にんじんブログ

生活の記録です。

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ふたつの目の使い方

 証拠とかなにもない自論になるんですが、

 前々から「目の使い方」について考えていることがあります。

 

 多分、目の使い方って二通りあると思うんですね。何を言っているんだという感じですが、にんじんはニュートラル」「フォーカス」と呼んでおります。まだ誰にも話したことがないのですが、多分経験があるんじゃないかと思います。

 「フォーカス」というのはどこかの一点を見ることです。たとえば本を読むときに文字を追ったり、看板を見たり。一方がニュートラルという名前のくせに、多分フォーカスのほうがなじみ深いと思うんですね。というのも、ニュートラルなんてわざわざ機会を作ってやらないと使わないからです。

 なんと説明していいのか困るのですが、たとえば登山をしてですね、景色を見るとします。ばっと目の前にだだっぴろい空間がひらけたとき、ああいうときの目がニュートラル」です。他に言い換えるなら、フォーカスは大抵の場合鼻の先に対象物があるのですが、当然それ以外のものも見えてますよね。文字追ってても手は見えますし、脇に置いてあるパソコンも見えるだろうし……。ニュートラルは、視野の全部を一気に見ます

 両手を正面の斜め前に突き出してみてください。

 で、両方の手を一緒に見てください。

 それがにんじんのいう「ニュートラル」です。

 

 で、それがなにかというと、人間の普通の目の使い方は「フォーカス」ではなくて「ニュートラル」なのではないか、と思っているのです。ニュートラルは全部見てますが、しかし、基本的に何も見ようとしてません。変な話ですが、すべてに注意しつつ、別に注意などしていないのです。車が来たら反応できますし、なにかあればそちらを向いてフォーカスできます。でも、フォーカスしないほうが落ち着いて行動できます。

 

 あと、緊張しているときは大抵フォーカスしている気がします。意識をその一点に集中して、他が見えなくなっているのです。何かの発表のとき、みんなの前に立ったら顔をあげて全体を見回したほうがよいといいますが、これとも関係しているのではないかと思います。

 

 

 目のことについてはまたちゃんと調べるつもりでおります。

 ただ、最近はこの二つの使い分けで(気のせいかもしれませんが)なんとなくうまくいっているので、これ自体か、あるいはこれをすることによって他の何かが改善されているのかもしれません。これをとっかかりに、色々勉強します。

 

 

 

おたくの味噌汁に一工夫

  一人暮らしの食事としてにんじんがおすすめしているのは、

 

  •  ごはん
  •  味噌汁

 

 です。はっきり言ってこの二つが三食食べられるなら、他のものはそんなに要りません。あと必要だと思えるのはご飯のお供に「納豆」でしょうか。にんじんとしてはのりの佃煮もあれば満足です。

 また、味噌汁と一口に言っても、味噌汁には大抵のものは入れられますし、しかもそのまま入れるだけです。水にドボンと全部入れて、火をつけて、味噌をとけばもうできます。味が足りないときはほんだしをいれましょう。

 キャベツだろうがにんじんだろうがたまねぎだろうがもやしだろうがなんでもアリの味噌汁。しかも手間もかからない。「献立を何にしたらいいかわからない」「自炊めんどくさい」という人におすすめできる一品です。

 

 

 さて、味噌汁というのは意外と「料理は手間」というのがよくわかる一品でもあります。少し工夫するだけで味が変わるので、とても面白く作れると思います。

 味噌汁の作り方は先述した通り、

  1.  鍋に水を入れる
  2.  具材を入れる
  3.  味噌をとく
  4.  ほんだしを入れる

 終わり。です。

 

(1) 水を変えるだけで全然違います。

 水道水とミネラルウォーターを作り比べるとよくわかります。

 

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 ただ、水にお金を使う余裕がある場合に限りますが……。 

 

(2) 具材はなんでもOK

 基本的には「あげ」(もしくは豆腐)と「わかめ」です。にんじんとしては「にら」なんかがちょっとぴりっとした感じがするのでオススメです。あんまり入れすぎると味が濁る気がするので、少ないほうがいいと思います。

 

(3) 味噌をとく

(4) ほんだしを入れる

 味噌汁の食べごろは沸騰する直前だと言われております。

 水がぐつぐつとしてきたら火を弱くしましょう。

 ほんだしを沸騰しているところに放り込むと、風味が消えます。火加減注意。

 

 それからちょっと試してほしいのが「豆乳」です。

 できあがった味噌汁にちょっと入れると味がまろやかになります。

 

 

 

交通ルールは守ろう

 世の中には色々な乗り物があって、よく使うものとしては「飛行機」「新幹線」「自動車」「自転車」などがあります。この中で最も安全な乗り物は、今のところは新幹線で事故率は0%だそうです。飛び込んできて死なれるいわゆる人身事故はけっこうあるようですが、乗っている人間の生死には関係がありません。

 また、なんか意外な感じがしますが飛行機も事故率はかなり少ないです。8200年乗って一度事故するかしないかぐらいのもので、JR西労組が出している記事でもまったく事故がないことを報告しております。(http://www.jrw-union.gr.jp/415-j/415-05.pdf

 

 9.11のテロがあったとき、アメリカの人々は飛行機搭乗を取りやめ、移動手段を自動車に切り替えました。飛行機は危険だという気持ちが人々を突き動かしたわけですが、自動車のほうが危険です。研究では、飛行機取りやめ自動車利用によって約千五百人の方が亡くなったことがわかったそうです。恐怖がテロの直接の被害に遭わなかった人々を突き動かしたのです。

 

 「自動車はプロが運転したほうがいい」というのはにんじんがよくTwitterで言っていることです。車が大好きでたまらない人よりも、まぁ別に好きじゃないけどなんか乗ってますというような人のほうが心配です。

 以前池袋で高齢者による事故がありました。あれはどっちかというと上級国民で話題になってる感じがしますが、あの人は86歳……ちょっとさすがに返納したほうがいいんじゃないのかという年齢です。速度の出るものは認知に負荷をかけるので、気の持ちようとかではなくて普通に危険です。高齢者じゃなくても危険ですが、高齢者だとなお危険です。

 しかし一方で、今まで自動車でいろいろ巡っていたのにいきなりそれがなくなったらと不安に思う気持ちもあるでしょう。そこはバスとか電車とか、公共交通機関に活躍してもらわないといけないのですが、地域によってはバスがぎゅうぎゅう詰めだったり、あるいはまったくバスが走っていないとかいうこともあるでしょう。田舎などでは車がないと生活すらできません。自転車を利用するにしても、電車にそんなもん持ち込めませんし、歩道も車道も危険だし、側道に色塗っただけで「自転車専用です」と言ってる自治体もあったりします。コペンハーゲンに行ったときに驚きましたが、歩道はゆったり広々、自転車が日本の自動車並みにぶわーっと駆け抜けていました。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 アンケートによるとコペンハーゲン市民が自転車を選ぶ理由として、健康をおさえて「目的地にすぐ着ける」が第一位だそうです(市の調査として紹介されています。http://www.hilife.or.jp/bicycle_cph/cph02.pdf)。読みながら、まぁあれだけ整ってたら早いだろうなと納得しました。自転車レーンは完璧に舗装されてますし、自動車と同じように自転車の流れも徹底しているのでいきなり向かい側から対向車が来ることはありません。

 

 

 自動車はなくてはならないもので、「全廃しろ」と言うのは言い過ぎにしても、量を少なくしたほうがよいだろうなあと考えております。一人が一台を持つというのは多すぎるんでしょう。そういう意味ではカーシェアに期待がかかりますが、にんじんとしてはバスか、自転車の利用が便利になればなあと思います。車道にいる自転車こわいですしね( ◜ω◝ )

 

 

企画は進行中

 一日中座っていたせいでお尻が痛くて仕方がありません。明日はもっと運動をしようと思います。クロスバイクに乗るときがあるのですが、あれはあれでお尻と腕が痛くなっていけません。徒歩が一番いいんですが、帰り道が面倒くさいですよね。

 

 どうして丸一日座っていたのかというと、絵を描いていたからです。

 にんじんが描くような絵だから前に見せたように大した絵ではないのですが、本人は真剣なのでずっとペンを握って睨みつけています。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 

 何かを作るのを楽しいものです。たとえ下手くそでも。水彩とかキラキラした瞳とか、にんじんには到底できませんが、ベタベタとバケツ塗りしただけでも相当な満足感があるんですよね。YouTubeチャンネルはにんじんのそういう「創作」を色々と詰め込みたいと思っております

 

 今日は「脳」について勉強しました。具体的にいうとこの本です。

 

 マクリーンの脳の階層説は前から知ってましたが、この本は新哺乳類脳を二つに分けて四階層説になっております。それが正しいかなんだかはにんじんには判断がつかないことで、さらにほかの本を読み進めるよりほかありません。元は「欲望」に興味があったから読み始めた本なので、モチベーション理論とも関係があります。自己決定理論やマズローの欲求階層説など、いろいろありますね。今は自己決定理論に興味がありますがいい本が見つけられておりません。

 

 

やりすぎは禁物!

 Twitterを見ていると、ほぼ毎日「死にたい」と言っている人がいたり、「結婚したい」と言っている人がいたりします。街に出てみるとたくさんの人がいますが、彼らの中に毎日「死にたい」と呟いているひとがいると思うと、なんだか感慨深い(?)ものがあります。

「どんな人間でも完璧ではありません。必ず欠点があるものです」

 なんて、最早意見とも言えないほどごく一般的に正しいと認めてもらえるものだと思うのですが、そうだというのに、人のちょっとしたミスを普遍化したり、いやに責め立てたりしてしまうのは、悲しいものです。自責思考も他責思考も、「自分だけ」「他人だけ」が悪い、と思う点で極端であってやめたほうが良いようです。

 ところが、この「自責・他責はやめよう!」というのも、極端に行くと良くないことのひとつです。たとえば出勤している間に家族が強盗に襲われて亡くなったとしましょう。自分「も」悪かったのでしょうか? そんなことはないでしょう。日本で強盗が発生して家族が殺されるリスクはそれほど高くありません。犯罪率は年々下がってきており、凶悪犯罪の件数自体も減っているからです。その確率でリスク対処しておけといい始めたら、あらゆることに対応しておかなければならないことになり、不可能です。商売をする上で「リスク」という概念は素晴らしい道具であることはもはや衆知のこと。この広告の言う通り、この対策をしておけば、と思うかもしれませんが、このような被害者に、自分を責めるところは特にないでしょう。

 

 さて、共感というのも非常に大事な要素のひとつです。カウンセリングなどに限らず、相手の気持ちを自分のこととして理解するという姿勢は好ましいものです。誰かが悲しそうにしているときに、見ているこっちまで悲しい気分になってきたり……。気持ちに寄り添ってあげるというのは、相手にとってありがたいことでしょう。

 しかし、この共感が長期的に見て非常に悪い結果になることがあります。

 たとえば0.01%の確率で副作用が出てしまう新薬があるとしましょう。一万人のうち一人が苦しい思いをしています。「助けて」とこっちを向いて助けを求めています。小さな手があなたの手の中で震えています。あなたは言うかもしれません―――この新薬は危険! 即刻、投薬を中止せよ! ——しかし、9999人は全快しているのです。「1人の悲しみは放っておくのか?」となるにしても、全員の投薬中止はやりすぎです。もっと研究を重ねて磨き上げたり、副作用が出た場合の対策を整えたほうがいいでしょう。

 

 「集団」か「個」か、という問題もこれに類するものです。集団的に見れば得なのだけれど自分が損する場合など、なんで俺が? と思ってしまうのはやむを得ないことです。公共の福祉と言われても、やっぱり理不尽だと感じるでしょう。

 でも個人の利益ばかり追求するのも考え物です。ゲーム理論などでもよく言われるように、それが結局のところ自分の損になるという意味でもありますが、そうではなく、人のために何かをするというのはやはり大事なことでしょう。

 

 なんにしても「何かを徹底的にやろう。しかし徹底的にやりすぎるのは禁物ね」ということのようです。なんだ難しいなと思いつつ、きっとそれができるのが論語などに言う《徳》というものなのだろうなと感じます。論語など持ち出さなくても、「よくできた人」でもいいですが。

 

 

 

原稿用紙一枚・日記 #1~#10まで

ピアノ発表会の比喩(人間関係の完璧主義) #1

 

にんじんは昔、友達と「完璧主義」について話したことがあります。

「完璧主義というのは何事も完璧にこなそうとするのは良いけれども、もちろん完璧になどできない。だから成功ということが起こらない。それで全部嫌になる。完璧主義なのに完璧とは真逆の結果になる。これは人付き合いにも害があって、ある反応に対して正しい反応があるという幻覚を見ているから、誰と話すにもまるで試験されているみたいな気持ちになる。人と話す前はピアノの発表会の直前に似ている。ただ楽譜のことだけを考えて、客席のほうなど見ない。ただ楽譜が追えたか、キチンとできたか、ばかり見る。踏み外したたった一音のことをいつまでも悔やんでいる。けれどもあるときふと客席を見てみて初めて気づく。誰も演奏を聞かず、ジャン! と音が鳴れば機械的に拍手している。完璧主義ほど馬鹿馬鹿しいものはない」

 

性格は状況によって変わる #2

 その人は大体どんな人かというのを、まぁ大体「性格」と呼ぶ。筋肉質な人はこんな人、みたいなのを類型論、ビッグファイブみたいなのを特性論と呼ぶわけだけれど、この頃は性格というものが状況に応じて変わるものだということがはっきりしてきたらしい。性格の人称性である。一人称的性格はいわば自己像、二人称は関係の中で生まれるもの。恋人なんか思い浮かべよう。で、三人称はそこでの役割といっていい。要するに人は状況に応じて性格を変えている。しかも、役割は人を変えるというように、それぞれは相互に作用しあっている。もはや彼はどんな人だという簡単なことを言うにもいくらかの注釈が必要になったわけだ。ややこしいことだ。

 

 男と女の脳の違い #3

 男女平等という声が盛んだからこういうタイトルはある種の人々を刺激する。けれども注意しなければならないのは、これから述べるのは統計的な違いであって、個々人がどうとかいう話ではない。詳しくは下の本を参照。

 男性・女性は統計的に見て、それぞれシステム化・共感が優位であるらしい。システム化というのは分析とかそういうやつで、共感は相手の立場に立って考えることだそうだ。なんというか概ね「男性的」「女性的」なイメージと重なっている。とはいえ、男性がみんな人の気持ちがわからん頭脳明晰なやつなわけではないし、女性がみんな理屈を知らぬ聖女なわけではない。両方の能力が欠如してそうなやつはどちらの性別であろうがきっと一人は思いつくことだろう。しかしながら一応男を見かけたら理屈が好きで、女を見かけたら共感能力があると思うほうが当たる確率が高いのはたしからしい。まぁ、「所詮確率でしょ」という感じも否めないが。

 

 時間は巻き戻らない #4

 夢を見た。叔父家族が家に訪ねてきた。叔父が「うまい飯があるけどお前食べにいくか」と訊くからただうんうんと頷く。叔母も従妹も叔父が話すのを受けて、楽し気に言葉を返したりする。にんじんはその光景に、途中から泣いていた――どうしてって、叔父は数か月前に死んだはずだからだ。口数の多い人だった。彼が死んだせいで今年の正月は静かだった。「お前なんで泣いてんの」と叔父が言うと、叔母も従妹もまったく不思議そうに顔を覗き込んでくる。にんじんは「なんでもない」といって、ともかくその場を離れた。「なんで生きてるんだ」とはとうとう最後まで言わなかった。にんじんが気が付くと、いつもの自分の寝床にいた、あれは夢だったのだ。起き上がって、歯を磨く。そのときに思った。時間は巻き戻らない。仮に巻き戻っても、きっと命だけは置き去りにする。

 

 カテゴリーミステイク #5

 私たちは相手の心を推測する。相手が怒っているのを見て、怒りっぽい人なのだと思う。こういうのを属性推論と呼ぶらしい。議論はあるようだが、相手が怒っているという同定から、怒りっぽいという帰属の連鎖はほとんど自動的に行われるのだそうだ。相手が今特別な状況にあるとは考えないのである。ところで相手が子どものとき、私たちは相手を「子ども」というカテゴリーに属すものとして見る。これも属性推論と似たようなものである。これの特徴はカテゴリー間の区別は重視しても、カテゴリー内では扱いに差がないことだ。そうするとカテゴリーの数はやはり多いほうがいい。

 他人に対して「敵」と「味方」しか語彙がない人は、きっと世の中のほとんどが敵に見えるに違いない。学ぶことの意義は、ひとつ、ここにもあるのだろう。

 

 ドラマで学ぶコミュニケーション #6

 最近海外ドラマを見ている。彼らを見ていると面白いのは、とんでもない行動を平気でとること。敵地でセックスするのなんて「なにをしてんの?」としか言えないし、それは百歩譲って認める(?)にしても、敵のいる場所に入り込んで何かを発見しても、彼らは仲間にそのことを伝えもせずに一人で勝手に行動する。「ちょっとは相談してくれる?」と思わずしゃべりかけそうになるんだから、なかなか臨場感のあるいいドラマである。その他にもいろいろあるが「何をそんな」「なんで怒ってんだよ」「大丈夫かコイツ」と感じることは多い。それでは翻って、自分の生活はどうだろう。他人と話すとき「こんなこと言っていいのか」と気にして、声が出ないとする。そんな自分のドラマを見た自分は言うことだろう。「さっさと言えよ」

 ドラマを見ると、短期間ながらも対人能力に良い影響があるという実験もあるらしい。

 

 学校で繋がれた鎖 #7

   偏差値を上げるための基本的な姿勢を述べよう。受験生諸君はきっと何度も聞いていることだろう。それは「とった点数よりも、間違えたところに注目すること」である。テストで98点とろうが喜んではいけない。何故ならひとつ間違えているからだ。テストには「ダメ」か「百点満点」しかない。そして良い大学に入り、社会に近づくにつれ、何の意味もなかったことを知るだろう。「誰も100点なんて求めてない」まぁ大体6割ぐらいできれば普通。ちょっとできなくて笑ってるぐらいは愛嬌だ。「間違えないでね」そんな風に言われることもあるかもしれない。でもそう言ってる人も間違える。みんなほどほどを知っている。でも既に誰かの脳は「ダメだ」と囁く声を聞いているかもしれない。「60点とれりゃ上出来だ」と、誰も教えてくれなかった。言ったのは二つだけ。「もっと上へ」「そのままの高さを保て」

 

 

 なやみ #8

 

 初期ステータスを攻撃力にガン振りすると「守備力が心配で。やっぱ守備力があるほうが有利だわ」と悟る。実は守備力にガン振りしたら攻撃力に憧れるのだが、自分の状態を重視してしまうものだから、ちょっと気づきづらい。ところが両方にバランス振りすると今度は特技がないと言って悩むことになる。八方ふさがりである。

 レベルが上がると、全体的にステータスが上がる。それでレベル1守備力ガン振りのやつに追いつくのだけど、スライム相手ならともかく、敵も強くなっているし、やっぱり守備力は欲しいと思う。数値の大小なんてあくまで相対的なものだから、たとえステータスをあげても、なんか不満が残る。そこで自然な流れとして「自分の強みを生かそうよ」という論調が出てくる。なるほどもっともなことと思う。

 

 

 下限幻想 #9

 

 昔は真賀田四季に憧れた。すべてがFになるに登場する、天才博士である。すべてを見通すような発言は本当にかっこよかった。達観した意見は常識はずれだった。ところが時を経るにつれ、そんな人間は実在しないことを理解した。みんなそうだろう。

 ところが下限については存在が広く認められている。要するに、能力というものを一切感じないような存在である。時にはそれを自分自身に当てはめて、生きる価値ないわなぁと言う人もいる。価値なんて主観的だからそういうなら構わないのだが、普通は一定のプライドがあるので「但し、あいつよりはマシだけど」を言う可能性を残しておこうとするものだ。話を聞いてみるとまだけっこうその人の下に人がいたりする。「自分より上だ」と思っていて、かつ面識がある人はきわめてまれだ。いつのまにか世界のうちで五本の指ぐらいには入っている。悲観的なはずが、たいへん楽天的である。

 

 モテる #10

 

 モテるための本は結構出ているし、モテたいというパオン(男)も結構いる。にんじんは長年いまいちその気持ちを理解しかねていたが、この頃はちょっとわかるようになってきた。モテているという状態になると、向こうがこっちを好いてくれるらしい。「惚れたほうが負けなのよ」理論で行けば、勝ちまくりである。なるほどモテたいわけだ。

 ところが「万人受けはないよ原理」を適用すると、いかなるモテ体質でも統計的に優位ぐらいで満足することになる。記録でも取ってない限り自分がモテかどうかわからないし、しかも嫌ってくる人もいるわけだからなお不安になる。そこで違うタイプのモテ本がでて、そんな不安を持った人々を啓発する。時代によっても改訂が必要だろう。なるほどモテ本が溢れるわけだとまた納得する。マナー講師と同じでモテ講師にでもなれば、仕事はなくならないかもしれない。