にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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にんじんの書棚「ハッピークラシー」

 ハッピークラシーは造語で、クラシーは「支配」である。

 

 従来の病理モデルから脱却し、ウェルビーンイング・生きがい・自己実現を手に入れるための科学であろうとした「ポジティブ心理学」は、立身出世のための人生訓を達成可能な目標であるとみなした。幸福度は国家の発展度合いを計測するための中立的な科学的構成概念となっている。このことはウェルビーイングが達成可能な目標であると標榜するポジティブ心理学とともに、国家の抱える政治的・経済的問題が純粋に技術的な次元で解決可能であるかのように思わせる。
 一方、幸せな状態になれないのは本人の努力不足であるとみなされ、個人主義と強固に結びつく。
 さらに労働に関していえば、「個人はなにか仕事を通して幸せになるのではなく、幸せな人が仕事に成功する」「適切な労働条件が幸せや生産性をもたらすのではなく、ポジティブな心理資本を持った労働者が活気に満ちた職場にする」といわれるような因果の逆転が起こる。そこで企業にとってはそうした労働者を養成することが最優先となり、労働者にとっては高いモチベーションや起業家精神・レジリエントで楽観的、ポジティブであることが仕事の一部になる。『マイレージ・マイライフ』で描かれたような、リストラされた労働者に対して自己変革のすばらしいチャンスであると問題をすりかえる。柔軟さやレジリエンスは、組織の不確実性という重荷を労働者に肩代わりさせてくれるのである。
 ポジティビティは商品化され、すべての市民は顧客になる。自己追跡アプリを用いて健康を調査し、監視されながらセルフコントロールを行う。あるいは「自分らしさ」「自分の強み」を商品化するパーソナル・ブランディングを行う。自己改善は際限なく続き、消費も絶えることなく続いていく。
 社会学においては身分や家柄によって階層が固定された属性主義と、階層が流動的な業績主義について考えられてきた。だがこれからは感情の階層が制度化される。すなわち、ポジティブ度が高く精神疾患の度合いが低い人だけが、機能的・健康・正常・幸福・善であるとみなされる。しかしたとえばデモなどは悲しみや怒りによって引き起こされるものであり、これらの感情をネガティブとして一蹴することはおかしく、重要なのは幸福ではなく、あいかわらず、知識と社会正義と批判的分析である、と思われる。

 

 

 

あけましておめでとうございます2023

 あけましておめでとうございます。にんじんです。

 

 にんじんブログを開設して4年になります。

 youtubeやらBOOTHやらいろいろなことに手を出してきましたが今はブログとWixとnoteしか残っていません。つくづく思うのは、にんじん(ぼく)は共同作業が苦手だということです。指示をするにもなんといえばうまく伝わるかわからないですし、そういうコミュニケーション能力が不足しているのだと思います。それからプロモーションも苦手です。でも協力したほうが、規模も大きく多様なものが作れるので少しずつ挑戦していきたいです。そのたびに迷惑をかけるのですが、

 

迷惑をかけることで学んで気を付けることになると認識しています

 というのは冗談ですが、なにかしたときに「前よりは良くなったな」と関係者様に思ってもらえるように努力しています。そしてまた関係していただいたらなと思います。

 

 2022年の最もビッグなニュースはまちがいなくウクライナ戦争です。日本の反撃能力保有もありました。Twitterにいる過激な層でなくとも、ひしひしと危ない空気を感じ取っているでしょう。出生数の記録的な低下もありますし、増税やら社会保険料増額、物価高騰など、いやなニュースばかりです。安倍元総理も撃たれました。たくさんの二世信者たちが救済を合法的に訴えてきたなかであからさまに違法な銃撃によって救済法案が成立したのはとんでもない「後手」で、悲しいことです。合法的に対話をするよりもツイッターに晒し上げる方法によって、企業は態度を変えることもわかってきました。たぶん、埒が明かないから晒したのです。最低賃金が上がっても全体の上昇にはつながらない状況は日本中にたくさんあります。給与は低いけれども要求は高い「給低要高」の冬型雇用です。法テラスなどサービスはありますが、「法に訴える」ことなど一般人になかなかできることではありません。最近は法的措置もよく聞きます。あるいは勝手に法律を自分で解釈して逮捕逮捕とわめいたりする人もいます。暴露とかいうのもあります。品がない以前に、名誉棄損にあたるでしょう。

 

 新年から厭世的になることばかり書いてしまいました。

 なにしろこの記事は年末に書いていますし、なにより、いやなニュースは日常茶飯事です。なかには生まれてこないほうがよかったという人たちもいますが、生まれてこない場合の世界と生まれてきたこの世界を比較してどうやって功利計算しているのかよくわかりません。もちろん逆に、生まれたほうがよかったのかもわかりません。けっきょく、大事なことはわからないようです。でも、それでも生活は続きます。それはたしかなことです。

 できるだけおきらくな生活をして、できるだけ生活を薔薇で飾る。ほかほかごはんだけでは生きていけません。望みは安心と彩りです。今年もよろしくお願いします。

 

note.com

 

 

 

(メモ)アニメ「Do It Yourself!!」の細かい情報を集めたい

 

  •  結愛家の最寄りバス停は「ニュータウン」。湯専行きの自動運転のスクールバスが停まる。
  •  須理出家・結愛家・瀬戸家の順で家が並ぶ。瀬戸ってだれ?(やや微妙。改めて調査中)
  •  結愛せるふは須理出未来のことをスマホに「ぷりん」と登録している。
  •  ぷりんのスマホには「くらげ」がくっついている。それからスクリーンセーバーはくらげさんである(すてっぷ③)。どんだけ好きなの?
  •  ぷりんはシンギュラリティを起こそうとしている。シンギュラリティとはAIが自分より高度なAIを制作できるようになること。
  •  ぷりんの部屋の窓にはウィンドチャイムが飾ってあるが、恐ろしく見えづらい。チラ見えする。
  •  せるふの部屋にはツリーハウスのイラストが飾ってある
  •  ぷりんの受験番号は「05_3250」で、湯専の校長は「重尾智弘」
  •  英語グラマーの授業では「he would still be the same beautiful young man even if he had a different name. “What’s in a name? That which we call a rose by any other name would smell as sweet"」と書いてある。これはシェイクスピアロミオとジュリエットの一節。名前がなんだっていうの、どんな名前で呼んでもバラは甘く香るわ、と書いている。
  •  潟女のカバンに注目。かなり可愛い。
  •  せふるとたくみんのクラスは、おそらく、1-B。ジョブ子は1-A。しーとぷりんはB307教室を使う。
  •  せるふが電柱に自転車で激突するシーンはじゃりン子チエのオマージュ。

 

  •  しーはスマホでセキュリティカメラを操作できる。どこのビジランテ
  •  しーは潟女の制服に着替えてから部室に来ている。だから湯専にいるときは緑のネクタイ姿が見られる。
  •  「授業終わりましたけど」とたくみんに指摘されたのが午後三時過ぎ。
  •  潟女の入り口にある「和顔愛語」は「穏やかな顔つきとやさしい言葉遣い」のこと。
  •  潟女は湯専のビル風に悩まされている。
  •  いつもたくみんと別れるのが「トライク」というお店の前。DIY新潟県三条市のご当地ものなのでそういうのがけっこう出る。興味のある人はチェック。

    燕三条トライク - 暮らしの役立ち情報 / 三条市 - なじらぼ!

    三条アニメ聖地巡礼ナビ~だれでも・いつでも・ようこそ三条~/三条市

     

  •   自転車専用レーンがある。でも部長は電動ローラーで歩行者レーンをぶっ飛ばしていく。それから車は左側通行。ぷりんはスクールバスから下りて、横断してから家に入る。
  •  結愛家は玄関横に表札が下がっている。一番右に「結愛」とあり、横に五人の名前が書かれているが、おそらくせるふと母親とペットのこと。父親の存在は謎。というか結愛家の収入源が謎。
  •  結愛せるふはすてっぷ①でポチ・タマ・ミートに覆いかぶさられるが、靴下を履いていない。さっきまで靴を履いていたのに……
  •  湯専には「woman」と表示のある部屋がある。いつもぷりんが部室を覗いているところのそば。トイレか?
  •  すてっぷ①の最後はこう。「これは、家具や友情や、ひいては人生までも、考え、工夫し、苦労し、失敗し、それでもあきらめずに自分の手で完成させて、未来を切り開いていこうとする少女たちの、その最初の一歩を描く物語である」このシーンでたくみんがDIY部の看板を部室内で作っているが、本編では外で作っている。違うもの?
  •  ひまわりの少女たちの小説版は「大本悠太」「イラスト:岡佐田」「角山文庫 お 29-8」
  •  せるふが作ったミートの小屋には「三代目」と書いてある。海でもナマコをとったせるふが「お母さんと三代目、喜んでくれるかな」と言っている。
  •  すてっぷ⑦でワクワクワンワンに行った時、うっすらとCMソングが聞こえる。歌ったのは山本メーコさん。

 

母「スキー板のベンチ?」
せるふ「ベンチでスキーするわけじゃないよ」
母「わかってるわ」

せるふ「でもお母さんの言う通りベンチでスキーできたら楽しいかも」
↑ 言ってない

 

 

 

 

 

 

にんじんと読む「比較不可能な価値の迷路」

第一章 国家はそもそも必要なのか?

 何らかの制度の正当化は、発生論的なものと帰結主義的なものに分かれる。国家が「人々の自発的な意思の合致によって成立したから」正当だとするのは前者であり、国家が「人々の効用を増大させるから」正当だとするのは後者である。実際、「国家」というものは正当なのだろうか。

 この頃、国家というものが不要であるとする『国家民営化論』(=政府の機能を市場が果たす)があるが、これはもちろん帰結主義的な正当化を目指さざるを得ない。もし民営化によってもれなく全員の効用が上がるなら文句なく全員一致で(少なくとも民主的な)国家は消滅するだろう。しかし、今のところどこもそんなことになっていない。現実的なのは、「そのほうが社会全体として厚生が改善される」というような正当化だろうが、効用が低下した人に対して生じる損失補償を市場が行うとは考えづらいため、どうも無理筋である。国家ありきの状態から無政府状態を正当化するのはほぼ無理そうなので、戦略を転換するならば、政府がそもそも存在しない自然状態を出発点として議論するのがいいだろう。こうすることで、国家擁護派の人が自らの立場を立証する責任を負う。「無政府でよかったのに、なんで国家なんて作ったの?」というわけである。

 国家という存在は人々に対してこのようにせよと要求する。もし国家が正当化されるならこの「権威」が正当化されなければならないだろう。オクスフォード大学のジョゼフ・ラズ教授は権威について、

  1.  権威が人々の行動を拘束できるのは、命令の存在とは独立に名宛人に妥当する理由が存在する(依存テーゼ)
  2.  各人がそれぞれ独自に彼(女)に妥当する理由に合致した行動をとろうとするよりも、むしろ権威の命令に従った方が、その独立の理由に、よりよく合致した行動をとることのできる蓋然性が高いから権威は正当化される(通常正当化テーゼ)

 と言っている。たとえば英語教師が「Repeat after me」と言ってるのに従わないといけないのは、生徒が英語を学習したいからであり、うまく英語を吸収するためには先生の言うことを聞いたほうがよさそうだからである。つまり国の権威に従えば人々が本来とるべき行動をよりよくとることができれば、権威は正当化されるわけだ。そこでよく指摘されるのは調整問題状況と囚人のジレンマである。

(調整状況問題)車は道路の右側を走ろうが左側を走ろうが別にどっちでもいいのだが、どっちかには決まっていてもらわないと困る。多少の便・不便は生じるにしてもとりあえず決めてもらって、みんながそれに従うことがまずもって重要である。このような調整問題はゴミの日のカレンダーなどに始まり、日常的に発生する。社会の自生的な慣習、暗黙の了解でも解決できるだろうが、国家の権威に従うことによっても解決する。

囚人のジレンマ協力すれば全体としてはうまくいくのに、相手が裏切るかもしれんので先に裏切っといたほうが合理的になってしまうジレンマである。たとえば、敵襲が来た時に二人で協力すれば撃退できるのに、相棒がビビって逃げたら残ったほうが死ぬ。この問題は公共財の利用にあらわれる。警察・消防・防衛といったサービスは対価を払わない人々にも及ぶので、全員がただでそれを利用してやろうなどと考えたら事業は立ち行かなくなり、全員が公共財を利用できなくなってしまう。そこで国家はルールを定め、すべての人から公平に徴収する。

 以上によって国家が正当化されたかどうかは議論の余地があるが、もし認められるなら、次のような帰結に留意しておかなければならない。

  • ※ みんなが国家の言うことを聞くのは国家がえらいからとかではなく、従ったほうが便利だからにすぎない。
  • ※ 権威の正当性は従ったほうが便利だからという一点に尽きるので、別の権威がその問題をよりよく解決しているなら従う理由はない。
  • ※ そのような事情もあるので、国家の権威は最高のものでも不可分なものでもない。国際機関のほうが適切に問題を解決するならそちらに従うべきである。
  • ※ この役割を果たすことが肝要なので、民主的な正統性は別に必須ではない。

 調整状況問題は慣習でどうにかなる部分があるので、権威を基礎づけるのはやはり囚人のジレンマの処し方であろう。ホッブズの社会契約論は自然状態をジレンマ状況だと考えてそれを解決する手段として国家を正当化する議論である。しかし、これは正しいだろうか。

 

 

社会契約論には二種類の正当化が使われている。つまり、自然状態での生活に勝るという帰結主義的なものと、自発的合意によって成立するという発生的なものである。だから仮に合意によらなかったとしても、帰結主義的には正当化されているわけで、やはり成立した国家は支持される。というか、実際のところ発生的な正当化を証明することなどできないのだからこの方面は最初から破棄しておいたほうがよい。

 さて、社会契約論による国家の成立がもたらす帰結は、囚人のジレンマ問題を国家が解決してくれて嬉しいというものだった。ところがこれに対して、「別に国家なんかいらないだろ」という議論を提出したのがゴーティエである。ジレンマ的状況に対して自分にとっての最大効用を重視する奴と、他者が協力してくれるなら他者のことも考慮にいれる協力的な奴の二通りを考えてみよう。要するに前者は「とにかく裏切る」、後者は「協力するなら協力する」。ホッブズが想定したのは前者のような対応をする奴らだったのだが、実は協力するなら協力するという当たり前のことをするだけで効用は増えるしそこに強制力などまったく必要ではない。

 しかしゴーティエの批判を聞いてすぐに思い浮かぶのは、そもそも「他者が協力しようとしているかどうかがわからないからこそ困ってんだろ」という反論である。そしてもっともっと問題なのは、彼の話がうまく進むのは、全員が全員協力的だからである。裏切られるかもしれない、いつ裏切られるかわからないとびくびくして逃げ出すタイミングばかりうかがっているような奴がいたら終わりなのだ。このことを逆から言えば、国家の使命というのはこういう人たちを強制することなのだ。

 

第二章 比べようのないもの

 アラスデア・マッキンタイアは、比較政治学がやるような国や文化を超える普遍的な政治学上の法則を見出そうとする試みに疑義を述べる。政治学の対象となる制度や行動は文化によってまったくその姿を変えてしまう。たとえばアフリカの「政党」と西欧の「政党」では全く性格が異なるのだ。このため、比較政治学においてはその機能を分析することできちんと対象として同定しようとしてきたわけだが、マッキンタイアはこれについてうまくいっていないと評価している。

 彼の疑義は比較憲法学においても適用できる。憲法の「言っていること」は、まったく同じ文言を持ってきても文化によって変化するからだ。比較不能性について、AとBがどっちよりどっちのほうがいいともいえず、価値が等しいともいえないときにそれが成り立つ。比較不能であることは価値が等しい事とは異なるわけで、たとえばふつう、休日に読書するか散歩するかというのは比較不能である。これには【構成的】なものも見られ、たとえばあなたの大好きなアイツが「かけがえないもの」であるのは構成的な比較不能性であり、あなたのほうで比較できないと決めてしまっているのだ。一億円で大好きな相手を売れるなら「かけがえない」わけではないということになる。そこには物差しなど存在しない。そもそも物差しを否定することによって「かけがえなさ」が生まれている。憲法に対しても「基本的人権を守る憲法っていい憲法だね」などと言っているのはこの種のコミットメントであって、これは構成的なものである。どっちがどんなふうにどうという物差しを得るためにはこれが邪魔になってくるのだが、この種の比較不能性は回避不能である。

 つまり、重要なのは客観的な物差しによって比較しようと考えるのではなく、【それぞれを理解可能なものとする内在的な視点】を探求し、この視点に基づいて記述することが求められている。ここにこそ比較憲法学の存立可能性と必要性がある。

 

 

 

にんじんの書棚「セレクション社会心理学6 他者を知る」

 対人認知とは、特定の他者について、さまざまな情報をもとにしてその人の性格を判断したりその人の行動を予測したりすることです。この本では対人認知を分類し、自分とのかかわりの深さをレベル1~4までに区別しています。そしてその認知がどのようなプロセスによって行われているかの主要なモデルをふたつ紹介し、いわゆる「ステレオタイプ」が関わりの浅い段階の相手に対する認知負荷を下げることと関係していることが書かれています。

 

 

 

にんじんと読む「感情の哲学入門講義」

 なにかの本質とは、それがなくなってしまうとそのなにかのままではいられなくなるようなものの規定のことである。私たちは具体例をいくつも挙げ、それらの共通項を抽出することでこの本質について考えることができる。

 私たちが「感情」というものを見る場面をいろいろ考えてみると、そこにいくつかの特徴があることがわかる。蛇を知覚し、蛇であると考え、鼓動が早くなり、それを感じ、逃げるという行動をとるとき、私たちはコワイと思っている。実際に知覚しなくても感情が起こることはあるので、思考・身体反応・感覚・行動が感情の本質に属するであろうことは考えられるが、いつも身体反応を感覚できるかどうかは怪しいので、さしあたって〈感覚できるケース〉と〈できないケース〉に分けて考えてみよう。

  •  自制心があれば、怒って即殴り掛かることはない。上で言う「行動」とは「行動の傾向」のことである。
  •  身体反応は行動傾向の実現のために起こり、それを感覚する。

 重要そうなのは「思考」と「身体反応」だろう。

 思考がなければ感情はありそうもないが、言葉を何も知らない赤ちゃんはまったく何も感情がないのだろうか。あるいは動物には、なんの感情もないのだろうか。もしこれに納得できないなら、もう少し考えすすめてみる必要がある。

 ジェームズ・ランゲは感情を身体反応の感覚だと言った。人は泣くが、悲しいから泣いているというより泣いているのを感じるその感覚が悲しいということなのである。だがこの説でいくと、身体反応以外感じられないのでペットを失ったときの悲しみがよくわからなくなる。私たちが悲しいのは身体反応というよりも、ペットを失うということのほうであるのに、ランゲの説はその当たり前だが重要な点を見逃してしまうのだ。ランゲ説は納得いく面もありながら、ペットは私たちにとって大切でその喪失こそが悲しみをもたらしているということを説明してくれない。

 そこで思考がふたたび取り上げられる。感情には身体反応も含まれるのだけれども、そこには認知的な要素もありつまりは二つの組み合わせなのだと主張する。

 感情二要因説においては、感情とは身体反応の解釈である。蛇を見たら心臓がドキドキし人はそれを感覚するが、それを危険だと解釈することで恐怖が産まれるのだとした。つまり身体反応がまったく同じでも解釈によって感情が変わることも示唆している。この説においては「身体反応→思考」とモデル化されているが、日常的な感覚とはズレている。たとえば蛇を見つけたとき、心臓の鼓動を感じるより先に危険を感じてから鼓動を感じるだろう。

 この順序を逆にしたものが評価理論である。まず対象の価値を把握しそれによって身体反応が起こるのである。価値把握には言語が大きく関わっているが程度差があり、きわめて単純な内容ならば言語がなくてもよいこともあるだろう。なにも学習することなく有している感情を基本感情というが、その数については議論があり決着を見ない。

 

 では次のパターンを考えてみよう。

 つり橋を渡っているときは平気だったが、渡り切ってみると手がぶるぶると震え立っていられなくなったとしよう。このとき、私たちは恐怖を感じていたのだろうか。この場合でも価値認識と身体反応が連鎖しているため意識していなくても恐怖という感情があったと言ってしまうことができる。