にんじんブログ

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にんじんと読む「フッサールの現象学(ダン・ザハヴィ)」🥕 ①フッサールの心理主義批判

フッサール心理主義批判

 『知覚すること、信じること、判断すること、認識すること、これらはいずれも心理的現象であるから、これらの構造を調べるには心理学を用いなければならない。つまり論理学というのは結局心理学の一分野であり、論理法則は心理学的に、経験的に探究されなければならない』―――こういう考え方を心理主義という。フッサールが指摘した心理主義の根本的な誤りは「認識対象」と「認識作用」を区別できていないことだった。

 たしかにピタゴラスの定理はそのつど言及され、理解され、見られ、認識されるものであるのだが、「ピタゴラスの定理」について語るとき、ひとは主観的経験ではなく、非時間的・客観的・永遠に妥当するものとして、これを語っているのである。非時間的・客観的・永遠に妥当するもの、といったような言葉が何を意味するかはともかく、実在と理念は意識において区別されている。そしてこれを解き明かすためにこそ、私たちは「意識」を探求するのである。

 ここで注意しなければならないのは、フッサール心理主義を批判しながら心理主義に立ち戻ったのではないということだ。彼は心理主義批判を通して、対象と作用を区別することを学んだ。それと同時に、対象と作用の根本的な結びつき――対象というものはどうしても作用がなければ成り立たない――に気が付いたのである。フッサールはこの根本的な結びつきを手掛かりに、理念性(たとえば「ピタゴラスの定理」)が最終的に私たちに与えられる仕方を理解しようとしたのだ。心理主義は対象をすべて作用に還元してしまうが、フッサールは対象を作用との関係において理解しようとする。

 

 

 

にんじんと読む「貧しい人を助ける理由」🥕 途中まで

 四つの基礎的人間的ニーズは、飲み水・食料・住居・基本的な保健医療サービスである。およそ30億人がいずれかひとつが欠けた状態にあり、毎日5秒に1人の割合で死ななくていい子どもが死んでいく。祖父母世代ではこうした状況を「十分な資源がないからだ」と信じていたが、モノに溢れた現代ではもはやこの考えは維持できない。世界全体の収入の1%を貧しい地域に振り向ければ1日1.9米ドルで生活する人の数をゼロにできるのである。

 私たちは貧しい国の人々を助けるべきなのだろうか? ———この問いに対して、この本では、それが道徳的に正しいことであるだけでなく、それが自己利益の追求に繋がると主張する。

 

 困っている人を助けなければならない理由とされるものは大きく分けて四つある。

  •  第一に、道徳的義務である。これが一番わかりやすい。
  •  第二に、道義的責任である。要するに、貧しい国が貧しいのは金持ちが金持ちだからで、その構造をとどめている金持ち国に責任があるのだ。
  •  第三に、共通利益である。要するに、排斥された人たちが社会を脅かすような極端な行動をとらないようにし、助けることで経済的機会を生み出し、公衆衛生上の問題をなくすために、助けるのである。
  •  第四に、短期的な政治的・商業的利益である。弱い国に援助し、自分の仲間にして敵国を出し抜くのだ。

 一方で、援助などしないほうがいいという意見もある。

  •  援助しても指導者や上層部がカスだからムダ金になってしまう。
  •  援助は援助予算で食っている官僚やコンサルの懐に入る。

 

 しかしそもそも「貧しい」とはなんなのか。この貧困ラインの引き方にはさまざまある。金持ち国の人々が想像する貧困は、まさに今とんでもない状況にさらされ命からがら逃げて来たような人達だが、こういう緊急すぎる内容ばかり扱っていては慢性的な貧困が見過ごされてしまう。彼らは自然災害や紛争の被害者であるとは限らないのだ。彼らの中には一日12時間以上もぶっ通しで毎日働いてようやく食えるか、食えないかのレベルで生きている人もいる。

 もし貧困を「所得の不足」だとするなら、あなたは経済成長こそが解決策だと考え市場を中心として取り組むことになるだろう。あるいは健康、教育、水、衛生などを重視するなら、公共的な提供に取り組むことになる。あるいは人権の軽視が問題だとするなら、権力の再分配など抜本的な改革に取り組むことになる。

 

 

 

コンビニの店員(日記)

2022.05.12記

 この前コンビニに行ったら支払が機械になっていた。金を出したら店員が「どうぞ」と言って機械を指差し、こちらの様子をうかがっている。支払いを済ませるとレシートが出てきて商品をとって帰ったのだが、店員がその間中、ずっとこちらの様子をうかがっている。ちらりと店員のほうを見ると実につまらなそうな顔をしていた。この人は客が持ってきた商品を「ピッ」するために存在しているらしい。

 こうなると、そのうちコンビニのレジに店員は誰もいなくなるだろう。図書館だってそうで、わざわざ「ピッ」してもらわなくても今は自動貸し出し機もある。複写依頼もネットでできるだろうし、利用するとしたらレファレンスか。しかし、このぐらいなら事務方でも対応できるだろうし、委託ばかりで非正規の多い「司書業」はもうだめかもしれない。要するにカウンターがあって、或る程度型の決まった対応をする仕事は全部なくなる。にんじんたちが「人がいる」ことが当たり前の最後の世代かもしれない。

 

 

にんじんと読む「経験の構造」🥕 第二章

第二章 真理と実在

 現出を手持ちに説明していこうとするとき、「あれはたしかにヘビだ」というためには、ありとあらゆる側面から完全に「ヘビである」ということがわかればよいということになるが、””ありとあらゆる側面””などそれこそ無限にあるわけで一生真理には到達できないということになる。『だとすれば、真理について語ることにいかなる意味があるのだろう』。

 第一に、真理は個別の経験を可能にするものとしての超越論的機能を持つ。目の前に見えているスマホはそのつどそのつどの知覚体験を超えた「同一物」である。仮にスマホを見失おうがその間スマホが消滅している訳ではない。そのつどの知覚体験を超えて自己同一性を保っているという経験が可能になる条件を超越論的条件と呼べば、真理はまさにその機能を果たすのである。一般に、A1がBのアスペクトであるとは、Bに対する知覚条件が変化した結果得られる系列のなかにA1が位置づけられることである。スマホのほうを見ていないときスマホが見えないのは当然であり、もしどこを向いても何をしていてもスマホが視界の片隅にあるようならそのほうが異常である。系列とは経験進行の規則であり、完全な系列こそ真理に至るものである。系列があってこそアスペクトアスペクトたりうるので、個別の現出という経験は真理との関係のなかにある。

 第二に、さっきまでロープだったものがヘビだとわかったときのことを考えよう。道に落ちているロープは勝手に動かないし、チロチロと舌を出すことはない。だというのに近づいてみると「ロープ」がしない挙動をしている。するとその挙動は目の前のそれがロープであることを否定し、より整合的な「ヘビ」へと意味全体が変化する。同一化綜合に「さっきの、茶色くて細長いものは、舌を出して動いている。それに……だ。ゆえにこれはヘビだ」というものが付け加わる。ロープに見えたこともヘビに見えることもその時点では明証で、はっきりとした経験だったのだが、ヘビの明証によってロープの経験が訂正され、新たな反証が現れるまではそれが妥当し続ける。しかもそれまでは過去・現在・未来のすべての時点で正しいものとして有効になるのである―――ここに「時間の流れを超えて、永遠に妥当するもの」の場所がある。明証の相対性から真理の絶対性が解明されるのはこの構造によるものだ。もちろん、なにがその場所を埋めるものなのかは特定されない。

 第三に、この真理は、絶対主義も相対主義も回避できる。これまで見てきたように、いかなる認識も絶対的ではありえない。そればかりではなく、そもそも「真理」自体をあらかじめ存在するものだとしていないので、それを手に入れられる(絶対主義)とも、手に入れられない(相対主義)とも考えないのだ。

このような経験構造から脱出不可能なわれわれになしうることは、手持ちの認識を絶対的と主張することでも、その相対性に居直ることでも、あるいは絶対的真理が入手不可能であることに悲嘆することでもない。破綻をきたしたものとして排除されない範囲内で、現在手持ちの材料から主張しうることを主張すること、真理の否定的機能に反しない限りで弁明可能なことを主張することなら、志向的相関の限界内にある人間にも可能である。

経験の構造―フッサール現象学の新しい全体像

 ところで、能動的活動が行われるためにはその前提としてさまざまな周囲環境が既に与えられている。それによってはヘビをロープに見間違えることなく「あっ、ヘビだ」と最初から言えたかもしれない。周囲環境は何を知覚するかの前提である。

 この認識活動の前提たる周囲環境は「受動的先所与性」である。つまり前提であるがゆえにあらかじめ観察したり確証するということはおこなわれない。またそれゆえに、周囲環境に「疑い」などが差しはさまれる余地は一切ない。そもそもそれがないと能動的認識活動ができないのだから。

 このような周囲環境のことをフッサールは「土台としての世界」と呼ぶ。経験に先行していつでも世界は構造化されており、それ以前とか構造化に居合わせることとかは原理的にありえない。そうした世界は経験によって可能になるものではなく経験に先立つもので、経験が可能であるために必然的に要求される。

 こうした「世界」はもちろん、能動的な活動や検証作業をするフィールドを提供するが、このフィールドでなにが正しいかなどを根拠づけるものではない。経験の構造のなかに組み込まれたこの世界は基礎づけ主義のプログラムそのものを否認している。

 

 

 

にんじんと読む「経験の構造」🥕 第一章

第一章 能動的認識行為の現象学

 なにかを観察する。森があって、道があって、途中にロープが落ちている。……と思い近づいてみると、ロープはヘビであった。ここでいくつかのことを確認しておこう。

  1.  同じものでも、それを見る視点が変われば見え方・現れ方が変化する。
  2.  それそのものと、見え方・現れ方は区別される。ロープに見えたからといってヘビがロープだったわけではない。
  3.  なんらかの現れ方を介さずに、なにかを見ることなどできない。現れ方を超えてモノ自体を直接観察することはできない。

 同一のものがさまざまに現れるその仕方を「現出」と呼ぶ。だがそのモノ(「現出者」=現れているもの)が現出を介するしかないのなら、そのモノが実在しているといわれるためには何が必要なのか。たとえば””ロープだと思ったらヘビだったもの””はもっと近づけば、もしかしたらハリボテかもしれないではないか。一体いつまで調べればいいのか。

 フッサールは手元にある多様な現れから出ようとはしなかった。その多様な現れを用いて、なにものかについての経験が形成されるメカニズムを分析することによって、たとえば「実在する」ということの意味を解明しようとしたのである。

 実在経験において最も重視される現れは「明証」である。なにかが明証的に与えられているというのは、それがはっきりと、判明に見えていることである。フッサールが言いたいのは明証的に与えられていればすなわち真理・実在だということだということではない(「指標説」)。 → まず、わっと飛び出してきたものが動物のキーウィであるという明証が与えられるためには、明らかにキーウィについて事前に知っておく必要がある。次に、ロープだとはっきり明証的に与えられてもヘビであることは当たり前にありうる。そしてヘビであることもはっきりと与えられるだろう。

  •  Q.1:じゃあ明証で何をどうしようというのか?
  •  Q.2:明証で間違い得るなら一体私たちは何を見ているのか?

 まずはフッサールの「対象」概念をはっきりさせよう。対象とは「同一化可能なもの」である。同一化は””AはBである””という風に行われるが(日本の第100代内閣総理大臣岸田文雄である)これが同一化になっているのは、この言明は思念されたAとBが同一だということではない。そうではなく、この言明を通して対象が定義されているからである。つまり、Xは日本の総理であり、Xは岸田文雄であるという二つを統合する同一点(X)が対象なのである。私たちは岸田文雄についていくらでも述語を付与していくことができる。このメカニズムを「同一化綜合」と呼ぶ。バードウォッチングをして「中型で茶色いもの(X)がやぶの中に見えた。そのもの(X)は低く空を飛びながら××と啼き、また、そのもの(X)はかくかくの飛び方をする」という経験において進行するさまざまな述語を相互に結び付けるプロセスが同一化であり、言い換えれば複数の作用同士の関係である。

述定と独立に存在する実在物によって同一性言明の真偽ならびに対象を説明する代わりに、同一化綜合によって対象を説明する”コペルニクス的転回”によってフッサールは事態を打開した。

経験の構造―フッサール現象学の新しい全体像

※ 同一化綜合によって対象を定義するやり方は、語と対象の関係を考え直させる。要するに「犬だ」と一言言っても、基本的に「Xは犬だ」しかなく、それ以外の情報は一切ない。

※ だからむしろフッサールはこう主張する。あるものについて何度も何度も働きかけるという可能性があるからこそ、対象は成立するのだ。これは「対象の成立のためには反復の可能性がなければならない」よりもっと過激な主張で、「反復の可能性があるがゆえに対象が成立する」のである。

※ Xとその述語からなるものをノエマと呼ぶ。さまざまな述語的規定とそれをとりまとめる「犬」という意味と、知覚しているとか想像しているとかの経験様態、確かだとか疑わしいとかの存在様態のすべてを合わせたものがノエマの内実であり、同一化綜合を示すものとしてXがある。

 

 

 

 

にんじんの書棚「終わりなき探究 The Eternal Wonder」

 今回はパール・S・バックの遺作である「終わりなき探究」です。

 物語は胎児の段階から始まり、彼の経験を描写していきます。泣きました、という感想でもよいのですが、この小説には色々なものが詰まっていて、とても頭が良い主人公でさえも抱えきれないほどの現実の複雑さが胸を打ちました。人生で起こる個々の動揺に悲しくて泣くのももちろんなのですが、どちらかといえば、一人の人生と連なっていく世代のその果てしなさに泣いてしまうようなところがあります。