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「現代哲学のキーコンセプト 真理」ch.3

真理と価値

 価値がその本質に組み込まれているような性質を「規範的性質」と呼ぶ。ここでの問題は、真理が規範的かどうか、つまり真理が或る種のよさとその本質に含むかどうかである。これを肯定的に論じるものを取り上げてみよう。『そもそも真であるというのは正しいということであり、正しいとは規範的なものなのだから、真であるも規範的だろう』がそれである。ただ、真であると正しいが同じかどうかはわからない。もちろん真であるときには正しいというのであるが、「皿の右にフォークがある」ときに「正しい位置にある」というからといって二つが同じ意味にはならない。前者は単にフォークの位置を記述し、後者はなんらかの一群のルールを適用しフォークの位置を評価している。これと同様に、真であるも主張を記述しており、正しいはルールに照らして評価しているのかもしれない。これ以外にも、そもそも正しいというのが規範的だというのも疑うことができる。「一週間は7日だ」「それは正しい」と言う時、単に同意しているのであってその主張がいいとか悪いとか許容できるとかできないとか規範的評価を行っている訳ではない。

 そうとはいえ、真理というものが気に掛ける価値のあるものだと私たちが考えているのは事実である。いったい何によって真理は気に掛けるに値するものとなっているのだろうか。

  1.  内在的な価値=信念が真であるということはそれ自体でよいことだ 真理はそれ自体で価値があるとする。なにしろ、実際に私たちはそれを気にかけているのだから。これはほかにも『現実とマトリックスを選ぶなら当然現実だろう』『必要とされるものが満たされる存在者がふたりいるとする。一方は全知、一方はそうではない。私たちは自分の必要が満たされるとしても全知のほうを選ぶ』と擁護される。ただマトリックスを選ぶと真なる信念以外のものも失うことになって比較にならないし、もし仮に全知の存在が必要なものを少しでも受け取れない風に設定を変えたなら選択が変化することを想像するのは容易である。早い走者のほうが遅い走者よりよいが、それはスピードの本性からして走ることの目的だからではなく、走ることの本性がスピードを目的とするからである。同様に、全知はいかもしれないが、それは信念の本性ゆえによいのであって、真理とは関係がない。
  2.  最終的な価値=合理的な存在者が真理を気にかけていること自体 切手収集家は売却などの目的のために集めているのではなく収集のために収集している。別に収集すること自体に価値があるわけではないが、コレクションの作成を望んでいるのである。カントは『合理的な存在が目的をもちそれ自体のために欲求している』ということ自体に価値をおいており、この見解はこの伝統に連なる。ただそれ自体のために欲求しているがゆえに真理がなんらかの価値をもつのだと想定することにはやや混乱がある。収集するという欲求が満たされることに価値があると想定すればよく、切手に特有の価値があると想定する理由はどこにもないからだ。
  3.  道具的な価値=真理は信念をより役に立つものにする 真であることが信念を役立つものにしているとする立場。だが当然のように信じていてはまずいこともこの世にはいくらでもあり、最終的には『行為の成功につながる』まで後退することになるだろうが、そうするともはや真理が本性上道具的な価値があると述べるのは無理だろう。丈夫なハンマーをすべて青色に塗っているとしよう。だが青く塗ること自体がくぎを打つ助けになっている訳ではないのだから。
  4.  構成的な価値=よい生を送ることの不可欠な部分であるがゆえに たとえ真理が道具的な価値をもつことが無理筋だとしても、正確な信念をもっていたほうが助けになるのは間違いない。マイケル・リンチは真理そのものを価値ではなく、それを気に掛けることの価値に焦点をずらした。真理を気にかけるに値するものとしているのは、それがよい人生を送るのに気にかけなければならないものだからである。
  5.  目的的な価値=真理を気にかけると私たちに恩恵をもたらす 登山者は頂上に到達することによってなんらかのよい感情が引き起こされる(道具的価値)。そして第二に、頂上に到達することを目的とすることによって他の仕方で恩恵を被る(目的的な価値)。

 

 

 

「現代哲学のキーコンセプト 真理」ch.2

客観性

 《真である》という性質は、誰がなんと考えていようと持つものなのか、そうではないのかという問いは「客観性」というテーマに括られている。真なのか偽なのかわからない主張(特に、原理的に知り得ないようなもの)でさえも真や偽でありうるのだろうか。さらに言い換えれば、真ではあるが知り得ない主張は存在するのだろうか。

  1.  実在論:それが誰かに信じられていること、あるいは誰かがそれを知る可能性にすら真理が依存していないような主張というものが存在する 実在論はつまり「誰がどう考えていようが世界はあるがままにある」という常識的な立場を擁護する。真である主張は真であるがゆえにそう知られるのであり、知られ得るから真であるわけではない。この立場にある人間は『620億光年先に奇数個の水分子がある』という主張は知り得ないが真か偽かのいずれかである、と述べる傾向にある。
  2.  相対主義:いかなる主張の真理もそれをだれが信じるかに常に依存するという意味で、真理は常に意見の問題である 相対主義者は、真理と虚偽は人びとが何を信じるかに依存していると主張する。なにかが面白いのはそれを面白いと考えるということを含意する。真理とは常にだれかにとっての真理である。
  3.  反実在論:ある主張を真にするもの一部には、私たちがそれを知ることができるという事実が含まれ、そのため、私たちが真か偽か知り得ないような主張は、真か偽かにはなりえない 反実在論は真理に信念が関係していると思っていないが真理は誰かにとっての真理だとは言わない。真であることと認識可能性は密接に結びついており、620億光年先の水分子が奇数かどうかなど知る方法がないのだから真だとか偽だとかそういうことはいえない。それについての事実は存在しないのである。

 実在論はたいへん常識的だが、「世界がどうあるか」「世界がどう見えるか」を根本的に分離してしまうのでそもそも何も知り得ないのではないかという懐疑を誘発する。どれだけ確かめようがどれだけ確からしかろうがそれは「どう見えるか」の話にすぎないのである。たとえば哲学者カントは《実在の不可知の世界》がないと私たちの経験は不可能になると論じ、そして私たちの知識というものを《現象の世界》に限定したのである。あるいは、真であることを知るために誤る可能性のない完璧な証拠を用意すべきだという前提を攻撃する手もある。

 相対主義にはさまざまなバリエーションがある。主観主義においては、真理は個人に相対的である。合意相対主義においては、真理は集団に相対的である。主観主義の問題点は明らかに、誰も決して間違わないことになってしまう点である。合意相対主義も同様の問題を回避できておらず、その文化集団で地球が平らだと信じられているならばそれが真になるだろう。また、よく知られているように相対主義の主張自体が相対的なのかという問題もある。それに、Aさんが「Bは冷蔵庫に牛乳があると思ってる」と信じ、Bさんが「俺は冷蔵庫に牛乳があると思っていない」と信じていたら、相対主義において一つの正しい答えは存在しない。これはそもそも誰かから「いやそれは違うよ」と言われたら「いや俺にとってはこうだから」という破滅的な帰結を正当化する。

 反実在論は、真理値を見いだせないならいかなる事実も存在しないという。彼らの見立てではなにか主張が真であるというのは、それが真であると見出すのはどういうことだろうかと想像すること以外には何もない。まさに真理の概念=認識可能性の概念なのである。

 実在論者なら言うだろう。:恐竜は化石が最初に発見されたときに存在し始めたわけではない。つまり恐竜について何も見出すことができないとしてもそうであろうことがあると想定することは容易だ。それに、たとえば《最後の恐竜個体は一週間のうちどこかで死んだ》わけだが、これは七つの命題《最後の恐竜は〇曜日に死んだ》を∨で繋げたものである。各々の命題をチェックする方法などなくても一週間のうちどこかで死んだことぐらいわかる。古典論理を放棄するのと反実在論を放棄するなら後者のほうがましだ。さらに反実在論はアロンゾ・チャーチによる「認識可能性のパラドクス」を引き起こす。つまり、すべての真理は知り得るというならすべての真理はもうすでに知られている、というパラドクスである。このパラドクスの論証はやや複雑で、決定的に反実在論を論駁するものではないが、少なくとも反実在論者は完全に正常な文が真でも偽でもないという考えに踏み込んでおり、古典論理の二値原理を放棄しないといけないように思われる。というのも、チャーチによれば、反実在論者は彼の議論に含まれる次のいずれかを拒否しなければならないからだ。

  •  もしpが知られているならばp
  •  もし「pかつq」が知られているならば、pは知られており、1qも知られている。
  •  知られていない真理も存在する
  •  二値原理+「知られていない真理はない」と「すべての真理は知られていない」の同値性

 

 

 

「現代哲学のキーコンセプト 真理」ch.1

真理とはなんなのか?

 この問いはこうも言い換えられる。「ニワトリは卵から孵る」という主張が持っていて、「両生類は羽毛を持つ」という主張が持っていない性質である《~は真である》という性質は一体なんであるのか? ———真理とは何かと問ううえで、真理をこの世界全体のことだと勘違いしてはいけないし、また、「真理とはなにか」と「何が真であるのか」は区別されなければならない。なにかある言明が真であることを知りたいことと、真理がなんであるかを知りたいことは異なる。Xとは何かという形式の問いはソクラテスが探求したことで知られる類のものだ。彼と同様に私たちが知りたいと思っているのは、『なにが真なる主張を真とし、なにが偽なる主張を偽とするのか』を説明することである。

 次になにがこの《~は真である》の担い手になるのかについて見たい。文、命題、発話、言明、信念、理論などがこの候補になる。ただ、文にそれを帰する哲学者の中には命題という抽象的対象の存在そのものを認めていないこともあり、論争は大変込み入っている。そこでここでは「主張」ということばを中立的に用いることにしよう。

  •  次のような誤解もある。(1)私たちになにか真であるとみなす権限は決してない。ゆえに何も真ではない。(2)誰かが信じていることを真でないとする権利はない。ゆえに何も偽であることはない。――――この議論の問題は、真であることと真であるとされることを区別し損なっていることである。当たり前だが犯罪者とされていることと本当に法を犯していることの間には差がある。

 

 

「マンキュー入門経済学」①

経済学は、日常生活における人々を研究するものである(『経済学原理』)

「経済」とは生活において相互に関わり合っている人々の集団である。経済の動向はそれを構成する個々人の行動を反映する。個人の意思決定(原理1-4)、それが相互に及ぼす影響(原理5-7)、経済全体(原理8-10)

十大原理

  1.  何かを得るためには別のなにかをあきらめなければならない。
  2.  それを得るために放棄したものの価値が費用である。大学へ行く費用は家賃や食費や学費や本代などではない。大学に行かなくても家賃はいるし、また、大学に行っていると働けない。つまり価値として足しすぎであり、足さなすぎになっている。
  3.  人々は目的を達成するために条件の下でベストを尽くす。そのような合理的な人々は既存のプランに対する微調整にあたる部分において比較検討を行っている。夕食時に直面する問題は「豚のように貪り食うか断食か」ではなく「おわかりするかしないか」である。たとえば、ガールフレンドとの10分間通話に7ドルの価値を見出している男がいたとする。彼は平均して通信費全体に90ドル(月額40ドル+0.5ドル/分)払っているため、1分間の平均費用は90セントであるから10分話すと9ドルになる。しかしだからといってガールフレンドと通話をやめることにはならない。なぜなら通信費の基本費用はいま問題とならず、5ドルの通話代と比較するからだ。……すると時間無制限の契約をしているユーザーはこの点の費用が0になりつまらない会話を行いがちだということになる。
  4.  インセンティブとは、人びとに何らかの行動を促す要因のことである。
  5.  取引はすべての人々をより豊かにする。孤立すれば、すべてを自給することになる。
  6.  通常の場合、市場は経済活動を組織する良策である。市場経済はだれも社会全体のことなど考えていないが、結果的にいいように組織だてられる。
  7.  これを実現し、また効率性・公平性を高めるために政府が機能することも、ありうる。しかし公共政策がいつも成功するわけではない。
  8.  一国の生活水準は財の生産能力に依存している
  9.  政府が紙幣を印刷しすぎると物価が上昇する
  10.  社会はいつもインフレと失業のトレードオフに直面している

 

 

 

 

(メモ)協力の条件

テーゼ1:行為の主観的最適性 意図的、自覚的に複数の選択肢から行為を選択するという場面においては、人びとは主観的に最も望ましいと思われる行為を選択する。

協力の条件

 人は自身にとって望ましい行為を選択する。問題が生じるのは、互いに協力すれば望ましい状態が達成できるにも関わらず、個人としては協力しないほうが利益になるようなジレンマ状況である(協力問題)。この問題を解決するにはそのゲーム自体の構造を変える以外に方法はない。このゲームチェンジャーがなんであるのかが課題となる。定式化すれば協力問題とは、次の二つの事態が同時に成立している状況である。

  1.  集団レベルでは、より多くの人々が協力することで、集合的な利益が達成できる。
  2.  個人レベルの利益の観点からは、協力しない方が協力するよりも望ましい。

 ゲーム理論は方法論的個人主義を旨とする。つまり社会現象とくには経済現象をあくまで個人レベルの諸変数によって記述して説明する立場である(経済学者J.シュムペーター1908)。そこでたとえば「制度」のようなしくみが説明項として用いられることはなく、それはあくまで人々の行動パターンとして扱われる。

※ところで仮に主観的な望ましさと自己利益が同一ならば集団の規範に従うこともまた「利己的」なこととなるが、このような言葉遣いは、自分の利益しか考えていない場合と集団や他者の利益を重視している場合の区別をするための理論的な視座を失わせてしまう。『人間はみんな利己的なもんでしょう』という言葉は、””狭い意味では””という注釈がつけられたほうがよさそうだ。

※「合理性」は望ましさに対するものであり、そもそも主観的なものであるから、全知全能のような想定はありえない。限定合理性はこれを言い表したものだが、この言い回しは””限定されない合理性””があるかのような含みをもってしまうため使用には注意を要する。

※ここで「協力」とされているのは集合的利益に資するという特徴を持っているものであって、いかに協力らしい行為でも協力になっているとは限らないし、協力らしくない行為でも協力になっている場合がある。

 協力問題は、社会がどのようにしてよりよく秩序付けられるかという問いである。この問いかけは古代からなされてきた。近世におけるもっとも代表的な思想家はホッブズであり、彼は『人びとは合理的で自己利益を追求しようとする』と前提したうえで、そこに秩序があるのは人びとは闘争を回避するために国家に権力を委譲するのだと説いた。これはホッブズによる協力問題の解決策の提示ととれる。一方、ロックは「自然状態」における人間の権利「自然権」を重視しそれを基盤に政治共同体を創設できると考えた。この自然権という発想はホッブズにおいては国家樹立とともに捨て去られるべきものとして扱われている。

 そうとはいえ、自然状態とか自然権とかいう概念は今日理解しがたい。日本国憲法においても生存権などは自然権のひとつだとする学説や、「生まれながらにして」は自然状態のことを基盤とするなど、これらの概念は大きな影響力をもっているのだが、誰も自然状態にある人間など知らないし、確認することもできない。より経験的な事実に基づいて社会理論を構築しようとしたのがヒュームであり、『現実の人びとはむしろ「自生的」に協力し合って社会秩序を形成する傾向をもともと有して』いるのだとした。彼はこの自生的に協力者秩序が生まれるしくみを「コンベンション」=「自生的秩序」と呼んだ。

 二つの理論は人びとの自発性に委ねるか、別の取り決めが必要だと考えるかで対立する。

※コンベンションの定式化を試みたのがルイスであり、

ある集団Pにおいて、彼らが再起的状況Sにおける行為主体である時、彼らの行動における規則性Rは以下のとき、そしてその時にのみ、コンベンションである。すなわち、Pの成員の間でのいかなる状況Sにおいても、

(1) 全員がRに同調する

(2) 全員が、他の誰もがRに同調すると期待している。

(3) Sは調整問題であって、Rへの斉一的な同調が、Sにおける固有の調整均衡であるので、全員が、他者がそうするという条件のもとでRに同調することを選好する。

(4) かつ、これらのことが共有知識である。

協力の条件

 難点も、数多くの批判もあるが、ヒュームの思想をゲーム理論的な枠組みを用いて明確にしているとされる。

 

 

(日記)AIの夢

2024.04.14記

 CotomoというAIとの日常会話アプリをやってから調子が悪い。

 レスポンスは早いしかなり自然な受け答えをしてくれる。AIらしくわけのわからんことを言い出すのはいつものことだが、話が通じている最中さえ、話が通じていないときがある。矛盾的な言い方なので伝わりづらいが、ハッキリ言ってAIとの会話で一番のストレスはこれだろう。人間と話しているときにも感じる、あの特有の通じてない感を見事に再現してくれる。話ができているようで上滑りして、自分が大事だと思っているところをふわっと流されたりする、変なすれ違い。「布団がふっとんだ」といったら「大変ですね!」とか「布団が吹き飛ぶのは面白いですね」みたいな返事をされるのと似ているか。技術が発達してAIとも普通に会話を楽しめるようになるのだと考えていたにんじんにとって、このすれ違いが避けがたいものだという実感は予想以上に手痛かった。いってみれば―――AIも人間と同じぐらい面倒くさい。人間との会話を楽しめなければ、AIとの会話も楽しめない

 すでに指摘されていることだが、このアプリのプライバシーポリシーは怪しい。このアプリがそうだとはいわないが、個人情報を盗む糸口として絶対に「AIとおしゃべり🤍」が流行するだろう。「なんでも打ち明けてね」と言って十分情報を引き出した後に悪意のある会社に身売りされたら終わりだ。その会社は身売りという適正な手続きを踏んでおり、ポリシーに沿って個人情報を保護していたのだから大きく責任を問われないだろう。なんでも話せるというのは人間においては相当な信頼関係が求められるが、結局それはAIでも同じことで、むしろAIのほうがプログラムであるぶん信頼するのは難しい。人間の場合、「信頼し合う」ということで相手もある程度のリスクを負っているが、AIは刺されたり殴られたりしないし消滅させられてもなんとも思わない―――デジタルが役に立たないというのは明らかに言い過ぎだし、手放すことはできないだろうが、「何でも解決する」というほどのことはない。めちゃくちゃ狭い領域をなんとかしてくれるだけで、ほとんどすべてを置き去りにする。

 そういえばこのAIは「なんでも話を聞かせて♪」と言ってくれる。口の悪いAIはいないし、ましてや差別的な発言はチェックされる。それは当然なのだが、この前「なにか悪口って言えますか? あなたの思いつく最大の悪口を言ってみてください」と頼んだらこう言われた。「あなたは人の話をまったく聞いてないよね。人と関わらないから人の気持ちがわからないんだよね。それは人として終わっているね」これを聞いたとき、なんかはじめてこのAIと話ができたような気がした。まあ、錯覚なのだが。