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「現代哲学のキーコンセプト 真理」ch.2

客観性

 《真である》という性質は、誰がなんと考えていようと持つものなのか、そうではないのかという問いは「客観性」というテーマに括られている。真なのか偽なのかわからない主張(特に、原理的に知り得ないようなもの)でさえも真や偽でありうるのだろうか。さらに言い換えれば、真ではあるが知り得ない主張は存在するのだろうか。

  1.  実在論:それが誰かに信じられていること、あるいは誰かがそれを知る可能性にすら真理が依存していないような主張というものが存在する 実在論はつまり「誰がどう考えていようが世界はあるがままにある」という常識的な立場を擁護する。真である主張は真であるがゆえにそう知られるのであり、知られ得るから真であるわけではない。この立場にある人間は『620億光年先に奇数個の水分子がある』という主張は知り得ないが真か偽かのいずれかである、と述べる傾向にある。
  2.  相対主義:いかなる主張の真理もそれをだれが信じるかに常に依存するという意味で、真理は常に意見の問題である 相対主義者は、真理と虚偽は人びとが何を信じるかに依存していると主張する。なにかが面白いのはそれを面白いと考えるということを含意する。真理とは常にだれかにとっての真理である。
  3.  反実在論:ある主張を真にするもの一部には、私たちがそれを知ることができるという事実が含まれ、そのため、私たちが真か偽か知り得ないような主張は、真か偽かにはなりえない 反実在論は真理に信念が関係していると思っていないが真理は誰かにとっての真理だとは言わない。真であることと認識可能性は密接に結びついており、620億光年先の水分子が奇数かどうかなど知る方法がないのだから真だとか偽だとかそういうことはいえない。それについての事実は存在しないのである。

 実在論はたいへん常識的だが、「世界がどうあるか」「世界がどう見えるか」を根本的に分離してしまうのでそもそも何も知り得ないのではないかという懐疑を誘発する。どれだけ確かめようがどれだけ確からしかろうがそれは「どう見えるか」の話にすぎないのである。たとえば哲学者カントは《実在の不可知の世界》がないと私たちの経験は不可能になると論じ、そして私たちの知識というものを《現象の世界》に限定したのである。あるいは、真であることを知るために誤る可能性のない完璧な証拠を用意すべきだという前提を攻撃する手もある。

 相対主義にはさまざまなバリエーションがある。主観主義においては、真理は個人に相対的である。合意相対主義においては、真理は集団に相対的である。主観主義の問題点は明らかに、誰も決して間違わないことになってしまう点である。合意相対主義も同様の問題を回避できておらず、その文化集団で地球が平らだと信じられているならばそれが真になるだろう。また、よく知られているように相対主義の主張自体が相対的なのかという問題もある。それに、Aさんが「Bは冷蔵庫に牛乳があると思ってる」と信じ、Bさんが「俺は冷蔵庫に牛乳があると思っていない」と信じていたら、相対主義において一つの正しい答えは存在しない。これはそもそも誰かから「いやそれは違うよ」と言われたら「いや俺にとってはこうだから」という破滅的な帰結を正当化する。

 反実在論は、真理値を見いだせないならいかなる事実も存在しないという。彼らの見立てではなにか主張が真であるというのは、それが真であると見出すのはどういうことだろうかと想像すること以外には何もない。まさに真理の概念=認識可能性の概念なのである。

 実在論者なら言うだろう。:恐竜は化石が最初に発見されたときに存在し始めたわけではない。つまり恐竜について何も見出すことができないとしてもそうであろうことがあると想定することは容易だ。それに、たとえば《最後の恐竜個体は一週間のうちどこかで死んだ》わけだが、これは七つの命題《最後の恐竜は〇曜日に死んだ》を∨で繋げたものである。各々の命題をチェックする方法などなくても一週間のうちどこかで死んだことぐらいわかる。古典論理を放棄するのと反実在論を放棄するなら後者のほうがましだ。さらに反実在論はアロンゾ・チャーチによる「認識可能性のパラドクス」を引き起こす。つまり、すべての真理は知り得るというならすべての真理はもうすでに知られている、というパラドクスである。このパラドクスの論証はやや複雑で、決定的に反実在論を論駁するものではないが、少なくとも反実在論者は完全に正常な文が真でも偽でもないという考えに踏み込んでおり、古典論理の二値原理を放棄しないといけないように思われる。というのも、チャーチによれば、反実在論者は彼の議論に含まれる次のいずれかを拒否しなければならないからだ。

  •  もしpが知られているならばp
  •  もし「pかつq」が知られているならば、pは知られており、1qも知られている。
  •  知られていない真理も存在する
  •  二値原理+「知られていない真理はない」と「すべての真理は知られていない」の同値性