にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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にんじんと読む「カント(岩崎武雄)」🥕 (3)感性と悟性の先天的形式

感性と悟性の先天的形式

先験的感性論

  認識論的主観主義の要請によって、われわれは主観のなかに先天的な形式を求めなければならない。カントによれば、人間の認識能力は感性悟性という二つのはたらきの共同である。物自体から刺激されてそれを把握する能力が感性であり、それを「机」とかいう概念を用いて説明するのが悟性である。このいずれにも、先天的形式があると考えられる。先天的形式を持つことが客観性を持つことなのであるから、悟性にそれが求められるのは当然である。また、もし感性に先天的形式がない、つまりすべての直観が経験によって生まれるならば、それを素材としていくら悟性を働かせても先天的総合判断など可能にはならない。感性の先天的形式を「直観形式」(純粋直観)、悟性の先天的形式を「カテゴリー」と呼ぶ。

 

 感性とは、「われわれが対象によって触発される仕方によって表象を得る能力」である。いわば受容する能力であるが、ここに先天的・つまり経験を必要としない形式をどのように見出せるだろうか。われわれは触発された結果、「感覚」するが、この与えられる感覚を秩序づけるところに先天的形式=直観形式が認められる。

 具体的には、カントによればそれは時間と空間であった。つまり、非空間的・非時間的な直観的表象は存在しない。このふたつが先天的形式であることの論証は「形而上学的究明」と「先験的究明」と呼ばれるものに分かれる。たとえば空間においては、形而上学的究明によって、空間が先天的であること・空間が概念ではなく直観であることが示される。先験的究明においては、空間を先天的と考えることによって先天的総合判断が可能になることを説明しようとする。時間においても同様である。

 

 次にカテゴリーについて論ずる。

 

先験的分析論

 カテゴリーにはどんなものが見出されるか。これを求める手続きを「カテゴリーの形而上学的演繹」という。カントはそれまであった判断表を基礎として、カテゴリーの一覧を作成した。しかしこのやり方はいかにも天下り的というか、既存のものを利用したので、批判が集まるところにもなっている。カントの作成したカテゴリー表については別途調べていただくとして、カテゴリーが対象に対して客観的妥当性をもつかどうかをみていこう。

 感性の場合は、このことは問題にならなかった。というのは、直観形式が対象をつくりあげるのであるから、直観形式が対象に関係していないなどということはありえないから。一方悟性の場合はそうではない。対象は既に作り上げられており、悟性とはつまり考えることであるから、別に対象と関係を持つとは思えないのである。

 カントはこのことを単純に解決した。つまり「感性が対象を作り、その対象に関して考える」のではなく、対象を作る過程で既に悟性が関与している、と。直観によって我々に与えられるのは統一なきカオスである。悟性がそこに統一をあたえるのだ。

 

 次に悟性が統一を与える仕方について考えよう。

 カオスをまとめるためには、与えられた印象たちに目を通し、それをひとつにまとめていかなければならない(覚知の総合)。この総合が可能であるためには、瞬間的に消え失せていく印象を心に保持し、再現できなければならない(構想における再現の総合)。その再現の総合が可能であるためには、保持した印象と再現した印象が同一であるということを再認識できなければならない(概念における再認識の総合)。再認識ということが可能であるためには、認識する意識は同一のものでなければならない(先験的統覚)。意識の同一性つまり先験的統覚こそ、総合する働き、悟性であり、ここに含まれる先天的形式(カテゴリー)がそこに秩序を与える。

 

 

 

現代英米哲学入門

現代英米哲学入門

 

 

にんじんと読む「カント(岩崎武雄)」🥕 (2)『純粋理性批判』その課題と根本思想

純粋理性批判』の課題と根本思想

 カント哲学の意図は、自然科学の確実性を基礎づけ、それと同時に形而上学の可能性を立て直すことだった―――形而上学と自然科学の調停。

 認識には二通りある。経験的認識と先天的認識である。先天的認識とは、一切の経験から独立な認識という意味である。経験的認識は決して必然性と普遍性を持つことができない。即ち、何故事象がその性質を持つか、又、将来においても常にそうであるか、などはわからない。経験的認識が必然性と普遍性を持たないならば、それは真に学問性を持った認識であるとはいえない。従って、先天的認識こそ学問的に重要な意義を持つ。

 しかし、先天的認識のすべてが学問的に重要な意義を持つわけではない。

 あらゆる判断は「AはB」という風に、主語と述語を持つが、この関係によって二通りに分類される。分析判断と総合判断である。分析判断とは、主語の内に既に述語が含まれている判断のことで、総合判断とはそうではない判断のことである。例えば「物体は延長をもつ」というのは、物体という以上延長(ひろがり)を持つのは当たり前であるから、分析判断とみなされる。

 分析判断は主語を分析すれば導かれるため、経験を必要としない。即ち、経験的分析判断は存在しない。しかし、わたしたちの知識を拡張することもない。だから、分析判断は学問的に重要な意義をもたない。従って、総合判断こそ、学問的に意義がある。以上により、カントが重要視したのは「先天的総合判断」である。先天的総合判断はわれわれの知識を拡張するものであり、かつ、必然性と普遍性を持つ。

 形而上学は当然、先天的総合判断のみから成り立つだろう。形而上学が学として可能であるかどうかは、その点を検討することが必要である。

 

 

 先天的総合判断はいかにして可能なのだろうか。一切の経験から独立でありながら、総合判断であるなど可能なのだろうか。カントはこの困難を『カントのコペルニクス的転回』によって乗り越えようとする。即ち、『認識が対象に従わなければならないのではなく、対象がわれわれの認識に従わなければならない』と見直すことによって、この問題は解決されるというのである。つまり、われわれの主観に先天的な形式があって、この形式によって対象を構成している、という考え方である。「対象はわたしたちと無関係」ではないのである。

 対象とは主観の形式から構成される。そうであるならば、われわれがこの対象について先天的認識を持つことは可能である。なぜなら、その対象はわたしたちが構成しているのだから。少なくとも構成に携わった部分については知られるはずである。加えてそれは概念の分析ではないから総合判断でありうる―――認識論的主観主義

 認識論的主観主義によって当初の目的は果たされる。

 まず第一に自然科学の基礎づけについて。自然科学は経験的認識が主であるが、そればかりでは必然性と普遍性を持ちえないのだった。しかし、経験というものは対象と同様にわれわれが主観の形式によって構成したものである。ゆえに、経験は先天的総合判断を含む。

 第二に、形而上学の立て直しについて。認識論的主観主義は、わたしたちが決して対象自身にはたどり着けないことを含意する。ゆえに形而上学はカント哲学によっても廃棄されたように、思われてしまうかもしれない。たしかに理論的認識は決してその対象自体にはたどりつけない。これが認識論的主観主義そのものであった。しかし、カントはここに形而上学が成立する余地を残した。すなわち、主観が影響してくる「現象」の領域と、対象それ自体の領域「物自体」を区別した。「現象」には理論的認識という仕方で迫る。一方、「物自体」には別の仕方で迫る。それがどのようなものであるかは、カントのこれ以降の著作に繋がっていくのである。

 

 この認識論的主観主義によって主張される「主観の形式」とはどんなものであろうか。これを扱うのが、次の「先験的感性論」である。

 

 

正しく考えるために (講談社現代新書)

正しく考えるために (講談社現代新書)

 

 

にんじんと読む「カント(岩崎武雄)」🥕 (1)カント哲学の背景と意図

序論 カント哲学の背景と意図

 西洋哲学の大きな流れを「古代」「中世」「近世」「現代」に大きく分けてみよう。中世哲学は『言うまでもなく本質的にキリスト教哲学である』(西洋哲学史)。しかしその末期になると、キリスト教の教義を理性的に基礎づけることが不可能であることが次第に明らかになってきてしまった。発展してくる学問はキリスト教的世界観を揺るがしはじめ、その対策として、ウィリアム・オッカムは神学と哲学を切り離した。学問の結果が狭義を揺るがしても二つは関係がないので、これによって信仰を守ろうとしたのである。オッカムはキリスト教の信仰を守ろうとしたが、ふたつを切り離したことによって、教義を気にせず学問的探究ができるようになってしまった。

 近世哲学は「古代」とも「中世」とも異なっている。前時代においては、人間は自然の一部にすぎず、その支配を脱することのできない存在であった。たとえば物体の落下運動は、物体が””下に向かう””という本質を持っているために起こると考えられた。この本質にはどんなものも逆らうことができない。しかし近世に至ってこのような自然探求の方向は大きく転換され、””本質””ではなく””法則””が求められるようになった。自然の””なぜ””を突き詰めていくのではなく、自然現象が””いかにして””起こるかが求める考え方である。わたしたちは法則を実験的に確かめることができる。

 

 自然科学の成功は哲学にも大きな影響を与えた。

 デカルトは、確実な真理から出発して演繹的に次々と新しい真理を見出していくという、数学的方法の模倣をした。また、スピノザも定義や公理から出発し哲学を構築した。彼らのように、演繹によって真理を獲得しようという立場は「大陸合理論」と呼ばれた。しかしAからBが導出されるなら、Bの内容は既にAに含まれている。すべての人間は死ぬ、かつ、ソクラテスは人間であるならば、ソクラテスは死ぬ、のだが、ソクラテスが死ぬことを知っていなければすべての人間は死ぬなどとは言えない。

 合理論のこのような欠陥に対して「経験論」がおこってくる。合理論が学問の数学的方法に注目したものであったとすれば、経験論は学問の実証性に目を向けたものである。真理を求めるならばまず経験から始めなければならず、経験していないことなど知るわけがない。ところがこの経験論の選択は、形而上学的哲学をすべて撤廃することを意味する。そして経験論が行きついた先は、認識に対する懐疑であった。経験するのはわれわれであるが、われわれの認識自体がまずもって正しいのかわからない。また、よく知られているように、何百羽の黒いカラスを見たところで、白いカラスがいないなどとは証明ができない。

 カント哲学は、こうしたなかで生まれてきた。

 

 

カント

カント

 

 

人生ひととおり

Q.どうして生きてるんだろう……?

 

タイプⅠ「デカいことがしたい」

 アインシュタイン相対性理論という偉大な発明(発見ではない)をした。彼がそれを発明することは運命的なものに思える! だからそれと同じように、自分も何かデカいことをする運命なのか、そうじゃないのかと思い、生きていく目的を問いたくなる。

  • 自分はなにかデカいことをするのか?=生の意味の存在問題
  • デカいことをするとすればそれはなにか?=生の意味問題

 このタイプⅠは非常にありふれている。答えは単純で、あなたはアインシュタインと違って死んでいないので、人生全体を上から見ることなどできない。ゆえに、生きている意味など存在しない。というより、判定ができない。

 生の意味が存在しないという言葉でこのタイプが受ける衝撃はつまり、「あなたは別になにもでかいことなどできない、平凡な人生を送る」ということである。しかしそれも間違っている。正確には「どうなるかわかりません」というべきだ。人生全体を上から見ることはできない

 

タイプⅡ「デカいことどころか何をしても無駄。結局死ぬので」

 これは若干、タイプⅠよりたちが悪い。そしてまた、どうとも言い返せない厄介さがある。このタイプは面倒な懐疑論者と同様に、何を言われても「でも、死ぬよね?」と返せばいいので議論の際には最も気楽である。独我論者が「でもそれって妄想じゃないんですか?」というようなもので、何を言われてもそういえばいいので、その気楽さがその位置にとどまらせやすい。タイプⅡが独我論と違うのは、独我論よりも「間違ってるゾ」と誰もが胸を張っていえない点である。

 しかしタイプⅡにも弱点はある。それはなにかといえば、タイプⅡ論者は基本的に主張などできない。主張をしても無意味だとしているのは自分なのに、何を主張などしているのか、誰にもわからない。議論の際には気楽だといったが、そもそも参加させてもらえない可能性すらある。独我論者に対する文句もたった一言「じゃあお前今からトラックに飛び込めよ」で済むわけだ。

 タイプⅡ論者をけなしたいわけではない。にんじんは、「およそ今生きている人間でタイプⅡ論者でいることなど不可能だ」と言いたい(いま自殺の最中の人間は、タイプⅡである可能性はある)。このことはタイプⅡ論者であることと死んでいることは同じだという主張を含意しているが、そもそもタイプⅡを確信するということはそういうことである。何をしても無駄なのだから! 無駄なことでもしちゃいけない理由はないが、無駄なことは動機付けがないため、近いうちに死ぬだろう。

 疑似タイプⅡ論者(タイプⅡを主張しつつ、死なない)は、自らの死なない理由を、死への恐怖や痛みだと説明する場合が多い。まず、タイプⅡなのに、なぜ「主張」などしているのかよくわからないが(主張しないと体が激烈に痛むなら別だが、そんなやつはいない)、いずれにしろ、死ぬのだから選べるうちに死ぬべきではないか、とも言える。疑似タイプⅡ論者は安楽死するなら死ぬというが、可能性を探査することは基本的にしない。頑張れば、外国の制度に則って安楽死が可能かもしれない。

 わたしたちのほとんどは、疑似タイプⅡ論者である

 わたしたちは、結局死ぬのにどうして生きているのだろう、とどこかで感じている。その理由を見つけるために、謎の宗教にのめりこんだりするが、宗教の教義は「ここに書いてあるので信じなさい」の一言に尽きるため、心底納得することはほとんどない。言い換えれば、宗教における真理は運営主体が握っている。しかし「間違い」だというわけではない。だから、信じたい場合は信じればよい。これは好みの問題で、にんじんはみんなで納得できる哲学や科学のほうが趣味だというにすぎない。

 生の意味を問うことは「どうせ死ぬから生きてても無駄」に反論するかあるいは基礎づけしようとする試みである。

 

 生の意味問題は一旦わきにおこう(いまのにんじんでは手も足も出ないため)。

 そうではなく、ぼんやりと「結局死ぬのでな」と思いながらもなぜ生きているのか、を問おう。これもまた手も足もでない問題であるが……。

 そこにはおそらく、死の恐怖や痛みも含まれているだろう。しかしそれだけではない。わたしたちの希望は「何が起きるかわからない」に含まれている、と思う。わからないことが、わたしたちを生かし続けている、と思う。

 

 わたしたちは「考える」とき、常に上からものを見ようとする傾向がある。生きていることを考える時も、私たちは自らの人生の帯の端と端をつまんで、フームと言いたくなる。だが、そんなことはありえない。景色は常に前からひらけていく。人生の帯は現に今作られつつある。

 しかしわたしたちは、たしかに自分の死をさっきまでつまんでいたように感じる。

  •  赤ん坊、幼稚園、小学生、中学生、高校生、大学生、サラリーマン、結婚かなにかしたり、昇進したり、退職エントリを書いたり、年老いてなんか体の調子が悪くなってきて、親が死んだりして、周りの奴もポックリ逝ってきて、とうとう自分も動かなくなって、死んでしまう。

 この構図は、おそらく正しい。行きつけのスーパーに行くなら、もうあなたは道順を知っているだろう。「ああ行って、こう行って、曲がって、しばらく進んで、あぁ着いた」がある。それで、家を出てスーパーに着くまでの帯をつまんだつもりでいる。わたしたちのするものごとの把握は、未来を含む。ふつう「予期」などという。

 わたしたちは人生という概念をつまむ。それは予期で埋められている。しかし肝心なことは、わたしたちの予期などほとんど当てにならない、ということだ。

 家を出る。するとなんと偶然隣の家の人も出てくる―――こんなことは予想していなかった。びっくりする。でも「起こり得ない」ことではない。わたしたちは勝手に補完して「ありふれたおつかい」をする。まったくありふれていないのに。

 だが予期は役立たずではない。というのも予期がなければ驚くことすらできない。わたしたちは驚くことができる。この可能性は、逆に、予期の存在を示す。

 

 わたしたちはある種の決定論的世界に生きながら、予期とはずれた驚きがあるということも理解するという、二重性のなかで生きている。「あの道をこう行ってこう進めばスーパーに着く」のは当然のことであるし、そうでなければ生活などできないのだが、思いもかけないことがあることも理解している。たとえばスーパーが目の前でガス爆発でもしたらさぞびっくりするだろう。

 にんじんはこの「驚き」に、「どうせ死ぬのに生きていく理由」を見出す。わたしたちは『どうせこうなる』に導かれてどうせ死ぬと思っているが、その一方で、きっと何かがあることも固く信じている。それがわたしたちを生かす。

 

生きる意味 (岩波新書)

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おどろき

 自転車に乗ってたらですね、こういうことを考えたわけです。

「あ~~、だる~~~。自転車漕ぎたくねえ。つまんねえ~。今からこの道をああ行って、あ~、あそこ漕ぐのだるいんだよな。道がボコボコでさあ……。さっさと工事すればいいのに、ン~」

 しかし、道は工事されてきれいに舗装されていました。

 にんじんは文句のいいどころをなくしてしまいました。

 

 「道」というのは、向こうから人が歩いてくるところです。後ろから人が来るところです。だからどうせ人は歩いてきます。人はどうせ服を着ていますね。全裸のやつが来るとは思っていませんが、まぁ来たら驚きますよね。チーターがきたらもっと驚くでしょう。

 ただ、人は服を着ているというけれど、どんな服を着ているかなんて、にんじんたちは知りません。なんか奇抜なスタイルをしているとか、すごいきれいなひとがきたとか、「どうせ」からはずれつつもはずれないような、いい線ついた驚きが満ちています。そう思って見回してみると、案外おもしろいわけです。

  おっさんが歩いてきた。ハゲている(わっ、ハゲてる)。なぜか道の真ん中で立ち止まった(止まってびっくり)。服の内ポケットからなにかをとりだした(えっ、なに)。携帯だった(ガラケーかよ)。

  おっさんに集中しなくてもよくて、たとえば景色なんかでもそうです。一歩歩くと、視界が変わります。見えなかったものが見えるようになったりしますし、誰かと近づいたりします。そこに、人が歩いてくる。動物が飛んでくる。いずれも「どうせ」に乗りながらも、ちょっと違ったものたちです。人が動物にパンかなにかをやりだしたりする。そんな相互作用もあります。まさかパンをやるなんて思ってもみないでしょう。でもいちおう「どうせ」には乗っかっている。

 

 わたしたちは自分の世界観が歪むような出来事にでくわすと、合理的にそれを解決しようとします。たとえばですね、自転車道と歩道が分かれている道で、歩道と自転車道の境目を歩いてくる変な人がいたとしますよね。「なんなんだよこいつ」と思うのですが、よく見てみると、そこがぎりぎり日の当たる部分なんです。その日はすごく寒い日で、にんじんは納得したりする。

 歩道と自転車道ごときで「世界観が歪む」とか「驚く」とか大げさだなと思われるかもしれません。たぶんそれが、子どものときにはあって、大人にはない感覚だと思うんですよね。子どもは「どうせ」よりも、「驚く」ほうが多いと思うんです。だから単に走り回っているだけでも、よのなかは楽しくなる。それどころか、驚き=楽しいことを探している風なことさえある。

 でも年を重ねると、たいてい「世界改変」しちゃってるんで、特に面白くもないんですね。にんじんは「自分探し」とかいって外国に行っちゃう人の気持ちはよくわかります。馬鹿にするつもりにはまったくなれません。まぁ、にんじんは行きませんが。でも、自分は絶対に見つかりませんよ。でも「驚いて」癒すことができます。

 

 いうなれば、タイプⅡは大人になりすぎたのです。

 ちょっと子どもに戻って、しょーもないことに驚いてみてください。「思った通り」のことは、他のあらゆる部分に目をつぶらなければ、絶対に起きません。そこに人間などの生きたものが加われば、もう無理です。予測不能です。でもそれを振り返った時「なんにもなかったな」と言うのが、きっと大人なのです。

 

追記

 おどろくっていいよね、という風にまとめている。が、当たり前のように、程度というものがある。その人にとってちょうどいいぐらいというものがあって、その限度を大きく超えると不快になる。少し超えるぐらいは新鮮でいい。

 

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

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君たちはどう生きるか (岩波文庫)

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物語の振り子——信頼と心と考えること

好きの逆転

「おかあさんの馬鹿! お弁当にアレ入れてって言ったじゃん!」

 ⇩

「給食のおばさんはこんなに苦労してるんだ。お母さんも大変なんだろうな」

 ⇩

「ごめんねお母さん、あんなこといって」

 

 この物語はジグザグに点と点で繋がっているよりもむしろ、振り子のように関連し合っている、と捉えることができます。というか、ほとんどの物語は振り子です。

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 この話には基本的に母親は絡んできません。母親はただひたすら弁当にものを入れ忘れるだけです。物語における「母親」というとなにやらほんわかあったかなイメージがつきまといますが、今はとにかく細部を考えず、ともかく弁当を入れ忘れた人だとしてください。

 子どもは弁当に頼んでいたものが入っていないので怒っています。しかしその後、給食のおばさんの様子を見ることで「お弁当を作るのって大変なんだ。申し訳なかったな」と思い直します

 きわめていい話なのですが、さて、ここで母親がいじわるババアだったとしましょう。これでもいい話でしょうか? 「あ~、めんどくさ。てきとうでいいわw」と準備したとしたら? 逆に言えば、この子どもは「お母さんもまた、給食のおばさんと同様に苦労している」と信じ切っているからこそ、申し訳なさを感じるわけです。

 そもそもその信じることがなければ、給食のおばさんがいくら苦労していようが家にいるママンとは一切関係がないわけです。「給食のおばさんは頑張っているのに、うちの親ときたら弁当にものを入れ忘れる迂闊者だからますます許せない」と言う風に思ってもいいところを、「ごめんねお母さん(´;ω;`)」となる。まさしく、母と子の普段の関係を象徴するような出来事です。

 つまり、この物語がいい話になっているのは、子の親に対する信頼感が隠れた軸になっていて、終始それが描かれているからです。振り子です。

 

 一方で、こうも言いたくなります。子は親なしには生きていくことができません。いつまでも弁当のおかずごときで怒って、まさか絶縁するわけにもいきません。もしかするとこれは、そういうものに動機づけられて「親を救うような解釈をさがし、それを発見した」というような物語ではないか?

 これを軸とすると、上の物語は美談どころではありません。なにがどう違うんだとあえて言葉にはしにくいのですが、前のケースの場合、お母さんに対する信頼感をより強化する話なのですが、後のケースの場合、その場限りの理屈をこしらえることになります。

 

まとめると

 物語の骨組みだけを抜き出すと、「美談とは限らない」こと。それは多くの細部に支えられているのだということ。少なくとも、上の物語を成立させるためには、母親との普段の関係を提示しなければならないだろうということ。「料理をがんばってつくっているひとが少なくとも一人存在する。だからあの人も同じようにがんばっているのだろう」という類比の推理は、なんらかの隠れた結論を引き出すための手段になっていること。逆に言えば、結論は最初から出ている、こと。

 しかし、この信頼感はある物語を分析した結果として発見されることであって、「普段から信頼感なる気分を持っており持ち続けている」とは限らないし、ほとんどの場合そうではないこと。わたしたちは脳内に信頼感を貯蔵していたわけではなく、上の物語連鎖が単にその実在を予感させているだけだということ。わたしたちは脳内に「好感度ゲージ💖」を持ってはいないということ。いわば、振り子の軸は架空のものである。一方で、わたしたちはまさにそのような行為連鎖を信頼と呼ぶ。信頼とは常に隠れており、隠れていることこそ信頼と呼びうる。繰り返すが、別に「無意識」という領域に貯蔵されているわけではない。もし「貯蔵されている」ということで、それが「~する傾向性」を意味すると定義したとしても、なんの甲斐もないし、実験の結果は常に裏切られ続けるだろう。

 そして、登場人物である子どもは、以上のような構図を一切考えていないこと。しかしもしこの構図にあることを反省などしてたら、弁当のおかず問題は余計に面倒な問題に発展していただろうということ(「給食のおばさんとうちのお母さんは関係ないよね」)。

 

 考えることは、常に有益であるとは限らないこと。正しさはたいしたものではないこと。「なぜ?」「本当に?」と問うことは、進行している物語を止めることであること。

 

 物語を止めない方法は「私はどうしたい?」だと思われます。

 

 

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物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)

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  • 作者:橋本 陽介
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/04/11
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物語の構造分析

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「おなかがへった」ってなんだろう

 はじめからいきなり汚い話で申し訳ないのですが、このまえお腹を壊したことがありました。すごくお腹が痛くて、いつもは楽しみにしている食事の時間が来ても、用心のためになにもお腹に入れないほどでした。痛みのおさまったのは二時間ぐらい経ってからです。三十分ほどはへらへらTwitterをしていたのですが、なんだか急におなかが減ってきました。にんじんは「おなかがすいたな」と思いました。

 それで「おなかが減った」という意味のことをツイートしたのですが、フォロワーの指摘もあって、ちょっと不思議な気持ちが湧いたのですーーあれ? おなかがへったってなんだろう?

 なんでにんじんは「おなかがへった」なんてわかるのでしょうか。「だって、お腹にそういう感覚があるもの!」でも、それはもしかしたら三十分前の腹痛がぶり返してきているだけかも……勘違いなのか……あぁ、そういえば昔も、腹痛なんだか空腹なんだかわからないことがあったなぁ、と思い出します。

 「私はお腹が減ったということを知っている」と言われれば、ウンウンとなります。ようじん深いひとはそうでないかもしれないけど、でもお腹が減ったなって思うことはあるはずです。なんでそれが空腹だってわかったのか、とにんじんは不思議に思ったのです。下痢とか、大腸がんとか、まぁいろいろ病気はあると思いますけど、なんでそういうものの可能性を考えず、いきなり空腹に行ったのでしょう。「おなかが減ってたから」というのが素直な返答だと思います。にんじんたちはある程度大人だから、「それじゃあ答えになってないよ」というだろうけれど、たぶん一番素直な気持ちは「おなかが減ってたから」だと思うんですよね。まぁ「知らねえよ」と同義に使ってるんじゃないことを祈らないといけませんが。

 

超解読! はじめてのフッサール『現象学の理念』 (講談社現代新書)

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おなかがへった

 不思議だとおもいましたか?

 にんじんはこれをフォロワーとちょっと話して、不思議だなと思ったんですよね。

 でも「それじゃあいっちょ記事でも書くか」となったのは別に読者の人に答えを示してやろうとかそういうんじゃないんです。多分出せないですしね。でもやっぱり主張があるから書いてはいるわけで、もったいぶらずに最初にそれを言うと、これって『欲求』というもの一般に通じる問題だと思ったんですよ。

 フォロワーのみなさん(特にパオン)は日常的に「ナオンとの危ない関係」に思いを馳せてますよね。で、それが「性欲だ」って言われたら「そうだが?😎」って言うと思うんですよね。性的欲望って言われたら多分ピンとくると思うんです。でも、それが食欲じゃなくて性欲だってわかるのはなんででしょうか。「別にものを食べたいとは思わない」から? たぶんそうでしょう! でも、まさかすべての欲求をリストアップして、性欲以外が否定されたから性欲であると推理しているわけじゃないと思うんですね。

 脳がやってくれてるのかもしれませんね。でも欲求を完全に脳に任せると、わたしたちはふつう自分が何を欲求しているのかわからなくなります。もちろん私たちには「おなかが減った」って感じられますけど、脳を観察してないんだから、実際はどうだかわかりませんよ。

 

 肝心なのは「おなかが減ったなあ」と思うわたしたちが、ふつうそれをまったく疑わないということです。いや、いま疑ってるじゃねえか、というかもしれませんけど、でも「おなかが減ったなあ」って思ったのはどう抗おうが本当でしょう。なんでそんなことを思っちゃったのかなっていう話です。ふしぎなことです。わたしたちは「おなかが減った」ことを理解しているみたいです。わかっちゃってます。

 でも「空腹の感じ」だと思ってたけど「腹痛の感じ」だったってこと、普通にあると思うんですよね。「あいつに対する想いは勘違いだった。俺は恋に恋していたのさ」ってことあると思うんですよね知らんけど

 

承認欲求―「認められたい」をどう活かすか?

承認欲求―「認められたい」をどう活かすか?

 

 

欲求ってなんだろう

 ご飯食べたい! ってなんなんでしょうね。でもひとつだけ確かなことは、「ご飯をまだちゃんと食べてない」ってことですかね。お金が欲しいって、そりゃみんな1円ぐらいは持ってるけど、たぶんもっともっとたくさんほしいと思うんです。Aさんと握手したいはどうでしょう。これって握手しながら思うことですかね。ふつうは思わないんじゃない?

 こういうこともあると思うんです。無人島で三か月、ボーッとしていたら目の前に船が見えた。見た瞬間にワーッと言って駆け出していく……。これ、間違いなく「見つけてほしかった」んだと思うんですけど、別に「見つけてほしい」と思って行動するばかりじゃないと思うんです。体が動いてしまったんですね。

 欲求が人間の行為のすべての原因だっていう人は、そうじゃないっていうんでしょうけど。そういう原因がなにかって、駆け出したんだって。それが欲求なんだっていうんでしょう。でも心が身体にアクセスする方法がよくわからないから、脳を使うのが最近のはやりです。いわゆる物理主義とか唯物論っていうやつの一派です。

 このとき、欲求という心的なものは残されません。もしそんなものを認めちゃったら、欲求→脳となって、「なんで心が身体に影響を及ぼすんだ。どうやって……」ってなっちゃうからです。「欲求を感じるとホルモンが出る」とかも駄目ですよ。「どうやって形のない欲求がホルモンなんか指示できるんですか」って言われてしまいます。

 それに、さっきも書いたみたいに、「本当に欲求なんかしているのか」って路頭に迷うことになっちゃいます。だってわからないんですからね。頭をあけてみないと自分が何がしたいかわからないんです。にんじんたちは、脳科学が進歩するまでは自分の欲求もわからないんです。ご飯が食べたいって言ってても、本当は逆立ちしたいのかもしれませんよ。

 

 欲求なんか存在しない、っていうのも違います。

 船を見つけてワーッって駆け出すときに、「見つけてほしかったんだ……」って回想することはありえますよね。それが欲求じゃなかったらなにが欲求なんですか。そういうのは過去欲求といって本当の欲求とはちがうんだって言えるかもしれません。でもにんじんたちは「見つけてほしかったんだ」って言ってるおじさんが実は欲求してなかったんだとは思いません。もしそのおじさんがあなただったら? 「あなたは別に欲求してませんでしたよね」って言われたら「は?」ってなるでしょう。もしその誰かが「欲求することとは〇〇することと定義します。どうですか」って言われたら「違うかも」ってなるかもしれませんけど。でもそれはその人が勝手に決めた区切りですからね。

 

 にんじんたちは「見つけてほしい」って思わなくても行動することができるし、後から振り返って「見つけてほしかったんだ」っていうこともできます。この点は非常に重要だと思います。にんじんは「おなかがへったなあ」って思いましたけど、別に思わなくても手近にせんべいでもあればバリバリ食ってたかもしれません。でもやっぱり「食欲がわいてたんだなあ」ということはできます。

 でも、言うことができる、って言い出したらなんでもそうじゃないかって思えるかもしれません。たとえば暴行事件を起こした人が「おなかが減っていてね」と言い出したりとか。ただ、これはちょっと誤解なんです。にんじんたちは「欲求」という言葉を、一人で使っているわけじゃあないからです。それが「食欲ってやつだね」と他のみんなもある程度頷かなくちゃいけない。

 たとえば「僕は京都に行きたいんだ」という人がいます。彼は旅行好きで日本全国を飛び回っているんですけど、決して京都には行かないんですね。「あっ、ものすごいラクチンで、格安のプランができたよ」と提案しても、それより高いししんどい他県に行ってしまう。でも彼は京都に行きたい京都に行きたいと言っている。……でも、どんなにチャンスが訪れても絶対に行かないんです。彼は京都に行きたいなんて欲求を持っていたんでしょうか?

 こんな風に訊きたくなるかもしれません。「本当のところは、そういう欲求があるの? ないの?」と。

 にんじんとしては、欲求というのが「その人にだけ判断できる不思議な感覚」だとは言いたくありません。だからといって、誰にもわからないものだとは言いたくない。欲求というのを不思議パワーにしたくもないし、完全に実在物として扱いたくもないわけです。でも欲求っていま普通、そういう風に扱われていると思います。

 他人のことはわからない、とはいうけれど、自分だってよくわからないものです。

 

 「京都旅行プラン破棄パオン」の例でわかるのは、欲求を持っているかどうか否かは前後の物語で判断されるということです。無人島の前を通りかかった船に手を振った男性が「見つけてほしかったんだよ」と回想できるのは、まさに手を振ったからです。体が動くのに、一切手を振ろうとしない男性が、「見つけてほしかったんだ」と回想する場面を想像してみてください。恐ろしく奇妙なものでしょう。

 

 だから、にんじんが「おなかが減ったんだ」と思ったのは、自分を包む大きな物語のなかでそれが妥当だからです。にんじんは腹痛で、いつもしている食事をしていなかった。だから、お腹が減ったんだろうなと思った。なんて当たり前の結論でしょう。理由は「さっき飯を食っていなかった」です。

 

 

 

まとめ

 では最後にまとめましょう。

  1.  欲求は自分のものでもなければ、自分以外のものでもない。私を含めたみんなのもの。まちがうかもしれないけど、みんなで話し合うことができる。突然でてきたやつに「ははん。君は自分の本当の気持ちを知らないんだね」と言われない。「ぼくの気持ちなんてぼく以外にはわからないさ」なんてことはない。ぼく以外にわからないことは、ぼくにもわからないだろう。
  2.  にんじんがお腹が減ったと思った理由には、「さっきご飯を食べなかった」ということが含まれる。それだけが理由ではないかもしれない。でもそれがなかったら、どうだったかわからない。
  3.  欲求は反省的なものである。「わっ欲しい~!」と見たと同時に思うことはあっても、もともと備え付けてあったわけではない。また、お祭りにいったときに、ふだんは絶対欲しくならないおもちゃを買ってしまい、「いや別にそんなに欲しいわけじゃなかったねぇ……」と思い直すことがある。わたしたちは自分に起きた「感じ」を反省的に改訂しうる。
  4. 欲求は心理学のものではない。統計的な要素に分析できるとしても、それがすべてではない。本棚をばらばらにしたら、木の板が数枚出て来るけれど、それを組み立てて本棚にするやつは本棚を知っているやつだけ。本棚を知っているのは心理学ではない。心理学をしている人、していない人、みんな知っている。でも心理学をしていると、あるひとつのバラし方がわかる。きっとそれは、ある目的のための手段として、「うまい」バラし方だったりすることもある。

 

 以上、答えになりましたでしょうか。(フォロワー)