にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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にんじんと読む「道徳の哲学者たち」🥕 第一章

 そこで私は古代ギリシア人から始める。なぜそのように遠いところに出発点を求めるのか。答えは簡単で、プラトンアリストテレスの仕事はまだ乗り越えられていないからである。

道徳の哲学者たち―倫理学入門

 

プラトンアリストテレス以前

 民主的な政治をしていたアテナイでは、集会や法廷で弁舌巧みに相手を説得する能力が政治的な成功のカギとなっていた。その弁論術を教えたのがソフィストであるが、彼らは尊敬される一方で強烈に非難されてもいた。黒を白だといいくるめる悪しき技術を教える者たちだとみなされたからである。

 ソフィストの一人であるプロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言った―――黒を白だと言いくるめるとあなた方はいうが、そもそも真理というものは人間が決めるのであり、客観的真理などというものはない……こうして、彼は非難をかわそうとしたのである。そして多くのソフィストも彼と同様に、非難をかわすために真理という概念を攻撃した。この考え方は、彼らの倫理思想にも影響していく。

ノモスーピュシス

 たとえば道徳の問題はノモス(法律・慣習)の問題である。ノモスはピュシス(自然)と対置される―――あの社会ではこうしておりこうするのが駄目だという、しかしこの社会ではこうするのはよいとされているではないか。道徳だとか正義だとかは結局のところ人間が生み出したノモスに過ぎないのだ………という理屈である(「道徳はピュシスではない」道徳的相対主義)。

 この道徳的相対主義は、時に道徳的ノモスの重要性を強調した。しかし急進的なソフィストらによれば、「道徳的な強制が単なるノモス(法律・慣習)に過ぎないならそんなものは捨て去られるべきだ」という。ノモスに従うよりもピュシスに従って生きるべきである、という立場である。「自然に従って生きる」という言い方にはさまざまな解釈がありうるだろうが、もっとも一般的なものは自分自身の利益追求のことである。そしてそのためならばノモス的な束縛を拒否することもある。

 保守と急進のふたつのソフィストは、共通点がある。道徳的な正しさとやらに客観的真理をまったく与えようとしないのが保守(その代わりノモスを与えた)であり、道徳的正しさとやらに法律だとか慣習だとかそんな基準を認めないのが急進派である。ふたつの派閥はお互いに、正しさの規準を問題視していた。つまりこのような問題を浮き彫りにした。:「私はなぜあのような仕方でなくこのような仕方で行動すべきか?」

 保守はノモスと答え、急進はピュシスをとった。だが大抵の場合、真理はちょうど真ん中にあるものだ。これに答えたのがプラトンアリストテレスだった。彼らは勇気や節制、知恵、敬虔、正義などの伝統的なギリシャ的観念を擁護しつつ、これらに従う生活こそが最も幸福なのだと示そうとした。

 もしこれが成功すればノモスとピュシスの闘いは終わる。単にノモスに従えというのでもなく、自分の利益追求にひた走れというのでもない。「ノモスに従う生活が実は君のいうピュシスに近づいているんですよ」というわけだ。

 

 

【日記】はじまり

 にんじん放送局と名づけてYouTubeチャンネルをやっている。この前、朗読動画が完結し、遂にシリーズ二作が出揃った。完結であるとか、続編であるとか、そういった考えは特にない。書きたいことがあれば書いていくつもりで、たいへんに「趣味」という感じがして性に合っている。昔はミステリー小説が好きで、人が死ぬ話ばかり考えていたが、この頃はあまり好まなくなった。生じる謎よりも、人の死ぬことのほうに力点を置いてしまうためだと思う。

 生きていることは死んでいないことではない、という言葉は少なくとも二つの含意がある。まず第一に、我々には生きている状態・死んでいる状態に加えて、生まれていない状態が存するということである。生まれていない状態は生きているのでも死んでいるのでもない。そしてこの観察は、次の問題を生起させる。つまり、生まれていない状態を除けば、生きている状態と死んでいない状態は一致するのか、という問題である。そしてこれが上の文に含まれるもう一つの意味であり、即ち、この問いに否と答えるのである。要約すれば次の言明が含まれることになる。:(1)生まれていない状態があるので生と非死は一致しない。(2)生きていることは死んでいない以上のことである。

 どちらも興味深いが、ひとまず観察されるのは にんじん放送局と名づけてYouTubeチャンネルをやっている。この前、朗読動画が完結し、遂にシリーズ二作が出揃った。完結であるとか、続編であるとか、そういった考えは特にない。書きたいことがあれば書いていくつもりで、たいへんに「趣味」という感じがして性に合っている。昔はミステリー小説が好きで、人が死ぬ話ばかり考えていたが、この頃はあまり好まなくなった。生じる謎よりも、人の死ぬことのほうに力点を置いてしまうためだと思う。

 

 生きていることは死んでいないことではない、という言葉は少なくとも二つの含意がある。まず第一に、我々には生きている状態・死んでいる状態に加えて、生まれていない状態が存するということである。生まれていない状態は生きているのでも死んでいるのでもない。そしてこの観察は、次の問題を生起させる。つまり、生まれていない状態を除けば、生きている状態と死んでいない状態は一致するのか、という問題である。そしてこれが上の文に含まれるもう一つの意味であり、即ち、この問いに否と答えるのである。要約すれば次の言明が含まれることになる。:(1)生まれていない状態があるので生と非死は一致しない。(2)生きていることは死んでいない以上のことである。

 

(1)どちらも興味深いが、ひとまず観察されるのは「直線的な時間観」である。まっすぐに続いていく時間の中で「誕生」という爆発が起きて、「死」によってしぼむ。こういう風に時間を理解している。生と死を理解するうえで時間というものが重要な位置を占めるのは当然と言える。より問題になるのは、あらゆる生物が誕生する以前の時間である。それ以前の言明は〈祖先以前的〉と呼ばれるが(有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論)、つまり主体が時間を作り出しているのか、それとも客観的に時間なるものが実在するのかという選択をわれわれに迫って来る。にんじんは今のところ前者に与する者だが、当然のように、祖先以前的言明の取り扱いが問題になる。

(2)生きているとはなんだろうか。この問いは倫理学と関わる。ソクラテスは『クリトン』において「人はいかに生きるべきか」と問うたという。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』においてすべての人が目指す幸福・よき生=エウダイモニアがなんであるかを求めた。生きているとはどういうことか? どのように生きればよいのだろうか?

 

 

存在と時間 全4冊セット (岩波文庫)

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【日記】労働時間について

 

 このブログでは開設した当初から言っていたことがある。

 

「労働時間を少なくしよう」

 

 である。労働時間は長くてもいいことは何一つない。お金が得られるだろうというが、労働のあのストレスに比べれば安すぎる。にんじんは一日五時間ぐらいが限度だろと思う。

 雇用されることは集団に所属するということを伴う。それがアイデンティティを形成し、「自分はこれをやっている者です」などと自己紹介ができる。こうしたことは大変なメリットであり、精神的にも非常に良い。にんじんの(元)友人は以前このように言っていた。「サービス残業とか諸々含めると年収一千万いくかな💦」と。年収〇万円以上という区切りはなにか人を安心させるらしい。

 

労働と政治

 誰か一人の労働の問題は政治に関わる。

 日本全国の人たちが「働きたくねえ」となれば、少なくとも今の水準でサービスを維持するのは無理だろう。夜勤は体に悪いと誰もが知っているが、夜にコンビニが開いているのは便利に思っている。すべてのイベントにはスタッフがいて、彼らには主催者から給料が支払われている。夜になるとすべての店は閉まり、ライフラインを支える人々だけが交代に作業をすることになるだろう。にんじんは別にいいと思っているが、「どうしても働いてお金を稼がなくちゃ」という人々にとっては夜勤がなくなるのは死活問題である。借金はしてはいけないと強く思う所であるが、別に本人たちもしたくて借金をしたわけでもないだろう。まぁ、お前が悪いだろそれはというケースもないことはないが。

 社会保障は税金で行われている。稼ぎが減れば、税収も減る。国防も税金で行われている。ひょろひょろだと何を言い訳に攻め込まれるかわからない。グローバル化などといって世界中大抵の場所には気軽に行けるようになったが、特に世界平和という感じでもない。あの国は相変わらず飛翔体を飛ばしまくっているし、相変わらず戦争は起こっている。国を守るためには、国のエンジンを内部で動かしてそこで得たエネルギーの一部を「国」が、一部を「国民」が、という風に分け合わないといけない。

 そんなときに「もういいだろ、エネルギーいらねえわ」というのはいかにも無謀な感じがするし、マスコミによく取り上げられる【政府関係者】の人からどんな目で見られるかわからない。鬱陶しい国同士の争いに巻き込まれたくないからといってどこへ行ってもどこかの領土だし、南極になど行ったら死んでしまう。

 まぁそういうわけで、「効率が悪い。長時間労働は無駄」という論調もある。短い時間で同じだけの仕事をしようというわけだ。しかしながら、そのノウハウができればどうせもっと働かせようとするに決まっている。東京ー大阪間が素早く移動できるようになったからといって仕事がラクになったわけではないのと同じことである。日帰りなど当たり前。「昔は向こうで一泊できたもんだ」と話すオッサンの姿が目に浮かぶが、実際に一度も見たことはない。しかし、よくある感想だろう。過労死を出しておいて50万円払って済み、今もまともに営業している企業もあるぐらいだから何をされるかわからない。

 

 というか、求人を見たってどこに「週一日からOK! 5時間から」などと書いてあるだろうか。大抵はフルタイムで働かせようとしてくるし、パートになると最低賃金ギリギリで働かせようとしてくる。なぜか平日は毎日出勤するのが当たり前みたいになっている。ビジネスマナー講座や、資格取得、就職活動にあたっては自己分析などを行い面接の練習を行い、「社会性」を身につける。へろへろと色々なことを受け流せるようになると「大人」とみなされる。ありがたい話である。大学時代はあれほど尖っていた人が、久しぶりに会ったら礼儀がどうだのと言っている。上座とか下座とかの知識は「常識だ」そうだ。食べにいかないほうがマシだな、と思われて当たり前だ。

 

働くことの哲学

働くことの哲学

 

 

需要を生みだす

 アスペという言葉もまぁまぁ出回っている。アスペルガー症候群の略だが、要するに社会性・コミュ力・変なこだわりの三種が揃ったやつのことである。彼らは相手に構わず好きなことを一方的に話したり、冗談が通じなかったり、変なマイルールを持っていたり、扱いにくい。こういう人は就職においてもうまくいかないケースが多いので、ビジネスマナーを意識的に身に着け、人と話すときはコレコレに注意しなさいと言われる。一方で「天才の資質がある」「アスペルガーは才能」などと言われることもある。たしかにミステリー小説の探偵役はアスペ感が強いし、森博嗣先生の本に出てくる人々はアクが強すぎるので全員アスペではないかと思える。

 ところでにんじんは今になって、あの冗談の通じなさそうなキャラクターたちがまたいとおしく感じ始めている。彼らは多分おかしいと思ったらおかしいとはっきり言うだろう。そしてその意見は、たいてい正しい。社会に放り込んだら間違いなく仕事はできないだろうが、「仕事ができるだけ」よりは百倍マシに見える。

 にんじんは彼らに対して「社会性を身につけろ」とは決して言わないだろう。というか身につけなくてもよい。好きなことを一方的に話すことは欠点のように取り上げられるし、たしかに欠点なのだが、だからといって彼らに「話したくなっても落ち着いて、ちょっと抑えるように」などと言ったら頭が爆発しかねない。具体的にどうすればいいのやらわからない。トークマニュアルがあるならそりゃ従うが、黙ってたら黙ってたらで暗い奴だとかみなす割に、話し始めたら「黙るように」というなんてひどい。テレビ番組か、マクドナルドとかコンビニの新商品についての当たり障りのない会話を繰り広げる訓練は受けていない。「晴れていますね」って上を見りゃわかんだろうが! ……こういうのを軽く受け止め、ふわりと相手にボールを打ち返すのも社会性である。「うーん、彼らはある種の障害を持っている可能性がありますね」って、持ってるのはどっちだかわかったものではない……と、思っていたら「定型発達」というのも障害のひとつだそうで、人類みな障害がある。

 そしてこういう曖昧な用語は「〇〇的傾向」などといって本で取り上げられ、購買層を増やそうとしてくるようにも思われる。にんじんの認識では、うつ病というのは脳レベルで問題がある深刻な病気のはずだが、ちょっとだるいだけで「うつ病! 予防! 心の疲れ! 癒し!」と迫って来る。また、本人も「そうか自分はうつ病なのかもしれない」と深刻に受け止める。ココロはいい商売の種である。

 

 必要のないものを、必要だと感じさせる。手に入れるためにはお金が必要で、お金を得るには働かなければならない。人生を楽しむためには娯楽が必要ですと宣伝し、週末はイベントに参加しなければ無為に終わると信じている。車がものすごく好きならともかく、別に要らない車を買ったりする。イヴァン・イリイチの計算によると、労働時間を含めて車の移動時間を計算すると、歩くよりわずかに早い程度の速度しか出ていない。そのお金があれば当分は暮らしていけたのだが。

 たくさんのものを消費した先に満足は特にない。すぐに過ぎ去り、多くの苦痛が待っている。「じゃあ消費しなかった先には満足があるのか?」節制を求めること、消費をすることは目的地が違うだけで両方が正当なのだろうか。それとも二つには質的な差異があり、どちらかに優位があるのだろうか。相対的なもので、「人それぞれ」なのだろうか。

 こういうときに、哲学が必要だと感じるし、また哲学のために、いわゆるエピクロスのいう「精神の平静」を第一にする方向がどうしても優位であるように思える。

 

 

仕事は楽しいかね? (きこ書房)

仕事は楽しいかね? (きこ書房)

 

 

労働について(過去記事:再掲)

 「どうして働かなければならないのだろう?」

 わたしたちはこのように問うかもしれません。しかしこの「どうして」という問いはきわめて漠然としていて、答えづらいものです。単なる知的好奇心としてこの問いを発することはほとんどないでしょうし、あるとしても、もう少し限定的なものでしょう。一般的になぜ働かなければいけないかと問われれば、こう答えるのがひとつでしょう―――「別に働く必要はどこにもない」。

 もしもそれに「でも働かないと死ぬじゃないか」と応答するなら、「それじゃあ君は働くことの理由を既に知っているわけだね」と返すことができるでしょう。つまり「現在の社会制度、環境ではわたしのいう意味での「働く」という活動をしなければ死んでしまう」から、働くのです。

 けれど、多くの場合、それで理由が尽くされたとは考えない。もしもそれで理由が尽くされているならば、なぜ生活に必要な分だけの労働をせずに、余分に働いてしまうのでしょうか? それは、「とりあえずこの一か月生きるために働いている」からではなく、いわば「一生生きるために働いている」からです―——―明日、生きている保証もないのに? 貨幣経済を支えているものは、実は、おのれの死の忘却であるかもしれません。親はいずれ死んでしまう、だから葬式の費用もある。友達が結婚したら祝儀もいるし、事故をしたら入院をしなければ、でも、自分は死なない―――いや、でも、そうだろうか? たとえば自分の死後、こどもの生活の資を稼ぐためにはたらくという場合もあるではないか。もしかすると君は「だれかの死を忘れることによって」と言うかもしれない。われわれは明日も地球があることを信じている。そうでなければ、だれが働いたりするだろう?

 ほかにもあるでしょう。たとえばコミュ障で自分に自信がないというのに夜な夜な鏡の前で自作の衣装でコスプレをしている人が出るアニメ(私に天使が舞い降りた! Blu-rayとか、千里眼を使えるのに妹の堕天を見過ごした姉が出るアニメ(ガヴリールドロップアウト)のBlu-rayBoxとか、そういうものを買うためにお金を貯めるとか*1、要するに「今、もっと贅沢がしたい」からお金を貯めることだってあります。なにも将来のためとは限りません。つまりそういった現在と未来のさまざまな用途のためにわれわれは働いているのです。もちろん労働した瞬間にお金がもらえるわけではないですから、働くということはある程度、死ぬことを忘れることが含まれるでしょうが。

 

 以上、述べ来たったところで働くことの理由は見つかったでしょうか?

 見つからない⁉(´⊙ω⊙`)

 それではもう少し進みましょう。

 

 わたしたちはもしかすると、働くこと自体ではなく、働くという「仕方」に関心があるのかもしれません。なるほど、生活のため、贅沢のため、将来のために働くことには納得しても、まさか例の地下帝国(カイジ)で働きたい人間はいない。わたしたちが求めていたのは働く理由ではなくて、「どうしてこんな働き方をしないといけないんだ?」ということだったのかもしれません。

 どんな働き方なのか。それは「生活のため、贅沢のため、将来のために」やっていた労働が、その目的性に合致しないようなものでしょう。地下帝国で働くことが、もし数十億手に入る労働だったとしても、お金を使う機会がなければ意味がないし、しかも著しく健康を害します。そういうものを、「割に合わない」というのでしょう。

 そうすると、どうしてこんな働き方をしないといけないのか、というのは実は問いではなく、自らの境遇に対する嘆きのようなものなのでしょうか? おそらく、そういう面もあるでしょう。働き方に不満を感じながらも、かといってそれを辞めることもできない。また働けるという見込みもないし、だいたい、転職したところで何が変わると言うのでしょう?

 

 こうした動きの中で、「ミニマリスト」の登場はもはや必然的だったのかもしれません。そんな大仰な言葉を使わなくても「節約志向」でいいような気もしますが、つまり、支出を減らそうという運動であり、加えて、それこそが幸福に至る道であると説くのがミニマリズムなのでしょう。余分な贅沢は削り、本当に必要なものにお金を使おうというわけです。これなら彼らの著作がミニマリストとは思えないほど長い理由も納得がいくでしょう。それを書くことが彼らの大切にしている趣味だから、分量を増やしているのです。

 この登場が必然的だと書いたのは、「働き方」に対する不満の合理的な応答だからです。余分な支出と将来の保証をある程度カットすることで順応しようとしている。おそらくそうせざるを得ないでしょう。

 

 

 しかし、この頃にんじんが思っているのは、こういうことです。どうやら「おのれの生活」というものは、自分が決定できるようなものではないということ。食費をいくら下げるというのも、単なる数値の問題でコントロール可能なものではなくて、わたしたちの自由にはならないのではないか、ということ。「本当は必要だと思っているけれど」「削ることも必要だから」、その「必要性」に応じて削る、ことはできないのではないか、ということ。

 心理学において「意識」「無意識」といえば一個の氷山にたとえられる統一を持っています。大部分は沈んでおりわれわれのコントロールできる場所にはない、といいます。そしてそれは正しいでしょう。これをどうにかしてコントロールしようとしているのが「マインドフルネス」といったようなことかもしれません。呼吸というものは自律神経とリンクしており、ある程度気持ちというものにはアクセスができるんだよ、と言わんばかりです。「催眠」もそうですね。普段は浮かんでこない無意識にアクセスしようとする。理論というものはすべて、このようなコントロール欲求を持っているとさえ言えるかもしれません。アクセス不能なものにアクセスできるという確信を、われわれは理論の発展によって期待してもよいことになっている。

 しかしコントロール不可能性は氷山ではない。それの浮かぶ海、他の氷山、それがある惑星、あるいは銀河、そこまで行かずとも、そこに住むアザラシやペンギンなどの生命、さまざまな不可能性の統一としての不可能性が、そこにあるわけです。銀河とかいうとなにやら宗教的なスメルがしてきて気色悪いですが、ともかく、相当に入り組んだ不可能性ということです。

 それはわれわれが生きる仕方、つまり生活、暮らしというもののあり方もそうです。「今月はピンチだからチキンはやめておこう……」というのは、コントロール不能だということです―――いや、ちょっと待て、わたしは我慢ぐらいできる――—でもその我慢がもたらす影響は、800円というお金に比してどのぐらいのものか、はっきり了解できるでしょうか?————つまり、言いたいことは、良いか悪いかの判定が不可能だということなのか?———いや、むしろ、良いか悪いかの判定は可能だが、正しいか正しくないかと同様に、その判定はただそれだけのものだと言いたいのです。

 

 われわれは「社会性」だけでなく「個人性」も持っています。社会は個人に影響を与えますが、同時に社会を構成するものは個人であります。ある家庭では父親が席につくまでは食事には手をつけないことになっていたとしましょう。この文化は、その家族の構成員の行動を規定するでしょう。しかし、父親が軽んじられ、父親としていられなくなった場合、その文化は次第に、あるいはたちどころに変化し、気ままに食事をするでしょう。ひとりが声を上げ、またひとりが何か言い、あれや、これやと動いているあいだに、文化は少しずつ変わります。

 女性の権利というものを叫ぶのも、男性に「こんな差別があるぞ」ということを意識させるためでしょう。文化というものはしみ込んでおり、意識しづらい。だからまな板の上にものらない。まずは俎上にのせる。それで話し合う。するとちょっとだけ変わる。そうして変わっていく。でももちろんその間も、社会は個人に影響を与え規定し続けるのです。

 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

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 労働は生活の一部を形作る、それ自体がさまざまな連関のなかにある複雑なものです。Aさんを社長にすれば会社がうまくいくといっても、ありとあらゆる事情がそれを許さなかったりします。そして彼が社長になるかどうかが、ほかならぬ私の生活を決めるかもしれません。しかし生活は、彼が社長になるかどうかだけで決定されるものではなく、その他の要因、それ以外のすべてによって・それ以外のすべての、そのおのおの以外のすべてによって、決まって来るのです。家計の数値を変えようとするのは、その数値を基礎的な単位と見て生活の面舵をとろうとするようなものです。

 つまりわたしたちにはどうすることもできないというべきなのでしょうか?

 ある意味ではそうであると言わざるを得ませんが、そうでないともいえます。わたしたちにできるのは「数値を変える」というノックであり、恐ろしい現実の応答を待つことだけです。「もっと食費がいるよ」と来れば、上げざるを得ません。時には栄養失調になるなど、重たい反応が返ってくるかもしれません。振り子のように揺れながら、生活は決まる、というそういう意味で、生活はわれわれの手元にありながら、手元にはないのです。

 

 それでは結局のところ、われわれにできることはどちらにせよ、「数値を変える」だけになるでしょうか。そうではないのではないか、というのがにんじんの考えるところです。これまで書いてきた「連関」は、実際のところ、実在的なものではないからです。つまり世界における「真理」として、動かない現実として、厳然とそこにあるわけではないのです。いや、正確には、そうあるばかりではない、ということでしょうが。

 たとえば仕事でミスをする。ミスをするとこの世の終わりだと思っている人は自殺するかもしれません。しかし大抵の場合、ちょっとしたミス程度では自殺しないでしょう。彼らの違いはなんだったのかというと、「仕事」とその他の結び付きです。彼は仕事を「重たく」見すぎてしまったのです。見え方が、違うのです。

 

 見えている対象と、どう見るか、ということは違うことです。

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 同じものを見ていても、違うものの見え方を「知っている」場合があります。わたしたちは世界そのものに触れながら、それを別様に見ることができるのです。ある文化を「なんてひどい!差別だ!」と見ることができるのも、これによるのでしょう。

 わたしたちにノックをさせるのはむしろこの作用であって、数値を変えるという行為は二次的なものに過ぎません。数値を変えることの合理性は働くということばを冒頭のように分析したことに実は先取られていました。古代ギリシャにおいては働くことは必要悪と考えられ、できればしないほうが良いとされました。一転して中世になると、キリスト教と結びついた労働は神聖な意味を持つようになりました。それは神から与えられたそれぞれの義務です。にんじんにはその「見え方」が全く理解できませんが、彼らは働くというのをそのように見ていたため、おそらく、最初の分析にすら納得してくれないでしょう。実は「働く」と、あなたが、あなたのいる文化において、あなたの今いる環境において、言ったことで既に、ある程度「合理的な」結論は出ていたことになります。われわれは枠組み、つまり「見え方」を超越することで、新たな一歩を踏み出すのです。

 

 『存在と時間』においてハイデガーは、学問の進歩というものは根本概念を問い直すときに起きるという意味のことを書いていました。アインシュタインが時間と空間を書き換えたように!

 わたしたちが「働き方」について考えるために、「働く」ということがどういうことなのか、まず知らなければならないし、自分がどのような「働く」を持っているのかをまず知らなければなりません。なぜならそれを知らなければ枠組みを変えるのはほとんど不可能であり、自分が眼鏡をかけていることにさえ気づけないからです。

 そしてその見え方を、ある見え方に過ぎないと教えてくれるのが、哲学であるとにんじんは思っているわけです。わたしたちは問わなければなりません。:「働くとはなにか?」

 

 

働くことの哲学

働くことの哲学

 

 

 

*1:アニメをBlu-rayで見ると感動するぞ!

「生まれてこないほうがよかった」のか?

 人口蓄積はたった一人でも過剰である。すべての誕生はほとんどの場合、全体として悪であり道徳的に許されない―――これが「反出生主義」の主張である。ほとんどの場合というのは、その一人の誕生が他の人々の苦痛を軽減する場合であるが、そんなことはほとんど起こり得ない。

 反出生主義者に対して「じゃあ今すぐ死ねよ」と非難するのは正しくない。彼らは自殺もしなければ、大抵の場合、殺人を犯すこともない。それはまぁ「まともな」反出生主義者ならば「死亡促進主義」を拒否する構えを見せるからである。死亡促進主義とは、人を殺すことがその人になるといって許される、とする思想である。もちろん人には自分も含まれるし、他人も含まれる。反出生主義を唱えながら、いま唱えつつ生きているという事態を説明するためには別の理屈を持ち出す必要がある。

 

 一見して〈死亡促進主義〉を受け入れずに〈反出生主義〉を受け入れるのは矛盾なように考えられる。とはいえ、決定論と自由の両立という考えよりははるかに許容できるだろう。この二つの主張をまとめあげるものは、「死は望ましくない」という一つのテーゼである。死亡促進主義は一刻も早く生を終わらせることを主眼とするが、しかしそもそも、生を終わらせる死という事態が最高級の悪であって、到底許されない。一方で、死は望ましくないものであるから、その可能性を発生させる誕生という出来事もやはり望ましくないことになるだろう。それが反出生主義者たる理由のすべてではないにしても、「死は望ましくない」というありふれた考えが、この二つの思想を結び付け、かつ、発生させる―――というか、もっと強く言えば「死はそれ自体で悪」なのだ。

 

アンチ死亡促進主義的反出生主義の論証戦略

 順番に進んでいこう。誕生、つまりある人の生が始められるべき「でない」ことを主張するのが反出生主義のメインである。ところで誕生すべきかどうかを判定するには一体どうするのが適当だろうか。

 このことについて、その人が「存在する状態」と「存在しない状態」を比較するのがよいだろう。大抵の理屈では、存在する状態を考えたうえでその人生の中での善悪が考慮されてきた。しかしもっと手を広げて、生まれてこなかった場合に何が起こるかも計算に入れたほうがいいだろう―――【生まれてくるべきことの判定法】

 ある人物が存在する状態は苦痛の経験などの悪があり、また同時に快を抱くなどの善がある。ではその人物が存在しない状態はというと、苦痛の経験がなく、快楽の経験もない。反出生主義者は苦痛の経験がないことを善だと評価する。しかし、快楽の経験がないことは悪であると評価しない。当たり前だが、この理屈からいえば、存在しないほうがマシである。というのも、存在すると善悪が混じり合っているが、存在しないと善しかなく悪はないのだから―――【非対称性論証】

 

 非対称性論証においてまず問題となるのは、明らかに、その人が存在しない状態に関する評価である。この二つが受け入れられるのは、次の二つの言明がともにその後ろに控えているからである。

  1.  苦痛を体験しうる人間がいなくても、苦痛の不在は善。
  2.  快楽の不在が悪なのは、快楽を剥奪される人間が存在する場合のみ。

 しかしこの二つの言明を受け入れる根拠ははっきりしない。しかしこれらを受け入れれば、いろいろな事柄がうまく説明できる……と彼らはわれわれを説得する。けれども上記二つの言明を受け入れることによってさまざまな物事を説明することができるということを認めたとしても、他にも様々な説明があり得、それだけを特権視する理由は何もないことに気づく。そしてこのことは反出生主義者とて気が付いている。彼らは他の点でこの言明を擁護しようとしているがその論証は十全とは言い難い。

 

 

存在<非存在?

 さて、ある人物の非存在がもたらす二種の価値判断を受諾したものとしよう。非対称性論証はそこから「全体を考慮すると存在しないほうがいい」と結論する。だが、一見して明らかだと思われるが、この結論は性急である。ごく単純にいって、生まれた場合の「善ポイント=10」で「悪ポイント=5」なら差し引き「5」だろう。一方で、彼が存在しないことによっては確かに「悪ポイント=0」だが、「善ポイント=2」程度しかなかったら、存在したほうがよかったことになる

 存在してると善悪アリ、存在しないと善しかない。

 はい、生まれないほうがいいよね。

  と言われても、その内実が不明である以上、どうともいえない。こうなると『少しでも悪があったら終わり』と言っているのと同じになる。

 

 もちろん、これに対する反出生主義者側の反論もある。

 まず悪について考えよう。存在しない方が苦痛はないのだから、それだけ見れば存在しないほうが良い。なにしろ、存在しなければ「悪ポイント」を取得することは絶対にないのだから。

 次に善について考えよう。善いことがないというのは悪ではないのだった。そしてそれは単に悪ではないというだけのことではない。そこにおいては『剥奪』ということが起こり得ない。存在しながら得る善いことは剥奪されることがありそれは「より悪い」ことである。しかし存在しない場合は剥奪されるということがないので「より悪いわけではない」という意味で、悪ではない。

 たとえばクジラさんは病気がちだが速攻で回復する能力を持つとする。一方で、リンゴさんは病気にならない代わりに回復能力を持たないとしよう。このとき、クジラさんはリンゴさんよりも優越しているとはいえない。リンゴさんは回復能力が欠如しているが、クジラさんより悪いわけではない。

 それと同様に、存在しない場合の快楽欠如が、存在する場合より悪いとはいえない

 たしかに存在していると快楽がすごくあるかもしれない。善ポイントは一億を軽く超えてくるかもしれない。しかし『存在くん』は苦痛を感じがちであり、何度も快楽を妨げられる。一方で『存在しないくん』は苦痛など一切感じない。快楽は欠如しているが。―――【存在する者の快楽は存在しない者の快楽の不在に対する真の優越性を構成しない】

 

 

反出生主義へ

 存在するより存在しないほうがベターだということを認めたとしよう。

 しかしながら、「生まれてこないほうがいい」とするほど大げさな差であるとは限らない。0.00000000000001ぐらいしか差がなくても「ベター」だとは言える。このことから反出生を申し立てるのはおかしい。それゆえ、今度はこの差について圧倒的なものだということを示す必要がある。ここから福利(well-being)に関する話がはじまる。

 

⇩ 現代思想2019.11にあります。

ci.nii.ac.jp

 

 

 

アタラクシアと幸福

 エピクロスの倫理思想を見ていく。

 

 エピクロスにとって第一の善とは「精神の平静と肉体の無苦」であった。

 精神の平静とは、動揺(タラケー)のない状態である。これはアタラクシアとも呼ばれていた。そもそも動揺というものは根拠のない信念によって生じる。これを除くのが理性であって、哲学もそのためにある。彼が具体的に考えていたのは『魂は不死であり、我々の魂は(身体の)死後にそれぞれに応じた報いを受ける、また神々は我々の生活に様々に関与する』という誤った信念である。

 アタラクシアへ至るためには魂や神々、自然一般について考察し、理性的に判断せねばならない。そして真とか偽とかを判断するためには規準が必要である。これによって生じてくるのが規準論であり、進んで自然学であるが、すべてはアタラクシアを第一の善(倫理学)とし、そこに向かうためなのだ。アタラクシアの状態にあるものは、根拠のない信念を持たない知者である。

 

 

動的快楽と静的快楽

 アタラクシアは静的快楽と呼ばれ、ふつうに想像される快楽とは異なる。味覚による快楽、セックスの快楽、音楽を楽しんだり、運動を楽しんだり……そういった快楽を動的快楽と呼ぶ。特徴づけるなら、静的快楽は苦痛がない状態であり、動的快楽は快がある状態である。エピクロスは静的快楽こそが真の快楽であるというが、動的快楽についてはどのように考えていたのだろうか。

 

 まずその前にこんな疑問が浮かばないだろうか。

 もし君がいまアタラクシアの状態にあるとしよう。それは苦痛のない状態である。私は苦痛のない状態を快楽であると感じるだろうか。恐らく感じないだろう。だとすれば、動的快楽を認めないということは「快楽なんて感じない状態」を理想とすることを意味する。しかし認めたところで、結局のところ感じるのは動的快楽だけであることには違いはなく、それじゃあそもそもアタラクシアなんて言葉は持ち出さずに「将来のことを踏まえて快楽を選びましょう」とだけ言っておけばよかったのではないか。哲学なんてやっていない限り、誰がアタラクシアなんて求めるだろうか。……

 

 エピクロスとして譲れないのは「アタラクシアと肉体の無苦」が第一の善だということである。そしてそのことから帰結するのは、次である。:動的快楽を認めないことは『快楽がない』を理想とすることに等しい。だからそれを避けようとすれば、動的快楽は理論的に認められなければなるまい。しかし、そうすると静的快楽の地位が危ぶまれるのだ。静的快楽と動的快楽はどのような関係にあるのだろうか。

  Ristはこれに関して、「全ての動的快楽は常に静的快楽の先在を前提とし、専らそれに継起するものに過ぎない」としている。たとえば、食事をするとき、『我々の口蓋は、何の苦痛も経験していないが故に既に静的快楽の状態にあり、摂食の動的快楽を感じるに至る。その後、食物が口を経て身体へと通過してしまった時には、この動的快楽は消滅する。その際、身体の様々な部位は食物によって回復せられ、静的快楽がその回復に伴う』という。

 

 お腹には苦痛が生じていると仮定する(空腹)。まず口は静的快楽の状態にある。食べることでお腹の苦痛が除去される(動的快楽)が、それはすぐに消えてしまい、静的快楽の状態となる。ところでわれわれは腹を満たした後も、食事をとることができる。しかしもはや、得られる快は限界に達しておりそれ以上得ることはできない。その後はただ「多様化される」とエピクロスは言っている。つまり、そのまま食べ続けても快は新しく得られず、最初に得たものを様々の形に変えていくだけである。

 静的快楽が先在するとは、つまり動的快楽が静的快楽への「復帰」によってもたらされるということだと解釈できると思う。静的快楽という状態への回帰こそが動的快楽なのである。

 

 

 

ci.nii.ac.jp

 

 

人と思想 83 エピクロスとストア

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  • 作者:堀田 彰
  • 発売日: 2014/08/01
  • メディア: 単行本
 

 

意味の「意味」について

 にんじんの目的は「生きている意味」を見つけ出すことである。そのために、意味という言葉の〈意味〉について確認しておくのは当然のなりゆきであると思う。

 たとえば「人生の意味はなにか」と問うことにおいて、「人生というのは、人がこの世で生きているあいだのことです」と答える者がいたら人の気持ちがわからないのかと文句を言われるに違いない。

 

 さて、意味の〈意味〉には少なくともいくつかあることが観察された。

 これについて一般的には三種の用法が区別されている。まず言語的な意味が第一に置かれる。これは人生というものをこの世で生きているあいだとする〈意味〉である。たとえばボゴヌヌという言葉は言語的意味を持たない。第二に置かれるのは、その内容である。たとえば出された提案の内容を指して「意味はわかった?」と問うときがある。これは明らかに第一の意味とは異なる。マニュアルという言葉が何を指しているかわかったとしても、マニュアルの中身を知っているわけではないからだ。第三に置かれるのは、たとえば「必死こいて行ってみたけど閉館だった。意味ねえことで時間潰した……」という場合。これは第一のものとは異なるし、第二のものとも関係がない。そしてにんじんたちの求める人生の意味は、この第三のものであろう。

 意味についての問いかけには二側面ある。まず第一は「意味があるか」であり、第二は「どういう意味があるか」である。第一のものを〈形式的側面〉、第二のものを〈実質的側面〉と呼ぼう。

第三の意味 - 影響

 〈第三の意味〉について、その特性を次のように言い現わすことができる。つまり何かが有意味であるとは、①広義には何らかのものに対して一定程度の強い影響関係がある、②狭義にはそのものに対してポジティブな影響関係がある(人生の意味の哲学: 時と意味の探究)。

 意味はつねに「~にとっての」意味である

 二番目は非常にわかりやすいが、一番目は大変曖昧である。「すべてのものはすべてのものにとって意味がある」とさえ言いたくなる。宇宙のはるか遠くにある惑星でだれかがインクを垂らすことは地球人にとって何の関係もないだろうか。『実は』影響があるということはありえないか? 「意味がない」とされたものでも、「意味があった!」にひっくり返る恐れが常にある。そしてそれは当初から意味があったはずだとされる。広義の「意味がある」はあくまで用例としてはあるが、人生の意味を考えるうえではあまり役に立たないと思う。

 〈第三の意味〉を①因果的連関、②価値的連関と呼ぶことにしよう。しかし因果といっても「われわれの、そのときの、ふつう考えられる因果」である。

 

 いずれにしても、この〈意味〉は未来と関係がある。注意しなければならないのは、「起こることがすっかり決まっている」という決定論的な考えである。もしその尺度で話をするなら、われわれは意味があるかないかを判別する手段はないし(①)、ポジティブな影響と言われてもどうせ次のことは決まっている(②)。ここでいう未来とは、あくまでわれわれの普通の予測のことである。たとえば釘をハンマーで叩けば刺さっていくと思うし、置いていた荷物は誰も触らなければ突然消えたりしない。

 お腹が減っているときに飯を食うのは意味がある。箸を持ち、つまみ、口に運び、飲み込むこともやはり飯を食う目的に奉仕するため、それぞれ意味を持つだろう。われわれはここに「意味」という言葉を「目的」としてみることの契機を見つけるし、また、因果的連関が目的遂行の下地になっていることも知る。*1

 

 こう言ってしまってよいだろうか。:「行為の意味がある⇔行為の目的を果たす」。しかしこれは違うと考える。⇐は言えたとしても、⇒は成り立たない。

 〈第三の意味〉は、〇〇にとってそれが未来にもたらすポジティブな影響である。行為に意味があるとは、その行為をすることが何か・誰かにとって将来ポジティブな影響をもたらすことである。行為の目的は一般にポジティブな影響を求めてのことだから、目的を果たすことは意味のあることである(⇐)。しかし、もし行為の目的を果たせなくても、その行為には意味があるとされることは多くある。大会で優勝を目指さないチームはいないが、出場に意味があったのは優勝チームだけだとでもいうのだろうか。

 

第三の意味 — 時間

 意味というものは二様の仕方で語られる。ひとつは「意味があったか」であり、ひとつは「意味があるか」である。新ネタを考える芸人はそのネタのなかに意味があると思うからその要素をつぎ込むが、あとになってみると全く蛇足でクソ寒く全然意味がなかったということがありうる。また、「もし大会に優勝したとしても、意味は?」と起こってもいない未来についての意味を問うこともある。意味があるかという問いはやや幅のあるものである。これは〈価値〉と類似している。

 これは以前のにんじんブログでの考察との接続である。

以上まとめると、たとえば「なぜ生きているんですか?」という言葉は、

 生きてきた理由はなに?
 生きていく目的はなに?
 生きているべき?
という少なくとも三つの内容をもつことになるでしょうか。

理由、目的、意味について - にんじんブログ

 

 

人生の意味の哲学: 時と意味の探究

人生の意味の哲学: 時と意味の探究

  • 作者:佐藤 透
  • 発売日: 2012/10/22
  • メディア: 単行本
 

 

*1:そしてまた、行為や状態の〈意味〉があるためには、その状態でないことや、行為をしないことができるのでなければならない。「私が生物学的にヒトであることは、私にとってどんな意味があるのか」は〈第三の意味〉がない。………というようなことが本に書いてあるが、ちょっと信じがたい。生物学的にヒトであることが私にもたらす影響については容易に語ることができる。ペンギンと違ってスイスイ泳げないし、ヒトならではの制限も多くある。