にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」
にんじん放送局にて「今日の単語(キョウタン)」配信中!
にんじん放送局にて「おいでませ!湖中町」シリーズ 第三弾「私は知らない」配信中!

もう一度にんじんと読む「哲学的思考(西研)」🥕 第四章(途中で終わり)

第四章 何のための〈還元〉か(2) 

 とにかくわかりづらいので、『純粋心理学』について見なおしておこう。

 まず純粋心理学とは心を扱う学問である。心的なものの存在を私たちに感じさせてくれる経験とは「反省」である。反省によって与えられる心的体験は、なんらかの事象が私たちに現われてくるという体験である。これを現象ともいう。

 現象の根本性格は志向性であり、志向性には総合というはたらきがある。このことが示しているのは、わたしたちが出会うさまざまな対象というものは、私たちの意識生活のなかで成立してくるということだ。たとえばサイコロという志向対象のいろいろな側面をサイコロとして新たにまとめあげていくということを私たちは不断に続けているのだ。だからサイコロというのは実際のところ、目に見えている以上のことを含む全体像として把握されている。このように実際見えている以上のことを含むので、こうしたものは「超越物」といわれる。わたしたちは超越物に取り囲まれているのだ。

 さて、純粋心理学における研究方法から考えよう。何を研究するにせよ、私たちはまずそれにまつわる心的体験を反省しなければならない。しかし自分が対象をいかに経験しているかということを報告する際に、「歪み」が入っては困る。歪みとして考えられるのはたとえば””目に反射した光が入って神経を通って脳に通じてものが見えた””などといったことだろう。だれもそんなことは経験していないからだ。また次のようなことも困る。:””私はそれをマネキンだと見間違えたんですけど、もともと人間だったんですよ””。だがそんなことは経験していない。正確に言えば、彼はまずそれをマネキンだと経験し、そしてなんらかの予想が裏切られる形で、人間だと思い直したのである。この歪みを一言で言えば、「客観的・第三者的な見方をしない」に尽きる。これを難しくいうと「客観的定立の遂行の禁止」という。この準備作業を〈心理学的還元〉と呼ぶ。

 そしてこのような立場のもとで心的体験を記述することによって、体験のなかの一般的なものを取り出しを行う。これを本質観取といい、純粋心理学に与えられた課題である。

 【現象学的還元】

※このあたりでまったくわからなくなり、やめる。一応書いたもの⇩

 純粋心理学でとどまっていられないのは、フッサールの目的が「あらゆる学問の基礎学」だからである。今のままでは、あくまで心についての学問であり、その意味で物理学やその他の学問と肩を並べる存在にすぎない。

 フッサールは純粋心理学的手法は基礎学においても有用だと考えた。これを一歩前に進めるためには、この二つの学の差異を明確にしておかなければならない。そしてそれは「超越論的問題」を自覚しているか否かに求められる。

 自然的態度を脇におき心理学的還元を果たしたとき、世界と諸対象の意味と存在妥当(確信)は意識生活において成立してくることが明らかになった。だがこのことはただちに謎を呼び起こす。その謎とはもちろん「けっきょく世界は客観的にそれ自体として存在しているの?」ということだ。しかしこのことは先ほど脇に置かれてきたばかりで、考えることは無意味だと先述した。だが同時にこうも書いた。重要なのは、「なぜ客観世界の存在を確信しているのか?」という問いだと。客観的に存在している世界という信念もまた意識のなかで成立していることから、フッサールはこれを「意識を基盤として、信念がいかに成立しているか」に答えることによって解決しようとする。

 アイディアとしては純粋心理学的手法を超越物(意識を超越して存在すると確信されている対象)に向ける時、超越論的現象学になる。そして確信を生み出す意識生活を純粋意識と呼ぶのである。

 だが主題の変更とともに、最初の心理学的還元も考え直されなければならない(なにしろ、純粋心理学においては超越論的問題は脇におくのだから)。

 

おわりに

 まず、私たちの考えの発端はいつも「現象」にある。それは「出来事」ともいってよいと思う。現象とは〈現れるもの〉である。

 区別しなければならないのは、「現象」と「現象について語ること」である。たとえばものを見るというのは、””物体から反射された光が神経を通って脳に達し云々””と記述されることがあるが、これは現象ではなく、現象について語ることである。

 古代懐疑主義者はこの区別を重視した。彼等は「現象」について懐疑の目を向けることはなかったが、「現象について語ること」については攻撃した。フッサールが客観的世界の存在を判断保留しろと言ったのは、そのような経過をみればきわめて当然のことである。そうでなければ「現象」をみることができないのだから。

 そうしてこれこそ現象学の〈還元〉という方法のように思える。しかしこのように解すると、現象を「記述」することに対する困難が生じる。

 

 もちろんフッサールは意識現象の記述自体を客観的に正しい記述だ、などとはいっていない。しかし「志向性には《総合》というはたらきがある」という””一般的報告””は明らかに行き過ぎてはいないだろうか? たしかにそういわれればそんな気がしないでもないが、まったく別のことを言われていたとしても「そんな気もするな」と言っていたことだろう。

 

 ドグマティストは現象の背後に本質があると考え、本質の顕現が現象だと考えていた。プラトン哲学のイメージとしてよく語られる「イデア論」もそのような理論のひとつである。「本質はなく現象だけ」という主張も出てくるなか、やがてイマヌエル・カントの「現象は物自体と主観の共同作業によって作られる。物自体は不可知」に至る。

 カントと実質的にどこが違うか、しっかり確認しないといけない。

 

 

 

 

 

 

 

にんじんと読む「縄文人の文化力(小林達雄)」🥕

 日本列島に人々が移住してきたのはおよそ2万年前。この頃はまだ更新世氷河時代であった。氷河時代が終わり、完新世に至ったのが約1万3000年前。これを境に旧石器時代縄文時代に別れるのである。

 日本列島にいた人々は農耕や牧畜ではなく、まず土器を作り始めた。粘土を火にかけて水に溶けないようにする技術は旧石器の頃からあったが、それを容器にしたところに大きな意味がある。縄文土器のほとんどすべてが煮炊き用のものだった。

  •  石器と土器には大きな違いがある。石器はもともとの石を「削って」求めた形に近づけていくのに対して、土器は粘土を「増量して」カサ上げしていくのである。土器の製作使用は長く続いた旧石器時代文化と一線を画し、縄文文化の開幕を告げる、縄文革命の輝かしい標識だといえる。
  •  とはいえ、世界的にみれば、保有した道具の種類と技術という点からみると、縄文文化とそれ以外の地域との優劣はつけがたい。彼等の道具類は縄文文化固有のものではなく、人類の発展段階として普遍的なものである。すると土器は縄文文化形成の前提条件ではあったけれども、ただちに縄文文化の創造を意味するものではなかったといわなければならない。

 これによって彼らの食品リストに大幅に植物性食料が加わることになった。生で食べることのできない野菜、たとえば山菜などの多くは土器によって調理された。お米を思い浮かべてみれば、あれもまた生で食べることはできない。直火で焼けば野菜は燃え尽きてしまいかねないため、土器の中で汁と一緒に煮ることが「加熱」のためには優れた方法なのである―――土器発明の歴史的意義

 旧石器時代の主要な食料である肉は、当然動物であり、始終逃げ回っている。それに比べて植物は動かない。縄文人の食料の相当部分は植物性のものに切り替わった。食糧事情の安定化とともに「定住」が徐々にあらわれた。ムラの形成は老人や妊婦、子どもたちをそこに残し、文化を後世に引き継がせた。旧石器時代には遅々として進まなかった文化の歩みはリレー方式の体制が整えられ、進歩していく―――土器発明の歴史的意義(2)

 しかし縄文人たちはまだコメ作りには至っていない。縄文時代の三本柱は「狩猟」「漁撈」「植物採集」である。彼等は周辺の環境をよく知っており、なにかを取りすぎるとムラにとって良くないことを理解していた。多種多様な動植物を対象とし、生態系を崩さなかった。飢饉といった危機的状況はまったくなく、私たちがイメージするような未開で野蛮な原始的な社会では決してなかった。縄文人は栄養バランスが偏っていたと解説されることがあるが、少なくとも現代の私たちよりマシだっただろう。天候不順や冷害、干ばつなどの危機も被害を受ける特定の動植物以外のものを摂取することでしのぐことができた。食糧不足で悩むようになるのは、農耕によって自然を敵に回してからのことである。

  •  弥生時代のはじまりはおよそ3000年前。つまり縄文時代は1万年間続いたことになる。晩期には多くの仕事のひとつとして農耕が始まっていたが、弥生時代には米中心の生活となっていた。春に種をまいても秋まで収穫がなく、しかも必ずあるかわからない。稲づくりに追われ採集の時間などはなく水田作りに忙しくなった。頑張れば頑張るほど収穫量が増えるというのがまたよくなかった。人々の生活のほとんどはそうした仕事に占められるようになってしまった。ずる賢いやつが自分は働かずにラクして手に入れようとしたため(””権力者””、””支配階級””)、こうした奴らのためにまた必要な収穫量は増え、余計に生活は苦しくなる。農耕社会は狩猟採集社会より進歩したのだとみなされがちだが全くそんなことはなく、多くの人が飢えで命を落とした。現在も、飢えで苦しんでいる人のいる社会はほとんどが農耕社会である。人々は自然との付き合い方を忘れ、駄目だとわかっていてももう縄文時代には戻れない。
  •  弥生時代における土器は縄文時代の土器と比べて無駄のないデザインになっている。いちいち理にかなっており、余計な突起はない。逆にいえば縄文土器はわざわざ不便に作ってあるのだ。ここには用途一辺倒ではなく、縄文人の世界観が表現されている。弥生時代のものは工業デザイン的できわめて機能的であり、縄文時代のように土器をキャンバスとして扱うようなことはない。

 縄文時代の人たちが使っていた「道具」は主に狩猟・漁撈・植物採集に関するものであり、それらを獲得+調理するための道具、あるいは石皿など実用的なグループがまずある。そしてもうひとつのグループとして土偶、石棒、石剣、石冠、御物石器がある。私たちにはこれらがなんのためにあるのかわからない。第一のグループは見ただけで用途がすぐにわかるが、第二のグループは縄文時代の人々特有の信念をもってはじめて効果的な道具になるのである。言ってしまえば、これらは縄文時代の人々の思い込みの道具だった。土偶の手を破壊することによって自らの手が治癒されると信じていたのかもしれない。狩猟の役に立つと信じていたのかもしれない。

 とはいえ、弥生時代においては第二のグループの道具は忘れ去られた。このような「非実用」のものが再び使われるのは古墳時代(250年~538年)である。たとえば遺跡からは人を呪い殺す人形や土偶が出てくる。

 

 

縄文人の文化力

縄文人の文化力

 

 

 

もう一度にんじんと読む「哲学的思考(西研)」🥕 第三章

第二章 〈生〉にとって学問とは何か

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

第三章 何のための〈還元〉か(1)

 これまでの経過をまとめておこう。フッサールデカルト的姿勢を受け継ごうとした。それは『哲学するための確実な疑い得ない地盤を求める姿勢』であり、そのとき彼は無自覚にも新たな前提をもった哲学を始めたのである。彼は万人に対して妥当する絶対的な体系を追い求めるため、それぞれに「我(コギト)」を認めながらそのそれぞれの「我」に従って互いの了解を確認し合う哲学を始めたのである。

 デカルトが何かを言い、それぞれの「我」に問うように促し、それぞれの「我」がそれを確かめることができる……このような人と人の意識のあいだの同型性を確かめ合う哲学は、『他我』の存在を明らかに前提している。多くの哲学者が「主観と客観が一致などするのか」という問題を考えてきたが、フッサールに言わせればそれは無意味なことなのである。『意識に定位した哲学』において、意識の外にあるものを考えたところで一体お互いに何をすり合わせろというのだろう。むしろ問題なのは、原理的に絶対に証明できない””超越的な””といってよい確信を、何に基づいてわたしたちが持っているのかということである。この点を解明するためには、やはり意識体験の反省という方法による外はない。フッサールの〈現象学〉はこの方法を徹底的に突き詰めたものである。

 

 〈現象学〉の核心は「現象学的還元」にある。まず、あらゆる種類の確信について判断停止する。客観的現実や他我の存在はもちろん、ありとあらゆるものを判断しないで脇においておくのである。しかしそうしたあらゆる確信を脇においても、私たちの「意識」は残る。この意識というのは、世界及び一切の諸対象の意味と存在を作り上げているものである。これこそが哲学的判断の地盤であり、フッサールは””純粋意識””や””超越論的主観性””という言葉で呼ぶ。このような純粋意識を露わにする作業が「現象学的還元」である。

 このアイディアは、フッサール独我論者だと人々を誤解させた。そこで哲学的現象学について一気に語るのでなく、予備的な前段階として世界の中の人間の心を研究する心理学的現象学からはじめることにしよう。

【純粋心理学】

 フッサールは「心」というものを研究するにあたって、物的で因果的な自然科学的説明という観点を選ばなかった。心を探求するためにはそんな方法では不十分だという立場をとったのである。「そもそも、心的なものはどういう種類の経験によってわたしたちに知られるのだろう?」と、フッサールは問うた。これに対してフッサールは「反省」と答える。人は何かを想起したり伝達したり激しい情動に襲われることによって自分の体験を見つめ体験を体験として意識する。心的体験を与えてくれるのは反省なのだから、この反省を駆使しなければ心的体験のあり方を探求することはできない。

 心的体験とは、なんらかの事象が私に現われてくるという出来事である。だから心的体験は〈現象〉とも言われる。現象の本質的性格は〈志向性〉である、とフッサールは言った。つまり現象とはいつも「~の現われ」である。現象はたとえば事物、思想、計画、決意、希望などについての現われである。現象学はそれらの事象が現れてくるところの体験=現象に目を向けるからこそ現象学と呼ばれるのだ。

 志向性という性格が示すことは、私たちの心的体験というものが受動的なものではなく注意を向けたものへの関心によって浮かび上がるものだということである。モザイクに焦点を合わせなにかを見出すように、色や形や周辺の様子などからそのもやもやと「リンゴとして」受け取る。私たちは「焦点を合わせる」ことによって体験するのである。

 この志向性には〈総合〉というはたらきがいつもついて回る。ひとつのサイコロがあったとして、それは不断に新たな局面を出現させるだろう。いろいろな方向から見たサイコロはすべて、ひとつのサイコロについての現象である。しかしこれは不思議なことではないか。多様な姿が次々に現れてくるのに、それは「同じサイコロ」についての現象としてまとめられていくのだから。

 これをいいかえれば、次々と新たな二与えられてくる感覚内容、つまり色や形の感覚が、すべて同じサイコロについての意識という仕方で「総合」されていく、ということになる。そしてその総合の過程において、同一対象であるという意識は保たれつつ、その意味内容の点では新たな情報が次々に付け加わって豊かになっていく(材質はプラスチックだなあ、色が少し剥げているところがあるぞ、全体に黄ばんでいるなあ……)。

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

  この〈総合〉は形や色などの材料から対象を組み立てるということではない。それはあくまでも同一の対照的意味をめがけ志向することによって行われる。「サイコロ」のもとに感覚内容が総合されていくという図式を理解しない限り、組み立て式のものだと誤解してしまう。

 

 志向性のこのようなはたらきを反省することでわかるのは、あらゆる対象が””思い描いたもの””””意味的なもの””であるということだ。そこでフッサールは想われたもの(意識対象)をノエマ、想うこと(注意を向けたり価値評価したりといった意識作用一般)をノエシスと呼び、「ノエシスノエマ連関」という構図に至った。

 サイコロ以外の事物についても考えておこう。たとえばこの記事を読みながら「つまりどういうことだろう」をいつも考えているだろう。この志向のもとで個々の文の意味が総合されていく。この総合””にんじんの言いたいこと””は記事を読んでいるあなたのノエマであるから、読み直すうちにイメージが変わったり、他の人とまったく違う感想を持つこともある。サイコロなどの事物と違ってテクストはたいへん多義的で、単語や文や段落単位でどんどん総合されておそろしく重層的である。

【心理学的ー現象学的還元(現象学的還元Ⅰ)】

 自然的態度をとっているとき(つまりふつうにしているとき)、机の上のサイコロは「私がそれを見なくてもそういうものとしてそこにあっただろう」と考えている。しかし体験を内在的に観察し記述するという立場を貫くためには《客観的に存在する世界》という考えは邪魔である。なぜなら私たちが見るべきなのは、””体験が志向しているかぎりでの事物や世界””であるからだ。

  •  たとえばあなたが道を歩いているとする。突き当たりにショーウィンドウがあってそこにマネキンが一体立っているのが見えた。服を売ってんのかなと思いつつ違和感なく歩いていくが、なんだかだんだん妙な気分がしてきた。なんか人形ぽくないのである。そして数メートルまで近づいたとき、はっとした。「人だ!」

 もしこれを第三者の立場から書けば、「あなたはそれをまちがってマネキンだと思っていたが、実際は人だった」ことになる。でもあなたにとってそれは最初から人間だったわけではない。それをマネキンの現われとして見ることは「動かないだろう」といったような暗々裏の予想も成り立っていただろう。だが予想は裏切られ、そこから人間の現われへと変化し把握され直す(妥当変更)。この結果として、「もともと人間だった」とされたのだ―――――――体験のあり方に沿おうとするなら、《客観的に存在する世界》は消しておかないといけない。体験のうちにあって志向される限りでの対象のあり方を見るのでなければならない。また、心的体験を自然科学や社会科学的に見ることもすべて退けなければならない。たとえば事物知覚を””反射された光が目に入り神経を通って脳に伝えられる””と記述することは内在的な反省という目的には沿っていない。

 《客観的に存在する世界》という信念(世界信念)を判断停止すること。これを《心理学的ー現象学的還元》という作業である。この還元によって「純粋な心」を手に入れることができる。次に目指すことは「事物の形は一挙に与えられず、ある側面からの見え方を通じて把握されるしかない」といったような、””一般的構造””を取り出すことである。この一般性の取り出しのことを〈形相的還元〉あるいは〈本質観取〉という。

  •  もちろん赤ん坊がどういう風に世界信念を獲得するかというのも問題であり、時間的な成育プロセスとして考察するのが発生的現象学である。ただ発生的現象学は本質観取と違ってだれも赤ん坊の頃を思い出して確認することなどできないため、仮説の域を出ることはない。

 理念的存在者(数や論理学的法則)と事物的存在者のちがいや、それらを認識する仕方のちがいなど色々探求することは多い。フッサールの純粋心理学が当時の若者たちを刺激したのは、「そういう色々なことが、私たちの体験の現場そのものをよく見ることによってはじめて答えられる」という部分だった。””純粋心理学的方法””はいろいろなものを考えていくための足場を与えてくれたのだ。

 

 それだけに、フッサールがここからさらに「純粋意識へ!」などと言い出したときは、「なぜ独我論者になったんだ?」と失望の声が多かった。では、次はそのフッサールの二段階目のステップを踏むことにしよう。

 

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

世界を知るための哲学的思考実験

現象学入門 (NHKブックス)

 

もう一度にんじんと読む「哲学的思考(西研)」🥕 第一章

第一章 ”学問の基礎づけ”とは何か

 フッサール現象学デカルトの描いたモチーフを徹底させたものだという。つまり『哲学するための確実な疑い得ない地盤』を本気で追い求める姿勢である。ところがデカルトは今や批判され尽くした人物であって、こうした『地盤』に基づく普遍的な学問構想を疑わしいと考えられてしまっている。そもそも哲学をする者としては、こうした地盤の存在こそ疑ってかからなければならないのではないかとさえ思える。

 フッサールのいう地盤、つまり「基礎づけ」の意味ははっきりさせておかなければならないだろう。デカルトの場合、基礎づけは明確に土台を意味していた。つまり、どんなものであろうがそれが正しいならば、その正しさの保証を与えてくれるもの……それが基礎である。しかしフッサールの場合はそうではない。彼のいう「基礎づけ」とは、次のようなことである。:

〈ある学問はどのような「前提」のもとに成り立っているのか、その学問の「領域」ないし「対象」の特質は何か、そこでの諸命題の正当性(ただしさ)は何に由来するのか〉を理解すること

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

  だがこの言い方では、まるで「学問が先にあってそこで基礎づけ作業を行う」ように見える。実のところ、学問という営み自体が基礎づけの要求なのである。

 基礎づけられたAがあったとして、それをもとにBを基礎づけるのはわかりやすい(間接的基礎づけ)。問題なのは最初のAの基礎づけがどう行われたかだろう(直接的基礎づけ)。それはたとえばこのように行われる。「隣の部屋にホワイトボードがあったな」という推測は、じっさいに隣の部屋を覗き確認することで基礎づけられる。小難しく言えば、ホワイトボードがあるという事態が現前している。この事態の現前を明証と呼び、この明証が判断を充実させるので、基礎づけられたのである。

 当たり前だが、こんな明証は簡単に疑うことができる。光の加減でホワイトボードに見えたり、部屋を間違えていたり、思い違いをしたり、色々なケースがあるだろう。だが間違うことがあるということは、明証によって基礎づけているという事実を否定するものではない。あぁそうか正しいね、となるとき、明証によって判断を充実させているのである。

 明証を与える作用は二つある。「経験的直観」(知覚)と「本質直観」である

 本質直観が少しわかりにくい。たとえば三角形の内角の和が二直角であるという判断はどのように充実させるのか? それはすべての三角形において成り立つ判断である―――私たちはこのようなとき、頭の中に図を思い描き、たしかにそうだったと納得する。たとえば三角形の底辺に平行で、頂点と交わるような補助線を引いた図を思い浮かべよう。この単なる知覚することとは違う、””一般者””についての直観を本質直観と呼ぶ。

 

【基礎づけの二側面】

 学問と基礎づけが不可分であることは納得していただけると思う。

 学問とは「こうでしょ?」といって、みんなの同意を得ながら進んでいくものである。ある判断は、「こういう夢を見たんだ」などといった妄想によってではなく、(そういう夢を見たにしても)「こうでしょ?」というナニカを提示することによって導かれるのだ。つまり基礎づけだ。

 学問に限らずなんでもそうだろ、と言いたくなるが実際はそうではない。ある時代において、真理というのは教会に独占されてきた。正しいことは権力者が決め、学者はそれを正しいものとして取り扱い、どう正当化するかに苦心したのだ。しかし学問の営みは一人ひとりが参加し、「こうでしょ?」「そうだなあ」と言い合うことができた。

 これはフッサールが「基礎づけ」において目指す、「万人に対して妥当」という側面である。そして彼はもう一段、””哲学””には上の要求をする。学問すべてを取り仕切るためには、その基礎づけは究極的なものでなければならない!

 

 よのなかには色々な世界像がある。デカルトが世界中を旅をして考えたのは、人間に確信を与えるものは結局のところ習慣や先例が主だということだった―――自然科学はそのなかでも論証や実験によって万人から同意を調達してくるものだが、しかし果たして、どんな世界像を持ったひとにも認めずにおれないものなのだろうか?

 つまり「万人」というところをデカルトは徹底し、別の世界観に生きる人のことも念頭におきながらデカルトは思索した。彼が方法的懐疑といってすべてのものを疑ってかかったのも、こうしたことが念頭にあったためであろう。そしてデカルトが「我(コギト)」という基礎を発見したと悟ったとき、そこでいう「我」とはさまざまな世界観をもったそれぞれの「我」であったに違いない。そうしてデカルトはその我に従ってこの議論についてこいと言ったのだ。

 ここで大切なのは、デカルトがはじめた新たな前提に気づくことだろう。「ほら、こうでしょ。君にもわかるよね。そうするとこうでしょ。わかるよね……」というのは、互いの意識体験を報告し合うことだ。だが、相手の意識が自分と同型であることなどデカルトは一度も前提しなかった! 彼はその意味で、新たな前提のもとに「意識に定位した哲学」を始めたのである。彼の哲学において「他我」というのは根本前提なのだ

 以上をまとめれば、なんであれ判断は基礎づけを求めるものであり、そして同意を求めるものである。しかしそれは他我という根本前提があるからこそできる哲学なのである。私たちは他我の存在を論証することは原理的に絶対できない(基礎づけできない)。このようなことは他我だけでなく、いろいろなことにも言えるだろう。問題なのは、原理的に絶対に証明できないのになぜかそれを疑えないのは何故か、である。

 無自覚にも、人々はこれを意識体験の反省によって答えようとする。というのも、相手に「こうでしょ?」と言うにはそれ以外方法がないからだ。だが自覚がないだけに、人々はなぜそれが他の人にもいえるのかという、「客観」の問題に悩むことになってしまった。

 フッサールもまた、この意識体験の反省を徹底的に突き詰めた。そして「主観の外を考えるなんて無意味だ」と宣言することになる。意識の外にそれ自体として存在する客観についていくら考えても仕方がない。なぜなら真であるというのは、意識の内部で生じる確信にすぎないからだ。

 フッサールは客観的現実を否定しているわけではない。誰も隣の部屋にいないからといって、ホワイトボードがないことにはならない。だがそのように確信するのも、客観的現実の存在を私たちが確信しているからに他ならない。

 すなわち、フッサールが求めた究極性とは、何かを「正しい」といったときのその正しさの意味を理解することなのだ。いったい何に基づいてそのように確信しているのかをはっきりさせることが彼の課題なのである。

【第一章のまとめ】

 学問と基礎づけは不可分のものである。学問のあらゆる判断は基礎づけを求める。これによって人々それぞれにとって妥当なものになっていく。

 しかしその基礎づけは多くの前提を含んでいる。他我の存在、客観的現実の存在等々がそれである。私たちはそれを論証することはできないにも関わらず、存在を確信しており、疑うことができない。この確信が何に基づくかを明らかにすることが課題であり、そしてこの課題もやはり、意識体験の反省を記述し報告し合うことによって為されるのである。

 

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内 (PHP文庫)

現象学とは何か: 哲学と学問を刷新する

 

にんじんと読む「おしゃべりな腸(ジュリアエンダース)」🥕 制御システム①

第二章 腸の働きをつかさどる優雅な制御システム

 ケーキを食べると味がして、喉を通るのがわかります。しかしある地点から何も感じなくなります。そこから先は「平滑筋」の領域です。平滑筋は自分で動かすことができません。コントロールできる筋肉は定規で線引きされたようにきれいに並びますが、平滑筋は網目状に絡まっていて波のように動きます。

 腸は3層の平滑筋に覆われ、大変滑らかにそれぞれ異なった運動をします。これを指揮するのが神経システムです。特徴的なのが完璧に自立しているシステムだという点で、脳と神経を断ち切っても腸は動き続けます。

 

 さて、ケーキの冒険をたどってみましょう。人間の体内でつくられる最も固い物質、それが歯です。人間の顎は奥歯に80kgもの圧力をかけるため、固くしなければならないのです。歯の攻撃から逃れようとするケーキを逃がすまいと、舌が押し戻します。お粥のようになったケーキを舌が捉え、喉の奥の天井に送ります。これが呑み込みスタート合図で、機械のスイッチを押すのと同じです。このとき呼吸は邪魔ですので口は閉じられます。

 ケーキは5秒から10秒で食道を通過。食道はこの時、スタジアムのウェーブのように動きます。食道の入り口は自動で開き、波打って胃に押し込むので、逆立ちしても呑み込めます。この動きを「蠕動運動(ぜんどううんどう)」といいます。わたしたちが感じられるのは鎖骨のあたりまでで、そこで食べ物の感覚は消え失せます。そこから食道が平滑筋で構成されるようになります。食道の終わりはリング状の筋肉で閉じられていますが、蠕動運動に反応して8秒ほど開きます。その隙をみてケーキは胃に落ちます。出口は閉じ、わたしたちの呼吸は再開されます。

 ケーキを受け入れた胃壁はぐっと力をため、ケーキを反対側に跳ね飛ばします。そうしてキャッチボールをはじめるのです。ごく小さな粒子になるまでつぶされます。0.2ミリメートルよりも小さくなります。そこまで小さくなるともう跳ね返らないため、胃の終わりに流されます。小腸の入り口は「幽門(ゆうもん)」と呼ばれ、監視しています。ケーキや米やパスタなどはさっさと通してくれますが、ステーキは胃で完全にボコボコにするまで、だいたい6時間は通してくれません。肉や揚げ物をたべたあとは甘いものが食べたくなりますが、これは小腸へ行くのが遅いため血糖値が上がらないからです。逆に言えば、腹がすぐに膨らむのは炭水化物ですが、満腹感はステーキのほうが長続きします。

 小腸はおそろしく働き者で、元々ケーキだった物質を絨毛でどんどん前へ前へ押し出し、もっとこねくり回してボコボコにし、栄養を取り込んでいきます。これが中断されるのは有害物質のときだけ。つまり「嘔吐」するときだけです。ケーキのほとんどはこの段階で血液に溶けてしまいます。小腸はきれい好きなので後片付けをしますので、消化後2時間後に中を見てみるときれいに片付いていてにおいもほとんどありません。

 この掃除のことを「伝播性消化管収縮運動」といいます。この掃除が出す音は皆さん聞いたことがあります。お腹がグーグーなる音です。あれは胃が鳴っているのではなく、小腸が鳴っています。ところで掃除が必要だということはそれだけ汚れているということですから、あまりご飯を噛んで食べないことへの小腸の不満ともいえます。小腸の終わりにあるのは「回盲弁」といいます。

 大腸は割とおっとりしており、1日に3回から4回、水分を失ってかたまりとなった内容物を出口のほうへ押しやります。人によってはそれが一日のうちに便座に座る回数になりますが、まぁ週に3回でも問題はないでしょう。原因不明ですが、女性の大腸は男性に比べておっとりしていますので、もっと少なくなります。ウンチに問題がなければ別に気にしなくていいでしょう。

 

 

 

にんじんと読む「世界一まじめなおしっこ研究所(金子大輔)」🥕

世界一まじめなおしっこ研究所

 おしっこのもとは「血液」、作っているのは「腎臓」です。まず血液から血球とタンパク質という大きな粒子を取り除いたものが腎臓のボーマン嚢(のう)というところにこし出されます。これを「原尿(げんにょう)」といいます。毎日ドラム缶1本分170リットル製造されます。多すぎますよね。全部だしてると死ぬので、「尿細管」を通る過程で必要なもの(水分・アミノ酸ブドウ糖)はキッチリ回収されています。だいたい1リットルぐらいになります。こういうわけですので、尿検査をするとこれらの過程におかしなところがないか確かめることができます。たとえばおしっこに糖が含まれていたらおかしいですよね。それは糖尿病といいます。

 注意! おしっことウンチはまったく違います。人間というものを単純に書くと、消化管という穴の空いたチクワです。おしっこは腎臓という””ちくわの身””で作られますが、ウンチは””ちくわの穴””で作られます。ウンチは細菌だらけですが、おしっこは無菌です。汚いイメージがありますが、98%は水です。それ以外には非常に多様な物質が含まれますが、たとえばカルシウムなんかもあります。トイレにつく黄色いがんこな汚れはこのせいです。これが腎臓のなかで固まると尿道結石になります。

 無菌のはずのおしっこが臭いのは、外に出た後です。トイレを流さずにいるとおしっこに雑菌がまとわりつき、尿素アンモニアへと分解します。