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にんじんと読む「目的論(宮本和吉:岩波講座哲学昭和7年)」🥕

序論

 目的論は、ものやその生成を目的概念を立ててみる見方である。逆に目的概念を立てずに機械的な因果関係によって説明するのを機械論と呼ぶ。生成とはものがその状態を変じて他の状態となることをいう。哲学史において〈存在〉と〈生成〉の前者を否定しすべては生成だと説いたのはヘラクレイトスであった。彼は「万物は流転する」といい、〈存在〉を見て取るのはわれわれの感覚の迷いだと断定したのである。

 目的論や機械論は生成の事実を説明するひとつの解釈である。目的論的に、あるいは因果的にこれを説明するとはどのようなことだろうか。W.Windelbandによれば生成の根本契機は(1)時間的前後継起、(2)前後継起する状態の結合関係のふたつで捉えられ、生成はこれらの統一なのである。たとえば「ウオウオ」と発話したあとに「それでは次のニュースです」と発話が続いたとすると、(1)は満たすが、(2)は満たさない。それは生成とはされないのである。前の状態が後の状態を規定するという依存関係がなければならぬ。

 ところで時間的前後継起は、今の時点から見れば二種類の方向があることが察せられよう。つまり過去の方向と未来の方向である。「AがあるときにはBが続かねばならぬ」というか、「BがあるべきためにはAが先行せねばならぬ」というか、ふたつの可能性がある。第一の場合、Aが原因・Bが結果である。第二の場合、Aは手段・Bは目的である。したがって一つの生成の必然性には因果的と目的論的の両者がありうる。はじめのものが終わりを規定するか、終わりのものがはじめを規定するか。われわれが生きてさまざまな活動をすることも、機械論的に物質運動として記述することもできれば、目的をもちそれに向かったのだと説明することもできる。

 

ci.nii.ac.jp

 

アリストテレスと目的論―自然・魂・幸福―

アリストテレスと目的論―自然・魂・幸福―

 

 

形而上学的目的論

アリストテレスの目的論

 目的論の代表者たるはアリストテレス、そして機械論の代表者は原子論を唱えたデモリクトスであるといえよう。原子論においては一切の生成変化は原子と呼ばれる最小の単位によって説明される。それは原因によって結果を引き起こし、目的というものを必要としないまさに機械論である。

 一方、アリストテレスにとって生成変化とは「現象において本質が実現せられること」であった。詳述しよう。彼の哲学において重要なのは〈形相〉と〈質料〉である。〈形相〉とは、外的な、有形的な形のみならず物を物たらしめる特徴一切である。〈質料〉とはまだ形相的に規定されない、無規定的な素材である。すべての形相は質料の形相であり、形相なき質料は具体的には存在しないだろう。これら2つはいずれも生成し、生起するものではない。質料はあらゆる変化がそこで行われる基盤であるから、変化の過程そのものとは異なる。形相は質料の内にあるものだが、質料から生み出されるものではない。アリストテレスはこの二つの関係をこう論じた。質料の本質には形相に従って形成されるべき傾向がもともと含まれているのだ、と。質料の本質は、その形相を受け入れるようにできあがっているのである。

 実際の生成変化はもちろん、外的原因による刺激によって始まる。ある植物の種からはふつうその植物が生まれるのであって、別の植物は生まれない。それはそもそも種に含まれている動力が後に出来上がるものの形式を決定しているのだ。この内的原因としての形相は生成過程の目的であるから、アリストテレスにとっての生成はつねに目的を求める努力なのである。

 

アリストテレスプラトンと似ている。しかし違うのは、プラトンイデアを現実の外に求めたのに対して、アリストテレスは物の内にそれを認めたことである。それがアリストテレスにおいて〈形相〉と呼ばれているのだ。植物の種にはその植物の形や色や様々な特徴が内蔵されており、それを実現しようとする。

 

 ところで種の中に内蔵されている形相はまだ現実的には存在しない。しかしその種の内にその衝動を持つという意味で、可能性の上では存在すると言われうる。質料が形相化すること、可能性が現実性へと移ることは〈運動〉という。

 現実性(エネルゲイア)には実現過程としてのものと、実現過程の完成終結としての2つの区別がある。たとえば思索することは実現過程であり、思索の終結としてある思想に到達したのが完成終結としてのものである。後者をエンテレケイアと呼ぶ。完成物は形相の動力によってはじめから規定されたものであり、可能性という意味でははじめからそこにあったものである。それゆえ、終わりのものが始めのものを規定する。つまり、目的論的依存関係がある。

 このような目的論的依存関係をさらに広げれば、種もまたひとつの結果であるようにさらに後ろへ辿っていくことが可能であるし、この植物もまた何らかの可能性を有しているから先へと辿っていくことが可能である。最初の限界を〈第一質料〉、二つ目の限界を〈純粋形相〉と呼ぶ。第一質料は全ての根源であり、純粋形相は質料的なものを一切持たない最高度の現実性である。少しでも質料を含むならばさらに別に移行しようとしてしまうからである。そして〈純粋形相〉は神である。

 神は質料的なものを一切持たないから〈運動〉することがない。しかしそれはすべての目的とするところであり、すべての原動力である。

 

 

アリストテレス (講談社学術文庫)

アリストテレス (講談社学術文庫)

  • 作者:今道 友信
  • 発売日: 2004/05/11
  • メディア: 文庫