にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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にんじんと読む「実在論を立て直す」②

前回:

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 

  第五章冒頭でこれまでの主張は次のようにまとめられます。

 わたしたちが根源的な仕方で世界内に存在するあり方、つまり、実在するものにうまく対処したり、どこにでも行けたりするといったあり方は、ある種の理解を反映している。しかもそうした理解には、明示的で分析的な要素間の区別のようなものは、事実と価値の区別や信念と実在の区別と同様に、登場しない。方法の存在論化は、明示的で原始的な中立的情報をわたしたちの世界との日常的な交流のなかに読み込むことで、日常的な実在を歪めるだけでなく、批判とは何を成し遂げることなのかを、わたしたちに見えなくしてしまう。批判は、自分たちを事物の日常的な意味から離脱させ、環境への関与から脱中心化させるといった仕方で、世界への態度の変更を要求するものであること、こうしたことが理解できなくなるのだ。

 関与的な対処が根源的だという理由は、なにかをアレコレ議論するときであっても、その関与的な対処をよりどころにするからです。

 媒介説はわたしたちが明示的・中立的な情報を取り込み、それを結合すると考えます。結合する際にミスが起きるかもしれないのでよくよく注意してねという反省を促すのは、確立された伝統・外部の権威に頼らない姿勢から来るもので、それが高じて最終的には自己責任的*1であることが求められるのです。こうして知識の第一の主体たるは「個人」となりました。それがいろいろな歪みを生み出しています。

 これまでは「知識における心的表象の中心性に疑義を投げかける」という形で媒介説への批判を行ってきました。

 ここからは「伝統的な媒介説における独語への偏重」を批判しましょう。

 

<2>媒介説の独語的過程の否定

 「世界把握は個人の信念から始まって徐々に広がる」のが媒介説で、

 「世界の把握は初めから共有されており、それが特定の言語・文化によって個人に分け与えられていくに過ぎない」というのが接触でした。

 

 

 

  さて、私たちの考えはすべて、死なない限り打ち切られない世界との接触という文脈の中にあります。その、何らかの枠組みからは逃れることはできません。

  • 私たちは共通の世界のなかに生きており、同じ種類の身体と基本能力を持ち、似たようなニーズを持っています。このような共通基盤が、まったく未知の「お野菜民族」に出会ったとしても、そこの言語を理解し合える可能性を提供してくれるのです—————誰もが認識するレヴェルのコミュニケーション。

 これについては媒介説を支持する人もほとんど異議をとなえないことです。しかし、このような表面的なコミュニケーションを超えると一気に理解しがたくなります。ウサギが動いていれば、お野菜民族もわたしたち日本人もだいたい同じようにそれを捉え、それぞれの言葉で「ウスァグィー」「ウサギ」「ラビット」などと表現したりすることでしょう。

 しかしそれではもし、お野菜民族が生まれたばかりの赤ん坊を数日木に吊るしていたらどうでしょう。生き残った者だけを育てる……こんな文化を見たとき「うわ、やば……」と理解する気も失せることでしょう。ここには、手に負えない断絶があるような気がします。

 

 生命的意味=わたしたちが生物学的な存在者として共有するもの

 人間的意味=道徳的、倫理的、精神的なレヴェルに位置を占める意味

 

 ウサギを区別するのはどっちもやるだろうことだけれど、赤ん坊を木に吊るす儀式についてはかなり差があるように思われます。それはそこでの「最善の生き方」「道徳的義務」「高潔なありかた」などに結び付いています。吊るされた赤ん坊を木から下ろしてやるとお野菜民族が大激怒しはじめるかもしれません。いや、だって可哀そうだろと言っても通じません。何故怒っているのか、こちらにはさっぱり理解できないのです。

  1.  こうした文化レヴェルの違いをどう理解するか
  2.  もし文化が受け入れられなくても色々と話し合うことでなんとなく彼らが何を重要だと考えているかわかるようになる。いったいどうしてそんなことが可能なのか?

 媒介説はそもそも「可能だ」とは言いません。それぞれの文化にいる人はその枠組みから逃れられず、他の枠組みとは通約不能になるのです。

 この異なる文化の理解については、著者はガダマーという人の「地平」という概念を用います。わたしたちはこれまで、ものの「背景」を語ってきました。背景は一般的に共有されており、生命的意味を中心に形成されています。一方で「地平」は文化的な種類の一般的理解を指すものとして理解されます。

 背景と同じように地平も固定的なものではなくて柔軟に変化します。お野菜民族と私たちが出会ったときには異なる地平にいたとしても、一緒に過ごすうちに少しずつ地平を共有することはありえるのです。

 ところでこのような見解はデイヴィドソンの「概念枠」による議論と似ています。しかしガダマーとデイヴィドソンで本質的に異なるのは、ガダマーが存在論的な話をしているのに対して、デイヴィドソンは認識論的な話をしているということです。「わたしたちが理解できるような仕方で彼らを最大限理解せよ」ではなく「人間の生・宇宙・聖なるもの等々についてのまったく異なる理解の様式というものが存在することを理解するようになれ」というわけです。

 

実在論を立て直す

 ともかく、色々な問題は媒介説によって起きているわけだから、接触説を採用すればそうした問題は消え去ります。しかしやはり気になる問題があります。

 わたしたちの日常的な対処の実践が日常的な世界への直接的なアクセスをもたらすかぎり、それらの実践がそれ自体であるがままの宇宙へのアクセスをすべてふさいでしまうように見える

 デフレ的実在論とは「すべての対象は自然科学が研究する対象さえも、わたしたちの埋め込まれた対処を背景にしないと理解可能ではなく、そのため〈どこでもないところからの眺め〉は文字通り理解不可能である」と主張する立場である。

 頑強な実在論とは「自然科学によって研究される構造の身分を理解するためには、独立的な実在を有意味なものとして理解しなければならない」と主張する立場である。

 

 接触説を認めても、それを認めたがゆえに、「誰の視点でもないような世界」が消え去ってしまうのではないか? 世界は誰かの枠組みのなかにあるんじゃないのか?

 これに対してデフレ的実在論は「そうです」と答え、頑強な実在論は「いいえ」と答えます。さらに頑強な実在論は、デフレ的実在論を「内・外」描像にとらわれていると批判します。しかし一見して、わたしたちが取り得る道はデフレ的実在論しかないような気がします。どうすればいいのでしょうか。

 

 わたしたちの出発点は、主体の世界はその人の身体的実存によって形づくられているという主張だ。

 

  〇〇によって世界が形作られる、とはどういう意味でしょうか。〇〇と世界が形作られることにはどのような関係があるのでしょうか。

 

  1.  関係の第一の種類:経験に対して身体的組成からもたらされる関係性。わたしたちは後ろにあるものを見ることができない。
  2.  関係の第二の種類:経験の本性が身体的組成によってどのように形作られるか。これは特定の用語が理解可能になる条件に関わる。たとえば「手もとにある」「上・下」「遠く・近く」「簡単にどけられる」という言葉は、わたしたちの身体性を背景にしたときにだけ意味を成す。 → わたしたちとまったく体の組成が異なる知的生命体は、これらの用語を理解できない。これらの用語を理解するためには身体的な人間とは何かを理解しなければならない。「手」がなければならない。 

 この第二の種類の関係性が重要です。

〈どこでもないところからの眺め〉についての語ることから歩み去る不可能性……わたしたちが言わんとしているこのことは、「因果性」「理解可能性」いづれとも異なる世界への第三の関係を発見できるかどうかにかかっている、と著者はいいます。というのも、因果性を優先すると自然主義になり、理解可能性を優先すると現象学を観念論にしてしまうか、デフレ的実在論に行きつくからです。

 

 

 

 ……というところまでが第七章の途中までの内容です。

 こういうのは一回では全然理解できないですね(˘ω˘)

 

 途中の章もいくつか飛ばしているので、二回目はもっと詳しくいきたいです。

 

 

*1:フッサールの講演『危機』の言葉

にんじんと読む「免疫と「病」の科学」

 今回のテーマは「慢性炎症」です。

 専門的というかむずかし~(∩´﹏`∩)のが多かったのでそこらへんは全部飛ばしてます。多分手に取ってもらったら同じ顔になると思います。そして最後には「禁煙して何事もほどほどにするんやぞ」というよくある対策が示されて終わります。

 

 炎症とは、

 生体の恒常性を構成する解剖生理学的反応の一つであり、恒常性を正常に維持する非特異的防御機構の一員である。 炎症 - Wikipedia

  炎症が起こると、発赤 (ほっせき:redness)、熱感 (heat)、腫脹 (swelling)、疼痛 (pain) という症状が起き、これらをケルススの四徴候と呼びます。逆に、このケルススの四徴候が起こった時、我々はそれを炎症であると判断します。

 炎症は防御機構であるという通りに、ケルススの四徴候は異物に対する生体の意義のある反応である。①血管が広がって局所への血流が増える、②血管の壁がゆるくなって漏れやすくなり、③生体防御に必要な細胞や物質が血管内から炎症局所へと漏れ出して溜まり込み、④異物を排除、します。腫れや痛みは我々に対する警告であり、運動を制限させます。

 炎症というものは基本的に一過性のものであり、元の状態に戻れば収まります。しかし時としてそうではない炎症があります。これを慢性炎症と呼び、一過性のものを急性炎症と呼ぶのです。慢性炎症は炎症が長くだらだらと続いている状態であって、時間的にどこからが慢性か、急性かという判断は曖昧です。

 急性炎症については上記のとおりですが、慢性炎症の場合はケルススの四徴候が必ずしも見えないという特徴があります

 慢性炎症は、

(1)炎症組織で炎症性サイトカインと呼ばれる複数のたんぱく質が生まれ、他の細胞に連絡していくことで、他の箇所にも広く影響を及ぼしていき、

(2)炎症が起きた組織の細胞が死に始め、組織自体の機能低下が起こるとともに元に戻りづらく

 なります。これが肝臓で起こると肝硬変になったり、肺胞で起こると肺線維症になり呼吸不全に陥るなど、「慢性炎症は万病のもと」といわれます。

 

 

にんじんと読む「実在論を立て直す」

 今回のテーマは「媒介説」です。

 この実在論を立て直すという本は、あの有名な『有限性の後で』に比べてあまり知られていない気がしますが、こちらも一応、ポストモダン的なものの見方””媒介説””——あっちの言葉で言うと相関主義ですが――を批判した本になっています。メイヤスーのほうが知られているのは、著者が一人で呼びやすいし、書名がイケてるせいでしょうか。実在論を立て直す と 有限性の後で ですよ。まぁにんじんは実在論を立て直すのほうが好きですが……。小説ではないので、ストレートな名前のほうが誠実ですね。

 ちなみに本当のタイトルはRETRIEVING REALISMです。

 

媒介説という描像

  •   媒介説:外的実在を内的な表象(観念)をとおして捉えるのだという考え。

  著者はこの「媒介説」に誰もが捕らわれており、このもとでしかモノを考えられなくなっていると言っております。

 「目の前に鉛筆があるけれども、それは外界にある鉛筆それ自体とは違う。自分の目だとか脳だとかがこねくり回した結果であって、それ自体がそのまま映っているわけではない」と、こういう風に言うのも一つの例でしょう。私たちは決して外に出ることは出来ません。「内と外」の決定的な区別が、媒介説の構造です

  •  媒介説は実体二元論の心的・物的の区分に基づく。実体二元論を支持しているものは現在ではほとんどいないにも関わらず、その批判者のどれをとっても媒介説に囚われたままである。

 

 媒介説の特徴をまとめると、次の四つになる。

  1.  「介してのみ」構造 = 心/生物個体の境界を越えた外部の世界についての知識ないしアクセスは、 心/生物個体のなかの何らかの特徴を介してのみ成立することができる。
  2.  知識の内容は明確に定義される明示的な要素に分析できる。現代の一般的なヴァージョンでは、知識の内容は信念あるいは真とみなされた文によって構成される。(「知識とは正当化された真なる信念である」)
  3.  信念の正当化への試みは、この明示的に定式化された要素を越えたり、基礎となるものへさかのぼったりすることはできない。
  4.  心的・物的という区別。物理主義といえども、この区別は受け継がれており、彼らは単に「心的なもの=物理的なもの」を示そうとしているだけ。

 いまはやりの、人間をコンピュータだとみなすやり方もこの媒介説の特徴を持っています。(1)入力と出力、(2)計算は明確に定義された情報をもとに進む、(3)計算が世界への「指示」を獲得するのは、「入力」を介してのみ、(4)物理主義的

 

  •  媒介説に代わる「接触説」の提案と、媒介説がいかに不適切であるかを示すことが本書の目的。

 接触説は自己立証します。すなわち、「あなたがそこにいるなら、あなたはそこにいることを知っている」。けれど、媒介説ではこんなことはありえません。:媒介説ではまず信念があって、それが真であるかどうか考えないといけません。どういう正当な根拠があってそういうのかを考えないといけません。そのために、どうすればそれが真なのだかといった指標や基準を探し求めます。

 にんじんも今この文を読みながら「そりゃそうじゃねえの!?」と思ってますが、こういうのを媒介説にとらわれているというのでしょう。

 面白くなってきたので「( `ᾥ´ )だましやがったらゆるさねえゾ」という気持ちで読み進めていくことにしましょう!

 

【正当化にまつわる接触説と媒介説のちがい】

① 接触説「信念が真であるという確信は、有限の数の特徴をもって説明できる」

 上で書いたように、真だというためにはその正当な根拠を考えないといけません。人間なので無限個の根拠を考えるわけにもいきませんので、「コレがコウだから真なんでしょ」と言うことになります。

 しかし著者は言います。「このような要請が適切であることは直観的に自明だとは思われない」

 私は今日本にいる。にんブロを見ている。このようなことを読者は確信しているでしょう。そこに接触説の人が来て「どうして?」と訊いてくるのです。いやどうしてって……。「たんに、ひとつひとつ確認しうる手掛かりが山のようにあるということだけが問題なのではない。(略)それらは、ほかのものごとについて調べたり問いを立てたりする場合に、確固としたものとして受け入れられている背景に属する事柄なのである」

 世界はたった五分前にはじまったのではない。でも、どうして?

 この問いを「うるせえ!」と拒否した場合、このことは私たちが「世界っていうのはずっと昔っからあるんだなぁ」という信念を持ち続けていることを意味するでしょうか。著者は「むしろこう言うべきでは?」と書く。

 「無際限な過去にまで遡ることができる世界は、一種の枠組みないし文脈として機能しており、この枠組みのなかで、多くの問いを立てたり、意識的な探求を行ったりすることが有意味となるのだ」

 この枠組みは仮定だとか信念だとか、そういったものじゃなくて、そうじゃなかったら今までやってきたこととか、今やってることがなんやねんという話になる、ごく当然に受け入れられているコトなのです。

  でも、

 そういう枠組みを疑って本当に正しいことを知ろうとするのが哲学じゃなかったのかと、言いたくなりませんか? わたしたちは世界が五分前に始まったわけではないということを論証するか、理論の前提に組み込んで、前に進まなければならないんじゃないのか? これに対しては、「この種の基礎づけ主義的な試みは無駄」で、「わたしたちはつねに、また不可避的に、あらかじめ受け入れられた枠組みのなかで考えるのである」と答えられます。私たちのする何かが有意味であるのは、何らかの枠組みが働いていて、その枠組み自体を問題視するときもやはり枠組みが働いているのです。

「枠組みの内部においては、わたしたちはもちろん理由を与え、基準を引き合いに出して問題に対処する。わたしたちは表象を形成し、それらについて本当に当てはまるのかどうかを問題にする。しかしこれらすべては、当然と見なされている実在との接触というより広い文脈のなかで生じることである。当然と見なす想定は間違いかもしれないが、しかしそのすべてが間違いということは決してありえない。これが、接触説がとらえ、媒介的説明が見逃していることである」

 

② 「わたしたちがどこに/いつ存在しているか、何をしているのか、などのような事柄についての一般的な感覚は、経路依存的である。わたしがここローレンシャンにいることを知っているのは、ここに来たからである」

 これは①の接触説・自己立証的性格の一部になっています。

 たとえば夢。わたしたちの人生は誰かの夢なのかもしれません。しかし「目覚め」がないので夢かどうかはわかりません。

 

【上のまとめ】

 個々の意識や個別的なものの把握はそれらを含むより広範な枠組みを受け入れることの中に埋め込まれており、そのなかで意味を与えられている。この枠組みの受け入れは全体論的である。この受け入れを個別的な把握の集まりに分解することはできない。

 そして①受け入れは不可避。絶対枠組みは受け入れないといけない。②受け入れは時間的な奥行きを持っている。「私がいまここにいるのは、ここに来たから」

 

 接触説は、何らかの問題に対して基準を用意して答えることは認めています。特に枠組みの内部では。でも全部が全部そうであるわけじゃない、と言っています。

 媒介説は、信念に理由を与えることができるし、もしできないとしたら最下層に突き当たったからだと考えます。最下層は訂正不能なものです。「枠組み」というのもやはり最下層に属し、理論の仮定に組み込むしかないような、訂正不能なもののひとつです。 

  しかし接触説は、枠組みはその時々によっていろいろ変わってくる、と言います。この点が、媒介説には意味不明なものに見えます。

 

 媒介説はただ単に哲学上の巨大な一流派というにとどまらず、その姿勢は哲学以外のもの・たとえば倫理にも派生していることが指摘されます。媒介説vs接触説の対立は、こうしてわたしたちの人生全てを背負った思想戦争となるのです!

 媒介説を乗り越える

 歴史的に、媒介説は乗り越えられようとしてきました。媒介説に対する反論の軸は次の二つにまとめられます。

  1.  世界を把握する仕方は、表象を介してとは限らない。
  2.  世界の把握は初めから共有されており、それが特定の言語・文化によって個人に分け与えられていくに過ぎない(媒介説の独語的過程の否定)

 2番目が少々わかりづらいかもしれませんが、知識=真とみなされる信念 といわれるように、まずは個人の信念から始まって一般的なものに進むわけですがそうではなく、そもそも世界把握は共有されていてそれが個人に分割されていくのだ、というものです。

 

<1>表象が一番先ですか?

 たとえば視線を机の上に向けてみましょう。

 そこには何があるかというと、まぁ色々あるでしょう。たとえば鉛筆も。鉛筆を未だかつて一度も見たことがない人向けに、なんかこう「シュッとしたやつ」があるとしてもよろしい。

 こういうことをもとにして、媒介説はこれがあるとかないとか言っていくし、確かめていきます。しかし、シュッとしたやつがあるという表象って本当に基礎的なものでしょうか? それより下はもう掘り進められない? —— そんなことはありません。どうしてって、シュッとしたやつをあなたはもう見てるじゃないですか。

 「なんかあるな」となった時点で、もう「なんか」は切り分けられているのです。その「なんか」は既にあなたにとって、世界の中に位置を持っているのです。我々はそのなんかについて、考えています。

 今あなたが探索しようとしている世界はまったく未知のものかもしれません。しかし、完全完璧に未知であるわけではありません。「なんか」は世界の中にあるし、ある以上は他のものとの関係の中にあります。他のものと一切関係を持たずに「なんか」がそこにあることはできません。「なんか」だ、と思うためには、「なんか」でないものがないと駄目だというわけです。たとえ名前とかがわからなくってもね。

 もしそういう関係とかを一切取り去ったら、

「知覚は、その場合にはいかなる経験にも属せず、したがって対象を欠き、表象の盲目的戯れにすぎず、夢にすら及ばぬものとなってしまうだろう」

 表象っていうのはまぁあるにしても、そこがすべての出発点であるわけではないのです。これで媒介説をバコンと叩いたのがあの有名なカントだそうです。

 

 それで今度はウィトゲンシュタイン

 カントがやったのが「認識論の原子論」を叩くことだったとすると、ウィトゲンシュタインは「意味の原子論」を叩きました。それをやっているのが『哲学探究』の冒頭のところ。アウグスティヌスの言語観を間違いの典型例として紹介し、叩き始めます。

 私たちがものの言葉を知るのは何かのモノが「にんブロ!」として名指され、モノとにんブロが結び付けられることから始まる……いやいや、そうじゃないでしょ、と彼は言います。「リンゴ5個~」と言われた果物屋の店主が店の奥からリンゴを出して持ってくるのはなんだ? 今までそういう風にやってきたっていう流れがあるからで、まずリンゴという名詞を覚え、5個という数詞を覚え、リンゴ5個という言葉の組み合わせを覚えて行ったのか? そうじゃないでしょ?  ……というわけ。友達と会話していていきなり相手がリンゴ5個と叫んだらあんたは店の奥からリンゴ持ってくるのか? 文脈というものが大きく影響を与えているのです。

 それに、まず最初に「これがリンゴでね」と言われる場合だってそう。指で「はいコレ」と言われたものがなんで色ではなくて物体の名前だとわかった? それはもうその子がそういう感じのことをわかってくれているからなのです。

言葉の直示的定義が成功するのは、言葉を学ぶ人が、言語のさまざまなはたらきや、いま使っている特定の言葉が言語のはたらき全体のなかでどんな役割を果たすのかについて、すでに相当なことを理解しているという条件が満たされたときでしかない。

 たんに「これリンゴやで」と名前を教えるというだけなのに、その事前準備が恐ろしいほどかかってるんだよ、ということです。

 

 ※表象を基礎にして進むのをやめて、推論っていうものを中心に据えねえか、と書いたらしいのがロバート・ブランダム。たとえば池袋に老人の運転する車が突っ込んだという事実を知るやいなや、「今池袋は騒然としているだろうな」とか「さすがに逮捕されるだろう」とか「あそこが通行止めになるから渋滞が発生するな」とか「ネットが荒れるな」とか色々分かります。要するに、推論による繋がりを断った孤立した存在なんかないんだよ、ということです。

推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)

 

 

 この議論だけでも何かを基礎にして進もうぜという媒介説的な姿勢にちょっと疑問がもつようになると思う。媒介説はもうかなり振り捨てられて人気がない。けれども、そうだというのにまだ誰もがこの説にとらわれている。そうしてとらわれている者同士が「お前まだとらわれてんのかよ」と言い合っている。私たちは一体、どうすればいいんでしょうか。

 まず確認することとして、言い争ってる私たちってどういう点が同じなのでしょうか。媒介説は蹴飛ばしてるぜと双方が思っている2人の共通点は、一体どこ?

 

 それは、2人ともが全体論的に考えているっていうこと。

 基礎づけ主義は、たしかなものを積み重ねていこうよというけれど、まずそうやってコレとコレとコレがたしかだよって分離していくのが無理なんだよ、いろいろ関係しあってるんだからさァ……とどちらも思っています。

 

 でも「全体論」っていってもいろいろあるのです。

 ● クワインデイヴィドソン的な全体論じゃないよ!

 あの人たちの全体論=検証の全体論=ある議論領域の命題・主張は単独では検証できない。けれどここで言っている全体論はそういう派生的な事柄に対するものじゃない。

 → クワインデイヴィドソン全体論は、さっきまで話していた原子論を受け入れたとしても通用するテーゼだっていうこと!

 「リンゴ5個!」といってリンゴを手渡してくれるのは、相手が果物屋さんで、こっちがお金をちらつかせていて、けっこう通ってて……そういったいろんなことがあるから、なんだけれど……検証の全体論はそれ以上には踏み込みません。要するに「リンゴ5個と言っている」「果物屋である」「お金をちらつかせている」「割と常連だ」という要素が与えられていて、さぁそれを合理的に解釈するには全体を見回さなきゃいけませんね、ということしか言っていないのです。

 

 ここで言っている全体論っていうのはもっと根源的なもので、著者はゲシュタルト全体論と呼んでいるそうです。全体を単なる部分の総和とはみなせないっていうような意味がこめられています。たとえば曲のサビ部分っていうものの特徴は構成されている音の中にはなくって全体との関係によって決まるんです。そうしてさらにその要素とみなしているポーンという音自体も他との関係で定まるわけで、そもそも要素を単独で同定することがまず不可能なのです。

  全体論の次のふたつが原子論を拒否します。①何をとってもより大きな全体の中でどういう位置を占めるかで決まる、②そのより大きな全体は要素の単なる寄せ集めではない。—————反基礎づけ主義者たる私たちはおおむね合意されたことではあるが、そこから食い違いが生じてくるのは、この全体論から異なるものを導くからなのです。注意して進んでいかなければなりません。

 次の引用はすごく立場がわかりやすいので、そのまま書き抜きたいと思います。

 基礎づけ主義において知識を再構成する「要素」は、明示的な情報(略)である。しかしこれらの情報が当の意味をもつことを可能にしている全体とは「世界」である、言い換えれば、社会的実践によってつくられた、共有理解の場である。わたしは、林や林の前の空き地を安定した背景とし、そこからウサギを取りだすから、ウサギに気がつく。わたしがこの[理解の]場にすでに足場をもっていないかぎり、ウサギを見ることはできないだろう。気を失う寸前のように、いわばクラクラしていて、ウサギがかけだす場面の全体がぼんやりしていたら、「ウサギがいる」といった明示的な情報を受け取ることはまったくできなかっただろう。ただし、わたしがすでにこの場所に足場をもっていたということは、わたしが明示的な情報をさらに手に入れたかどうかとは何ら関係がない。たしかに他の明示的情報が何らかの役割を果たすこともあるが、だからといって、そうした情報を入手すればこの理解の場に足場をもてるというわけではまったくない。わたしがすでにここに足場をもっているのは、わたしの対処能力、すなわち、この文化のなかで育まれたこの身体的存在としてのわたしが獲得してきた能力が発揮されているからに他ならない。

実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス) P71 

 

ゲシュタルト全体論

 さて、ひとまず全体論は反基礎づけ主義者にとってはおおむね合意されたテーゼとなっております。

わたしがすでにここに足場をもっているのは、わたしの対処能力、すなわち、この文化のなかで育まれたこの身体的存在としてのわたしが獲得してきた能力が発揮されているからに他ならない。

  この対処能力の理解にあたっても、一方の極には「心の中に所有する信念」があり、一方には「世界の中で動き回り、周囲のものごとに対処する能力」がある……この二種の能力『内と外』として捉えられてしまうが、この二つが繋がり合っていることを哲学は明らかにしてきました。

 「事物を非明示的に把握すること」

 「言語表現によって明示的に理解すること」

 このふたつをはっきりと区別することは出来ません。説明書を見ながら必死に取り組んでいたソフトであっても、手足のように扱えるようになったりします。逆に今までぼんやりとやっていたことを、意識してコウ、コウ、コウと表現してみせることもできるでしょう。

 「昨晩、●●町に住む名無しさんが遺体で発見されました」近所で殺人事件が起きてまだ犯人が捕まってないとなったら、私たちの周囲の様子は見た目をまったく変えていないにもかかわらず様変わりします。ここはヤバい、両脇が茂みだここで襲われたら間違いなくやられる………。

 個別のものごとを理解し、情報を取り込む場となっている全体は、わたしの世界の意味をなしていて、多数のメディア・媒介者によって担われている。それら多数のメディアとは、言語的に定式化されたさまざまな思考はもちろん、さまざまな対処能力に内在する理解だけでなく、一度も疑問視されたことはないが言語的思考が当の意味をもつための枠組みとなる事柄である。

 そうして、上のふたつが区別できないということは媒介説の「内と外」をも一挙に葬り去ります。

 明示的な信念というメディアだけに注目するなら、内部と外部の分離は当然だと思われるかもしれない。(中略)しかし、世界のなかを動き回り、対象にはたらきかける能力に含まれるものごとを把握するはたらきの場合には、信念のような内部と外部の分離は不可能である。月についての信念とは違って、この身体化した能力は、主体がはたらきかける対象が存在しなければ現実化できない。野球のボールを投げる能力は、ボールが存在しなければ発揮できない。

 表象なしに身体が環境に応答する。これを表象的な志向性(表象志向性)と区別するためにメルロ=ポンティは「運動志向性」と呼びました。運動志向性は表象志向性に先行するのです。

 運動志向性が発揮される対処活動は、それがうまくいっているかどうかの感覚を伴い、最適なものに位置取ろうとします。サッカー選手は頭の中で常に「ゴールにいれるぜ」と表象し、その目的に合わせて体が機械的に動いているわけではなく、サッカーをしている、相手がボールを奪いにきているなどなどの全体的状況が次の対処活動を教えています。

 したがって、対処活動は、それが続いているあいだ、あらゆる目的志向的活動の基盤を与え続けている。さらにいえば、運動志向性は物理的因果の用語を使って解明できない。なぜなら、運動志向性は、なすことがふさわしいと感じられる動作をするよう迫る感覚を常に伴っているからだ。

 仕事終わりに駅まで同僚と歩くことになったとき、頭は何を話すかでいっぱいいっぱいです。でも前から来る自転車は避けられるし、でこぼこの位置もわかるし、横の人が歩く速さに合わせているし、道も譲る。自分の歩むべき道を見出しているのです。

 周囲のものごととともに生きることには、ある種の理解(「先行理解」略)が必ず伴う。

 あるものをXと名付けることによって私たちは「これってX? ほんまかいな」と吟味できる。しかしたとえ言葉をもたなくとも、わたしたちは世界の中を生きているのです。「先行理解は非概念的である」

 概念以前の活動を理解するには、先行理解のようなものを手段とするしかない。(略)

 

 わたしたちはふと気づくことがあります。何気なく普通にアイツ(誰かさん)と話していて「あっ、アタシ、あいつのこと好きなんだ……」となったとき、今までは一度もそんなことを意識したことはなかったのに、意識してみれば、そういえばずっと好きだったような、なんか腑に落ちる瞬間……💖

 このときの好意は、「知ってること」「知らないこと」の中間にある。

概念的な思考活動は、日常的な対処活動のなかに「埋め込まれている」

 

 最後にまとめ。

 

 したがって、世界についてのわたしたちの理解は、クワイン全体論とは異なる意味で、最初から全体論的なのである。単純で独立した知覚内容のようなものは存在しない。より広い文脈の内部におかれなければ、何かが知覚内容のような身分をもつことはできない。そして、この文脈は、理解され自明視されながらも大部分は注目されないままにある。さらにいえば、この文脈すべてに焦点を当てることができないのは、文脈が非常に広範囲にわたって枝分かれしているからという、ただそれだけの理由によるのではない。文脈のすべてに焦点を当てることができないのは、文脈が決まった数の部分から構成されてはいないからである。このことは、自明視された背景が特定の状況でうまくはたらかなくなるとき、背景がはたらかなくなる方式は何通りあるのか反省してみればいい。そうした数をはっきりと定めることなどできないのだ。

 

 

関与と離脱

 このようにして主体というものは身体化されます。媒介説というのは関与するということを捨てて、自分たちを離脱的な思考者をみなすのです。この見方は次のような見通しをわたしたちに持たせます。

 主体は、世界を知覚するときに自分の周囲から情報の「断片(ビット)」を取り込み、次に、それを何らかの仕方で「処理」することで、世界についてまさに自分がもっているような「像」を成立させる。そして次にこの像に基づいて、その個人は自分の目標を達成するために,手段と目標に関する「計算」を通じて、行為を行う

 しかしこの見通しはうまくいきません。

 

 媒介説を捨て、接触説へ向かうとき、それはわたしたちのものの見方の抜本的な変更です。「この世界ってほんとにあるん」「5秒前に世界ができたんじゃないのか」といったような懐疑はこれまではなんとなく筋が通っているような気がしていましたが、これからは不整合なものとみなされるのです。

 接触説の本質は、

 「もっとも基礎的で前概念的なレヴェルにおいて、わたしが世界に関してもつ理解は、わたしによって構築ないし規定されただけのものではない」

 という事実で、

 「世界についての理解は、わたしと世界が「共同的に作るもの」」

 なのです。

 

 続く!

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

せっかち #37

 原稿用紙一枚で書く日記。#37

 

 最近、自分の性質を明確に自覚した。実は前にもひとつだけはっきりこれだと言えることがあってメモしていたのだけど、今回は思いついてすぐにメモした。それは「せっかち」である。厳密に言うと、やったことの効果がすぐに出ないとストレスが溜まる。そして恐ろしいことに、にんじん自身に自覚がなかった。なんとなく落ち着かない感じがするだけ。気づいたときもそうだった。なにかそわそわするな落ち着かないなと思って考えていたら、はっと気が付いた。やろうと決めたことがすぐに実現されないと恐ろしいほど疲れる。たとえばにんじんは移動が嫌いである。ワープが理想。

 だが、せっかちなのに、実行を遅らせるという矛盾がある。経験上、内部矛盾は自分のコアに突き当たった場合であることが多い。自己認識の深め方として最も有用な手段は、自分の中の矛盾を見つけることである、と信じている。

 

 

自己矛盾劇場 ―「知ってる・見えてる・正しいつもり」を考察する

自己矛盾劇場 ―「知ってる・見えてる・正しいつもり」を考察する

 

 

おいでませ!湖中町「理由」・第五回 公開中です 

にんじん放送局にて、

 

 「おいでませ!湖中町」

 『理由』 第五回が公開中です。

 

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おいでませ!湖中町

 毎週金曜日朝8:30に更新します!

 再生リストにも追加してあります。連続ものですので、第一回がまだの方は第一回からお聞きください♪L( ^ω^ )┘└( ^ω^ )」♪

 

 

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 よろしくお願いします₍₍ ◝( 'ω' )◟ ⁾⁾

 

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にんじんと読む「組織論」

 今回は「組織論」をちょっとだけ読みます。

 

組織の定義

  •  「組織」とは、2人以上の人々の、意識的に調整された諸活動、諸力の体系である。

 重要な点は①活動・諸力の体系であるということです。その力を担当する個人の特徴は直接には関係がありません。しかし個人からいかに力を引き出すかという点が組織論においては主要なテーマのひとつになる。②体系(system)であって、相互に作用しあう。それがもたらす結果は個々の要素に還元できず、個人の努力の総和以上の成果を達成できる理由とされる。一方で、相互作用があるということで利害の対立が起こってマイナスの効果をもたらすこともある。この解決も主要なテーマとなる。③意識的に調整されている。「会社のために報告書を作成している事務員は、彼自身の個人的関心とはまったく関係ない場所、時間、形式、内容によって仕事をしている」

 

  • 「非公式組織」とは、無意識的に調整される組織のことである。
  • 「公式組織」とは、組織のことである。

 

 組織の定義から、組織とは活動・諸力を稼働しているときにのみ存在する。企業などで組織が存続し続けているのは、組織化への強い圧力があるおかげである。組織構造や組織文化は、こうした安定的パターンを生み出す源泉といえる。

 組織成立の十分条件は、(1)伝達(2)貢献意欲(3)共通目的、である。組織の存続はこの三要素をそのときの環境条件に合わせて結合できるかどうかが重要で、経営者の役割はここにある。

 

組織均衡論

 組織が成立・存続し続ける条件を明らかにした理論が組織均衡論である。組織均衡論の中心的公準は次の5つの言明によって示される。

  1.  組織は、組織の参加者と呼ばれる多くの人々の相互に関連した社会的行動の体系である。
  2.  参加者それぞれ、および参加者の集団それぞれは、組織から誘因を受け、その見返りとして組織に対して貢献を行う。
  3.  それぞれの参加者は、彼の提供される誘因が、彼が行うことを要求されている貢献と、彼の価値意識に照らして、また彼に開かれた代替的選択肢に照らして測定して等しいかあるいはより大である場合にだけ、組織への参加を続ける。
  4.  参加者のさまざまな集団によって供与される貢献が、組織が参加者に提供する誘因を作り出す源泉である。
  5.  したがって、貢献が十分にあって、その貢献を引き出すのに足りるほどの量の誘因を供与している限りにおいてのみ、組織は「支払い能力がある」――存在し続けるであろう。

 組織の参加者とは、組織のもたらす誘因によって、組織に貢献を行う者である。だから従業員、資本提供者、生産手段供給者のほかに、顧客もこの中に入る(2)。組織は参加者から受けた貢献をもとにさらなる誘因を作り出すシステムでもある(4)。参加者は組織からもたらされる誘因と、彼がとりうる他の選択肢を比較して、組織への継続的参加を決める(3)。その貢献の量に比して誘因の供与が少ない場合は組織は崩壊する(5)。