が含まれている。

 さて、探求プログラムにはそのプログラムを共有する研究者によって反証されてはならないコアが存在する。コアにはその内実を厳密に定義された公理系的な「統制型」のものもあれば、明確に定義されずむしろ不明確なものを手掛かりにしてそれが吟味される中でコアが再規定されていくような「自己組織型」のものがある。理論の展開は既存の仮説を検証・放棄しながらより大胆な仮説を提示していくことによってもたらされるが、反証されないコアがその始動を助けている。実際、画期的な発見をなしえた科学者は反証証拠を突き付けられても自説を放棄しなかった。コアは反証されないという地位にあり一見、可謬性を阻害するように思われても、実はそれをもとに新たな仮説や手続きのネットワークが生み出され単なる独断論になることを防いでいる。

 コアを守るために「補助仮説」が繰り出される。このようにコアが堅持されるのはたとえ証拠があがってもその理論が展開可能で放棄する理由がないからである。コアは現実世界が事実そうなっているのだと主張するというより、探求の指針として理解されなければならない。ゆえに探求プログラムの実行者は正当化論争に拘泥せず、そのコアのもとでどれほど理論を展開できるのかに注力できる。

現象学の探求プログラム:コア

 コアは伝統哲学的には「原理」と呼ばれてきた。原理には事象原理(「物質の最小単位は原子である」)と探求原理(「自然は無駄をしない」)があり、前者は世界の成り立ちに説明根拠を与えるものであり真偽判定が求められるが、後者は真偽判定などできない大まかな指針にとどまる。自然科学はこうした事象原理と探求原理の組み合わされた「コアユニット」のもとで現象に法則的説明を与えることをプログラムの使命としている。

 では現象学はどうだろうか。

 現象学のコアのひとつは「事象そのものへ」というモットーであろうと思われる。だが事象とはいったいなんなのかはよくわからないし、そもそも事象とはいつまでたっても確定されえないようなものである可能性が高い。それぞれの現象学者は事象という概念の下でどのような経験をするかに応じて事象の内実がそのつど変化し、接近方法が発見され、改良されていく。そしてそのことが当人の体験様式を拡張し記述スタイルの確立へ導いていく。そこに一個の現象学的プログラムが出現するのである。「事象そのものへ」というモットーは不明確ながらも、なぜ事象に回帰するのかという問いに対する答えを制限するある種の統制力を持つ。フッサールは「諸学問の基礎づけ」と答えたし、ハイデガーは「存在の問いの開示」と答えた。問いはさらに続けることができるだろう。だが「明日のわが身のため」と答えても理論は展開する見込みがないのである。現象学者はテクストによってこの暗黙の統制力を学び、自らの営みを発展させる手がかりを得る。こうした意味でも、このモットーは現象学的探究を形作る外殻を形成している。

 さらに「無前提性原理」もコアのひとつであろう。それは思い込みを排しつつ、事象そのものへ向かうよう常に促す。もちろん一切の前提を捨て去ることなどおそらくできない。だがそれに気づき、さらに前進できる。現象学的探究に際限はないことを暗示している。あるいは「認識主体は世界との切り離し得ない相関性をもつ(志向性)」や「身体は世界に意味を与える」というようなコアもあろう。こういう具体的なコアによって探求領域は分化し、特殊化していくことになる。

防御帯

 コアは補助仮説の束(防御帯)によって守られている。これら防御帯は仮説であり、反証され、時には代替仮説が組み入れられる。現象学においてはたとえば「現象学的還元」や「明証性」が考えられる。前者は事象へ接近するための体験世界の開示にかかわり、後者はその体験世界についての記述の正当化にかかわる。現象学的還元は事象接近への端緒であり、明証性は現象学が学問としての客観性を確保する必要条件である。

① 現象学的還元

 現象学的還元はたとえば認識論的なバイアスを取り去り、行為レベルでの世界と主体の組織化のありかたへと注意を向けかえる。このように目の前にある世界の現われはまったく同じなのに、異なる世界のありかたを体験させようとする還元だが、この試みが完全なものになることはおそらくない。だが私たちに新たな事象領域をのぞかせ、それまでの還元が十分でなかったことを自覚させてくれる自己修正機能を備えている。逆に新たな事象領域を見せてくれないような世界の見え方は還元に失敗しているのである。

 還元の内実は新たな経験に踏み込んだものが事後的に記述として固まってくる。つまり還元はその道行きがはっきりしたとき既にその役目を終えている。

② 明証性

 明証性とは、還元後の現れが現れとしての自らを引き受けることに与えられる名称であり、それには程度がある。はっきりとした・くっきりとした体験を基礎とできるかのように考えてしまうが、明証は客観性を保証してくれるものではなく、探求の方向性を示唆するものである。

 

 

探求吟味コード

 吟味不可能なコアしか存在しなければ、プログラムが前進しているのかなんなのかわからない。それはもはやわかる人にはわかる領域の話である。探求プログラムは、それが維持されるためには「経験的前進」(仮説を吟味するための事例増加)か「理論的前進」(事例のなかで吟味され整備され仮説が創造される)がなければならない。

 自然科学的なプログラムにおける仮説は「真/偽」によって吟味される。実験や観察を通じて真偽の度合いが精密化されており、仮説の暫定的正当性が判定されていくのである。この実験や観察を通すことが共有可能性を確保しているのである。

 一方、現象学的な探求では、真偽というおなじみのコードはそれ自身が目を向けられる対象である。むしろこうした既存コードを切り開き、新たな経験可能性を開くという実践的な「拡張/維持」こそが、現象学的探究のコードなのである。ある概念が提示されたとき、その概念のもとでどのような経験が実行されているのかが吟味され、その経験記述が多くの探究課題へ開かれねばならない。その際の吟味基準は以下のようなものになると予想される。

  1.  自らの現象学的経験に内的であり、それまでの経験可能性の幅に変動が生じるかどうか
  2.  プログラムの参加者にとっても経験形成的であり、その記述が共有可能となるかどうか
  3.  記述とともに次の課題が現れ、探求が持続可能になるかどうか
  4.  現行の経験科学的な理論や事例との整合性がどの程度とれ、かつ他の経験科学者の探究の手がかりとなりうるかどうか

 ②がなければ共有などされないし、③がなければ展開しない。①だけなら「お前の中ではそうなんだろう。お前の中ではな」という話になる。そして④によって他のフィールドとの相互展開が起き、いわば外から現象学を見た時に「おっ、使えるね」ということになる。

 

 

 

にんじんと読む「人間の経済と資本の論理」 第一章

第一章 経済の二つの意味

 カール・メンガーはある物が財になるための四つの条件を挙げている。要するに「人間の欲望満足に役立つあらゆる物」なのだが、ここに因果連関という観点を導入することによって、欲望を直接叶えてくれるものだけでなく間接的なもの、たとえば生産手段なども財の範囲に含めている(『京都産業大学論集』社会科学系列第23号H18.3 メンガー『国民経済学原理』の統一的解釈について)。

 この本の著者は財についての説明に””……という諸財の関係””という言葉を使っており、循環している。だから適当に解釈しながら読み進めよう。

 

 ある物が財になるための基本的な前提はもちろん欲望の存在である。食欲に対してそれを満足させる多くの物が存在する。たとえばそれはパンである。そしてパンを作るためには小麦粉・酵母・水・労働等々、小麦粉のための小麦・ひき臼・労働……こういった因果関係もまた存在する。財と呼ばれるものは必ずこの因果関係の中に身を置いている。たとえば小麦粉がパンを作ることにしか使えず、それでいてパン酵母が枯渇しているならば、小麦粉はなんの役にも立たない。つまりそのとき小麦粉は財ではないことになる。この因果関係は現実の状況によって変化する。人間はその因果関係を認識していなければならない。でなければ、なにかが財であるとは言えない。ポイントは労働も財でありしかも高次財として必ず現れ、空気や太陽光のように獲得しようと努力しないでもいい種類のもの(自由財)があるということであろう。

 ある財が経済財であるとは、その財の支配可能な数量が必要量より小さいもの(供給<需要)である。たとえばアンパン、カレーパンを数十個ずつ作るのに小麦粉が足りていないようなものだ。人間はそうした経済財を用いて欲望を満足させるために、(1)与えられた可能性の限度内で獲得(2)劣化をふせぐ(3)その支配可能量をもって満足させる重要な欲望とそうでもない欲望を選別する(4)合目的的に使用して最大の成果、あるいは最小の数量で一定の成果をおさめる という努力を行う。

 つまりここでは人間の経済が四番の最大化/節約の原理で説明されている。しかし後年、メンガーは経済はこれとは違う側面を持っていると考えた。財の供給が需要を満たすことができない場合、生産活動をストップするわけではなく、その財を生産するための高次の財を求めようとするからである。もしもパンが足りないときに、パンを生産することができる材料がそろっているなら当然、パンを生産するだろうというわけだ。この方向を「技術ー経済的な方向」あるいは「第一の方向」と呼び、先ほどの「節約化の方向」あるいは「第二の方向」と対比する。

  •  技術ー経済的な方向:消費財であれ生産財であれ、それらが欲望を充足するのに不十分なら、欲望を充足するためにより高次の財を用いて不足する低次材を生産することになるということ
  •  節約化の方向:手元にある財が不足しているか、これから不足が見込まれる場合には、さしあたりその財をできるだけやりくりして、より多くの欲望を満たそうとすること

 新古典派の経済モデルにおいてはすべての消費財生産財も市場で調達されることが前提とされ、しかも市場で取引される財はすべて経済財つまり稀少なものであることも前提される。結局それらをどうやりくりするかが問題なので、技術ー経済的な方向などという分析ツールは不必要だと無視されてきた。

 カール・ポランニーは新古典派に対して異議申し立てを行った。経済という言葉は「形式的な意味」と「実体=実在的な意味」という二つの意味(それぞれ第二・第一の方向を指示)がある。経済史というのは単に市場経済の発達史ではなく、人々が生命を維持するために生活必需品を獲得する方法や制度の歴史を含むのである。未開社会においては形式的意味を適用できる場面は少なく、本当に経済を分析するためには両方の側面が大事だと強調した。

 

 さて、人間は欲望を満たすための物的手段を得るために自然に働きかける。人間は自然の営みを模倣して農耕文化を築いてきた。ポランニーは自然と人間との相互依存関係が持続するように制度化されるとき、そこには「互酬」「再分配」「交換」といった三つのパターンの統合形態が現れると考えた。たとえば隣接する農家同士の贈答やお手伝い・色々な方法で調達した食糧をコミュニティの長が働いてくれた人々へ分配する・市場での商品売買や労働力の売買などである。私たちにとってなじみ深い【経済学】は交換ばかりを分析しているが、互酬や再分配を分析するためには別のツールが必要になるだろう。