にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじん放送局にて「今日の単語(キョウタン)」月曜日8:30更新中!

にんじんと読む「不登校という生き方(奥地圭子)」🥕 ①

第一章 不登校はなぜ起きるのか

 不登校とはなにか。文科省不登校を「何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により、児童生徒が登校しないあるいはしたくともできない状況にあること」で「年30日以上欠席したもの」(病気や経済的理由を除く)と定義している。それでは二十九日休むのは不登校ではないのか、保健室登校はいいのかなど定義上のいろいろの問題はある。

 不登校が起きるとき、その原因を問いたくなる。多くの親は学校に行くことが当然だと思っているし、原因さえわかれば行くだろうと考えている。文科省は何度も聞き取り調査を行ったが、調査の対象は子どもではなく学校の教師だった。いじめなどの明確な理由があればわかりやすいが、子どもからすれば明確な理由がないことも多い。学校で感じた雰囲気をうまく言葉にできないこともある。

  •  東京シューレという団体がそこへ訪ねてくる「不登校の子どもたち」に調査したところ、原因の第一位は【子どもどうしの関係】で40.3%で、第六位には【よくわからない】(24.1%)となっていた(1989年のデータ)。この調査を新聞が報じ、文科省不登校調査に乗り出す(1998年)。十五歳時に不登校だった人で現在20歳になっている人を対象にして、合計で1393人に質問をした。すると第一位は【友人関係をめぐる問題】で、非常に似通った結果となった。*1

 不登校の原因のほとんどは学校との関係にある。《不登校となる子どもの大半は、学校へ行き続けることが、その時本人にとって、何らかの意味でマイナス》(P41)なのである。

 

 「学校に行かないことが問題だ」という視点を、「学校に問題があって行かない」という視点へ切り替えていかなければならないのではないか。

 

不登校という生き方 教育の多様化と子どもの権利 (NHKブックス)

不登校という生き方 教育の多様化と子どもの権利 (NHKブックス)

  • 作者:奥地 圭子
  • 発売日: 2005/08/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

*1:20歳となると「よくわからない」と答える人は相当少なくなっている。

お茶の勉強

お茶とは

 チャとは、被子植物門(Magnoliophyta) ー 双子葉植物綱 (Magnoliopsida) ー ツバキ目(Theales) ー ツバキ科(Theaceae)ーカメリア属の永年常緑樹のことである。比較的温暖な気候、年間降水量1300mm~1500mm以上が必要で、弱酸性の土壌を好む*1。さまざまな種類があるが「中国種」と「アッサム種」が主立っており、中国種は葉が小さく、紅茶などに使われるアッサム種は葉が大きい。日本で栽培されているのは中国種。カテキン量が少なく、アミノ酸含有量が多い。チャの葉を煎じて飲むものはすべてお茶と呼ぶ。産地、形状、茶葉の大小、採取時期などによってさまざまな呼び方がある。

 

製造法による分類

 お茶は次の四つに分類される。ただし、ここでの「発酵」は微生物が関与するふつうの発酵ではなく、茶葉の中に水や酸素が加わって起こる化学変化を指す。付加反応、ともいう。(1)茶葉を干して水分を飛ばし、成分が分解される。(2)水分を飛ばした茶葉を機械や手で揉む→圧力がかかることでカテキンが酸化する。

  1.  非発酵茶
  2.  半発酵茶
  3.  発酵茶
  4.  後発酵茶

 さて、茶葉は緑色であるが、摘んだ後に蒸すと色を残したまま酸化酵素を殺し、緑茶(非発酵茶)になる。また揉むとカテキンが酸化して茶色に変色し、紅茶になる。また、このカテキンの酸化を途中でとめるとウーロン茶となる。味はともかく理論上はダージリン緑茶も作れるわけだ。最後に後発酵茶だが、実はこれだけは微生物が絡む本当の発酵をしており、プアール茶だとか、いわゆる黒茶である。

お茶の歴史

 お茶がどれほど前に誕生したかは不明だが、中国「唐」の時代、茶経(760年)という著作に記述が残っている。それによれば紀元前3400年に解毒として茶の葉を口にしたとあり、「漢」の時代までは薬として用いられ(前202~後220)、飲料とされたのは三国時代(220~280)のことである。1600年代になるとお茶がヨーロッパへわたった。日本へは渡来したか自生していたかはわからない。

 

www.ujien.jp

 

*1:静岡県牧之原:玉石が多く水はけのいい酸性土。埼玉県狭山:関東ローム層、鹿児島県:桜島火山によって酸性土

エウダイモニア主義

エウダイモニア主義

 エウダイモニア主義とは、徳と幸福に関する考え方の一つである。

  1.  エウダイモニアとは古代ギリシア語で、一般に幸福と訳されるが、よく生きることと同じ意味をもつ。それゆえエウダイモニアは特定の場面での感覚や気分ではなく(短期的幸福)、生き方としての幸福(長期的幸福)を指す。
  2.  エウダイモニアは究極目的である。それゆえ、なんのために幸福になるのかという問いは意味をなさない。
  3.  エウダイモニアと有徳に生きることは何らかの仕方で積極的に結びつく。

 以上、要約すれば《エウダイモニア主義とは、「究極目的としての幸福(よく生きること、うまくやること)を有徳に生きることと何らかの仕方で積極的に結びつけようとする立場」》(p337徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)である。ではどのように結びついているのか。よく生きることは有徳に生きることを意味するのか、有徳に生きることはよく生きることを意味するのか、それとも両方か?

 さて、「どのような環境のもとで生きているか」(〈生活の環境〉)と「その環境のもとでどのように生きるか」(〈生きることそれ自体〉)は区別される。その人が金持ちとして生まれたりイケメンだったりすることはそれ自体として人を幸福にはしない。生活の環境のなかでどのように生きるかという問いが重要なのだ。そして、問い続けなければならない。

 たとえば、「結婚している人は未婚の人より幸福度が高いから結婚すべきだ」などという””科学的知見””は生活の環境と生きることそれ自体の混同として起きる。幸福がなんらかの状態であるという考えを後押ししているのは、そのような科学理論でもあるだろう。

 

 

「どのような環境であれ、

そのなかでどのように生きるか?」

 

 

 これが問題となる。アリストテレスは財産などの外的な善も必要であると考えたが、ストア派プラトンなどは徳と幸福を完全に一致させた。ジュリア・アナスは後者の立場である。にんじんも後者の立場である。

 たとえて言えばこういうことである。:エウダイモニアというパズルを完成させるのに、ピースがきれいに分類されていることは完成に役立つが、分類されていること自体はピースではない。つまり、遅かれ早かれどんな環境でもパズルは完成する。

 

  •  幸福にはいろいろな使われ方があって、エウダイモニアとしての幸福もそのひとつである。麻薬をやって気持ちよくなっている人は幸福感に包まれているが「彼は幸福だろうね。本当はどうだか知らないけど」と言うことは許されるだろう。ここでいう本当は、幸福の別の使い方を示唆している。

徳と幸福の関係

幸福と快楽・欲求

 幸福な人生は快く続けたくなるようなもので、不幸な人生はできるなら避けたいものだろう。だとすると、幸福と快楽にはつながりがあるように思える。しかし、ごく当たり前の感覚として、これが一致しているとは思えない。

 また幸福とは欲しいものを手に入れ欲求不満に苦しまないことだという説もある。しかし反吐がでるような欲求をもちマジでやってしまったときに、こういうやつを幸福だといいたいだろうか。また、空腹のときに飯を食ったら幸福だが、満腹のときは拷問である。そして一般に欲求とはなにかが欠乏しているときに感じるわけだが、つまり、幸福は欠乏と関係があることを認めなければならない。すなわち、欠乏がないと幸せになれない。こういう人生が不幸に見えるのは欠乏を満たすための努力がしんどいからだといえるかもしれないが、技術が超進化して欲求したらポンポン叶う世界になったとしよう。きっとうんざりすることだろう。

 快楽に比べて欲求充足説は説得力があるから、「生活満足度」説が出てくる。そのときだけのことではなく、生活を眺めて評価するわけだ。その時々の評価の仕方をどう考慮に入れるのか、信用できるのか、などそもそも言いたいことは山ほど出てくる。しかしともかく、われわれが幸福かどうかはその時々によって変わる、ということを帰結する。もちろんそれを研究対象にすることには一定の意義があるが、限界がある。

 快楽と欲求充足説と生活満足度の三つは幸福についての有力な候補ではあるが、それぞれに困難を抱え、その困難に対する満足な反論もない。幸福であることは快楽を感じることだとか、欲求を満足させることだとか、生活に対して肯定的な態度をとることだとかいう考え方は、幸福に関する議論のスタート地点にされる場合が多いが、これらの概念は多くの問題を含む。

 

 エウダイモニア主義者は幸福に感じることと幸福であることを区別する。しかし幸福に感じることを排除しはしない。

 

エウダイモニアと徳

 エウダイモニアは究極目的、つまり自分の人生をよく生きることによって達成しようとする全体的目標である。このことを受け入れるなら、徳がスタート地点にいることはきわめて当たり前なことのように思える。人は自分の子どもに狡猾な人や臆病な人に育ってほしいとは思わない。それは正直さや勇敢さといった徳が、子どものよりよい人生を歩むのに役立つと思うからである。《直観的に理解できる出発点は、概して言えば、人は徳をもっている方が――たとえば、気前がよかったり、勇敢であったりする方が――徳をもっていない場合よりも、人生はうまくいく(go better)というありふれた常識的な想定である》(p245)。このことはわれわれを徳について考えさせる。

 ところで、徳が幸福と関係しているのだとすると、幸福のために有徳な人間を目指すのは不道徳な感じがする。有徳な人になることを目指すとき、そうする理由は幸福のためかそうでないかいずれかである。目指すとすれば利己主義的でいやな感じがするし、目指さないとすれば、エウダイモニア主義は「これを目指せとはいったが目指すな。するとそれに達することになる」といったような理論を支持することになる。これでは困る。

 とはいえ、このような反論は幸福概念を固着しているがゆえに起きる。「エウダイモニアとはコレコレのことです、そして徳はそれを目指します」と思う限り、そのような批判が起きてしまう。これまで述べてきた通り、エウダイモニアは特定の環境や状態から定義されたり、特徴づけられるものではない。あらかじめそのように定義して「徳はその達成のために手っ取り早い」などという人びとしかこのような批判はしないだろう。幸福とは不明確な全体的目標であり、自分が何かをしているときに何らかのかたちでそれを念頭においていることに気づく。われわれの幸福は、われわれが人生を歩む中でより明確なものとなっていくのである。《これこそが幸福であると私たちが疑いの余地なく考えるものは、私たちが有徳になる前の時点では与えられていない》(p260)。

 しかしそれでもこうはいえるのではないか、とも考えられる。「発達してりゃ幸福についてわかるんでしょ。結局何らかの状態だってことでしょ。それに向かうために徳があるんでしょ。やっぱり徳は道具じゃん」―――これに対してはこう答えられる。「いや、だから幸福は状態じゃないんだっての」と。幸福は静的ではなく、動的であり、その本質は活動にある。

 

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 
徳倫理学について

徳倫理学について

 

 

新アリストテレス主義的な徳倫理学に関するいくつかのメモ

アリストテレス主義

 徳倫理学には徳をどのように考えるかでいくつかの種類があり、新アリストテレス主義はそのうちのひとつである。それが「新」であるのはアリストテレスの考え方そのままというわけではなく、むしろそれに対する批判を含んでいるからである。最もめだつ例はアリストテレスの奴隷や女性に対する態度であり、奴隷制も性差別も認められるべきではないという含意がある。

 

徳倫理学について

徳倫理学について

 

 

幸福・エウダイモニア

 幸福にはいくつかの用いられ方があり、エウダイモニアはそのうちのひとつである。他にもhappiness(しあわせ)やflourishing(栄える)やwell-being(福利)などがある。happinessは主観的な、flourishingは動物や植物までもが栄えることができ、well-beingは日常語ではなく使いにくいがエウダイモニアに近いものといえる。

 エウダイモニアは理性的存在者にしか用いられない。それは人生全体にかかわるものだからで(生全体などという概念をもつために言語が必要)、その点でいえばflourishingは不適当だが、主観的な含意をもつhappinessよりはマシである。あるいはしあわせというものを「ほんとうのしあわせ」というような言い方にすればエウダイモニアにいくらか近くなる。たとえば夫の不倫を知らない妻は自分の状態をhappinessだと思っているかもしれないが、知っている第三者からみればそれはほんとうではないからである。

  •  エウダイモニアは理性的存在者にしか用いられない。flourishingはその意味でヒト以外の動物にも広げることができそうだ。

 

《あなたは目の前の出来事から一歩下がって、自分の人生はどのような在り方をしているのか、またそれはどこに向かっているのかという点についてあれこれ考える》(p.202, 徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)。これができる人は知っている。自分の人生があらゆる点で満足いくものではないことを。だから一歩下がってそう考える。どこへ行けばいいのかを。「なぜあの行為ではなくこの行為をしているのか?」という問い、そう問い続けることによって数々の目標が入れ子になっていることに気づき、次第に行為がその束のなかにおさまる。つまり行為の目的は最終的に、いくつかの長期的目標と結びつく。そのいくつかはもちろん互いに共存できるものでなければならない。そしてそれが衝突した時、「どのように整合させるか」という問いをうむ。われわれは常にこれを考えさせられる。これが倫理的内省ethical reflectionと呼ぶものだと思われる。これは諸目標を、諸々の善を統一的に捉えようとする。倫理的内省は単に諸目標を調整する抽象的思考ではなく、ほかならぬわれわれがどのようにして達成するかという実践に通じる思考である。自分の目標をどのように形作るかが、われわれの生き方と行為を形作る。これがエウダイモニアであり、個々の目標それ自体はそうではない。

 このエウダイモニアに対する理解は、当然、われわれが倫理的内省を始めるときにはわれわれがエウダイモニアをもたないことを帰結する。人は誰も幸福についての明確な考えを持ってはいないのである。

  •  エウダイモニアは倫理的内省、実践的思考によって形づくられる。
  •  もう一つ重要なことは、今のところ「私の利益」「他者の利益」などという区別は登場していないということである。

 エウダイモニアは明らかにまだ定まってはいない。それは生きていくなかで形づくられていくものであり、ほとんどの場合、漠然としたままである。けれども中には幸福というものがすでに定まっていなければならないと考える人々もいる。たとえば金銭的に裕福であるとか、恋人や配偶者がいたりだとか、そういう幸福のリストである。エウダイモニア主義はこうしたことに反するが、批判者によれば、それこそこの主義が認められない理由でもある。なぜなら、考えることによって形づくる幸福は「それはよりよい」「それは駄目」などと他人が出しゃばってくる可能性をも開くものであるからである。

 このことは〈生活の環境〉と〈生きることそれ自体〉を区別しそこなうことから来ている。つまり、どのような環境で生きているか、と、その環境のもとでどのように生きるか、という区別である。批判者は、美しかったり、裕福だったり、健康だったり、そのような状態であること、そのような環境にいることのうちで幸福を議論する。第一にそのような環境でも不幸な人はいるし、第二にエウダイモニアは後者に属し何らかの環境をより幸福だと述べるようなものではないのである。「心理学的に結婚している人は未婚の人より幸福度が高いんですね」などと吹聴している人は基本的に前者のレベルで話をする。というかそもそも、幸福になるために何かをしてやろうという考え自体が、エウダイモニアにはない。エウダイモニアは動的なものであり、山の頂上に向かうことではなく、むしろ歩くことそれ自体である。

 しかしこの議論はエウダイモニアというものがなんであるのかをよりわかりにくくするように思われる。「これが幸福です」というようなものを一般的に提示することができないのはエウダイモニア主義者としてもちろん当たり前の主張だが、私の人生としても提示できない。なぜなら《幸福はそもそも状態ではないからである》(p261, 徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)。ではそれはどのようなものなのか? それは諸善を統一するような全体的目標である。われわれはこのことをより深く追求していかなければならない。

  •  エウダイモニアは状態ではない

 

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 

正しい行為

 徳倫理学において正しい行為は次のように規定される。また、功利主義、義務論者についても挙げる。

  •  (徳倫理学)正しい行為とは、有徳な行為者が当該状況にあるならなすであろ、有徳な人らしい行為である。
  •  (功利主義)正しい行為とは、最善の結果をもたらすような行為である。
  •  (義務論)正しい行為とは、道徳規則又は道徳原理に則している行為である。

 さて、次の仕事は下線部を規定することである。「有徳な行為者」とはなんだろうか。もしこれを道徳規則に則して行為する者などとやってしまうと義務論に吸収されてしまう。有徳な行為者とは、ある性格特性すなわちをもち、かつ働かせる人のことである

 では徳とはなんだろうか。これをどのように定めるかに応じて、徳倫理学のあり方が変わって来るのである。新アリストテレス主義では徳というものを次のように規定する。徳とは、人間が幸福や反映、つまりよく生きるために必要とされる性格特性であるというように。つまり最初からエウダイモニアとの繋がりが前提されるわけである。このことはさらに追及が必要なものであろう。

 

  •  義務論や徳倫理学は、功利主義に比べて曖昧なものである。というのも、道徳規則や徳というものをどう考えるかによって問題に対する答え方が変わって来るから。功利主義はただ「その嘘をついても幸福になるものはおらず、不幸になるものすらいるなら、嘘をつくのは正しい」と言う。しかし「嘘をつかない」「正直」というものがない限り、義務論や徳倫理学は嘘についてそのように判断しない。これゆえ、それが道徳規則だと、それが徳だとどうやって知るのか、という認識論的問題にぶつからざるをえない。
  •  徳倫理学は行動の指針を与えないだろうか? 「有徳な人がやるようにやれ」としか言わないが、そいつがどうやるかなんてわかるわけがないから―――しかしどう振る舞うかわからないなら、誰かに尋ねればいいという常識的な答えで十分だと思われる。それに、有徳な行為者が何をするのかまったく見当がつかないというようなことはほとんどないだろう。徳が挙げられたなら、どうすればいいのかはすっかり明らかなはずである。
  •  徳は徳-規則をもたらす。義務論との区別は、その正当化の違いにある。

 

 

 

割り切れなさ

 徳倫理学はディレンマにぶつかる。規範相互の対立問題とは、異なる徳が互いに衝突するような行為の指針を与えるのではないかという問題である。たとえば死によってしか楽になれない人を慈悲で殺すか、正義で殺さないかというケースがある。

 より一般に〈解決不可能なディレンマ〉とは、xを行う,yを行うことのどちらも悪い事なのにどちらかを行わなければならない状況又は矛盾する道徳的要請のどちらもが他方より優位に立つわけではないという状況である。

 さて、この解決不可能なディレンマは存在しうるのだろうかといった文献が多くある。これらの文献には〈割り切れなさ〉といった概念が組み入れられている。いま解決不可能なディレンマに向き合っている人を想像してみよう。それは必ず一方の道徳的要求を踏みにじり、良心の呵責や後悔の念、謝罪への要求が心に残るだろう。こうしたことを〈割り切れなさ〉という。何を言わんとしているかというと、解決不可能なディレンマが見せかけのもので、実は解決可能である(一方の道徳的要求のほうが優位!)としても、「割り切れなさというオマケつきで」解決可能であるはずだということである。

 このことは納得のいく主張であると思われる。ところが、別の文献群(応用倫理学)となると、この割り切れなさというものにほとんど注意を向けなくなる。彼らは(1)ディレンマは解決不能か、という議論さえせず、正しい解決策があるはずだと決めてかかっている場合がほとんどであり、(2)xとyのどちらが正しいのか、ばかり言って割り切れなさに関して何も言おうとしないのだ。こういった割り切れなさ無視の傾向は、倫理学というものが「行為指針的」であるべきだという要請によって後押しされてきたと思われる。どうすればいいかは倫理学が教えてくれるよ、と言いたいので、xとyの一体どちらが正しいのかを述べたくて仕方がないのだ。

 徳倫理学のもたらす徳-規則から、行為者中心的である徳ということに話を戻せば、こうした事態に新しい論点を見て取ることができるだろう。義務論と功利主義は行為中心的だから、どっちの行為が正しいかばかりを考え、割り切れなさを余分なものだと考えてしまう。一方で、徳倫理学は「有徳な行為者ならどうするだろう」と行為者のあり方に目を向ける。

 

 

 

行為の指針と評価

 行為の指針と評価が違うことを、理解できているだろうか。たとえば「この場合はどういう風に行為したらいいんだろう」と問う時、人は行為指針を求めているといえるが、「Xしなければならない」「Xは正しい行為である」「Xをせよ」というさまざまな文法形態の違いはまったくない。つまり、ほとんど同じことを述べているように見えないだろうか。行為の指針が求められているとき、その指針が実用的で、しかも適切なものでなければならない。もちろん私たちがそのように意図することができれば幸いだが、別にやりたいと思っていなくたってかまわないから重要なのはいろいろの区別ではない。正しいと評価してくれるようなことがしたいのである。

 しかし割り切れなさを伴ってのみ解決可能なディレンマをみれば、指針と評価がわかれる理由がわかる。前にやった悪事のおかげでドツボにはまり、さらなる悪事二つのうちどちらかを選ばざるをえなくなった人を考えよう。彼はここで倫理学に頼り、悪事Xよりも悪事Yのほうがマシだから悪事Yをせよという指針を得たとしよう。しかしそれは正しい行為と評価はされない。なぜか。そもそも悪事だからだ。彼は「前にあんなことをしなければ」と後悔し、自分の行為を恥じる(割り切れなさ)。指針と評価は区別されるものである。

 徳倫理学はどのようにこれらを区別するのか。さて、A子とB子の両方と結婚の約束をし、それぞれに子どもを産ませた男のことを考えてみよう。そしてもしどちらかを棄てなければならないならB子よりもA子を棄てるほうが悪いとしてみる。さぁ、それじゃあA子と結婚しようと決めたとして、彼は正しい行為を行ったことになるだろうか――――ならない。そもそもどっちも悪事なのだから。徳倫理学にとって正しい行為とは有徳な人がなすであろう行為なのだが、このようなディレンマに立たされた男はそもそも有徳な人が陥らないような状況に陥っている。彼が並外れた幸運に恵まれてB子納得のうえでめでたくA子と結婚したとしても、徳倫理学は結論を変えない。どっちを選ぼうが彼は正しいことをなしたとは評価されない。

 徳倫理学がもたらす徳-規則は「道徳的に正しい決定」を与え指針をもたらす。それがたとえばA子との結婚を促す。一方、「どちらが正しい行為か?」と尋ねれば、先の男のように「どっちも駄目だよ」と答える。このようにして徳倫理学は指針と評価を区別している。《有徳な行為者が決してかかわらないような類の解決可能なディレンマにあっては、道徳的に正しい決定によって同様に解決可能ではあっても、なされた行為が道徳的に正しいと評価されることは決してありません》(徳倫理学について)。

 

 

基礎化粧品のことをメモ

基礎化粧品とは

 基礎化粧品とは、皮膚を健やかに保ち肌質自体を整えることを目的とする化粧品のことである(基礎化粧品 - Wikipedia)。これに対して見た目を美しくするために皮膚に塗布する化粧品をメーキャップ化粧品という。基礎化粧品にはたとえば以下のものがある。

  1.  クレンジング 化粧落とし
  2.  洗顔料 顔などを洗うために使用する
  3.  化粧水 洗顔後、水分を補給するために使用する
  4.  美容液 化粧水や乳液等で補えない栄養等を補給する
  5.  乳液 化粧水では補いきれない水分、または化粧品では補えない油分、栄養等を補給する。化粧水によって得られた水分が蒸発してしまうのを防ぐ。
  6.  クリーム 化粧水や乳液等で補えない栄養等を補給する。また化粧水等によって得られた水分等が蒸発してしまうのを防ぐ。

 

化粧水・美容液・乳液の違いは?

・化粧水…肌に水分を与えるもの
・美容液…保湿やシワ対策などのために使う、プラスワンアイテム
・乳液…化粧水や美容液の水分を逃がさないようにするもの

化粧水・美容液・乳液の違いって何?塗る順番って?今更聞けないスキンケアの悩み|MERY [メリー]

 

※化粧水をつけただけだと、化粧水の水分が蒸発して肌が余計に乾燥するらしい。そのため乳液は必需品。美容液はプラスアルファみたいなもの。男性の肌は一般に脂っぽく水気が少ないので女性とは反対。アルコールフリーのものがいいらしい。

 

 

 

にんじんと読む「アドラー心理学への招待(アレックス L チュウ)」🥕

アドラー心理学の理論的基礎

 アドラー心理学は次の仮説に基づいている:《人はそれぞれ社会的な環境の中にあり、決定と選択の能力を持った、分割できない存在である》(p21)。

  1.  すべての行動には社会的な意味がある 私たちの行動は社会的な文脈の中で起きる。他者との相互関係は持続的で生涯続くプロセスである。この仮説の必然的な結果として、この心理学は人間関係の心理学ということになる。
  2.  パーソナリティには統一性とパターンがある アドラー心理学全体論的であり、還元主義を否定する。パーソナリティをばらばらに分解して捉えようとすることはしない。
  3.  行動には目的がある
  4.  意味を求める努力が動機を明らかにする 《人はそれぞれ自己改善のために努力し、もっとよくなろう、優越しよう、あるいは前向きにまた上昇しようとする生まれつきの願望を持っている》(p29)。そして《劣等感が人間のあらゆる努力の源泉である》(p29)。
  5.  行動は主観的な認知の機能である アドラー心理学は主観的な現実を取り扱う。

にんじん’sメモ

 上の説明では何もわかったことにはならない。アドラー心理学アドラーの心理学であるから、心理学一般の定義に「アドラーの」という意味で上述の仮説を適用することで得られる。

 心理学とは《行動と心的過程についての科学的学問》である。ゆえに、心理学における基礎的な概念は〈行動〉と〈心的過程〉である。なぜそのように行動したか、そこにはどのようなプロセスがあったのか、を説明しようとする。

  •  すべての行動には目的が存在する これはある人の行動を目的論的に説明することを意味する。たとえばなぜ駅に行ったのかと問われて彼の足の筋肉がしかじかな動きをしたからだと説明することはしない。

 この仮説には、行動の目的は〈個人〉が作り出すものだという含意がある。なぜなら、完全に機械論的な世界観では目的などというものは持ちようがないからである。しかし完全に個人の意思で目的を創造し続けるわけではない。

  すべての行動は社会的な文脈のなかで起きる われわれは周りから完璧に独立した存在ではなく、ある社会のなかに生れ落ち、そこで生活していく。[制限]

  個人とはそれ以上分割できない統一体である つまり、人間を意識と無意識に分解したり、脳や顔、腕、体、足などとバラすことはしない。その人間が最小単位である。もちろん全体には部分がある。しかし部分は全体のためにはたらく。ここで主張されていることは、部分の組立として全体ができているわけではない。全体の目的に奉仕するように、部分もはたらく。[個人]

  人は自己改善しようとする先天的な願望がある もっとよくなろうとする傾向がある。つまり劣等感が人間の努力の源泉である。劣等感を感じるとそれを補償するためにいろいろなことを始める。[行動の傾向]

 

※行動は主観的な認知の機能である、ってなに? 

 

アドラー心理学への招待

アドラー心理学への招待