にんじんブログ

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生きている、なぜか(日記)

2022.06.18記

 おそらくだが「どうして生きているのか?」という問いを、「なぜ生きて行かなければならないのか、その理由はなにか」と解釈すると求めている答えには永久にたどり着けない。なぜならそんな理由はなく、今すぐに死んでも特に大きな影響はないからだ。もちろん親族や友人は悲しむかもしれないが、一代限りのことである……と考えだすと、あぁ生きている(生きていく)理由はないのだなとため息をつくはめになるし、正直もうそれ以上進みようがない。

 そこで「いま生きている。それはなぜなのか」としてみる。いま、あなたは厭世的になっているかもしれないが、なぜか生きている。死ぬときは痛いからかもしれない。だから安楽死施設がどうだの言っている。では安楽死できればすぐに死ぬのか。本当に? 本当ならそれでよい。では次は方法を考えればよい。だがそれで済むならもう方法を探し始めているだろうし、少なくともこの文章は見ていない(残念なことにここに死に方は載っていない)。すると、生きているのには他に理由がありそうだ、ということになる。生物には生きていたいという「本能」があるからか。だが実際自殺する人はいるのだから、本能を乗り越える方法があるということだ。つまり結局方法の問題になる。まだほかにもありそうだ。お酒がおいしいから生きているということも、当然ありうる。だがもしそれだけなら、お酒が飲めなくなれば自殺するわけだ―――「生きている理由」が現に存在して、どれほど複雑に絡み合っていることか。

 

 

にんじんと読む「結婚と家族のこれから」第三章

第三章 「家事分担」はもう古い?

 日々生きていくうえで仕事は大事だとしても、仕事以外にもやらなければならないことはたくさんある。しかもそれはやらなければならないのに、タダ働きなのである。これを無償労働といい、「家の仕事」「家事」とかいう。共働き社会においてはこの無償労働の配分が問題となってくるのは、Twitterで夫が何もしないと愚痴っている人びとを見ればよくわかる。

 この配分についてのごく一般的な説明は「時間のあるほう」「稼いでないほう」が家事をするということなのだが、統計的にはまったくそうなっていない。男のほうにいくら時間があろうが稼ぎが減ろうが無償労働をほとんどしないのである。この点について男は自覚したうえで家事を担当したほうがいいのだが、しかし、無償労働の話は、男が手伝えば済むという問題ではない。

 無償労働に求められる水準は経済成長とともに高まる。その高まりは冷蔵庫ができようが、裁縫なしでユニクロで買おうがまったく追い付かないほどである。洗濯ものをたたんだりは自分でしなければならないし、ルンバがやってくれるのは床の上の埃だけだ。結局、「そこに人がいる」ということが重要になってくるのである。家事使用人が当たり前のように生産拠点である「家」に出入りしていた頃ならまだしも、工業化が進み家を出るようになると家事使用人としてもそこで使用人をしているよりも外に出て自分で働いたほうがよいということになってくる。初期の頃はまだ「女中」と呼ばれる貧しい子を経済的に豊かな人間が雇うこともあったものの、徐々にそんなこともなくなってきた。

 北欧では高い税金をとって福祉に力を入れ、このようなケア労働を公的に供給している。もちろんこれも一長一短ではあるものの、参考になるモデルであるのは間違いない。

 

 

にんじんと読む「結婚と家族のこれから」第二章

第二章 家族はいまどこにいるか

 「労働者」が増えてきて生活拠点が「家」でなくなると、もはや家長の権力は効果のないものになる。戦争でかき消されてしまった庶民の声も、戦後となると民法改正によってオヤジの権利は世帯主という形だけのものとなり、法的にも自由になった。逆に言えば、骨抜きにされた家制度が不自然な形で残されている。

 だが家からの離脱を果たした男は自由になっても、女はまだそうではない。工業化の初期段階においてもらえる賃金が女のほうが低く設定されたために、外に働きに出て通勤もあるのに「割に合わない」ということになり、男の給料が上がっていくにつれて、女としてはそういう低賃金の過酷な労働から手を引いていった(もっとも、いまだ農林業・自営業が多く、専業主婦家庭は徐々に徐々に増えるだけで、それほど多くはなかった)。男性が稼ぐ力を持っている以上、女はそれに依存するしかなかった。男が別れるのと女が別れるのとでは生活という意味でまったくちがったのだ。このことは「自由」恋愛にも結婚にも影響する。

 女性が社会進出してくると男性に依存する必要はなくなる。しかし、女が稼ぎの世界に入ったことで到来した社会は両性が自由な社会ではなかった。共働きや、シングル、独身、ルームシェア、マイノリティ等々さまざまな家族のかたちがうまれはしたが、この多様化は①貧困(生活基盤がぐらぐら)、②無償労働(二人とも稼ぎに出たら家のことは誰がやる)、③親の世話(子どもの絶対数が少なく、頼れる選択肢が少ない)などによってそのような生活を余儀なくされている場合が多いのである。

  1.  安定した雇用が行きわたっている
  2.  家事や育児サービスがなんらかのかたちで提供されている
  3.  高齢者を支えるコストが小さい

 このような好条件はなかなかそろわないし、近い将来にもこのようになることはまずないだろうと思われる。

 

 

 

にんじんと読む「結婚と家族のこれから」第一章

第一章 家族はどこから来たか

説明の出発点は、「食べていくこと」です。人間、食べていくこと、つまり経済的な生活基盤がなければ生きていくことができません。逆にいえば、生活基盤が確保されていれば、あとのことは比較的自由に決められるのです。それは家族や結婚についても同様です。家族や結婚のかたちは、人々の経済的な生活基盤に応じてある程度決まります。

結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書)

 日本古代の生活基盤は「村落共同体」だった。この共同体から出ればほとんど生きてはいけない状況だったということだ。ここにおいて重要なのは農業であり、男女共同で行えるもので、子どもも重要な働き手となる。好きになったらセックスをして近しい生活をはじめるが、複数の相手と親しくなることも普通で、気づいたら別れていることも普通だった。ここにおいては子どもが生まれることが重要で、「家」というものはそれほど重視されてはいなかった。

 この変化のきっかけとして「大宝律令」が挙げられることが多い。これは大陸から輸入された中央集権的な社会制度で、『家長』と彼の管理する成員を単位に税をおさめていくこととなる。このような制度はきわめて「約束事」めいたもので、個人個人にはそれを守るような合理性も特になく、上部階層に至ってもそれほど浸透しなかったという見方もある。

 ただ古代末期から中世にかけて、武士階級でこの家父長制的なあり方が広がって来た。それは暴力行為(戦う)ことによって「生計を立てる」という階級だからであり、農作業とは違い、男が前面に立つ分野だからである。財を築くためには手柄を立てねばならず、手柄を立てるのは男の仕事なのだ。生活していくためには男が手柄をあげればよく、手柄をあげた男は尊敬される。家父長制的な政治的圧力を助けに、築いた財をしっかり守っていくには「血統」が大事になって来る。江戸時代になると戦争はほとんどなくなり、武士階級は官僚・役人となって徐々に家父長制的なあり方が広がっていく。

 庶民や商家は農業・経営が生活にとって大事で、息子がいつも有能とは限らないために浸透は遅かった。経済と差別は基本的に折り合いが悪く生産性が悪くなるのだが、家父長制的な政策は自らの既得権を維持するために利用された。財を築いた上の人間から徐々にこの流れに乗っていき、次第に商家でも広く「家」が広がっていった。

 明治時代に制定された民法は家長の権限を具体的に盛り込んだ実態のあるものであり、とうとう庶民も「家」で包んだ。家長は構成員についてどこに住むかなどを決めることができ逆らったものは扶養しないことができた。財産は長男にのみ引き継がれた。とはいえ、下の階層ほど後継ぎのうまみは少なく、近代化が進むにつれて改正を求める声が大きくなるが、戦争など別の論理が出てくる中で、かき消されていった。

 長男と結婚すると奥さんは夫の両親と同居しなければならず「嫁いびり」なども面倒だったため、次男以下と女は、自由を望み家から出ようと考えだした。女性にとって理想的なのは次男以下なのだ。一方、次男以下は経済的に独立するためになにかビジネスをはじめるなどしなければならなかったが、近代化も手伝って「労働者」となる道がひらかれていた。だれかに雇用されてお金をもらうというものだ。

 当たり前のように、会社は社員の息子を雇用する理由などどこにもない。このため、庶民にはもともとそれほど意味がなかった血統の意味は余計に薄れて行く。

したがって、雇用というかたちでの働き方が都市部で徐々に浸透していくにつれて、家制度はその根底を掘り崩されていくのです。

結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書)

 

 

にんじんメモ

 つまり「家」は、支配層の子どもにとっては「うまい」けれども、庶民になればなるほど「うまみ」が減っていく。親が課長でも息子が課長になれるわけもなく、跡を継いだからなんなんだという話になり、支配層から徐々に広がって来た家父長制は、今度は庶民のほうから「なんの意味があるの?」と塗り替えされている。

 

 

 

 

 

にんじんと読む「人はなぜSEXをするのか?」 第四章

第四章 あなたが知らないセックスのこと

 セックスのはじまり、それは初体験であり、「処女膜」だと思われている。だが処女膜は処女を証明しない。処女膜なしで生まれてくる子もいる。オーストラリアの原住民の一族は生まれて来た子に処女膜がないと拷問して食事を与えないが、ここまでしなくても、処女膜を重要視するのは現代でも同じである。中世の女たちは膣にヒルを忍ばせて出血させ自らの処女性を証明し、現代では処女を装う手術を受ける。もちろん、処女膜をわざと破いてしまう文化もあるが、なんにせよ、「処女膜こそ処女のあかし」と考えられているがゆえの行為である。処女膜は一時破けてもそのままにしておけば自然に再生する。また、処女膜はおそろしく簡単に破けるので運動している最中に破けたり、タンポンを入れただけでも破ける。それどころかセックスしても膜がビヨンビヨンと伸縮するだけで破けずに済むことがある。

 何事もそうだが、セックスも訓練を積むほどよくなる。満足といえば男女のオルガスムだ。男と女のちがいはオルガスムの長さであり、同じことは性器とアナルの収縮である。この収縮が女性のほうが激しく、子宮の収縮とともに膣と骨盤をおおう筋肉を収縮し、「ビクンビクン」となる。やがて脳の中の快感中枢が激しく活動し、大脳皮質の活動が一時的に減退するので、フランス語でオルガスムは「ラ・プティット・モール」=「小さな死」と言われる。男のオルガスムは射精を促すという役割があるだろうと思われるにしても、女のオルガスムにはなんの意味があるのだろう。オルガスムなどなくても妊娠するからだ。とはいえ、妊娠に必要ないからといってオルガスムに意味がないとするのはやはりおかしいだろう。それでもはっきりとしたことはわからない。たとえば一説では、オルガスムによって女がぐったりしているうちは受精しやすいのだというが、実はオルガスムに達しやすいのは騎乗位なので、セックスは正常位派の意見である。あるいは一説によるとオルガスムによる収縮が精子を吸い込むと言う。実際カメラで見てみるとたしかに吸い上げている。だがこれにも異論は多い。

 だがなんにしても、オルガスムの回数も深さも相手との絆が関係する。オルガスムには快感以上のものがあり、両性の接着剤のようなものなのだ。しかもそれは単に性的魅力だけではなく、オルガスムを感じる相手には感情的な結びつきが生れる。性衝動が薄くなっても、セックスによって作られた絆は持続する。

 オルガスムには種類がある。「クリイキ」は定番として、「Gスポット」はクリとは違う種類のものだと女性の多くが言うし、バストの刺激だけでイったり、身体的な刺激なしでもイけるし、それらの複合的なオルガスムもある。

 最近よく知られるようになったが、65%の女性は射精する。その感覚は尿意に似ているので、パートナーが尿を楽しむ性癖の持ち主でもない限り女性としては躊躇する。だが、射精で出てくるのは乳白色か透明の液体で、分泌量はそれぞれだが、案外多い。しかもその化学成分も尿とはまったく違う。男性の精液とよく似ているものだ。このミルクには膣壁の抗菌の意味がある。女性がよくかかるのが「尿路感染症」であり、人生に最低一回はかかるぐらいなりやすい感染症なのだが、ミルクは病原菌から体を守ってくれるのだ。

 男が出す例の白い奴は、女にとっては外部物質であるから免疫システムの監視対象ではある。だが何度もそれに触れ慣れていると、徐々に受け入れやすくなってくる。つまりワンナイト野郎より長年のパートナーのほうが妊娠しやすい。それだけでなく、精子を飲まされたり、なんでもいいので精液に接する機会が多いと病気のリスクが減ることがわかっている。とはいえ、具体的に「精液飲めばええねん」とはならないのは、その行為と結果の因果関係を調べるのが難しいからだ(「ごっくん」する人はそれ以外のいろいろも同時にしているだろう)。なんにせよ間違いないのは、セックスはものすごく身体にいい、ということだ。

 

 

解決可能性(日記)

2022.06.11記

 問題の解決可能性は明らかに、その問題が実際に解決できるかにかかっている。閉じ込められた牢屋の鍵を開けるのに「看守の持っている鍵を観察し、木工室でレプリカを作り、解錠する」という映画並みのテクニックは脱獄という目的をたしかに提供するものの、これが実際にうまくいくものであるかどうかはその牢屋によるとしかいいようがない。持ち出すことができるか、折れずに錠前を回せるかなどなどさまざまな問題が山積している。もしこれが普遍的な脱獄手段ならば囚人を牢屋に閉じ込める意味はどこにもないだろう。私たちはすべての出来事に対して一種の「賭け」を毎日のように繰り返しているのに、この賭けを忘れ、「法則」という時間的・空間的条件によらないという意味での置き換え可能性に身を預けて来た。AとBという組み合った歯車は、Aを回せば、必然的に、Bを回すと信じ切っているので、Aが損壊する可能性のあることを忘れている。それを忘れていない人でさえ、理論に損壊可能性を組み入れた法則性に安心しているだろう。真理という理念は私たちを導いてくれるが、どこにも連れて行ってはくれない。

 だがこのような「賭け」の存在を思い出したところで、問題の解決可能性についての私たちの信念はいささかも揺るがない。その信念というのは、「どうにかなる」ということであり、その方法は努力によってアクセスできることであり、すなわち、どうにもならないことの存在はその人の努力不足を帰結する。私たちは操作不可能なことに出会うと動揺する。それが怒りになるか、どうなるかは人によるが、そこで感じるのは自身の無能さだろう。しっかりと備えていればこんなことにはならなかったと。

 (1)解決方法にアクセスするための知恵は鍛えることができ、(2)そもそもそういった方法が現に存在しているのならば、私たちは自分の無能さを恥じ入ることになる。あなたに降りかかる問題がすべてあなたの責任で起きたことでないならば、このいずれかは確かに間違っていなければならない。たとえば「死」はどうにもならないことの典型的な例であると考えられているだろうが、実際のところ、その点は怪しい。死をどうにかできると思う人もいれば、多少なりともマシなものにできるだろうと考える人もいる。「解決」の幅は恐ろしく広いので、たとえ木製の鍵が牢屋に合致しなくても、その方法を知っているというだけで「マシ」なのだ。この「マシ」も解決にあたる。なんでもいいから努力することはなんにせよ何もしないよりはマシであるのだから努力しなければならないし、やらないで問題が起きたらお前が悪いという話になる。―――なにかがおかしい。