にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」 第二章途中まで

はじめに

世界があり、事物があり、我々がいる。我々は世界のうちで行動し、様々なことを経験し、世界について種々の知識を持つ。(p.i)

  これほど自明なことにも、哲学は疑いのまなざしを向ける運命にある。デカルトが『省察』で行った懐疑論の爆撃は、私たちに内側と外側の区別を与え、事物だけでなくそもそも世界なるものなどあるのかと疑わせた。そしてまた同時に、内的/外的と呼ばれるときの、内的・意識・心といったものがなんなのかについての重大な問題が起こって来たのである。意識と世界というものは、そう簡単に内側と外側で二分できるようなものではなさそうなのだ*1が、では一体、そこにどんなつながりがあるのだろう?

 

 現象学が哲学的問題を挑むときのアプローチは、次のようなものだろう。

存在が問題になるにせよ、認識が問題になるにせよ、何か他の事柄が問題になるにせよ、それらがそもそも哲学的に問題となりうるのは、多くの場合、我々には理解できないことがあるという理由によるよりはむしろ、我々が自身の理解できるはずのことを十分に理解できていないからである。(p.viii)

 そこで、私たちがまさにそう思っている「常識」が成り立っているわけを、意識の側から検討する。そうすることによって、私たちの理解はより深まり、問題はときほぐれ、納得するに至るだろう。

 

第一章 『論理学研究』における現象学と志向性

 現象学にとって、『論理学研究』という著作は「突破口」になったのだと、フッサールは回想している。この著作の第一巻はいわゆる論理学的心理主義の徹底した批判を加える。論理学的心理主義は、思考というものはつまり心理的・主観的な働きに他ならないと考え、論理学は心理学の一部であると主張した。つまり、認識作用は心で起こるし思考作用も心で起こるんだから心理学だろ、ということなのだが、フッサールはこれに反対した。

 論理学の命題の真理性は心的状態・心的活動のように時間と空間のうちで生成消滅するものではない。つまり妥当したなら永遠にだとするし、妥当しないなら永遠に妥当しない。だからそもそも、論理学は経験科学の範疇にはない。たとえばピュタゴラスの定理は誰かの心で考えられるが、じゃあ考えなくなったら消え失せるのかというと、そうではない。それは依然として真であり続けるだろう。つまり、真であるという性質が帰属させられるのは、心理的な働きとして生成消滅する思考の過程ではないということだろう。もしそうした過程に真であるという性質が与えられるのなら、考える機会が多ければ多いほど真理の数が増えることになる。

 だからむしろ、真であるという性質が帰属させられているのは、心的な働きという一回的な出来事ではなく、心的な働きによって把握される何か””客観的なもの””のほうであろう。フッサールは、このように個々の働きとしての思考作用において把握される客観的内容を一般に「命題(Satz)」と呼ぶ》(p.3)。この””客観的なもの””つまり命題は、目の前にあるスマホやパソコンのような意味では、””客観的なもの””ではない。もちろん、ピタゴラスの定理は教科書に載っているし、文によって把握されるものではあるが、しかしそうした文や教師の言葉や教科書の数だけピタゴラスの定理があるわけではない。命題は心理的でも物理的でもない、””客観的なもの””なのである。

 このことを一言で言い表すと、命題や真理は一般に実在的なものではない、となる。フッサールは一般に、時間と空間のうちに個別化されるものや、そのものの持つ性質を「実在的(real)」と呼んでいる》(p.4)。命題や、真理という性質は時間・空間のうちで個別化されているわけではない、それ自身、永遠の同一性をもつ「理念的(ideal)」なものであると言える。この実在的/理念的という言葉によって、心理主義との対立を簡潔に言い表すこともできるだろう。

対立は、論理学の主題がただ実在的なもの(出来事)であるに尽きるのか、それともそうではない――つまり何か理念的なものが主題化されねばならないのかという点にある。心理主義者たちは前者と考え、フッサールは後者と考える。(p.4)

 

 

 『論研』第二巻の問題意識はフッサール心理主義の対立において、フッサールの主張が正しいと考えた時に生じてくる。つまりもしフッサールに軍配が上がるとすれば、かたや心理的ー実在的な存在者としての我々があり、かたや理念的な命題とその論理的連関があり、両者は区別される。しかしこの二つになんのつながりもないならば、論理学など学んで何になろうか。では理念的なものと実在的なものの繋がりはどのようにして為されているのだろう。

 

理念的に客観的なものが実在的で主観的なものにおいて把握される

 

 これが問題である。これに挑むには、論理学的認識(=理念的に客観的なものが実在的で主観的なものを把握すること)を支持するか、それを批判するか、いずれかを行わなければならない。とはいえ、ここでまず問題となるのは「論理学的認識」ではなく、「認識」一般である。なぜなら前者について何か述べるためには、後者の理念が解明されていなければならないだろうから。

 そうしてフッサールの研究は、対立していた””心理主義””的なものへと戻ってくることになる。これは矛盾ではないのか。なぜなら、「結局理念的なものも認識という心理的なものに戻って来るんじゃないか」と言えるからだ。とはいえ、これは誤解である。まずフッサールのいう””心理的””という言葉の曖昧さが事態をややこしくしている面もある。そしてより大事なことは、フッサールが厳しく反対していたのは、理念的なものが実在的なものに過ぎないとする立場であるということだ。この立場を批判することと、理念的なものが意識のうちにどんなふうに現われるかを研究することは全く矛盾しない。今、理念的なものを探求するために、どうしても認識について語ることが必要なのである。いわば、意識というのは理念的なものの調理台みたいなものという感じだろうか。

 

 

 さて、命題というものはまず言語表現という媒体を通して与えられる。そこでフッサールが問題としたのは「表現」であった。表現が表現として機能するのは、そこに一種の志向的体験が成り立つからだというのが結論である。

 志向性とはなんだろうか。たとえば知覚は常に何かについての知覚である。言表するとはなにかを言表することであって、言表とは何かあることについての言表であり、愛することや憎むこともそうである。「こうした意識の働き=作用」というものは、ある対象へと向かい、あるいはそれへと方向づけられている。これが「志向性」である。志向性をもつ体験を志向的体験と呼ぶ(つまり、作用=志向的体験)。

 次はこの作用=志向的体験というものの内実を明らかにすることである。正確にいえば、体験を実質的に構成している部分(=実的(real)な部分)に即して記述することである。その部分の中でも特に抽象的なものを当該体験の「契機」と呼ぶ。それはたとえば図形の形や色のようなもので、《それ単独では成立しえず、必ずある全体(この場合、具体的な存在者としての図形)に常に付随して見出されるような部分ないし性質》(p.13)をいう。

 ※実的な部分でない、というのはどんなことをいうのだろう。それはたとえば、目の前に見ているペンという物理的対象の存在である。私たちはいまそのペンに方向づけられてはいるのだが、そのペンが存在しないことなどいくらでも考えられる。言ってしまえば、幻覚かもしれない。そこには志向的体験は成立しているが、その向かう先には対象がないのである!

 ※対象なしに志向的体験を分析してしまうのは、志向性というものを定義するにあたって現実的対象との関係など抜きにできるということを前提している。志向的体験をするのに今そこに現実的対象があるとかないとかはどうでもよいのである。《体験に「志向的」という性格を与えているのは、それがそこへと方向づけられているということは、まさに当の体験を持つ内的性格なのである》(p.16)。

 諸々の志向的体験を区別する契機(内容)を、フッサールは「質料(Materie)」と呼ぶ。たとえば木を見ることと机を見ることは体験として違うことであるし、私たちにはその識別ができているのであるが、これを区別する契機が質料である。もちろん机は木でできているので、木としても見ることができるのだが、そのカタチは一切変化しないで、””見方””だけが変わっている。一体何が変化しているのか。これが質料である。たとえば、ナポレオンは””ワーテルローの敗者””と””イエナの勝者””と、どちらともいえる。同じ対象を表象しているのだが二つは異なった徴表・形式・関係において表象している。これはその体験の質料の相違である。質料とは、作用自身がどのような徴表・形式・関係を対称性に割り当てるかを規定する特性なのである。

 しかし、質料が同じであれば志向的体験として何かが特定されるわけではない。たとえば『火星人がいる』『火星人っているかな?』『火星人がいたらなあ』といったようなことはすべて質料としては同一でありながら、それぞれ判断・質問・願望といったようにそれぞれ異なった体験である。このような契機を作用の「性質(Qualitat)」と呼ぶ。

 つまり志向的体験というのは質料と性質から定義され、その二つの統一がその作用の本質である。逆に言えば、ある体験が志向性を持つというのは、その志向性が体験の質料と性質の関数であるようなものといえる。

 

 「雨が降っている」ということで雨が降っていることを意味し、またその文を読むことによって雨が降っていることを理解する。この意味し、理解するという体験もまた、雨が降っているという事態に方向づけられた志向的体験である。

 紙の上に垂らされたインク自体が、表現として機能するわけではない。単なる物理的現象が表現として機能するとき、そこに働いている表現にとって本質的な作用ないし作用系列を「意味付与作用(bedeutungverleihender Akt)」と呼ぶ。単に「意味作用(Bedeuten)」とも呼ぶ。私たちが文を読んでそれを理解するとき、当然印字された文を知覚する体験が含まれるが、理解するというのは知覚経験に尽きるものではないし、それどころか私たちが目を向けているのはそうした物理的現象としての記号列ではなくて、文章に書かれてある事態のほうである。しかしもちろん、知覚経験がなければ読むことはできないので、この志向的体験には方向性の向き変えが生じる独特のものだと考えられる。今の場合の意味作用には、知覚作用という「支え(Anhalt)」がある。

 意味作用もまた志向的体験であるから志向的本質、つまり質料と性質の統合がある。意味作用の志向的本質を特に「意味的本質」と呼ぶ。しかし呼び方はともかく、志向的体験には違いないのだから、前に注意したように、対象の存在様式に左右されない。

 

 「雨が降っている」という文を理解するために、カーテンを開ける必要はなく、想像してみる必要すらない。ゆえに意味作用は知覚や想像といった直観的な表象作用とは区別されなければならない。だが、本質的ではないにせよ、実際に見て確認することはできる。そうすることで「ほんとうだ」と思うだろう。これが「意味充実化作用(bedeutungergullender Akt)である*2

 この「ほんとうだ」というのは、そこで言われていることと見ていることの同一性の体験である。なにが同一なのか。それは意味作用の質料と知覚作用の質料である。これが充実化という体験の基盤である。意味作用と知覚作用には充実化という統一がなされる内的な関係を持つといえる。《ある意味志向にはある直観がその充実化として本質的に対応し、ある直観には、それを充実化として受け入れるような意味志向はやはり本質的に対応している》(p.25)。雨が降っていることは青空を見ても充実化されない。

 

 

 

また、充実化が決して対応しないような「丸い四角」のようなものがあるが、これはそもそもその質料が直観的な形式のもとで現れないからである。これをフッサールは「反意味」と呼んだ。反意味とは、その意味内実が両立不可能な二つの表現部分から構成されているもので、充実化可能性がその本質からして排除されているものである。一方「無意味」であるとは、””アブラカタブラ””や””緑あるいはである””というように何ものも表現しない文字列であり、そもそも表現ですらない。反意味と無意味が違うのは、反意味的な表現は充実化可能性が排除されてはいるがそれでもなんらかの意味はもつことである。

  • 直観において対象が与えられること。この「与えられる」という現象的性格をフッサールは「所与性(Gegebenheit)」と名づけた。この概念は充実化の観点から理解されるべきものである。というのも、ある対象が与えられるというのは、ある志向に充実化が実現するということだからだ。
  •  充実化という概念は現象学的分析の主題であり、現象学の方法そのものを規定する重要なものである。これは「論理学的・客観的諸概念は単なる手形ではなく、現金化しなければならない」という比喩によって言い表される。これは端的に「直観せよ」ともいえる。直観とは志向を充実化する作用に他ならないからである。《ポイントは、現象学的分析はそれ自身、諸々の志向(概念)を直観化することによってその思考(概念)本来の意味と内実を明らかにする作業にほかならないということである》(p.28)。
  •  フッサールは、概念が直観のうちに起源を持つ、という言い方もする。これはいかなる概念にもそれが本来的に「与えられる」ところの直観的経験があるということである。こう見ると、現象学が経験主義に与するようでもある。しかし誤解してはならないのは、《現象学は、概念の経験的・発生的起源を同定しようとしているわけではない》(p.30)ということである。現象学が気にするのは、その概念が直観によって現金にできるかどうかという本質的可能性なのだ。一方、経験主義は概念が意味を持つか、持ちうるかということを、経験を用いて答えようとする。この点で、現象学と経験主義は区別されなければならない。
  •  上述したように、現象学は直観化可能性に重きを置く。ゆえに、私たちは理念をもまた直観することができることができるというアイディアを内包している。理念をも一個の所与足りうるのであり、これを与える意識の働きを「理念化的抽象(ideirende Abstraktion)と呼ぶ。これは理念を把握する作用である。これは私たちがふつう「直観」と呼ぶものとまったく異なっており、一般者・種・本質が対象となっている。この作用の存在は正当化を必要とするものではなく、私たちの生活はこの理念化的抽象なしには成り立たない。

 

さて、問題はこうだった。

  • 心理的・実在的な存在者である我々が、いかにして理念的なものと関わりうるのか。
  • 心理的なもの、それゆえ実在的なものと理念的なものとはどうして一種の内的統一を持ちうるのか。
  • 理念的なものがどうして実在的なもののうちに現象しうるのか、それゆえ真に客観的なものがどうして主観的なものとして与えられうるのか。

   たとえばピュタゴラスの定理は無数の人々によって学ばれるが、把握されるのは常に同一の命題である。しかし一つの同じ定理が把握されるというのはどういうことなのだろう? フッサールの答えは「理念化的抽象」にある。ピュタゴラスの定理について考えるという意味作用の志向的本質の理念を直観するならば、その理念こそ定理それ自体である。このことを命題・意味とは、個別的な志向的体験としての意味作用の種(スぺキエス)であると言おう。というのも、意味作用というものを成立させるためには””客観的ななにか””つまり理念的なものである命題が必要だから。

 真理もまた同様である。真理とは、単純化していえば、真なる命題のことである。しかし、正確には命題とは異なる。それは理念のひとつであり、たとえば「赤」などのように生成消滅を免れている。「赤」が体験され把握されるのが個々の事物においてであるように、真理もまた個々の体験に例化されることで姿を現わす。そして真理が例化される体験のことを「明証(Evidenz)」という。《言表の意味と事態のあいだの一致の体験が明証であり、そしてこの一致の理念が真理である》(p.36)。ここでの一致とは意味作用と直観作用との志向的本質の同一性、すなわち充実化の統一のことである。ここに「認識」がある。

 

 しかし、考えてみればちょっと妙なことがある。

  1.  作用はそれが向いている先に対象がなくても全然かまわなかったはずである。このことは真理についてもいえるはずであり、つまり、対象がまったく存在していなかろうが「認識」について語ることができるというのは普通に考えればおかしい。幻覚であろうが充実化は起こる。こんなものを「真理」と呼んでもいいのか。
  2.  どこかに地球とまったく同じ惑星があって同じような人たちが暮らしているとしよう。地球においても双子地球においても「水」の分子構造は知られていなかったが、あるとき、それぞれの地球に住む別の人が「水だ!」と言ったとする。ところで地球においては水はH2Oであるが、双子地球においてはXYZという分子構成になっているとしよう。だから同じ「水だ」と言っても実は同じとは言い難いのだが、二人には現象的・質的相違がみられないから、以上までの理屈でいけば同じ一つの命題を把握していることになる。

 この問題を生みだしているのはもちろん、真理というものを意味作用と直観作用との志向的本質の同一性に見出しているところにある。だがそもそもフッサールがこんなことを言い出したのは、いわゆる「外在世界」という体験的に与えられる内容を越えることについて口出しするのはよくないという彼の認識論構想ゆえである。

 ここを乗り越えなければならない。

 

 

第二章 現象学の展開

 フッサールは「現象学は記述的心理学である」と書いている。これは第一章で見たように、論理学的認識一般の解明のために意識を研究するのだからこう呼ばれるのであるが、しかしそれはやはり通常の意味での心理学ではない。現象学は心理学の理論そのものではなく、その前段階だからだ。心理学はデータを集め、帰納的一般化を行い、仮説を立て、検証し、予測などがされる。しかし記述的心理学は論理学的諸概念、理念的なものの源泉を開明する。現象学は対象の存在といったようなことについて、超越的なものについて、一切記述を行わない。これに対して科学である心理学はそうした対象を前提としながら進む。「無前提性の原理」とは、「現象学的に完全に実現されえないような想定は、すべて排除する」ということを意味する。

 記述的心理学に対して、超越論的現象学というものもある。現象学と心理学には二つの対立軸があり、それらに応じて二つの方法が要求されている。

  1.  事実的/本質的。『形相的還元』によって現象学と心理学を区別。
  2.  実在的/非実在的。『超越論的還元』によって現象学と心理学を区別。
  • (Ⅰ) たとえば人間は理性的な動物であるという言明は、人間が「何であるか(本質存在)」を言い当てようとするものだが、たとえ真であるとしても人間が「実際にある(現実存在)」ことは含意しない。つまり言明が真なら、人間が一人でもいるならたしかに理性的な動物であろう。現象学が本質学であるのは、《ある種の意識経験(例えば知覚)が実際に生起しようとしまいと、それがこの種の意識経験(知覚)であるかぎりはそうでなければならないような本質のみが問題であるということ》である。そのような体験が現実存在するかどうかはどうでもよろしい。それはたとえば幾何学が、「三角形なんて本当に存在するのか?」などということに興味を抱く必要がないのと同じことである。一方、心理学は事実的なあり方を問題にする。
  • (Ⅱ) 実在性とは時間・空間によって個体化される存在者一般のカテゴリーである。ところで非実在的=理念的という等号は成り立たないことに注意しよう。フッサール非実在的ではあるが、理念的ではないようなものがあると主張しており、そうしてそのような理念的ではない非実在的なものを確保する方法として挙げられているのが『超越論的還元』である。

 形相的還元というのは心理学的現象から本質へ導いていくようなものであり、記述的心理学と心理学を区別するものがこれである。言い換えるならば、形相的還元とは、《与えられる事実に対して、それを一つの個別事例(インスタンス)として持つような本質を主題化する手続き》(p.58)である。

 一方、『超越論的還元』は本質/事実という二つのカテゴリーとは基本的には関係がない。超越論的現象学は実在的な現象をこの超越論的還元という手続きに従って非実在的なものとして主題化し、形相的還元によってこの非実在的なものの本質を主題化するというステップを踏む。超越論的還元によってわれわれが手にするのは本質ではなく、非実在的なものであるがゆえに、形相的還元とは異なる。

 

 フッサールも最初は上のような概念区分を明確にしていたわけではない。ここからは「心理学」と「現象学」のコントラストの内実をより明確に跡付けていこう。

 

【これまでのまとめ】

  •  フッサールが『論理学研究』第一巻においてはじめたのは、心理主義に対する批判である。フッサール心理主義の対立は、《論理学の主題がただ実在的なもの(出来事)であるに尽きるのか、それともそうではない》(p.4)かであるとまとめられる。フッサールは、論理学の主題が理念的なもの、つまり生成消滅することのない非実在的なものにあると見た。この主張を支持することによって生じてくる問題は、「実在的な存在者」と「理念的な命題やその論理的連関」の関連である。それらはなんらかの意味で関わりあっているはずである。理念的なものについて我々は考えることができるが、そもそも理念的に客観的なものが実在的で主観的なものにおいて把握されるなどということが一体どのようにしてなされるのか。この問題を考えるためには、まずそうした事実を支持する(論理学的認識の基礎づけ)か、批判するか、どちらかの道を選ばなければならない。
  •  しかしいずれにせよ、論理学的認識というものを考えるためには、認識というものについてわかっていなければならない。そこでまずは「理念的に客観的なものが実在的で主観的なものにおいて把握される」ということが起こっている舞台である意識というものの働きを解き明かすという課題が生じる。そこで登場するのがフッサールの志向性の理論(論研「第五研究」)である。
  •  志向的体験=作用を、実的な部分=その体験を実質的に構成している部分に則して記述することが「現象学的分析」と呼ばれるものである。逆に言えば、実的な部分でないものにはフッサールは興味がない。たとえばそれは対象の現実存在などが例に挙げられるだろう。なぜならそれがたとえ幻覚であろうが、そのような志向的体験は可能だからである。
  •  実的な部分のうち、抽象的な部分=それ単独では成立しえず、必ずある全体に付随して見出されるような部分のことを「契機」と呼ぶが、これによって志向的体験を識別することができる。それが「質料」であり、また「性質」である。実は志向的体験というのは、質料と性質の二つの関数のようなものといえることが判明する。
  •  目を向けるのは「意味志向」である。これはたとえば「知覚作用」を支えにして成り立つものであるが、知覚作用とは確実に区別される独特なものである。私たちが、雨が降っているといわれてそれをほんとうだと思うのは、たとえば実際に窓の外を見るときだろうが、このほんとうだという意識は「意味充実化作用」と呼ばれるものである。そうしてこの充実化こそ、客観的諸概念という手形の現金化のようなものであり、現象学の主題であり、方法である。「事象そのものへ」とは、言い換えれば「直観せよ」ということでもある。
  •  ところでこの直観というものには、個々のモノを捉える感性的な直観だけではなく、一般者・種・本質を捉える「理念化的抽象」もあるのだとフッサールはいう。実際、同じ色や同じ音、同じ動物といった言い方をすることからも、直観がいつも個別を相手にしているわけではないことがわかる。

 

 

 誤解がないようにもう一度、はじめよう。第一章で見てきたのは『論理学研究』における現象学であった。しかし『イデーン』においてはより一層、心理学との差別を明確化させている。そこでは現象学はいかなる意味においても、「心理学」ではなくなる。

  •  心理学: 事実に関する学 であり 実在に関する学
  •  現象学: 本質に関する学 であり 非実在に関する学

 『超越論的還元』によって非実在的なものを主題化し、『形相的還元』によって非実在的なものの本質を主題化する。彼は論理学研究においては現象学と心理学の違いを事実/本質という区別のもとで考えていたが、いざ考えすすめるとより早い段階で、心理学との区別が明確になることが明らかになったのである。

 その考察に至るためには、認識論を考えればよい。事象それ自体について知るということは、「知る」という主観的体験を持つ必要がある。とはいえ、それは感情や感覚とはまったく似ても似つかない。知識とは自らを超え出ることなしには、ありえない。だからなによりも認識論の問題とは「超越」の問題でもある。私たちの外に関わる話。

 哲学はこれまで認識論をいろいろ話し合ってきたが、肝心なのは、それ自身が主観的でありながら、客観性と妥当性を持つという不思議なことの意味を理解することだ。ここに現象学的認識論がある。私たちが現に行っているこの「認識」を改めて問い直してみよう。しかしそのためには当然、知らないことを前提にして突き進むわけにはいかない。そこでよくわからないことはすべて棚上げにしよう。この懐疑主義的な態度が出発点となる。

 しかしそうとはいえ、まさか本当に「すべて」を疑うわけにはいかない。何もかもがわからないなら何かを理解することなどできない。そこでまず問題なのは、何が確実にわかっているかだ。たとえば、あなたがすべてを疑わしいと思ったとしよう。だがあなたが「すべてが疑わしい」と判断していることは疑わしいか。疑わしいということは疑いもなく確かだ。つまり確かなのは《私が認識しているという意識についての認識》(p.75)だ。こうして絶対的に与えられていると言えるもの、つまりそれについてはいかなる疑いも無理解も可能ではないような仕方で直観されうるものへと自らの足場を固めることが、『超越論的還元』に他ならない―――もはやこの時点で、現象学と心理学は袂を分かつ。つまり現象学は、すべてを脇に置く判断保留(エポケー)と超越論的還元を、その方法的態度として採用している。心理学ではそんなことはない。心理学は超越をそのままにしておく。客観的な時間・空間をそのまま受け入れて考察を進めるのが自然科学であり、心というものを取り扱う心理学もその仲間である。だが、現象学はあらゆる超越を絶対的なエポケーにかける。

 超越論的還元によって私たちに与えられるものはもはや、心的なものでも物的なものでもない。「これは心的なものだ」として把握する体験は、それ自身ひとつの超越である。それが心的現象として与えらえているのならば、それを心的現象として捉える一つの要求として見る。それを「心的現象だと捉えている」という一つの現象があるだけで、それが心的現象かどうかは判断保留しなければならない。

 

 こうして心理学と現象学は決定的に区別されることになる。

 

 

 現象学的還元によって与えられたものは、体験であり現象である。これは物的でも心的でもない、非実在的なものだ。というのは、物的であるとか心的であるとかいった統覚は、すべてエポケーの射程に収まり、撃墜されてしまうものだから。この還元がもたらすものは徹底した「現象化」ということで、超越を少しでも含む主張の妥当性を議論するのではなく、妥当性を要求しているそれ自身を一個の現象として見るという視座をもたらす。

 もたらされた純粋現象は、いつも「今ここ」という性格をもつ。仮に内容的にはまったく同じ知覚を持つとしても、それとは異なる。なぜならあらゆる客観的定立を考慮の外に置いているからだ。日時と時間が違うので違う現象だ、と言っているわけではなく、そもそもそうした””すでに過ぎ去った””という様態のもとに与えられている体験とはその時間意識において同一性を主張しえない。一方は「今ここ」、そして他方は「過ぎ去って」ある。現象学的に言えばすべての体験は絶対的に一回的なのだ。純粋現象はそれゆえ、絶対的に個体的であり、一般者ではない。すなわち、これは「理念視」とは決定的に異なる。

 そうしてこの、一般者ではないという事情こそが、現象学がここでとどまっていられない理由でもある。現象学的認識論の目的はいろいろある認識現象の「本質」を確定することなのだから。だから私たちは与えられる個々の現象の本質を見て取ることが次の課題になる。しかし純粋現象を得て、次の一歩は大問題だろう。なにしろ、少しでも行こうとすると「超越」について語ることになってしまいそうだから。

 

 

 

 

 

 

*1:意識がある➡何かが経験されているのだから、明確な線が引けそうもなく、何らかの繋がりがあると考えるのが自然である

*2:厳密な定義は、表現そのものにとってはなるほど本質的ではないが、しかしその代わり意味志向を多かれ少なかれ適切に充実し(確証し、強化し、顕示し)、それによって表現の対象的関係を顕在化するという点で、表現に対して論理的に根本的な関係にある作用である。