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にんじんと読む「関係からはじまる」第三章

第三章 関係によって生み出される自己

 境界確定的存在から関係規定的存在へと見方を変えることは、私たちの内側と外側という境界を取り払うことでもある。デカルトは『方法序説』において、疑わしいものをすべて脇に置いて哲学を始めることとした。その結果見つかったのは、「疑っている自分の存在」「自分が考えているという事実」だと彼は言う。だがどうして彼は自分が考えているということを知ることができたのだろう? 疑いについての公的な言説を獲得していなければ、自分が疑っていることを知ることなどできないのではないのか? フロイトは私たちの欲望や恐怖といった重要な内容は意識から隠されているのだと主張したが、いったいなぜ自分の意識を覗きこんで意識にないものを読み取れたのだろう?

 私たちは心的状態に言及する多種多様な言葉を持っており、これをなくすと日常生活のすべてが変わってしまう。だが「私はこう思っている」という言葉は、あなたの内的世界についての観察を報告したようなものではない。心の言説は関係によって生まれ、ある文脈における関係のなかで関係のために機能する。「私はとても悲しい」という言葉は、それを聞く相手に何かを訴えることを通じて生まれ、何かのために機能する。私たちが自分が何をしようとしているのか、どんな意図を持っているのかがわかるのは、自分の心の内側を覗くからではなく、自分がしているパフォーマンスがわかるからである。

 では経験や記憶はどうなのか。私たちがなにかを経験するのは私たちがなにに価値をおき、何に注意しているのかに依存する。それは社会的な伝統の制約を受けるものである。もちろんトラックに注意しないからと言って轢かれないわけではないが、私たちにとっては、注意を向けなければ存在しないものとなる。すなわち、経験は関係のなかのひとつの行為なのである。そして記憶というものは、互いの相互反応によって作られ続ける(たとえ自分一人で相手が不在でも)。