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「現代哲学のキーコンセプト 真理」ch.5

真理とは何であるか②

 真理の認識説がテストをする私たちを重視していたのに対して、「真理の対応説」は世界の側を重視する。「対応説」においては、真なる主張とはその主張が実在に対応するということに他ならないとする。””いかに実在に対応するか””に対して整合説では他の信念と整合していること、プラグマティストは探求の理想的な極限における一致というだろうが、ここでいう対応とはそのようなものではない―――真理とは関係的な性質であり、主張はなにか他のものに対して対応関係を持っている。

 「古典的対応説」は主張と事実の対応を考える。:ある主張が真であるのは、その主張に対応する事実が存在するときでありそのときに限る。だが主張は文であり、事実とは実際の状況なのだから””一致””などするわけはなく、いったい何をもって””対応””なのかは説明しなければならない。最も自然な回答は《主張は、世界を特定のあり方にあるものとして表象する》である。主張は世界のある場面を描きだすもので、その様が事実と一致しているならば真だという。だが100の正の平方根は10であるという主張はどんな事実に対応しているのだろう。この主張は世界の特定のあり方を描写しているはずではなかったか。

  1.  事態(描写されているもの)と事実について満足のいく説明は?
  2.  主張が事態や事実に対応するとはより正確にはどういうことなのか?

 「因果的対応説」は文の真理を指示によって定義する。まずは「グランドキャニオン」などの語をグランドキャニオンを指示するものとして、同様に他の語も順々に定義していく。それらを元に文をつくり、論理結合子を用いて複合文をつくる。「白い」という””性質””を表す語はある対象がその性質をもつときに白いを「充足する」という。まずは単文にでる語の充足を真と定義し、それを複合文へと拡大していくのだ。つまり、ある文が真であるかどうかというのは究極的には、ある対象がある性質をもつかもたないかという話になっている。この利点は、””事実””””事態””というものを導入しなくて済み、《ある対象が性質を持っているかどうかだけ見よ》と、「対応」という言葉さえなくて済ませられる―――だが「彼女が図書館にいたから、彼は公園に行った」という主張はどうだろう。たしかに彼女が図書館にいたことも彼が公園に行ったことも見やすいが、図書館に彼女がいたことが彼を公園に行かせることになったのかはまったくわからない。