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(メモ)協力の条件

テーゼ1:行為の主観的最適性 意図的、自覚的に複数の選択肢から行為を選択するという場面においては、人びとは主観的に最も望ましいと思われる行為を選択する。

協力の条件

 人は自身にとって望ましい行為を選択する。問題が生じるのは、互いに協力すれば望ましい状態が達成できるにも関わらず、個人としては協力しないほうが利益になるようなジレンマ状況である(協力問題)。この問題を解決するにはそのゲーム自体の構造を変える以外に方法はない。このゲームチェンジャーがなんであるのかが課題となる。定式化すれば協力問題とは、次の二つの事態が同時に成立している状況である。

  1.  集団レベルでは、より多くの人々が協力することで、集合的な利益が達成できる。
  2.  個人レベルの利益の観点からは、協力しない方が協力するよりも望ましい。

 ゲーム理論は方法論的個人主義を旨とする。つまり社会現象とくには経済現象をあくまで個人レベルの諸変数によって記述して説明する立場である(経済学者J.シュムペーター1908)。そこでたとえば「制度」のようなしくみが説明項として用いられることはなく、それはあくまで人々の行動パターンとして扱われる。

※ところで仮に主観的な望ましさと自己利益が同一ならば集団の規範に従うこともまた「利己的」なこととなるが、このような言葉遣いは、自分の利益しか考えていない場合と集団や他者の利益を重視している場合の区別をするための理論的な視座を失わせてしまう。『人間はみんな利己的なもんでしょう』という言葉は、””狭い意味では””という注釈がつけられたほうがよさそうだ。

※「合理性」は望ましさに対するものであり、そもそも主観的なものであるから、全知全能のような想定はありえない。限定合理性はこれを言い表したものだが、この言い回しは””限定されない合理性””があるかのような含みをもってしまうため使用には注意を要する。

※ここで「協力」とされているのは集合的利益に資するという特徴を持っているものであって、いかに協力らしい行為でも協力になっているとは限らないし、協力らしくない行為でも協力になっている場合がある。

 協力問題は、社会がどのようにしてよりよく秩序付けられるかという問いである。この問いかけは古代からなされてきた。近世におけるもっとも代表的な思想家はホッブズであり、彼は『人びとは合理的で自己利益を追求しようとする』と前提したうえで、そこに秩序があるのは人びとは闘争を回避するために国家に権力を委譲するのだと説いた。これはホッブズによる協力問題の解決策の提示ととれる。一方、ロックは「自然状態」における人間の権利「自然権」を重視しそれを基盤に政治共同体を創設できると考えた。この自然権という発想はホッブズにおいては国家樹立とともに捨て去られるべきものとして扱われている。

 そうとはいえ、自然状態とか自然権とかいう概念は今日理解しがたい。日本国憲法においても生存権などは自然権のひとつだとする学説や、「生まれながらにして」は自然状態のことを基盤とするなど、これらの概念は大きな影響力をもっているのだが、誰も自然状態にある人間など知らないし、確認することもできない。より経験的な事実に基づいて社会理論を構築しようとしたのがヒュームであり、『現実の人びとはむしろ「自生的」に協力し合って社会秩序を形成する傾向をもともと有して』いるのだとした。彼はこの自生的に協力者秩序が生まれるしくみを「コンベンション」=「自生的秩序」と呼んだ。

 二つの理論は人びとの自発性に委ねるか、別の取り決めが必要だと考えるかで対立する。

※コンベンションの定式化を試みたのがルイスであり、

ある集団Pにおいて、彼らが再起的状況Sにおける行為主体である時、彼らの行動における規則性Rは以下のとき、そしてその時にのみ、コンベンションである。すなわち、Pの成員の間でのいかなる状況Sにおいても、

(1) 全員がRに同調する

(2) 全員が、他の誰もがRに同調すると期待している。

(3) Sは調整問題であって、Rへの斉一的な同調が、Sにおける固有の調整均衡であるので、全員が、他者がそうするという条件のもとでRに同調することを選好する。

(4) かつ、これらのことが共有知識である。

協力の条件

 難点も、数多くの批判もあるが、ヒュームの思想をゲーム理論的な枠組みを用いて明確にしているとされる。