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にんじんと読む「関係からはじまる」第二章

第二章 関係こそすべてのはじまり

「自己を有する個人」とは、自然ではなく言語が作り出した状態である。

関係からはじまる―社会構成主義がひらく人間観

 長く続いてきた「境界確定的存在」という伝統的な世界の見方は、そもそも関係からはじまる。たとえばあなたが手を上げる時、これが挨拶をするという行為になるのは手を挙げてくれる誰かがいるからだということを忘れてはならない。グラウンドの真ん中で突っ立っている彼は、ボールやベースなどの諸要素との関係のなかで、野球をするのである。より一般的に言えば―――それ自体で意味をもつ行為、すなわち他から切り離してそれが何であるかがわかるような行為はありえない。

 私たちがシマウマというものを見つけたのは、このような場面かもしれない。幼い息子を動物園に連れて行った父親が「ほら、シマウマだよ」という。子どもは「ウマ、ウマ……」といい、父親が「違うよ。ウマじゃなくて、シマウマ」という。「シマンマ?」「シマウマ」「シマウマ?」「そう。あれがシマウマだ。見てごらん。しましま模様がついてるだろ」この親子の相互の反応によって、子どもの生きる世界にシマウマが誕生したのだ。

 このことは別に、それまでシマウマというものが存在しない、と主張したいわけではない。物理的な世界、山、木、太陽と私たちが呼ぶようななにかは、呼ばれるようになる以前にもそこにあっただろう。ここで言いたいのは、そうした「何か」が「山」「木」「太陽」として現れるのがこうした相互作用を通じてだということである。もし一人きりでいるときも、たとえば一人でこもって文章を書いているときも、その起源はたとえば会話に参加することにある。その誰かが実際に目の前にいないこと、声を出していないことは物資の問題に過ぎない。理解可能なふるまいをすることは関係に参加することである。そしてもし、なんの関係もなさそうな無意味な行為というものを考案したとしても、理解可能でないという問いに答えようとしてくれた結果である。

 そしてこうした社会的文脈は多数あり、私たちはいくつかを乗り換え、新たに別の文脈へと挿入されたりする。そこで新たな意味を獲得する。たとえば抱擁は愛情のしるしとして、寝るときの母親との関係を愛するパートナーとの関係へと借用する。そこでは「もう寝る時間」ではなく「一緒に寝よう」という意味だろう。

 水をコンロにかければ沸騰する。これは原因と結果という独立した二つから成ると考えられており、これを因果的説明という。当たり前だが境界確定的存在という世界の見方を代替案に置き換える時に、この種の知識を一切投げ捨てなければならないわけではない。ただ原因と結果というものが独立したものではなく、互いに互いを定義し合っていることを思い出せばよい。ただそこに立っている人が野球をしていることにはならないように、沸騰している水はいくらかの要素や状況などの「合流点」なのである。