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にんじんと読む「感情の哲学入門講義」

 なにかの本質とは、それがなくなってしまうとそのなにかのままではいられなくなるようなものの規定のことである。私たちは具体例をいくつも挙げ、それらの共通項を抽出することでこの本質について考えることができる。

 私たちが「感情」というものを見る場面をいろいろ考えてみると、そこにいくつかの特徴があることがわかる。蛇を知覚し、蛇であると考え、鼓動が早くなり、それを感じ、逃げるという行動をとるとき、私たちはコワイと思っている。実際に知覚しなくても感情が起こることはあるので、思考・身体反応・感覚・行動が感情の本質に属するであろうことは考えられるが、いつも身体反応を感覚できるかどうかは怪しいので、さしあたって〈感覚できるケース〉と〈できないケース〉に分けて考えてみよう。

  •  自制心があれば、怒って即殴り掛かることはない。上で言う「行動」とは「行動の傾向」のことである。
  •  身体反応は行動傾向の実現のために起こり、それを感覚する。

 重要そうなのは「思考」と「身体反応」だろう。

 思考がなければ感情はありそうもないが、言葉を何も知らない赤ちゃんはまったく何も感情がないのだろうか。あるいは動物には、なんの感情もないのだろうか。もしこれに納得できないなら、もう少し考えすすめてみる必要がある。

 ジェームズ・ランゲは感情を身体反応の感覚だと言った。人は泣くが、悲しいから泣いているというより泣いているのを感じるその感覚が悲しいということなのである。だがこの説でいくと、身体反応以外感じられないのでペットを失ったときの悲しみがよくわからなくなる。私たちが悲しいのは身体反応というよりも、ペットを失うということのほうであるのに、ランゲの説はその当たり前だが重要な点を見逃してしまうのだ。ランゲ説は納得いく面もありながら、ペットは私たちにとって大切でその喪失こそが悲しみをもたらしているということを説明してくれない。

 そこで思考がふたたび取り上げられる。感情には身体反応も含まれるのだけれども、そこには認知的な要素もありつまりは二つの組み合わせなのだと主張する。

 感情二要因説においては、感情とは身体反応の解釈である。蛇を見たら心臓がドキドキし人はそれを感覚するが、それを危険だと解釈することで恐怖が産まれるのだとした。つまり身体反応がまったく同じでも解釈によって感情が変わることも示唆している。この説においては「身体反応→思考」とモデル化されているが、日常的な感覚とはズレている。たとえば蛇を見つけたとき、心臓の鼓動を感じるより先に危険を感じてから鼓動を感じるだろう。

 この順序を逆にしたものが評価理論である。まず対象の価値を把握しそれによって身体反応が起こるのである。価値把握には言語が大きく関わっているが程度差があり、きわめて単純な内容ならば言語がなくてもよいこともあるだろう。なにも学習することなく有している感情を基本感情というが、その数については議論があり決着を見ない。

 

 では次のパターンを考えてみよう。

 つり橋を渡っているときは平気だったが、渡り切ってみると手がぶるぶると震え立っていられなくなったとしよう。このとき、私たちは恐怖を感じていたのだろうか。この場合でも価値認識と身体反応が連鎖しているため意識していなくても恐怖という感情があったと言ってしまうことができる。