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にんじんと読む「関係からはじまる」第四章

第四章 関係としてある身体――感情、快楽、苦痛

 関係のなかに埋め込まれているものはいわゆる「心」だけでなく、「身体」にも及ぶ。私たちがどこまでを自分の身体と呼ぶかは、関係の伝統のどこに立っているかに依存する。私たちは身体という家に住んでいて、そこに感情や快苦が住んでいると思い込んでいるが、実のところ、それらもまた本質的に関係のなかのパフォーマンスなのである。実際、私たちは感情というものがどういうものであるのだか完全な合意には至ってはおらず、そもそも何が感情であるのかさえ決めかねている。

 感情のパフォーマンスが妥当であるかどうかは関係の中で決まる。怒りのパフォーマンスは常にできるわけではなく、いきなり知らない人から道の途中で「怒ってます!」と言われても私たちの文化では理解されない。私たちはふつうの場合、彼が怒っているなにか正当な理由があると考える。「どうして?」というのは私たちのシナリオ――怒りの表出に対する可能な答え方の範囲――を指し示す。文化の慣例からすると、

「ごめんなさい」(謝罪)

「ちょっと待って。私はやってない」(再構成。怒りの正当性を取り去る)

「はぁ? いきなりなんなわけ?」(いらだち)

 などの答え方が当たり前になる。これに対してどう応じるかで怒りのシナリオが続くかどうか決まってくる。そしてもちろん””いらだち””で返すともっと強い怒りが帰ってくる。

 私たちがいわば””自発性””というものを持つかどうかは、このシナリオをどれぐらい知っているかに依存する。たとえば校舎裏で告白することしか愛の表出を知らなければ、とにかくどこかの裏に相手を呼び出すだろう。興味深いのは私たちの文化ではこの感情のパフォーマンスは常に新たに創造されなければならず、何回も同じことをするととでもなく陳腐なものに思えるということだ。よくあるやり方をそっくり真似してはならない。そうでなければその人の内側から沸き立っているものだと信じることができないのだ。

 

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