第一章 能動的認識行為の現象学
なにかを観察する。森があって、道があって、途中にロープが落ちている。……と思い近づいてみると、ロープはヘビであった。ここでいくつかのことを確認しておこう。
- 同じものでも、それを見る視点が変われば見え方・現れ方が変化する。
- それそのものと、見え方・現れ方は区別される。ロープに見えたからといってヘビがロープだったわけではない。
- なんらかの現れ方を介さずに、なにかを見ることなどできない。現れ方を超えてモノ自体を直接観察することはできない。
同一のものがさまざまに現れるその仕方を「現出」と呼ぶ。だがそのモノ(「現出者」=現れているもの)が現出を介するしかないのなら、そのモノが実在しているといわれるためには何が必要なのか。たとえば””ロープだと思ったらヘビだったもの””はもっと近づけば、もしかしたらハリボテかもしれないではないか。一体いつまで調べればいいのか。
フッサールは手元にある多様な現れから出ようとはしなかった。その多様な現れを用いて、なにものかについての経験が形成されるメカニズムを分析することによって、たとえば「実在する」ということの意味を解明しようとしたのである。
実在経験において最も重視される現れは「明証」である。なにかが明証的に与えられているというのは、それがはっきりと、判明に見えていることである。フッサールが言いたいのは明証的に与えられていればすなわち真理・実在だということだということではない(「指標説」)。 → まず、わっと飛び出してきたものが動物のキーウィであるという明証が与えられるためには、明らかにキーウィについて事前に知っておく必要がある。次に、ロープだとはっきり明証的に与えられてもヘビであることは当たり前にありうる。そしてヘビであることもはっきりと与えられるだろう。
- Q.1:じゃあ明証で何をどうしようというのか?
- Q.2:明証で間違い得るなら一体私たちは何を見ているのか?
まずはフッサールの「対象」概念をはっきりさせよう。対象とは「同一化可能なもの」である。同一化は””AはBである””という風に行われるが(日本の第100代内閣総理大臣は岸田文雄である)これが同一化になっているのは、この言明は思念されたAとBが同一だということではない。そうではなく、この言明を通して対象が定義されているからである。つまり、Xは日本の総理であり、Xは岸田文雄であるという二つを統合する同一点(X)が対象なのである。私たちは岸田文雄についていくらでも述語を付与していくことができる。このメカニズムを「同一化綜合」と呼ぶ。バードウォッチングをして「中型で茶色いもの(X)がやぶの中に見えた。そのもの(X)は低く空を飛びながら××と啼き、また、そのもの(X)はかくかくの飛び方をする」という経験において進行するさまざまな述語を相互に結び付けるプロセスが同一化であり、言い換えれば複数の作用同士の関係である。
述定と独立に存在する実在物によって同一性言明の真偽ならびに対象を説明する代わりに、同一化綜合によって対象を説明する”コペルニクス的転回”によってフッサールは事態を打開した。
※ 同一化綜合によって対象を定義するやり方は、語と対象の関係を考え直させる。要するに「犬だ」と一言言っても、基本的に「Xは犬だ」しかなく、それ以外の情報は一切ない。
※ だからむしろフッサールはこう主張する。あるものについて何度も何度も働きかけるという可能性があるからこそ、対象は成立するのだ。これは「対象の成立のためには反復の可能性がなければならない」よりもっと過激な主張で、「反復の可能性があるがゆえに対象が成立する」のである。
※ Xとその述語からなるものをノエマと呼ぶ。さまざまな述語的規定とそれをとりまとめる「犬」という意味と、知覚しているとか想像しているとかの経験様態、確かだとか疑わしいとかの存在様態のすべてを合わせたものがノエマの内実であり、同一化綜合を示すものとしてXがある。